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こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。

2006-10-30

テスト。以下は十月に書いた文の再録です。あとで適当に編集します。

[] 舞シナリオについて 14:42  舞シナリオについて - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  舞シナリオについて - こぐにと。 cognit.  舞シナリオについて - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

エンディングに向かう前に、舞シナリオの前半についてまとめておきます。この辺は一度公開用の記事としてまとめたいところですが、だらだら書いてるほうが楽しいというのがどうにも。

地続き

まず確認をしておくと、舞シナリオにおける屋上の躍り場の存在というものは特異であるということです。そこでは三人での食事が行われます。しかしその弁当が精緻に描かれることはなく、せいぜい「たこさんウィンナー」を舞の近くに寄せてやることで、個物の表現がなされる程度でした。祐一や佐祐理さんが何を食べたか、ということが逐一描かれることはない。これは他ゲームと比べても異質であると思います。例えばFateにおいてはその食事が精細に描かれるのは記憶に新しいところです。また、舞シナリオにおいて特有なのは、夜の学校における食事風景です。しかし先ほどの日常風景とは違って、そこでは食物が具体的に描かれています。牛丼、納豆、寿司などなど。ぱりぱりという海苔の音もします。また魔物退治を行った後、舞が納豆を頭から被ったりする。徹底的に俗っぽくすることで、幻想的な雰囲気をあえてぶち壊しにしている、そんな作者の意図が見えるところです。そしてこうすることで、日常と非日常の差異を際立たせない(、、、、、、)、という状況が生まれていると考えられます。日常と非日常というモチーフを同様に使うFateでは、セイバーがしゃっくりをしながら戦うことはなかったろうし、現代学園異能の主人公が、非日常で起こった損害を、日常において払わされるということもないでしょう。このように通常、(非日常に踏み入れるときは)日常と非日常は峻厳と区別・断絶されていることが窺えます。しかし麻枝氏はそれを(意識的に)行わない。日常と非日常は地続きなものとして描かれる。非日常で蒙った窓ガラスの損壊は、日常パートに影響し、舞は退学処分を受けて、日常生活の基盤を揺るがし得る、という形で現出しています。麻枝シナリオにおいて、日常と非日常は常に侵食されあうという実際的な関係性を持ち、常に両者にはずれ(、、)がある、この点には注意して今後も読みたいと思います。

食べるということを

先に触れた点で、躍り場での食事風景があえて描かれていないことに触れました。恐らく当時のテキスト事情を考えたとき、物量を増やすためにその風景を書くという選択肢もあったはずです。しかしあえてそれをしなかった、というところに着目しつつ、その躍り場という舞台に注目したいです。そこでは三人が地べたに座ります。例えば、レストランに三人組で入り四角い四人席に通されて、先に二人座ってしまったときに、自分はどっちに座ればいいかと煩悶したときのことを思い出してください。あの途方もない不快感を(←先週それに似たことがあった人)!でも躍り場ではそんなことが行われません。円形になって座ればいい話ですから。こうした物理的な先後関係なく食べることを楽しむことができます。やった。しかも並んで座る!素敵!CLANNADなどで行われたように、準備室というギミックを用意してそこで食べる、ということも選択できたはずなのに、わざわざシートを持ってきて屋上の躍り場で食べる、という選択は『並んで座る』ということ、机なんぞ挟まずに近くにいることを強調したかったからではないかと思いました*1。更にそこであえて食べ物を描かないことにより、食べるもの(、、)より食べること(、、)を重視したものではないかと感じました(そしてこと(、、)のほうが原始的であると指摘する哲学者のことも思い出してあげてください。)。事実、佐祐理さんと祐一の会話はこんな感じです。

【女生徒】「ヘンですか?」

【祐一】「いや、いいと思うよ。毎日が遠足みたいで」

【女生徒】「あははーっ、ですよね」

【女生徒】「やっぱりご飯は机で食べるより、こうやって地べたに座って食べたほうが美味しいと思うんですよ」

一緒に食べるということ、それそのものを享受していると思われる端的な発言ではないでしょうか。つまり、視覚的(、、、)でないこと、食べるということ自体への執着が見られる、と。

そしてこれらの食事風景においては、ある種の不自然さが付き纏っていることにも着目したいところです。Fateにおいても(日常の象徴として)食事の位置づけが行われていますが、流れとしては居間で朝食とか、そういうのが自然に挿入されている感じです。しかし、どうして屋上の躍り場で遠足のように昼食を採るのか。これは麻枝氏の手癖かとも思うんですが、真琴シナリオでもそんな感じです。祐一は肉まんを横取りするし、真琴はそれに文句を言う。多分久弥氏なら対話の末ゲットするはずです。麻枝氏において対話なんて意味ねぇのです。あとびっくりしたのは、真琴が中華そばで悪戯しようとして、祐一が仕返しにやきそばを作ったときのことでして。全員が起きてきて、全員で食事するんですが、時間帯が深夜であって、まったくをもって不自然です。わざわざ(、、、、)起きてきて、みんなで食事をするんですから。実際、こんな発言がされてます。

【祐一】「昨今、夕飯だってなかなか一家揃わないってのに、深夜の夜食にわざわざこうやって一家団らんが揃うかね、この家は…」

【秋子】「仲が良くて、いいんじゃない?」

こうした形式(一緒に食べる)を守ることで生まれる不自然さがある。日常イベントの中に潜むこうした不自然さ、過剰さが逆にある種のリアリティもしくは抒情を生んでいるのではないかなと。これは久弥シナリオではあまり見られない、というか、あいつら買い食いしすぎです。何がイチゴサンデーだ。金欠学生なめんな。つーかだーまえならカップアイスを投げるぐらいのことはしてくれるはずです。「さあ、白い雪のなかから白いバニラアイスを探せ!溶けないうちに!」。あと、同席する、というのが久弥シナリオでは物語の盛り上がりと同期していたんではないかな、と。栞と香里の和解とか。そこでは同席するということそれそのもが事件としての性格を帯びている、という点で。

だから、各キャラに好物が設定されている、とかは割とどうでもいい。それらの好物を食べることや食事という機能がどんな風に動作しているのか、というのが特徴的ではないかなと。

システムに規定された

えーと、エロゲーってのは、常識のように、立ち絵の数が制限されているわけで、映画のような豊饒な表情変化ができないという制限があると思います。でも、映画も弱点があって、心理的な葛藤とかには向かない。McKeeとかに書いてるとおりです。小説はアクションは苦手だけど、内面の描写は得意と。んで、Kanonやってて気付くのは舞の視線の動きでした。視線の動きを立ち絵の微妙な変化で伝えてくる。こういう視線の動きは映画においては細かすぎて映せないし、小説だと冗長になるところですが、Kanonではエロゲゆえの制限と特徴を巧く使っているように思いました。それでいて、Kanonでは画面に一キャラしかでないわけで、その分、視線の動きで対話をしてる/してないがはっきりしてくる。あとたぶん、アニメの長門さんの人気は意味深な視線の動きを原因とするのが七割ぐらいだったはずだ(妄想)。視線だけだと感情の内部をどうとでも読み取れる、というか、半年前ぐらいのツンデレ議論あたりで。話を戻しますが、そうして視線を極度に可視化しているのが妙に気に入りました。舞萌え。「あははーっ」と言いながら目を逸らす佐祐理さん萌え。いや、こういうの久々で。最近のはエフェクトが多くてですねぇ。こういうストイックな中で突出した、というのが好みですのに。んで、こういうのはテレビドラマでも漫画でもできない、というのがやはりエロゲー的ではないかなと。同じ場所に立たせておいて、視線だけ変えた絵を上書きする、というのは視線の変化だけが目立ちますから。だから舞は可愛いんですよ。年上には見えませんよね。髪の毛を引っ張りたくなりますよね。あと、立ち絵の制限というのは、服装の制限にも関わってきて、服装が変わる→イベントの盛り上がり、という解りやすい盛り上がり方がされているところも妙に気になりました。儀式のために服装が変化してるです。その儀式、ってのが、舞踏会であって、舞踏会は三人の思い出作りのために、と。そして佐祐理さんの私服を見たいです。こうした、当然あるはずのものを描かないことによって獲得されるものは何かな、とか今考えてます。

あと、システムに規定された現在と過去については、機会があれば昨日の書きなおします。

とりあえず

まぁ不満はあります。生徒会長あっさり引き下がりすぎとか。(AIRではまったく感じなかった)単語の選択の言語感覚とか。感覚により掛かりすぎている部分があるとか。あと、なんでタイトルが『カノン』?うわものごっつ初歩的な疑問だ。

あと魔物の位置づけについては、思いっきりラカンのあれで構造把握できそうなんですが(だって見えなくて悪さをしてる自己の内部の力であって自己以上の自己!)、とりあえずttp://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(7).htmlを挙げておきます。いや、LacanのSeminarとか借りてきたんですけど、面倒になったので。体力があれば。

うぐぅに個性がない、と昨日書きましたが、それはうぐぅからうぐぅとタイヤキを取り上げて、どっか別の物語の上においても動き出さない、というぼくの想像の中の話でして。栞からストールとアイス、不治の病を取り上げても割と動くんですけれど。政治的な毒舌とか。だから群像劇SSでのあゆは多分、なんもできない役か、それとも物凄い適当に強化された能力とかを持ってるはずだ、と予想していたり。いや、だから、うぐぅとたいやきという二つの特徴だけでキャラを持たせているというのは凄いことだとは思いますが。カチューシャはあまり印象に残ってないです。

まとめたところでさて続き始めるか…と思ったんですが、もうこんな時間なので寝ます。いやまぁ、久々に何か小説を読んでる気がしますよ。

[] 思い出すこと? 約束 13:00  思い出すこと? 約束 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  思い出すこと? 約束 - こぐにと。 cognit.  思い出すこと? 約束 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061013#1160747815の辺りへレス。検索しやすいようにこっちにも載せておきます。

麻枝准(いや久弥直樹においてもそうですが)において「他者とのつながりを思い出すこと/忘れること」が一貫して重要なモチーフとして現れるのはいったいどうしてか、という疑問がわいたのですが、今のところピンと来る答えを思いつかないので、保留。もしよければ妹の人辺りに解説していただきたいと思う昨今です。まあ主人公が過去を思い出すのは物語への導入機能と捉えて差し支えないのですが、ではヒロインが忘れている/忘れていく/思い出すのはなぜか、とか。あと、主人公が「忘れていく」のはなぜか、とか。

資料も知識も能力もないので、彼らがそのようなモチーフを使うのは「どうしてか」「なぜか」という作家論に近いものは僕にはいささか大仕事になりますが、扱い方の特徴についてぐらいなら多少言及できるかなと思います。でも、まだまだ制度的な読み方しかできていないと思っているので、不安です。

便宜上、麻枝:久弥の対比を用いますが、正直両者の考え方が混ざっているほうが面白いと思うので、以下はあくまで差異を際立たせる便宜という形です。麻枝氏に関しては他人とは繋がってないと思います。答えが出ないのは問題設定自体が不適切だからではないかと案じました。麻枝シナリオにおいて、基本的に思いは一方通行であって、繋がりを双方向的なものとして捉えるなら、他人との繋がりという言葉は不適当になると思います。しかしそこで、麻枝氏は一方通行でも残る思いを描く傾向にあるのだと感じています。ここで過去の『約束』という言葉で補助線を引いてみると、その約束という言葉が「互いの意志を疎通させて同一の未来を願うこと」という意味ならば、麻枝氏に関しては約束をあまりしてないようです。というのは、MOON.において、郁未は約束したからFARGOに乗り込んだわけではなかったと思います。ONEにおける永遠の世界発生に関与した『口約束』は、子供瑞佳による(一緒に遊ぶための)言い訳のようなものであったと覚えていますが、一方の浩平はそれを啓示のように取り扱って約束(盟約)だと勘違いした、という点で意志の共有はされていないと考えられます。Kanonにおいて、真琴の場合、ちょっと拾って一緒にいた程度のことで約束はしてませんし、舞の場合ですら約束という言葉は出てこずに、ただ戦っているから、と告げてそれで終わりです。AIRにおいては、家族になったという意志の共有直後に記憶喪失になりますが、それでも晴子は覚えている。これらにおいて、それぞれ「相手が忘れていても、それでも」という形で描かれる思い(例えば、真琴→祐一(初期)、祐一→真琴(退行後)、舞→祐一(過去)、祐一→舞(現在)、晴子→観鈴、風子→皆。ただしそれぞれ0/1のディジタルではない)というのがあるのだと思います。簡素に纏めると、視線の向く対象の共有ができない(約束が約束として成立していない)という点と、それでも一方からの思いは残っている、という点。このラインで『繋がっている』という言葉を使うときならば、「つながりを求める気持ちの程度の圧倒的な差異」が描かれているのであり、言い方をKanon寄りに変えれば、一つの対象を些細なこととして忘れている一方がいて、もう一方は同じ対象を些細ではない過大なものとして捉えていた、というのがKanonにおける麻枝シナリオであると思いますけれども(三ヶ月ぐらい前の『確率的』の話に繋がるあたりの話です)。徹底的とさえ言える視線の共有の不可能性、共有したときが崩壊の予兆となること、などは、言葉は違えど多くの方々が言及されているのではないかなと(僕は視線という言葉が好きなので、視線で比喩していますが)。まぁ、そういうわけで、普通の意味でつながってはいないと感じてます。そしてその繋がりの不具合や齟齬を描くために、忘れるという物語装置が頻繁に利用されるのではないかと邪推します。ただ、この解釈がどれほどテキストを読めているかどうかは自信がありません。

久弥氏においては『主人公が”忘れていた”約束』という形で現れているわけで、約束自体は澪、あゆ、名雪としていたと思います。まぁ、澪の約束についてはちょっと保留をかけないといけない部分があるのと、久弥氏担当の茜が例外になる(『あの人』への一方的な思いが描かれている)というのが甘い解釈なんで、麻枝氏と分離できているとはあまり思えません(すみません。もっと精緻に書けるよう精進します)。なお、ここでの茜については、flurryさんのhttp://flurry.hp.infoseek.co.jp/200405.html#26_5でのb)の解釈のほうを採っています。

そもそも約束と名づけること、その名づけるという行為自体が(Badiouが"Ethics"の中でもlanguage of the situationと言及していたように)socialize, communicableにする行為ですから、麻枝氏担当のキャラ同士が約束を無為に行わないという点、約束の不在が積極的な意味を発しているという点において、僕はそれぞれのキャラにcommunicableではない私秘性や個別性を感じます。そしてそこから、恋愛関係が成立する以前の、それぞれ一人一人が存在しているという感覚があるといった辺りが発生するのではないかと考え、麻枝氏のシナリオの特徴の一つとして僕は高く評価しています。あと、基本的に思い出すという行為は、「過去と現在は区別は可能であるが分離を不能とする」と9日ぐらいに書いたシステムによる物語の規定及び現在の不定性の話でもあると思います。

*1:だからエンディング後において、三人で住んだときも、部屋の中央にあるのは絶対ちゃぶ台です。円形のちゃぶ台です。三人は机の中央と食べ物から等距離じゃないとダメなんです。いやつーか、絶対皆ちゃぶ台(古ぼけた茶色)思い泛かべるって。