die Mondsichel @ Rosebud

「月鎌/Fの中のMの中のF」美少女ゲーム論別館。

2007-02-27

[]彼らは名前を呼ばれない 16:29 はてなブックマーク - 彼らは名前を呼ばれない - die Mondsichel @ Rosebud

「貴様」「おまえ」「あんた」「あなた」「ケダモノ」「化け物」

基本的にヒロインは陵辱者となっている主人公を名前では呼ばない(ヒロインが殺意を持つ場合は後述の殺し合いについてに準じるか?)。逆に主人公は名前でもって支配を強化しようとする。

例外があるとすれば、覚悟の上でやってきた聖女のようなヒロインくらいであり、そして彼女らが「名前」を口にする時は行為を「中止させようとしている」ときである。

かように、なんらかの作為・不作為を相手に対して求め、双方から関係を結ぶ時には「名前」を必ず必要とする。「名前」を蔑ろにすることは、相手の存在否定と紙一重である。

ここ二、三年、美少女ゲームに限らず「名前」による相手への対峙が、ひとつの現象と見える。

『SHUFFLE!』のキキョウ、『魔法少女リリカルなのは』のフェイト、「闇の書」あるいはヴィータの「高町なんとか」、『レジンキャストミルク』の柿原里緒が挙げられる。

また余談だが、稲葉振一郎が『オタクの遺伝子』で小泉義之『弔いの哲学』を引きながら述べているように、それは殺し合うという行為においても相手の存在に対する意識は似たようなものである(アムロはシャアを「シャア」という名前で認識し、戦闘を行っているのに対し、カミーユはシロッコを「おまえのようなやつ」と認識する。『Zガンダム』は結局のところ断絶と対話不可能性の話であると私は考える。ちなみにシン・アスカも「あんたって人はー!!」である*1)。nitro+の「殺愛」も同様。「大十字九郎ォォォォォォッ!!」「マスター・テリオンンンンンンンッ!」とか。

*1:種死全編見たわけじゃないので、この記述は正確ではないだろうが。

2007-02-26

[]声の威力 04:25 はてなブックマーク - 声の威力 - die Mondsichel @ Rosebud

銀色』と『銀色完全版』を比較してみると……というのは我ながら安易な思いつきですね。

修羅場・嫉妬属性において、ボイスの有無における差は極端なものになってしまいます。

来るべきエロゲボイス論を求めて

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070225/p1

ここで示唆するエロゲ声優論の可能性は、単に、我々が享受しているものは小説じみたテキストでもドラマCDじみたボイスでもない、キャラクターの<声>というべきものなのであり、我々は、一般的なエロゲー考察におけるシナリオテキストへの偏向からの脱出の契機をこの<声>に求めることが可能なのではないだろうか、ということである。

 「改行、改ページを支える」という以前のエントリはcogniさんのご推察通り、歴史的文脈に基づきます。

2000年前後の作品は、ボイスが付いていても、HDD容量の都合からインストール段階でボイスをカットすることができたものも多く*1、ボイスは「絶対に必要なもの」ではありませんでしたし、DOS時代にも『VIPER』のようにボイスを追加ディスクとしていたものもありました。したがって、ボイスは「なかったもの、追加されたもの」という前提を持つ文章になっています。今思えば不適切でした。

 活版印刷ではなく木版印刷だと、歌舞伎の「せりふ本」のような「声を聞くことを補助するもの」というテキストの一面を出してしまいますが、出版産業の大衆への浸透と、さらに無茶を言えば大量の同音異義語の存在日本におけるテキスト優位に関係しているようにも思います。


 聴覚の話でなぜか視覚に関わるゲームを思い出している私。といっても『Sence off』ではなく『光を……』。未プレイですが、想像との二重構造がいいと聞くもので。



○追記

「声とテキスト」といえば『永遠のアセリア』1周目の異世界語ボイスを思い出しました。

『エースコンバット』などのフライトゲームにおける、日本テキストに重なる英語もまた、プレイヤーにとってのささやかな異世界と言えるのかもしれません。

*1:とはいえ、「ボイスあり テキスト表示無し」という環境設定を持っていた作品もありました。トラヴュランスだったかビジュアルアーツだったかは記憶が定かではないのですが

2007-02-20

[]ヒロイン視点・追加エピソードの登場 23:42 はてなブックマーク - ヒロイン視点・追加エピソードの登場 - die Mondsichel @ Rosebud

基本が主人公の一人称で、ルート進行あるいはルートクリアで登場するヒロイン視点エピソードの挿入について。

表層的な話だが、ヒロイン側の内面描写は8色?からの長いスパンで捉えると中盤にくるように思ったので。

私の記憶にある一番古いものが『くすり指の教科書』の「おまけ」なのだが、それより前にあったかなあ。

もっとも、「ヒロイン側の内面描写」というここでの表現自体が曖昧であることは否定しない。もう少し絞り込みが必要かな。

2007-02-14

[]美少女ゲームにおけるカネ、レス。 21:58 はてなブックマーク - 美少女ゲームにおけるカネ、レス。 - die Mondsichel @ Rosebud

ゲーム性」の減少と共に美少女ゲームから消えていったのが「コスト」ではないかと思う。

もちろん『戦国ランス』や『永遠のアセリア』といったSLG、RPGにおいて広義の「コスト」は健在なので「ヒロインとの関係に直結するコスト」と絞り込んだ方がいいかもしれない。

DOS時代の美少女ゲームは、しばしば「労働・バイト」コマンドと「所持金」のパラメータがあり、「カネがなければエロシーンに行けない」という身も蓋もない事実があった。

ところが、いつの間にか美少女ゲームから貨幣経済が消し飛んでしまう。

『月姫PLUS』の「げっちゃ」ではないが、「志貴くんはどれくらいお金を持っているんですか?」といったようなかたちであえて語られなければ主人公の経済力と、交際には金がかかるという面は見事に隠蔽されてしまう。『こみっくパーティ』では所持金というデータこそあるものの全て印刷費用に回っている。

調教ゲームではヒロインパラメータやCGに結びつくアイテム購入のため所持金パラがある(『殻鳥』『BLOODROYAL』など)が、それは別の話かな。。


# ともよ 『逆にト書があることでボイスの可聴範囲が広がる点も考慮範囲かと。』

仰有るとおりです……。

主従が決まってしまっているような書き方はすべきではなかったですね。指摘ありがとうございます。

[]フロイト子どもが叩かれる」とやおい関係 02:14 はてなブックマーク - フロイト「子どもが叩かれる」とやおいの関係 - die Mondsichel @ Rosebud

土曜日大分大学の長池先生発表を聞く。

録音しておけば良かったなあ……orz

内容はフロイトの「子どもが叩かれる」の実験への「投影・同一化、窃視症的分離」にプラスαで「やおいにおけるマイノリティ描写」と「マンガ記号論」だった。


「さて、これはいわゆる修羅場属性邪悪属性親和性を持ちうるのか」ということを、聞きながら考えていた。マゾヒズムとの関係も。

私が、腐やエロゲヲタを性別ごとに別個・特異な現象として捉えることに懐疑的になっているがゆえに、サドマゾという両性にともに分布するものに惹きつけられているだけかもしれないな。コメンテーターの先生は「腐」と「オタ」を個別にはされなかったが、私はその視点に非常に近い。どこに感情移入するかは性別じゃなくてSかMかの違いだと思っている。


そんなこともあって、ストレートにSとかMとか、エロの話に回帰するのもひとつの手かなと不意に思った週末。『~臨界点』にも直球の抜きゲーやバカゲーの話ってあまりなかったように思うし。

悪夢』や『スイートナイツ』を「やおい」として消費している話とか、考えてみたいことはいろいろある。


本人不在、肉体不在、主体の拡散といった話はもう少し考えることが必要。本田『異文化としての子ども』も読んでおかないと。主に「ひらひら」の系譜について。


感性にまかせて思いつきばかり書いているけど、「最近美少女ゲームをやっていない」自分に気付いて愕然とする。勉強不足以前の問題かも。

悩んでても仕方ないからいっそRSE*1で「ゲーム性の強いADV」を制作実践してみるかと、相変わらずなことも考える。

「ゲーム」への労力に見合った「物語の続き」を作ることは困難なことなのか。「ゲーム」を通して取り込まれたプレイヤーは、意識と「続き」のズレに敏感になるのか。そういえば『BARDR~』系列は美少女ゲームの「論壇」であまり見かけない。

考えることが多すぎる。

*1サークルRectangle制作、『Raiders Sphere 3rd』同梱の「Raiders Sphere Editer」。ADVシーン制作用のスクリプトが、有志ユーザーによってUploaderに公開されている。

2007-02-02

[]春夏秋冬マシンガン 15:21 はてなブックマーク - 春夏秋冬マシンガン - die Mondsichel @ Rosebud

昨日のkamimagiさんとcrow_henmiさんのラジオでの、涼元氏の文体についての話で思いついたこと。

「やかま進藤」に代表されるようなマシンガントークというものも「ボイスが付くことで可能になった表現」なのかもしれない。

ノベルゲームの登場で、1ページに表示できる文字数は増えたとはいえ、人間の文字認識能力には限界がある。せいぜい2行が限界の従来ADV、メッセージウインドウ方式では改ページ必至の分量におよぶ一気呵成のまくしたては不可能であり、ノベルゲームといえどもテキストを書いてみればページを突破するのはそれほど難しいことではないにも関わらずやはり改ページは御法度である。文脈が途切れるのを承知でクリック待ち命令を入れるか、流してもいいという覚悟で前へ進むかという選択に、ボイスというパーツが加わることで、目ではなく耳を動員することで一時的にテキストを従にして乗り切ることができる。見方を変えれば、ボイスがテキストを「完全に乗っ取る」瞬間がここに発生する。

以前『ナルキッソス』について本店で書いたように、テキストはボイスに比べてたしかに無味乾燥なものとなる。慟哭、嗚咽といった心情発露そのものがその代表格である。そういった文字表現自体の限界に加えて、システム上の限界が存在する世界に、同時進行で動きながら、「一時的に主従を逆転させてテキストの表象を支えるもの」としてのボイスの登場は、「女の子がしゃべる」という単なる臨場感増加のターニングポイントとしてのみ扱ってはならないのではないかと、ふと思った。テキストの限界にボイス上積みするのではなくて、ボイスがあることで一時的にテキストの限界を押し上げるというか*1。直感で書くとダメだなw。


システム的な限界と、人間の文字認識能力の限界と、シナリオ・作者意図・演出のせめぎ合いがよりシビアなのがアクションゲームであることは言うまでもない。見てると落ちる、読んでると落ちる、聴いてると落ちる。散々痛い目にあったっけ。

(そのへんはRSOじゃ身に覚えもあるんだけど……orz)

*1:『エースコンバットX』のようなテキストと音声が一致しない場合についてはまた話が異なる。たぶん。

ともよともよ2007/02/14 15:07逆にト書があることでボイスの可聴範囲が広がる点も考慮範囲かと。