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こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。
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2006-12-31

[] 認知言語学から見た人称と主観性の問題について  認知言語学から見た人称と主観性の問題について - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  認知言語学から見た人称と主観性の問題について - こぐにと。 cognit.  認知言語学から見た人称と主観性の問題について - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

メールでご教示いただきました。ありがとうございます。

岡本雅史さんという方が、ちょうど最近の議論に関わる分野の研究をされているらしいです。

http://www.kc.t.u-tokyo.ac.jp/~okamoto/index-j.html

特に、

人称など、主観性に関わる分野の研究はそれほどされていないようですが、非常に面白い分野だと思うので、発展を願います。また、http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061228/p1のコメントでも書きましたが、CGの視点というものにも特徴が認められ、こうした特徴については絵本の視点の研究から示唆を得られるかもしれませんので、興味深いと思います。

上記論文・報告書は一通り読みましたが、ただ当方、認知言語学はほっとんど知りませんので、コメントは差し控えさせていただきます。しかしながら、メモとご紹介を。

[] 人称と一貫性  人称と一貫性 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  人称と一貫性 - こぐにと。 cognit.  人称と一貫性 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/simula/20061231/p1

ご意見拝読しました。賛成です。

まず先のエントリで言及した岡本さんの『user involvement』の報告書の3.1にも、相似の指摘がなされていると思います。一貫性の与えるリアリティ、というものは確かにあると思います。

ただ注意しておくべきだと感じるのは、私たちのような人が一貫性というときは基本的に、一度読み終えた作品を、作品の外から見て「こことここが矛盾しているから、一貫性がない」と言うのが普通ではないかということです。でも作品から受けるリアリティや説得感は、もっとonlineのできごとで、作品を読みながらその途中でリアリティなどを感じているのだと思います。その中でも、例えば私が先のコメントで例に挙げたようなホームズの描写などに対する矛盾はあまり気にならず、人称に対応する視点の破れが気になるようであれば、どちらも一貫性を崩しているけれどその効果が違うということで、両者を首尾一貫性と一言でまとめてしまうと、少し問題が出てくるかもしれません。しかしながら、大筋の議論は賛成で、首尾一貫することがプレイヤーの没入を妨げない、というのはあると思います。

また、人称による一貫性が崩れてもストーリーが面白くさえあれば、というのも賛成です。そういう崩れを読者に気づかせず、高スピードでぶっちぎることぐらいできると思います。例えばハリウッドのある映画が、アクションの勢いに任せて、客からの冷静な突っ込みをさせる暇を与えさせないだとか。また他にも、未プレイですが、『ひぐらしのなく頃に』の最終話のぶっ飛び具合で牽引していくとか。そういう表現技法や無茶苦茶さは、ずっと前にブログでも書きましたように、個人的には高く評価しています。少し技巧的になれば、未プレイですが、『Ever17』。(ネタバレ反転)美少女ゲームにおける人称や視点を巧くメタ的に処理したトリックを利用しており、そこで人称が崩れてもプレイヤーはついていっているのではないでしょうか。(反転終わり)

そういえば、crow_henmiさんが何度か話されていたループゲームにおいては、一人称を使っているゲームが多いと思います。こうしたシステムと人称の関係性は考えてみるに値するのかなと。

[] マルチシナリオ  マルチシナリオ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  マルチシナリオ - こぐにと。 cognit.  マルチシナリオ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

  • ttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20061227/1167156701
  • ttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20061231/1167501391

す、凄い。(自動トラバ避けのため、hを抜いてます)

完成度を上げるため、細かい点を指摘するなら、

  • 月姫十夜 -> 歌月十夜
  • ataracsia -> ataraxia

ではないかなと。

そういえば、どこかでグッドエンド/トゥルーエンドとかいう分類が出始めてきた時代について言及されていたような。キャラごとにも違うエンディング(ただしバッドエンディングを除く)が用意されてきた、例えば『月姫』などの。genesisさんでしたっけ?

[] 映画技法  映画技法 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  映画技法 - こぐにと。 cognit.  映画技法 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

アニメ批評もまともなのはあまり見たことありませんが、手法は映画理論から参考にできそうなものがたくさんあるみたいです。Hitchcock & Truffautでももう一度読もうかしら。

ということで、いくつかブクマに追加しときました。ブクマは、b:id:umada。タグは&Cinema。

[] オブジイヤー  オブジイヤー - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  オブジイヤー - こぐにと。 cognit.  オブジイヤー - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

今年の書籍オブジイヤーは『全体性と無限』あたりで(顔)*1

*1:nucさん提唱の顔文字である(顔)、かつ、Levinasの『顔』という概念をかけたという冗談であることを注記せねば誰も気づかない冗談の類。

milkyhorsemilkyhorse2006/12/31 18:13やってしまった…。... _| ̄|○ ご指摘ありがとうございます。さっそく訂正させていただきました。

cognicogni2007/01/01 04:56いえいえ、小姑みたいなことばかりしており、申し訳ないです。作成と訂正、お疲れ様でした。

2006-12-30

[] お返事:人称と感情移入、感情移入へのアプローチ方法  お返事:人称と感情移入、感情移入へのアプローチ方法 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  お返事:人称と感情移入、感情移入へのアプローチ方法 - こぐにと。 cognit.  お返事:人称と感情移入、感情移入へのアプローチ方法 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061230/1167407259へのお返事です。

女性主人公云々については「女性には感情移入できないのか」という質問を返したいところです。というか、女性にもおおむね問題なく感情移入できるでしょう。

できると思います。ただ、『人称による感情移入が関係が深い』仮説だと、人称変化によって感情移入の程度や種類に差があるのではないかと考え、その『おおむね問題なく』のあたりを詳しく説明することが仮説のためになると思い、「どうなのか」というopen-ended questionにしたつもりでした。このあたり、説明不足でした。すみません。「感情移入できるのか」というclosed questionであれば、私もYesと答えると思います。また、人称の効果をメソッドやツールとしての位置づけと考えるのは妥当な線だと思います。ただ、そうしたexplicitなものであればvariable設定するの簡単なんで、実験一発やっちゃえば大体統計取れると思うんですが、どなたかやらないかなぁと。

三人称においては主人公的立場にあるキャラクターの描写は強くなる傾向があり、それがそのキャラクターへの特定的感情移入の補助線として機能するでしょう。

とのことですが、それなら人称の問題にするよりも、視点もしくは描写の量の問題になるのかな、と思いました。一人称なら、そりゃその視点に付き合う時間も描写の量も多くなるわけですし。そうした点から考えると、人称はcovariableになると思いますが。どうなんでしょう。

ただ個人的には特定のキャラへの感情移入、というものはあまり納得できません。つまるところ、我々本当はキャラクターの誰か一人に感情移入なるものを行っているのか、という疑問が晴れません。個人的には、School Rumbleにせよ*1、悲劇の構造にせよ、我々読者は超越的視点にたって感情移入なるものを行っていると考えます。それを「世界に感情移入している」とか「無人称的な謙虚さ」とか言い換えてもよし。ゲームに対して超越的な視点でとどまり続けつつ、私がゲームで感動できる仕組みは、特定のキャラへの感情移入では説明できない、と思います。例えば主人公が泣いたって私は泣きませんから*2

だからむしろ、意識の距離や没入immersionなどという能動的な概念と、そして少しレイヤーが違うBenjamin的な気散じdistraction*3もしくは架空世界の受容などという受動的な概念、という分割を便宜的にしたうえで、それらを統括するものとして感情移入、という概念があると考えたほうが実用的だと思います。感情移入、としちゃうと、どうしても能動的な語感があるので。そもそも「感情移入できる/できない」という語の使われからして、その語は能動的・自動詞的な動詞であると思われるようなので。このような語の使用においては、感情移入させられる、という受動的な面が見えてこないのは難点ではないかなと。その辺は自分も気をつけて言葉を選んでいるつもりでした。過去形。

参考として、http://www.critiqueofgames.net/data/critique_term.htmlの『意識の距離』とか『感情移入』の項。

主人公への感情移入への反論として、茂内さんの修論のp. 59以降(http://www.intara.net/ron/syuron/)。ちょうどギャルゲーのときめきメモリアルを挙げながら。

このシーンで、プレイヤーは館林の気持ちを知っており、またPC の無自覚さをも知っている。プレイヤーはPC の鈍感さに飽きれるとともに、館林の心情を慮る。つまりここでPC はプレイヤーの分身などではない。そしておそらくプレイヤーは館林に感情移入するのである。

あと、今木さんも過去ログで、プレイヤーから主人公への感情移入ではなく、プレイヤーから少女への感情移入について語っておられたような。

とりあえず関係ありそうなのをピックアップ。

大きく戻って、crow_henmiさんの最後のパラグラフへの反応へ。

えと。ついでに書いておきますが「感情移入困難なキャラクターを「わたし≒彼」に設定する」ということもままあります。あるいは不慮の事故でそういうことが起こります。そうした場合は「わたし」と「彼」の間に強い乖離が生じ、主人公を痛烈にDisる現象が起きたり、主人公を突き放した視線で見つめることとなります。たぶん。

ああ、そういえば、『君が望む永遠』の主人公が大嫌いで、作品自体嫌いでしたー。たぶん『School Days』もプレイしたら嫌いになると思います。へたれ主人公嫌い。あの辺のゲームが嫌いになるのは、選択肢を選んだのに思い通りに行かないからだ、とか、そういうinteractiveな面でも考察されていたように記憶しています。いやむしろ性格が嫌いだ、と思いましたが。

最後に。

個人的には感情移入とかいうものを直接的に語ることができるのか、という疑念があります。いささか回りくどい手法をとるべきなんじゃないかな、と。具体的には?、と問われると説明が面倒なのですが、まず感情移入とかいうものの構成的理解を行うために、能動・受動を便宜的に分けた後、それらの恣意的な分割によって排除されたものを挙げ、その示されたものを契機として両者の非分離を示し、感情移入なる行為を迂遠に示す必要があるのではないかな、と。

以下、電波と罵ってくださって一向に構いませんし理解できる人は閲覧者の中では二人ぐらいだと思いますが、続き。つまり、感情移入とかいう行為は語り得ないもの、という直感がある。なぜなら感情移入とかいうものについて語ろうとすると、感情移入とかいう言葉の実行性の議論になる、もしくは特定の言語ゲームに絡み取られてしまうから。だから私はあえて感情移入という語が解らない、と言うことでその語の実行性を認めず、WittgensteinがInvestigationで示したような手法を取る必要があると考えます。そうすることで素朴実在論を否定するわけです。例えば、萌えという行為や感情移入という行為を語る際において、それぞれを他動詞ではなく自動詞として捉えることからはじめる。そして、便宜的に分けた能動・受動の、その便宜の恣意性を明るみに出す。そこで能動・受動の関係を位置づけ、この関係性を契機として構成的に萌えを示す。どうしてそんな迂遠なことをするのかといえば、例えば、その意義を認めつつも萌えを語るモデルとしては不適当だと思われるデータベースモデルでは、データベースを措定した時点でその基底において萌えという概念が貧困になるのは不可避だと思います。つまり、東氏の語る萌えが貧困な感情のように映るのは、データベースを措定していてそこから出発しているから、と判断する(詳細の議論は略)。ならばデータベースや要素還元という基底を見直す必要がある、というわけです。同様の議論で、感情移入という言葉を考える際には、まず感情移入主体/感情移入対象といったような素朴な実在論を何とかする。もちろんこの対立が虚構であることをただ語るだけでは特定の言語ゲームをしているだけに陥る、言い換えれば感情移入という語がある特定の言語ゲームで実行的かというレベルの話になってしまうのだから、(実行性の議論の意義を認めつつ、)その素朴な脱構築に留まるのではなく、それを契機としてそれらの語りから徐々に構成的に感情移入が語られるのではないかな、と。であるがゆえに、PlayerがPlayerCharacterに感情移入する、という対立軸をまずどうにかしたい、と考えているわけです。郡司的に。

*1:izuminoさんの200609などを参照

*2:泣いたキャラに感情移入していたらプレイヤーも泣く、のでは。

*3:無意識的な、移入する主体すら必要としないレベルの。軽く検索したら"But this also means that distraction is not a state of consciousness, e.g., attention or inattention. . . . It means, too, that distraction doesn't require a subject, although a subject could be one its effects."などとも言及されてました。あとBergsonのMatter and Memoryのrecognition, attention by distractionあたりの議論も比較参照のこと。

トラックバック - http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061230

2006-12-29

[] 人称について  人称について - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  人称について - こぐにと。 cognit.  人称について - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

一人称とかについて、寝る前にメモ書き程度に少し書いておきます。

まず過去の記事のリファー。語用論的な観点から麻枝シナリオの一人称性を考察しようとしたのが、http://d.hatena.ne.jp/cogni/20060925にあります(プライベートモードですが)。麻枝准の歌詞における「この」「あの」などの、代名詞使用の特徴についての記事として、http://d.hatena.ne.jp/cogni/20060808など。ほんの触りばかりですが、とりあえず今現在考えているのは、「わたし」を利用しているからと言って一人称のわたし性みたいなものが出てくるのか、と言う問いについてです。それへの答えとしては、ノーではないかなと。それは恐らく、AIRには父親が出てこないからAIRには父性がない、とか、AIRの主人公はカラスになってしまうから傍観者である、と同種の間違いではないでしょうか。ちょっとクリティカルじゃないかなと。

例えば、上記リンクでも少し書いているように、「わたしは上を見た」と「わたしは天井を見た」としたほうが、わたしを少し遠く感じる、というときがあると思います。「わたしはあれを見た」と「わたしはペンを見た」も同様に。二つの例の前者においては、代名詞的性格を帯びる語を使っており、そうした語の利用が感情移入を高める効果を持つのではないか、というのが当時の仮説でした。つまり、代名詞によって対象を指示することで、指示する主体がより瞭らかにされる、という。FregeのSinn/Bedeutung”的”な分け方だと、同じBedeutungをどうあらわすか、という点で、わたしのわたし性というのが瞭らかにされるのではないか、という。より日本語に近づけるなら、吉本隆明の自己表出/指示表出でも可。いやむしろ吉本のほうが文芸には応用しやすい。というか、人称研究はどっかの文学研究でやってそうなんですけれど…。

まぁとりあえずこれをベースでいけば、「三人称ではこうした代名詞的な語の利用ができないから、感情移入がしにくい」という仮説が作ることができます。例えば、AIRのAIR編においては、語彙の少ないそらが主人公ということもあり、代名詞的な、素朴な語の使用が多い、という事例が…というのは嘘で、そらは内言でもあまり喋らないので…。仮説を補強するような具体例が手元にありません。

あと感情移入については、Husserlもイデーンで言及してるようなので(ただし原文読んだことはない)、そういうのも参照したほうがいいかもしれません。Merleau-PontyのVisible and Invisibleの中で提唱されているキアスム(『メルロ=ポンティ コレクション』にも採録されてます)とか。こっちは読んだ。まぁ、感情移入などは、現象学と愛称の良い問題ではありますでしょう。Winnicottを読もうかな、と前言ってたのは、ちょっと違う文脈ですが、精神分析や発達でも興味深い問題であります。

あと、関連で、http://storybook.jp/note/?d=2006-07&m=month#/note/note060703.htmのあたりを読んでて、アニメーション表現についてまとめた本はあるのかしらん、と思いました。あまり知らないんです。他にも例えば、アニメとかドラマとかで、ある人物の視野をそのまま映像として映す、ということがありますけれど、あれは一人称的というよりも、なんというか、もっと異化作用を狙っているような感じを受けます。

http://ocw.mit.edu/OcwWeb/Foreign-Languages-and-Literatures/21F-039Spring2003/Readings/

ついでにこちらとか。MITのundergradの癖に読む量少ないじゃないか、とか思う。

ああ、そうそう、現代思想2005年7月号に『イメージ発生の科学』というのもあって、この前紹介したBerthozによって書かれた論文も収録されているので、おすすめしておきます。

あと、

・主人公に固定の名前がついて、その名前をボイス付き感情入りで呼んで喘いでいるにも関わらず、なぜそこにBL同様の「本人不在」の発想が入り込まないのか。広義のNTRとならないのか。

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/Kadzuki/20061227/1167233185

の(読者)本人不在の感覚、については、やおい小説論―女性のためのエロス表現で何か、特にポジティヴな方向性で書いていたような記憶があります。間違っていたらすみません。いや、ただ、ある小説のある登場人物(男)の喘ぎ声データベースで大笑いした記憶だけは確かにあります。

2006-12-28

[] 人称とか  人称とか - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  人称とか - こぐにと。 cognit.  人称とか - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ちょい制度的に。人称の問題について。http://rosebud.g.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061228/1167273184への質問として以下のようなリストを。

  1. 三人称の場合はどうなのか。『最果てのイマ』など。
  2. 女性主人公の場合はどうなのか。『このはちゃれんじ』など。
    1. 女性主人公かつ三人称の場合はどうなのか。『アトラク=ナクア』など。
  3. メタフィクションにおける感情移入の問題はどうなのか。

これらの例外にある程度一貫して答えられるようならば、「人称と感情移入」仮説は鍛えられると思います。

もちろん、例えば2.1の感情度合いが2よりも低い、というときにどういう風に感情移入を評価するのか、というmetricなところがわりと問題になると思います。

あとは個人的なメモ。

確かに経験則として、一人称の感情移入というものはあるかもしれません。例えばElements of Fiction Writing - Characters & Viewpointだったかそのあたりの物語製作手法本において、視点変更は没入を阻害する、などと書いてあったと思います。でもまあ、経験則といえば疑ってしかるべしものだとも思います。

そういえば、英語文献読んでても、empathyというのが感情移入とも共感とも日本語訳されるところなので、どういう風なニュアンスで日本語に直せばいいのかいまいち良く解りません。empathyとsympathyを分けて使ってくれているのは親切な本です。ついでに書いておけば、この前関係している心理学の論文読んだけれど覚えてないです。あんまり重要じゃない、という判断を下したような覚えが。

実を言うと、人称と感情移入というか、キャラクター個人への感情移入というのがいまいち解らないのですが。架空世界への感情移入、というのならまだ理解はできる、という程度です。…美学的?いやむしろ絶対矛盾的自己同一みたいな。ヴォリンガーの『抽象と感情移入』は美学関係ですけど、まあ古典として参考になるのではないかなと。http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/artwords/a_j/einfuhrung.htmlというのもあります。

t2006/12/29 17:49感情移入というより、語り手の信用度合いというか。また佐藤亜紀になるけど『バルタザールの遍歴』、一人称で書かれた自伝形式だけど、二人の書き手がいます。しかし、二人は事情により一人です。「多重人格」の人による自己申告みたいなものですが。とまれ、語り手が信用できないとなると内容も信用できませんから、当然、警戒して読まざるをえなくなり、没入しづらくなるのではないかと。

cognicogni2006/12/29 23:12なるほど、語り手の信用度合いという視点は思いつきませんでした。『バルタザールの遍歴』のようなスタイルの場合、警戒感が生まれて没入できない、というのは納得できます。
加えて、ゲームを考える上でなら、語り手の登場しないゲーム(例えば『三国志』のようなシミュレーションゲームや、『ギャラガ』のようなシューティング、『サイレントヒル』『ボンバーマン』など)にも恐らく感情移入みたいなものをしていると思われるので、感情移入/信用度合い/没入とかを分けて考えるのは良いかもしれないと思いました。Rules of Playでいう、cognitive interactivityをより深めていく、という方向性で。

tt2006/12/30 21:38えー、この先は日本文学とか外国文学の人のフォローキボン。私見ですと、基本的に小説も報告書も論文も同じスタートラインと考えますと、誰がどういう立場でどのような書式で書いているかが、文章の読みやすさや内容の掴みやすさにおいて大事であろう、と。フィクションの場合、原理的には実用文書の形式から踏み外していくものですから、第一に「本当のこと」が書かれている実用文書の書式に準じていると理解しやすい。今思いつきましたが、HTMLの書式で考えましょう。で、フィクションは、タグや要素記述を何処かの時点でわざと間違える。それをコンピューターにフツーに読ませるとエラー=没入できないとなりますが、人間てのは途中まで合っていれば途中まではエラーだと思わずに読める。読み終えてエラーに気づいたとき「あ、フィクションだったんだ」と気づくことができます。その間違えたところを気づくことで、実用文書の弱点に気づいたりする。(そこに社会批判その他いろいろ実用書式に盛り込まれないことを盛り込んだりする)で、視点をやたら変更するであるとか、人称をコロコロ変えるというのは、読み込む側からすると要素記述があちこち間違いだらけで、そもそも元の書式が何だったのかわからないという状態で、つまりごく単純に言うと読み方がわからない。ただ小説は長年書き継がれてますから、そこんとこの技術の積み重ね、研鑽がありますので、人称の問題ひとつでもいろいろあります、て話になって、その「いろいろ」は私は知りません。

tt2006/12/30 23:15ああ、ええと、最初の書き込みは「とまれ、」で段落が区切られているものとして読んでください。「バルタザールが没入しづらい」と書いているわけではないです。(読み辛い文章の典型)

cognicogni2006/12/31 00:14その辺の話は難しいですね。文学屋さんなら解るんでしょうか。いちおう認知屋としてコメントすると、テクストをどう読んでいるのか(誰がどういう意図で書いているのかというコンテクストを解釈すること、文章の読みやすさや内容の掴みやすさ、エラーを訂正すること、エラーを訂正して信用度を格付けすることなどなどを含んで「どう読んでいるのか」)、という現象レベルの話をしている研究はあまり見たことないです。さすがに大雑把すぎるので。
でも例えば心理言語学で一時story grammarとかschemaの研究が流行って、中でも例えばculutural differenceが見つからない読書の特徴というのがいくつか出てました。そういう研究からは、differenceがない活動が人類普遍的な認知と見て取れるでしょうし、differenceがある部分も文化と読書の関係に示唆を与えてくれるものだと思います。あとは、文法的にはあっているけれど意味が通じにくい文章は読むのが遅い(読みにくい)、とかそういう基礎的な研究も関係あるかなぁ、と。例えば、The lion wants to eat the rabbit.よりも、The rabbit wants to eat the lion.のほうが読むのが有意に遅いです。あとは事後的な判断(offline)ではなく、読んでいる途中で行われる判断(online)の研究もいくつかやられてます。
また「フィクションに対する態度」と乱暴にまとめてしまうなら、分析哲学も応用できるかなと。Kendall Waltonあたりのmake believe説とか。http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0410/main.cfmなど。あとは『虚構世界の存在論』。
と分析哲学を挙げたのは、分析哲学は真偽の判断に強いところがあり、tさんがお書きになっている、『エラーに気づいたとき「あ、フィクションだったんだ」と気づくこと』というのが果たして起こりうるのか、というのにそういう視点から突っ込めるからです。ある文がエラーや間違いかどうかをどう判断するか、という問題です。例えば、今現在イラクのことを誰かがレポートしてきても、それをフィクションだともノンフィクションだとも読めるわけで、文の真偽の解釈は常に豁かれている。だから信用度合いという程度問題に持ち込むのは賛成ですが、その一方で程度問題は常にmetricの問題を生じさせるわけで、なかなか難しいなぁと。また先ほどonline/offlineの区別を挙げましたが、ある文章を読んだ後にフィクションを判断しているのか、と言われればちょっと首をかしげます。むしろフィクションはフィクションとして先入観を持って読んでいるように思いますから、その点で「誰がどういう立場でどのような書式で書いているかが」重要であるというtさんの意見には賛同を示します。
ただ、個人的にはその書式についての混乱がテクスト内部から来るもの、という場合は非常に少ないと思います。また、「実用文書から踏み外していく」という感じではなく、例えばある論者ならば「フィクションを通して実用文書を読んでいるのだ」とか言うと思いますし、その点ではどっちの命題も等権利だと思うので、そういう対立軸が問題なのではないかなとか思ってます。他にも、エラー、間違いもしくはテクスト内矛盾というものが、どの程度読者の解釈に影響を与えているのか、というと自分としては少なめに評価しています。というのは、そんなん気づかないから。例えば、ホームズの記述に一部矛盾があること(e.g. http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/X10-knox.html)に気づきませんでしたし、気づいたからといってどれだけ信用度が下がるのか、という点でいささか疑念が。まぁ、以上、個人的な感想です。なんか本当にイバラの道のような。
あと有効そうな方法はGadamerあたりの解釈学かなぁ、と思います。http://members.at.infoseek.co.jp/serpent_owl/arch-text/gadamer.htmなど。Truth and Methodは買ってるんですけど読んでないです。
なんというか、まとまりのない文章で申し訳ないです。色々こんがらがってます。

tt2006/12/31 03:12ああ、私が何故「実用書式」から分岐させていくかというと、単に多数派だからです。今木さんのところの栗本薫の小説道場の引用が非常にわかりやすいですけど、訓練されていない書き手/読み手は人称の問題をさほど意識しない。それで「自分には」通じるし、「自分と同じ文法(言語ゲーム)のサークルでは」人称の問題はさほど意味を持たない。小説ばかりを読んで役所の書類など今まで見たことも無い人は、小学生であれば十分多数派でしょうし、日常会話の積み重ねを無視するなら彼らが小説で学習した以上の意味を人称の用法に見出すとは考えにくいでしょう。
ですが一方で、「誰か他のひとに事実に基づいた情報を伝える」という枠組みから完全に外れたなら、軽く想像するに、どんな文法、どんな単語もありえますし、そこには外の言語によるいかなる真偽の判断も持ち込みえない、となってしまいます。実質カオスです。ですから、そうしたあらゆる可能性のどれもありうるような「フィクションであることが自明であるという圏内で使用される閉じた言語」はとりあえず考慮から排除します。逆に言えば、閉じた言語圏内で通じさえすれば良いなら、人称の問題は最初から存在しえませんし、読みやすさの比較は成立しません。ですから、やはり考えても仕方ありません。
人称の問題というのは、より開かれた相手へ向けて差し出すための技巧であると割り切って構わないと思います。面白ければ人称がデタラメでも大丈夫という言葉の裏返しは、一寸つまらなそうに見える題材でも人称などの技巧が整理されていることでより多くの読者に伝わる可能性が増える(かもしれない)ということです。

tt2006/12/31 03:41さらに、実際の言葉の用法が慣習のみで出来上がっていて事実が参照されていないとしても、その用法をその言葉を使っている内側の立ち位置から分析しようと試みたときに、そのような言葉の自己言及な用法は慣習という流れを打ち破ってしまっていますから、そこには慣習から外れた起源(言葉に対応する「ほんとう」)が成立しているはずです。

tt2006/12/31 09:18もうひとつ。「フィクションであることが自明である圏内で使用される閉じた言語」は、多くの場合、そのフィクションのジャンルの歩んできた積み重ね、コンテクストに依拠します。つまり、美少女ゲームの人称の用法の由来が実用文書に直結しないのであれば、その由来はコンテクストの遡行によってのみ問題が見出されます。直近のコンテクストを実作を追って確認すること、すなわち「美少女ゲーム年代記」と題する集団の仕事の領分です。

cognicogni2006/12/31 15:49▼実用書式から出発する理由、および(遅れましたが)バルタザールの件、了解しました。

▼まず一つ目のコメントへの返信から。まとめてみると、人称の問題は感情移入とはそれほど関係がない、ということでしょうか。ただし「より開かれた相手へ向けて差し出すための技巧」として人称は効果を発する、と。逆に言えば、人称の「技巧が整理されて」いない場合は、読書を阻害することがある。それは人称が慣習に基づくからである、と。
少し話がずれますが、私もrulia046さんと同じく、人称の利用は「実際のトコロ慣例」(http: //d.hatena.ne.jp/rulia046/20061231/p1)というぐらいの位置(crow_henmiさんならメソッドと呼ばれるような位置)に賛成かなと思っているところです。感情移入というよりも、単なる読みやすさに関わる技巧として、人称を位置づけるのが妥当なところではないかなと。例えば、私の場合二人称の小説をあまり読んだことないせいか、二人称の小説は三人称のそれよりも読みにくいです(チャン『あなたの人生の物語』など)。このような点から考えると、一人称や三人称はconventionalだから読みやすい、という仮説が成り立ちます。ただし、読みにくければ感情移入しにくいということもあるので、人称と感情移入が関係ないとは言い切れないかな、とも。少し例がずれますが、例えば「個人的には、隠喩のレベルを超えると感情移入は阻害されます」とは今木さんの弁(http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html)。

▼ 二つ目。自己言及、もしくは内部性についての問題は承知しています。30日のエントリで書いたのは、そうしたある特定の言語ゲームにおける、ある言葉の実行性の議論をどう超えていくか、という話でした。つまり、感情移入という言葉を捉えなおすために、我々(…我々?)が大好きであるところの郡司氏などが提唱している内部観測internal measurementあたりの話が突破口になるかなと、めぼしをつけています。

▼三つ目のコメントへ。個人的な意見としては、人称の用法の由来は実用文書に”それほど”直結しない、つまりコンテクストや慣習に依拠するという考えです。しかし、コンテクストや慣習の遡行は中々難しそうです。やはりそれを考えるとなると、文学まで手を伸ばすしかないと思いますし。ただ、美少女ゲームという範囲内でなら、 genesisさんの描かれる1982年からの歴史が参考になるのではないかなと思います。美少女ゲームがノベルの体裁を取り始めたのはいつごろだ、とか。それにライトノベルとエロゲーとの越境がgenesisさんの記事中で指摘されていますが、エロゲー以降ラノベでも一人称が多くなってきた、などという統計が出てくればコンテクストとして面白いのではないかなと。
あと、手元に『江戸春画の性愛学』という本があるんですが、これを見ると、わりと今のエロゲーのCGに通ずるところ(例えばアングルとか体位とか)があったり、違うところ(男性の顔が映ってるとか塗りが違うとか)があったりして面白いです。エロゲーのCGの視点は非常に一人称的だと思うので、そういうビジュアルの面も美少女ゲームの文章の人称に影響を与えているかもしれませんね。なにせ、三人称の主人公のゲームでも、CGになると一人称的視点になっているぐらい、CGの視点は固定されているようなので。むしろ一人称というよりも、女性しか映していない、といったほうが正しいかもしれません。かの自慰映画『女哲学者テレーズ』みたいな。いや、astazapoteさんのログ(99年 10月)でこの映画のことを知ったんですけれど、同日の日記には女性に感情移入するという形式は他のメディアでも同様、と書かれているので。
最後に弱音を吐きますが、私自身は実作をあまり追いませんので、年代記は他の方におまかせします。自分は自分の興味のあるところをやっていくつもりです。

tt2006/12/31 21:36>人称の問題は感情移入とはそれほど関係がない
個人的な意見ですが、一人称については、日常、自分のことを悪く言う人間は多くありませんので、一人称の語り手の人物について、読者全員が一方的に彼を悪い人格だと判断する事態に陥ることはあまりないのではないでしょうか。語りの制度的にも語り手をある程度は信頼しなければテキストを読む行為は成立しませんし。彼の言い訳がましさに苛立つ人間が多少いるにしても。
>エロゲーのCGの視点
「絵」については、一人称、三人称という言い方はあまり賛同しません。絵画について宗教画(イコン)は三人称で印象派あたりから一人称となるのか、そう決めた場合、今度は日本画は絵巻物は三人称で浮世絵は一人称なのか、など。絵には絵のコンテクスト(エロCGの構図はパクリの歴史です。宗教画の構図が決まっているのと同じくらいに)があり、人称とは呼びづらい。ですので「一人称というよりも、女性しか映していない」に賛成します。
思い当たるのは目を髪の毛で隠す手法について。『水月』で主人公が構図に入ってくるときに男性の目をきちんと瞳まで描きこんであり、それが語りの手法とも連動しているために強い印象を受けました。
ゲームシステムに準じるものであれば、3Dダンジョンやフライトシミュレーターのグラフィックは一人称、RPGや戦術SLGの上からの見下ろし視点のマップは三人称、と個人的に呼んでいます。それが最もしっくりくると思っている。但し、ゲームの画面構成は常に多元的です。ビジュアルノベルぐらい構成要素が少なくなってくると一つの要素が請け負う役割が大きくなりますから、その用法が強い意味を持ってくると思います。
人称と関連して、システムレベルで2ちゃんねるエロゲー板などで「最近のゲームで自分で主人公の名前を入力できないと萎える」という主張が昔から(今でも)あります。「一人称への感情移入」ではありませんが、コンテクストとして大きい。そして主人公の名前がデフォルトで決められるようになったのは声優の普及とも連動しています。例えば、『君が望む永遠』では主人公の名前は変更できませんし、その主人公の名前を声優が連呼しますが、一方でイベントCGでは主人公は相変わらず目線を髪の毛や影で隠されています。それがエロのみならず、駅のベンチでのほのぼのとしたスナップショットのようなCGまで徹底されているため、奇異にすら見えます。逆に『水月』などでは名前変更が可能ですが、CGでは目線は隠されません。名前変更可能なためにテキストが奇異になった例として、『ワンコとリリー』、ワンコの発言は基本的に平仮名に開かれています(ヒロインの透子は「とーこ」、池なら「いけ」)ですが、主人公の名前だけは漢字で呼ばれることになる(デフォルトなら「誠一」)ため、主人公の名前だけがやや浮いて見えます。

cognicogni2007/01/01 05:02▼一人称について。そうですね、胸中で自分のことを悪く言う人間はほとんどいませんから、一人称での記述は読者が好感を持ちやすいのかもしれません。また、一人称だと直接的に主人公の感情を記述できるから、三人称での描写と比べて強いところがある、という基本的な技巧や効果はあると思います。少し話がそれますが、個人的には、美少女ゲームにおいては「俺>僕>私」の順で慣れ親しんでおり、「私」という一人称を使う主人公にはどうにも違和感があります。こうした一人称の使い分けも没入を妨げる要因として挙げられるかもしれません。
▼絵に関しては、少し私の勇み足が過ぎたかな、と今頃思っております。当方美学についての教養がないもので、頓珍漢なことばかり言ってしまいそうで。それに、このあたりは美術をきちんと履修した原画屋さんとかに聞いたほうが、いい話が聞けそうです。また水月は未プレイなのですが、そういう技法には興味あります。
ゲームシステムの視点については、31日のエントリに挙げた『user involvement』の報告書で、岡本さんは四種類に分けています(p. 5)。そこで比較されているのを見ると、tさんが仰るようにビジュアルノベルは構成要素が少なく、非常にシンプルな構成だと思います。こうした特長的なビジュアルノベルの視点(?)がいつごろ採用されたのか、また、tさんが仰るようにビジュアルノベルの要素が果たす役割の大きさや効果については、今後も考えていかないといけないのかな、と。そこまでくると、ちょっと自分の興味からは外れてしまうかなぁ、というところですけれど。
▼名前について。名前が入力できないと萎える、というのは、自分としてはあまり解らないです。しかし一方で、そうした意見もなんとなくは理解できます。やはりこうした違いが出てくるのは、読者の読み方の違いや読者と書籍の関わり方の違いのせい、でしょうか。例えば、この前驚いたのが、ドリー夢小説の存在でした。http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=%A4%C8820263227503243300&kind=jn&mode=5など。これは存在意義からしてほとんど解らないです。名前が気になる人もいれば、気にならない人もいる、というのは、どういう視点から物語に没入しているのか、を示すいい例になるかもしれませんね。
「名前がデフォルトで決められる」ことと「声優の普及」との関係の仮説については賛同します。結構堅実な仮説だと思うので、それを示すデータがあればより良いのですけれど。あと、ときメモ2でしたっけ、声優のボイスを合成して名前を発声させようとしていたのは。それほど普及しなかったことをみると、主人公が自分の名前かどうかは気にしない人が多いのかな、と思います。
加えて、確かに名前の任意入力は昔のRPGからあったと思いますけれど、昔のAVGもそうだったんでしょうか。例えば『ポートピア殺人事件』では『ボス』と代名詞的に呼ばれていたようですが。ビジュアルノベルはAVGに近い形式だと思うので、そうした系譜は少し気になります。また、こうした名前入力の効果については、たぶんゲーム学会などでも俎上に上がってそうな話題なので、hiyokoyaさんなどにメールして直接尋ねてみたほうがいいのかもしれませんね。
▼またちょっと話題がそれますが、http://www.critiqueofgames.net/talk/001.htmlとか、わりとでっかい選択肢について、プレイヤーが悩む、ということが話されているので、プレイヤーとプレイヤーキャラの関係について考える際の参考になるかなと。

tt2007/01/01 18:04ネタバレクレームが来たので私のコメントは削除お願いします。とりわけ最初のほう。

tt2007/01/02 02:31声についてはツッコミが入る前にいくつか。声優ボイス合成が「ときメモ」後に続かなかったのは、技術力と予算の関係だと思います。で、名前と声優にどう呼ばせるかの実例ですが、コンシューマーのギャルゲーで先行して、山ほどあります。まず、正々堂々、「○○はどう思う?」であれば「○○」の部分を抜いたまま「…はどう思う?」とだけ言わせるというもの。昔はけっこうありました。次に、「○○くん、ちょっと待って」であれば「ちょっと待って」の部分だけを発話する、という手法。文脈的に抜くのが難しければ「○○クン」のところを「キミ」と発話させたりもします。「○○は昔から納豆が好きだものね」>「キミは昔から納豆が好きだものね」
そして「『ボス』と代名詞的に呼ばれていた」のと同じ手法、「キミ」「あなた」「先生」「王子」「先輩」「ご主人様」「マスター」「管理人さん」「お兄ちゃん」「お兄様」「兄クン」「アニキ」「あにぃ」「おにいたま」「兄上様」「にいや」「兄チャマ」等々の呼び方を使用する。とりわけ「お兄ちゃん」関連については、妹属性の利点を強調する妹萌え論者により以前より指摘されています。
あと、シナリオで最初からなるべく名前を出さない呼ばせない、なども。
面白いのが、アニメ作品とタイアップしたゲーム。レイアース、ブルーシード、エヴァ、ナデシコ、ウテナと94年、95年、96年、97年のアニメ作品のゲームがセガから出ているのですが、レイアース、ブルーシード、エヴァはアニメ主人公がそのままPC、ナデシコはゲーム1作目はアニメ主人公がPCで、劇場版に連動した2作目は記憶喪失のオリジナルキャラがPC、ウテナもゲームオリジナルキャラ(PCは女性で、確か顔は表示されなかった)と、時代が新しくなるにつれ、PCが「アニメに登場しない無個性な一人称キャラ」にシフトしているんですね。ゲーム内容も、レイアースとブルーシードはRPG、エヴァとナデシコ1作目は実質「時間内早押し」のパズルゲー、ナデシコ2作目とウテナに至って、原作アニメの各登場人物と結ばれるマルチエンディングへ向けて選択肢を選んでいく、「ノベルギャルゲー」な内容になります。同じ流れで「アイドル雀士スーチーパイ」が「スーチーパイアドベンチャー」を出すに至る、というのもあるのですが…(涙

tt2007/01/02 02:52追記。同じくアニメタイアップのアキハバラ電脳組(DC版)は「ゲーム」の部分はタイミング押しのミニゲームでしかないのですが、全体の目的がパタPを通じて友達を増やすというもので、ノベルギャルゲーの分岐図を上から俯瞰して眺めたYU-NOのような(笑)友達マップが提示されるポストギャルゲーな野心作でした。こちらのPCもゲームオリジナルキャラですが、面白いことに、アニメの主要キャラ5名は大勢いる友達の中の一部に紛れ込んでしまっています。漫画の吹き出しの形でメッセージをテンポ良く表記する会話(ショートコント)が目新しかった、隠れた佳作です。

cognicogni2007/01/02 05:06▼コメント削除の件、了解しました。いちおうネタバレに抵触するであろうコメントだけ除いておきましたが、全削除が必要でしたらお申し付けください。なお、私のネタバレコメントも削除しておきました。また、ローカルにバックアップを取っておりますので、参照したくなったときは仰ってください。

▼一段落目の声の扱い方の特徴、確かにいくつかのゲームで覚えがあります。ただ、個人的にはこのような手法は不自然のように感じたんですが、一般的にはどうなんでしょう。少なくとも私の場合は、その手法を採用しているゲームでは、感情移入というか没入というか、そういうのが阻害されます。文字とボイスは一致しておいてほしいなぁ、と。近年であれば、『キスミス』のプレイをyoutubeで見たのですが、それも確かそんな感じだったと思います。

▼『妹属性の利点を強調する妹萌え論者』なんて方がいるんですか(笑)。いや、議論にはあんまり関係ないですけれど、びっくりしたので。

▼『アニメ作品とタイアップしたゲーム』に関して。そのような傾向(90年代後半、時代とともに無個性なPCが増える)に関しては初耳でした。勉強になります。しかし同時、やはり私では美少女ゲームの歴史に関しては手が出せそうにないなぁ、と少ししょんぼりしました。

また、上記議論を統括するような文脈の議論であれば、美少女ゲームの主人公にボイスが付きだしたのはいつごろか、という議論ができると思います。主人公ボイスのゲームは実数としては少ないとは思いますけれど、感覚としては少しずつ増えているかなと。例えば、百合ゲーみたいな『乙女は処女に恋してる』(未プレイ)とかは主人公にボイスがついていたと記憶しています。他にも、Littlewitchの諸作品にはボイスついてました(ただLWはシステム自体目新しいような)。では、こうしたボイスがつくことによって、主人公(PC)は「アニメに登場するような(個性的な?)キャラ」としての効果が得られるのではないか、という仮説が提出できるのではないかと。しかし同時に、そうした特徴や個性を付け加えたことにより、感情移入や没入、好感度がどれだけ変わったのか、ということも射程に入ると思います。ここで先人の意見を参照すると、genesisさんは月姫の項目で、主人公の復権と書いておりますが、そうした復権の風潮があるのならば、主人公の復権によるPCの個性の確立、それに伴う感情移入やボイスの関係など、色々絡めて面白い議論ができるのではないかなと思います。ちなみにgenesisさんの当該記事に関して、鍵っ子としては「ONE(1998)も主人公の個性や非代替性は現れていると思います」と突っ込みを入れられるかなと。七瀬と浩平、長森と浩平はセットじゃないと駄目だと思います。

また、アニメはほとんど見ないのですが、ここ数年、ゲームを原作としたアニメが増えているように感じています(最近はラノベですか)。『タイアップしたゲーム』を『原作つきゲーム/アニメ』として議論を少し広げて、そのあたりの差異を議論すれば広い範囲の読者が興味を持ってくれるかな、と。例えばKanonのマルチシナリオをアニメで表現した場合のいびつさ。milkyhorseさんが12/30ぐらいの記事で図像化し、地道にやられておられるのは、そうした議論の土台になると思います。他にも例えば、『アイドルマスター』がアニメ化するらしいですけれど、ゲームでは決定的に無色透明のプロデューサーがPCなわけで、アニメ版の主人公はどうなるのか、など。
まぁ、一種のメディアミックスという言葉が盛んに言われはじめるのは、Wikipediaによれば1995年以降のようですけれど、そうしたミックスによってどのようなシステム変更が迫られ、どのような効果が得られているのか、という点をより掘り下げていく形の議論はいまだあまり見たことないので、個人的に読みたい、というのがあります。私が自分で考察するにはちょっと荷が重いかなと。

tt2007/01/02 11:10解説しますと、セガのメディアミックスゲームは、セガが最初からスポンサーとしてついていて「TVアニメと同じアニメOPがゲーム機で流れる」「TVアニメオリジナルスタッフによる新作アニメパートも付いてくる」「アニメと同じ声で喋る」のが大きなウリでした。セガサターンの発売が94年、レイアースのゲームは初期のSSソフト中でも頭ひとつ抜き出た秀作で、「次世代機」の能力によりTVアニメに見劣りしない動画がゲーム機で実現されたのを印象づけましたが、以降のTVアニメとタイアップした作品はサターンの苦戦を背景に次第に予算と開発期間が減らされていくのが手に取るようにわかりました。おそらくは開発規模の問題でゲームバランスを作りこまなくてもいいAVGへのシフトが余儀なくされ、またウテナ、ナデシコ2作目のゲームの発売が1998年と、既に1997年のWindowsの『 To Heart 』と同時代になっているのも関係してくるかと。
>美少女ゲームの主人公にボイスが付きだしたのはいつごろか
昔は、PC美少女ゲームのコンシューマー機移植の際の大きなウリとして「声優が喋る」がありました(これも時期によって意味合いを微妙に違ってとらえていました)。PC側での声付き自体は私が知るだけでもPC88の音声合成まで遡れますしCD-ROMの普及やWindowsの普及など技術革新に応じて声付きがアピールされていますが、「声優がつくのが当り前」へのパラダイムシフトを印象付けられたのは00年の『顔のない月』、発売前から話題作として注目を集めていたのが、発売直前に「声なしを声つきに変更するために」発売延期になった(本当の理由は知りませんが)あたりでしょうか。90年代後半は「アニメに出ているあの声優が名前を隠して仕事する」(それを発見して喜ぶオタク)で、00年代からは「エロゲーをプラットフォームとした声優が活躍する」(特定エロゲー声優にファンがつく)へ。このエロゲー声優のパラダイムの以降は仕事量の増加と重なっていると思います。あと、声優の件はエロゲーからタイトルを貰い受けて製作されるポルノアニメに詳しい人にも話を聴いたほうが。

tt2007/01/02 11:27二段落目、完全に勘違いしたレスになっていますね。失礼。「美少女ゲーム」だと、PCエンジンの時代から「美少女の主人公」が喋ります。そのへんは夏葉薫さんの得意分野。個人的には「ゆみみみっくす」が時代を先んじて燦然と輝いています。

cognicogni2007/01/03 00:37ノベルゲーへの移行は開発規模の問題、という風にも考えられるのですね。やはり、そのあたりを体感するにも、実際にプレイしてみないと解らないところで、自分はほとんどプレイしていないので、とても参考になります。
声の歴史に関してのご教示も、どうもありがとうございます。PCエンジンの時代から喋ること、知りませんでした(無知で申し訳ないです…)。00年のパラダイムシフト、というのも面白そうです。まとまったデータとかあればいいんですけどねぇ。声優の話も興味があるのですけれど、あっちはなんというか、深すぎてついていけないような。

2006-12-27

[] 観鈴と立ち絵と短い会話  観鈴と立ち絵と短い会話 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  観鈴と立ち絵と短い会話 - こぐにと。 cognit.  観鈴と立ち絵と短い会話 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ドラマ感想文はあっち。ぜんぜん関係ないですが、AIRをAirと書いてしまうような鈍さはどこから来るのだろう。まぁ、入れ込みようが違う、という具合ですか。To HeartをToHeartと書くようなもので。いやいや話がそれすぎ。

文字情報と立ち絵との情報のずれ、という比較をして、どちらが優位かといわれると、絵のほうが優位に立つ、と思います。ご飯粒を取ってくれた観鈴の動きを文字で与えられ、その様子は想像できますが、立ち絵はあまり変わってない。これを一種の抑制として捉えると、ゲーム中の観鈴の動きは随分と抑制されているなあ、と。まあ大体、立ち絵の量的制限によってゲームでは制限されがちですが。そういえば、ToHeart2だったか、委員長がコミカルに腕を振り上げる立ち絵が出てきたときの違和感は、あまりに漫画的というか。AIRではその分、目や眉毛の変化の微妙な変化が逆に目立ちます。目が異常なまでに大きいというのは、いたる絵の欠点として挙げられる点ですが、それが逆に目による感情表現をうまくこなしていると思います。あと塗りの上質さと。そしてその微妙な変化が麻枝氏の手つきともいえる、些細なことに拘る姿勢とうまく合わさっているのではないでしょうか。これはいたる絵と麻枝シナリオの幸運な結婚ともいえる相互作用があると思います。いや、そもそもにおいて、麻枝シナリオとノベルゲーの相性の良さ、というものは確かにある。ちなみに、一番好きな立ち絵は泣きそうで我慢してる観鈴の立ち絵です。我慢というのがポイント。観鈴は強い子。でもやっぱり笑っていてほしいんですけど。笑わせるのは自分の力でしたいです。

会話で言葉の短い部分はまるで、意味内容を含まない、ただの言葉のやり取りだけのように映ります。しかしそれはそれで、Giddensのpure relationship(孫引き)とかそういう概念よりも、それはもっと豊穣であると思います。例えば食卓での「しょうゆ」「うん」「うまい」「ですね」。他、実例。

【観鈴】「………」

【往人】「どうした、遅かったな」

【観鈴】「新聞の勧誘だった…。しつこかった…」

【往人】「そら災難だったな」

【観鈴】「うん、災難だった」

ようやく席につく。

【観鈴】「伸びてるし…」

【往人】「だな…。俺が食ったときは、おいしかったぞ」

【観鈴】「うん、おいしく作れたから」

【観鈴】「でも、伸びちゃってる…」

【往人】「俺を呼べばよかったんだ」

【観鈴】「今度からは呼ぶね」

【往人】「そうしろ」

【観鈴】「うん」

涙目のまま食べ始める。

【観鈴】「すごい量だし…」

【往人】「増えてるもんな」

ずるずる…

【観鈴】「でもおいしい」

【往人】「ああ。うまかったって言ってるじゃないか」

【観鈴】「よかった」

このあたりのリズムも見るべきものがあると思いますが、そもそもノベルゲームというものは、三行表示ウィンドウによるこうした短い会話を積み重ねられる、という特徴があると思います。事実、麻枝氏はインタビューで短い文章を書くように気をつけていたという発言もあります。また、以前も指摘したことですが、発言者の名前を【観鈴】と明記することで、合間を置いて連続する発言を自然と記述できて、それが会話の自然さをかもし出していると思います。【観鈴】「うん、おいしく作れたから」【観鈴】「でも、伸びちゃってる…」の部分とか。小説なら「」で発言をくくることができますが、合間の開け方は……とか――とかいう文字に頼るとかできますが、ノベルゲームのような表記の仕方のほうが、合間の感じとか会話の空気感が出てくると思います。というか幸せですよね。短い会話を積み重ねられるというのは。

さて、上記実例ではここで往人は観鈴の言葉に反応しているけれど、全て観鈴の独り言として聞き流そうと思えば聞き流せる程度の発言です。それが何度も重ねられていて、往人の面倒見のよさをさりげなく引き出してます。こうしたなんでもない会話の裏に隠れたこと、そうした部分に気をつけていくべきだと思います。ここ数日他のことしててプレイしてないんで、まあ、自分へのコメントとして。

[] より大きな物語としてのデータベース  より大きな物語としてのデータベース - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  より大きな物語としてのデータベース - こぐにと。 cognit.  より大きな物語としてのデータベース - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

大澤先生の本で新しいのが図書館に入っていたので、休憩時間にちょっとだけ読みました。で、rosebudに関係しそうな論文が採録されてあったので報告しておきます。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1084.htmlのあたりにもレビューがあります。

くだんの論文のタイトルは『マルチストーリー・マルチエンディング』で、大航海の2002年2月号に収録してあったものらしいです。大澤先生は東先生のデータベースモデルを基盤にして議論を進めていらっしゃいます。でも僕自身はデータベースモデルを評価してないです。でもとりあえずそれが正しいものとして話を進めます。

大澤先生のメインの議論は、データベースそれ自体であり、データベースを『物語の否定や物語への無関心の上に成り立つものではなく、それ自身大きな物語、「より大きな物語」とも呼ぶべきものではないだろうか』(p. 65)とされています。メタ物語的な領域で動作するものとしての物語、という少し拡張されたデータベースモデル、というのは東先生の論を補強するものとして説得的だと思います。ここで大澤先生は、キャラクターの属性(確定記述)に対しての偶有性を『積極的な偶有性』、固有名などにまつわる単独性を『否定的な偶有性』とし、オタクの行動は偶有性をなくしていこうとしている、とします(p. 74ぐらい)。こうした偶有性を極度になくしていこうという積極的な働きによって、キャラクターの特徴は属性として記述され、データベースの一項目として付け加えられることになる、と。

私見では、データベースという幻想を明るみに出すことによって(具体的には「そのキャラのその特徴はこういう属性だ(データベースの一部だ)」と言うことによって)、より大きな物語の保護下にあることを認識できる、という風に議論を発展させることもできますし、事実大澤先生はp. 77で「要するに、オタクにとって、「データベース」とは、普遍性を直接に具現する(との幻想を与えられた)対象なのである」と仰ってます。偶有性をなくして、既視感、既知感を高めること、それは一種の偶有性を回避する働きに繋がるでしょう。議論としては妥当だと考えます。ただ、繰り返すことになりますが、データベースそれ自体の存在を受け入れた上での議論です。

ですから、データベースを把握することで偶有性がなくなる、とまとめてみると、東先生が過視性とか、前島さんがRSSリーダー的不安とか言ってたのを思い出して、

そんな私たちの閉塞感を表すために、90年代の「郵便的不安」に対応する言葉を無理やりひねり出すとすれば「RSSリーダー的不安」とでもなるだろうか。00年代後半、不透明さは拭い去られて、私たちにはたしかに未来も希望も選択肢も与えられている。だが、そのどれもが、想定の範囲内でしかない。どこまでいっても現れるのは半径三メートル以内のデータベースに存在していた予想通りの事実しかないのだ。

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/010.html

ということになるようです。個人的には前島さんのような不安をリアルに感じたことは多分ないんですけれど、もしそういう不安があるとして(仮定が多いなぁ)、「データベースを把握したら把握したで不安がある」ということではないかなと考えられると思います。だったらそれはそれでなんか大変だなぁ、と人事に思いました。まぁ、エリート層であるはずの東大生も不安に感じてるらしいですしねぇ*1。職業観や人生すらもデータベース化されているとか、全体的にそういう感じなんでしょうか。それはそれですげぇな、と思います。そこから穏やかにもう一反転してほしいものです。そういえば『漫画で学ぶ』とかいう就職関係のコラージュもありました。あそこまで解りやすく脅迫されなきゃ動けないものなんでしょうか。世の中は謎で一杯だ。

…ということを書いてましたが、こういう中途半端な現代思想*2を流用するよりも、「観鈴ちん可愛い!」と言ってるほうが自分にあっているのではないかと考えている最近です。まあ、読み方に倫理的な善悪はないけれど、豊饒かそうでないか、という点で良し悪しはあると思います。あと公にできないレベルの文章はプライベートとかmixiでやっていきたいと思います。

ついでに本書関連になるかもということで追記しておきます。いや、キャラ議論とかの文脈で、arctanさんの12/02のエントリを読んだので。

現代的天皇とは、その空虚さ、存在の小ささによってこそ権力として機能する、いわばおかわいそうな姫とでも呼ぶべきものなのだ。

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/013.html

というのは割りとあると思います。弱いからこそ権力として機能する、というのは、例えば、苛められている子供はある種の権力を持つと思います。具体的には学級委員長の権化のような人が現れて守ってくれる、という形はある種の権力を発揮していると捉えられるのではないかと。でも、その苛められていた子供がいじめっ子たちに反撃してしまうと、委員長は守ってくれなくなる。イラクが苛められていたときには守っていた評論家も、イラクがテロを起こしてしまうと守らないようになるとか。このような評価の変化は、苛められていた子供が攻撃的な手段に出てしまったからでしょう。言い換えれば、攻撃をすることで権力の剥奪が起こった。これが普遍的であるとすれば、弱い限り、苛められている限り、委員長は守ってくれるという、どうしようもない構造になります。まああと、観鈴ちんとか真琴とかの話です。でも弱さの聖性についてはどこかで読んだような…。ガンジーの非暴力の強さとはまた違う次元で考えるべき話題として、一つの考慮すべき点として自分に課しておきます。

[] テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと  テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと - こぐにと。 cognit.  テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

真琴シナリオにおいて、幸福であったことは罪であり、幸福であることは贖罪となる構造をとっているように思います。

真琴との思い出を忘れるのは、それがたいしたことではなかったからです*3。真琴シナリオにせよ、舞シナリオにせよ、ただ些細なことは忘れてしまったという当然のことが起こった。それだけです。ONEの永遠の世界の発動にせよ。そしてそれが今、彼らにとっては苛酷な事態を与えてしまっている。ほんの少しの優しさだったのに。ほんの些細な約束だったのに。今木さんがhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#11で仰ってることとかも参照してください。

祐一はそれに対して、責任を取ろうとします。偶然に起こった出来事と言って差し支えないであろうそれに、責任を取る。これは考えてみれば非常に倫理的なことです。責任が問われるのは常に偶然的に起こった事柄の責任でしょう。偶然的に起こったことは不測の事態です。責任が問われるのは不測の事態においてです。推測されていた事態ばかりならば、責任を取れと言われるようなことは起きないでしょうし。むしろそうした責任こそが主体のありようを決める一手となる。だから麻枝准のキャラはこの点で非常に倫理的だと言えると思います。しかしその罪として現れるものは、非常にリリカルであると思います。そのリリカルさを与えるイメージ、というものが麻枝氏にあると思います。やー、だからあの人、イメージ主導の人だって。

しかし、罪というものが成立するのは常に事後であり全ての責任を負う、というときに考えるべきことがあります。例えば、それは主体の帰責の範囲を曖昧にさせる、とか。AgambenのHegel批判とかあったですよね。HegelのAetheticsまで読んだ覚えが。いやそれはさておき。

真琴シナリオでの私が好きな点といえば、言葉の手前でとどまることです。そこでは「真琴」と、ただ名前を呼ぶことすらできはしない。その名前すらも嘘であることを留保しなければなりません。姿かたちさえも嘘であり、呼びかけることすらも嘘になる。そして麻枝准は正しさに拘る傾向にあります。嘘は避ける。ならば言葉は吐けない。できることはただ昔のように戯れることだけであり、本当であることは、ただ会いに来た狐がいるということだけです。命を投げ出してまでも、幼い頃の友に会いに来た子供が一匹いる。そこにはONEでも見られたような、麻枝准独特の説明の断絶がある。言葉で分節できない、ただありのままの世界が現れる。これもまた、麻枝准独特の表現だと言っても良いでしょう。だから遊ぼう。それは真琴にとって効果的です。我々はいつだって子供で、その中でも悪戯というものは技巧を必要とする行動でしょうから。Piagetが指摘するように、playはassimilationとaccomodationのための行動でしょうから。それらがまったく逆に働いているように見えるところが悲しく。

真琴は知らないんです。愛することすら知らない。愛されることすらも知らない。こうした決定的なまでに(ある一面では)弱いキャラクター、というのは麻枝氏の描くキャラの一つの特徴だと思います。そうした相手を、我々はただ一方的に、無力にも愛するしかない。これをエゴイズムと呼ばずに何と呼びましょうか。救われるために救うことの何が悪いんだい。だからこそそこでは、解らないと言ってはならない。悲しいと言ってはならない。ましてや不幸や幸福などと言ってはならない。世界とやらの中心で愛を叫ぶという、言葉に託すことなどという野暮なことはしない。でも読者は、そこから叫びというものを受け取れるわけで。まー、解りやすさというのも必要なのかもしれませんが。

というか、最後意味解らんですね。あと真琴については田中さんという凄い人の感想を読んだほうがいいと思います。

[] rosebudの方向性  rosebudの方向性 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  rosebudの方向性 - こぐにと。 cognit.  rosebudの方向性 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/genesis/20061227/p1

個人的にはgenesisさんの意見に賛同しますし、(2), (3)などに挙げられているその方向性は残すに値する仕事だと思うので、rosebudの現在の方向は健全だと思います。と、いちおう、参加している者として簡単に表明をば。

まあ、自分自身はかなり適当にやらせてもらってますが、これでいいんでしょうか。批評でも評論でも考察でもないレベルの感想文、しかも自分の楽しみのためのものが多いですけれども。

あと、

美少女ゲームに関して、ある潮流の「起源」ではなく、その潮流が起こる下部構造を知りたい、というのがあります。

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061226#1167176733

それじゃ社会分析になるのでは。負担が多すぎるように思います。もちろん、仰られていることは重要で、起源や特徴を社会的コンテクストの中においてみることは重要だと思いますし、いわゆる存在論的ゲリマンダリングのようなものには留意する必要はあるし、歴史学の手法を参照したほうがいいとは思いますが。どの程度のことを達成したいのか、目的を決めると同時に手法が考えられるべきでしょうから、美少女ゲーム年代記というレベルではgenesisさんの採択される手法が妥当ではないかなと、僕は思っています。

*1http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/061214/gkk061214000.htm

*2:真面目に思想やってる人の思想は面白いと思うんですけどね。

*3:記憶喪失などで、重大な出来事の記憶を失うというものではありません。祐一や真琴の身に降りかかったことは確かに理不尽でしょうが、理不尽なことを起こす手つき、というものは筆者それぞれにあり、真琴の(一種の)記憶喪失という装置を扱う際にも麻枝氏の独特の手つきというものが出てきています。智代アフターでも記憶喪失という装置が出てくるようですけれど、それは乱暴なまでの類型化であって、類種の記憶喪失とは違うものだと思います。このあたり、一つの単語にまとめてしまうことによる、重要な見落としがあることがしばしばあると思います。TLPのRussellあたりの文脈でWittgensteinも言ってるじゃないすか。

2006-12-26

[] ドラマ  ドラマ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ドラマ - こぐにと。 cognit.  ドラマ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ドラマ見てるので一回休み。

→見終わりました。感想はhttp://d.hatena.ne.jp/cogni/20061227/1167212304(プライベート)。

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2006-12-25

[] わりとまじめなプレイ日記  わりとまじめなプレイ日記 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  わりとまじめなプレイ日記 - こぐにと。 cognit.  わりとまじめなプレイ日記 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

クリスマスなのでAIRやってます。観鈴ちん観鈴ちんと連呼するプレイ日記はd:id:cogniでつけるとして、こっちでは真面目な文章を書きたいと思います。まー、しばらくあと5年ぐらい、物語はAIRだけでいいんではないかとか真面目に思ってます。

AIRのレビューを色々見たことがありますが、そこで多くの人が指摘しているように、背景の綺麗さには目を瞠るものがあります。注目すべきは、そうした点に皆が気づいているということと、そしてまたAIRではプレイ中に背景のみが映ることが割と多いということでしょう。この点に意義を認めることもできる、言い換えれば、風景だけを映す、というある種の抑制によって叙情とかいうものが自然に浮き出てくるのだと思います。もちろんそれは音楽もかなり効果が入ってますが。まあ、プレイヤーの視点からしてみると、一度ぐらいは背景が主題になっている瞬間がある。

以前、なごみ系だとか雰囲気系だとか言う話が出たときに、この辺(プレイベートモードっす)やgenesisさんのところ(http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060904/p1)で、(K_NATSUBAさんもまた)風景の話に触れましたが、そういう風に、人物の立ち絵を抑制することによる効果というものがあると思います*1。言い換えれば、不在の積極的な意義。AIRのあの夏の雰囲気を出すのに、こうした立ち絵と背景の関係は一つの必要条件として勘案してもよいのではないでしょうか。また、人物の立ち絵が出ている頻度を統計化すれば、そのゲームのシナリオがドタバタ系かそうでないか、というものは割りと有意に差がでてくるのではないかな、と思います。

そして何より、風景の描き方、という点においても見るべき点はあります。例えば風景は風景として成立しているとか。風景の中では、うまく指示できる個体が描かれていない。堤防の上からは学校がちらと見えるだけですし、学校の内部は映されず門だけが映るものの、端から端までは描きこまれていない。そもそも門というものは入り口という抽象的な概念を示すものです。神尾家の外観は例外になってしまいますが、あの家の中の部屋の描き方ってったらあれは凄い、酷い(褒め言葉)。色からして、庭からすぐ見える隣家との木の柵といい。そして他にも、空を見上げれば空が見える、という点で田舎の雰囲気と説得力が出ていると思います。都会が舞台のゲームであんなの出したらぶち壊しです。都会は高層ビルが立ち並んでいて、空を見上げてもビルが見えてしまうでしょうから。空を見上げれば空しか見えない、というあの広い空間に、自分の視線だけがあてどなく漂うあの感覚は、まさに田舎です。ちなみに、見上げたら満月、とかだったら厨度合いが高まる傾向にあると思います。

こういった立ち絵の不在によって、風景というものが異化されるところ、立ち絵の有/無という対立から対立的無としての無の存在として風景を捉えるのではなく、立ち絵が「於てある」場所(西田幾多郎)としての風景の出現、そこから受ける叙情(一体感)とかいうのは、それほど間違った考え方ではないと(今は)思ってます。つまり、「それ」と示せるものではない、有の於いてある場所としての背景の効果。

しかしまぁ、OPの構成は無茶苦茶でした。一貫性とかほとんどないですよね。あるのは人物紹介のとこか、白を基調にします、ぐらい。しかもキャラ紹介にあわせて作中のCGをこう(←手で、こう、とか方向示してから書いてます)流すとことかセンスない。でも階段のところと歩くところは麻枝氏提案じゃないですかね、あれ。あの二つは意味解らんけど強度がある。そんなことを感じました。対比すると、CLANNADのエンディングの実写は意味解らんけど強度もない。あ、あと名前のフォントと字間と影のつき具合が妙に好きです。

観鈴の笑顔が痛い。くそったれなほどに悔しくて愛くるしくてたまりません。これは既にエンディングを知っているからで、この笑顔が無理をしていることを知っているからで、初プレイ時には唐突な白○系お嬢さん、というぐらいの平凡な印象しか持たなかったでしょう。その唐突さ、というものは麻枝シナリオのある一種の特徴を捉えている言葉ですが、それはまたいずれかの機会に闡明することとして、観鈴の「がお」にせよ、あの不器用さにせよ健気さにせよ、それらの裏に隠れる真実は常に遅れてやってくる、ということをこのパラグラフでは主題にしたいと思います。これを「真実は遅れてやってくる」とかいう標語でまとめてしまうのはあまりに乱暴であり、豊穣ではない。柄谷行人なら、その卓抜な夏目漱石論で言及したように、そのずれそのものに本質を認めるでしょう。観鈴の末路を知っているプレイヤーが感じるここでのずれは、何かできたはずの自分と何もできない自分とのずれだと考えます。「これで遊べますね」「わたしと」「だから砂浜で遊ぶの。かけっこしたり、水の掛けあいしたり」。無力さはかつての可能性と対比してよりその鮮烈さを増すし、外から強制的に自覚させられると尚更だ。遊びに行けばよかったんだ。砂浜で遊べばよかった。かけっこをすればよかった。水の掛け合いすらもできていたはずなのに。このように正解は常に既に(笑)遅れてくることには留意しておいてもいいだろうけれど、その現象、ずれそのものよりも、そのずれが引き起こす強度を探っていきたいところです。

そういえば、観鈴は神奈の転生、とかいうものを見ましたけれど、むしろ翼人の呪いはキリスト教的な原罪として捉えるほうが良いかと常々思っています。もちろんSummer編では、

【裏葉】「神奈さまを空に捕らえている封術は、いつか朽ちる日も来ます」

【裏葉】「神奈さまの魂は地上に戻り、輪廻(りんね)を繰り返すことになりましょう」

【裏葉】「しかしながら、呪いは消えることはございません」

【柳也】「なぜだ?」

【裏葉】「翼人は夢を継ぐものでございます」

【柳也】「しかし、神奈はいつか地上に降りてくる」

【柳也】「人として輪廻転生すれば、呪いもそこで終わるはずだ」

とか言われてしまっていますが、Summerが涼元氏の担当であることを考えれば、多少は…ほんとに多少はそういう転生とかいうワードを麻枝氏シナリオから外してしまえる余白はあるんじゃないかなと。だって魂が繰り返すとか言われても、観鈴は観鈴で神奈は神奈で。その辺、DREAMの観鈴シナリオでは一貫されていて、過去が話されるのは常に観鈴の口からであり、常に朧げな夢の話であり、往人(プレイヤー)は一切の過去を直接的には見ない。だからそこでは過去に何かがあったと示唆されるものの、その示唆すら不明瞭であるし、明確な因果関係は成り立っていない。これは原罪とよく似たような罪の着せ方ではないでしょうか。夏葉氏の言葉を少しお借りするならば、「因果を1対1対応させる粗雑さ、と原因をまるで示さない粗雑さ」に加えて、麻枝氏にありがちな「(提示された)原因と結果のつながりの薄さの粗雑さ」というところがある。今木さんの言葉を借りるなら、<<認識-意図-行為-結果>>の分断、とか、どこかで言及されていた繭@ONEと義母の関係とかそういう話です。そしてもちろんここでの粗雑さ、とは貶める意味での単語ではなく、単に手つきのそれとして。こうした特長を考えた上で考慮すれば、転生というよりも原罪という概念のほうが適当ではないかなと。そしてこの種の原罪は次の文によって形式化される。「どうして観鈴だったのか」と。過去の誰でもなく、今を生きる誰でもなく、どうして観鈴その人だったのか。神が齎したという回答すら拒否されるこれは固有名をめぐる問いであり、詳しくは東先生のソルジェニーツィンとか一昨日ぐらいに転記した奴とか参照のこと。

あと、AIRがループだとかいうのはかなり違う。これはテキストを読むだけでも瞭らかで、少年が手を振る順番がAIR最初とAIR最後では違う、とかいう点で。石原先生いわく、『テクストはまちがわない』のだそーです。だからここで思い出すのは、ループとかではなく、Kanonの奇跡という単語の意味や、ONEの永遠の世界といった過去の概念に通底する、整合的な解釈を許さない装置の存在であると思います。ちなみに今、奇跡という単語が帰責に変換されて、なんというか、妙な納得を感じてしまいました。そもそもループゲーの野暮ったさが嫌いだ、とかいう話はプライベートでしましょう。今日はここまで。

[] 選択肢とゲームシステムとしての父性  選択肢とゲームシステムとしての父性 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  選択肢とゲームシステムとしての父性 - こぐにと。 cognit.  選択肢とゲームシステムとしての父性 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

今木さんのhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/200307.html#10のあたりを少し発展させたような話ですが。もはや力すら乗ってない皮相的な感じで。だって思いついたんだもの。

まず「欲望は他者の欲望である」という有名なLacanのテーゼがあります。もしくは「われわれは自ら主体的に欲望するのではなく、あくまでも「他者」の欲望を通じて、あるいは「他者」の欲望を模倣することで欲望するということである」というGirardでもいいですが。ここでの他者とは、大澤先生に言わせれば恐らく第三者の審級になります。超越論的な他者のことです。

ここで選択というものに目を向けると、大澤先生はこんなことを書きます。

 このことを理解するためには、主体性ということが、理念的には、「情報或いは知覚(表象)に対する二重の選択性の統一」としてのみ可能である、ということを念頭におかなくてはならない。今し方述べたように、行為は、情報や知覚された現象に対する選択である。ところで、どのような選択も、選択がまさにそこからなされるような選択前提――選択の可能性の集合――が予め選択され、与えられていることを要件とする。この選択前提が、選択が何を志向しているかということを、したがって誰にとってのものかということを含意する。要するに、選択前提こそが、選択の統一性を保証するのだ。個人が主体的であるためには、行為がその現実化であるような直接の選択だけではなく、この選択前提の選択も同時に、その個人に帰属していなくてはならない。(大澤真幸, 『電子メディア論』, p. 13)

この理論を使って、小森先生は『出来事としての読むこと』の中で、夏目漱石『坑夫』を利用しながら、人の選択というものに関して説明しています。つまるところ、『坑夫』という作品では、主人公は他者の欲望を通して強い欲望を獲得しているところが説明されているのですが、それはある種の選択肢を相手から与えられるという操作が取られています。これは大澤先生の言う選択前提が他者に介在された、という形で初めて安寧を得ることができる、という一種の逆説です。現代においては、ある人が能動的な主体であるためには、欲望は他者に媒介されなくてはならない。

次にゲームシステムが父性である、という点に関して。ゲームシステムは目に見えず、ただこちらを制限するある種の規範として働くので、(内在化された)父性という概念と似ているところがあると思います。また、ゲームシステムは選択肢を制限します。自由度は限られており、AIRなどであれば、出てくる選択肢は大体三つです。この三つ、というのが大澤先生の仰る選択前提であり、ゲームシステムは選択前提を決定する役割を担っているということになります。

これらの議論をまとめると、このような選択肢の制限によって、ゲームシステムは父性として『他者の欲望』を提示する役割を担っており、プレイヤーは与えられた選択肢の中から一つの選択肢を選ぶことで他者の欲望を欲望している、そこで理論的にはその選択を「自分の選択」だと強く思えるような構造になっている、ということになります。ですから、このような点から、感情移入というものを説明できるかなと。選択肢を用意することによって、我々は強く感情移入できるのだ、という風に。理論が全部正しければですし、かなり迂路を通ってますが。そして選択肢というものをゲーム性に拡張するもよし。

結論:ゲームシステムは選択前提を狭めるがゆえに父性として働いている。

[] ドラマ  ドラマ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ドラマ - こぐにと。 cognit.  ドラマ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ドラマ見てるので一回休み。

*1:逆に言えば、立ち絵を際立たせることによる効果、というものもあると思います。izuminoさんと少し対話させていただいたhttp://d.hatena.ne.jp/cogni/20060904あたりのお話。

SatoshiSatoshi2013/06/22 20:27It was dark when I woke. This is a ray of susnhnie.

wsalzrestwsalzrest2013/06/24 11:47a1sUqh , [url=http://ibacklcujebx.com/]ibacklcujebx[/url], [link=http://srykqvzwcrge.com/]srykqvzwcrge[/link], http://drbkgtmimpmu.com/

gtfwemlgsygtfwemlgsy2013/06/24 18:42Xf0IxQ <a href="http://fbpmhucfelgu.com/">fbpmhucfelgu</a>

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2006-12-24

[] ch. 1, 2  ch. 1, 2 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ch. 1, 2 - こぐにと。 cognit.  ch. 1, 2 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

Rules of Play、ようやく読み始めました。今日は2 chapter。こんなペースじゃ冬休みの間には終わりません。

ch1で基本的な解析ツールとしての概念を三つ挙げています。rule, play, cultureがそれです。こういう概念を使って、ゲームというものをrestrictしていくわけではない、ということは注意して書かれていて、非常に好感を持てました。

自分もplayという概念には非常に興味を持っていて、特にそれにまつわる空間やら身体イメージのほうに興味あります。そういう点でWiiは非常に凄いな、とまだプレイもしてませんけれど、ぼーっと考えてます。まぁ、美少女ゲームというここのテーマと少し摺り寄せれば、美少女ゲームにおけるWii使い方、という話になり、なんとも下ネタの話になってくるのですが。やっぱり前後に激しく振るぐらいしかないんじゃないの、とか。やだなぁそれ。マウスではできないことをやってほしいです。ジャンプとか舌を動かす練習とかそんなの。もしくは柳生百人斬りとか。

Wiiが進歩していったときに、Brain-Machine Interfaceのゲームとか、もしくはロボットを動かすとか、できそうですよね。実際、マインドリーディングの研究者として高名なATRの神谷さんはHONDAと組んで研究されていますし、現代思想2006年10月号の論文では、(多少の留保を置きながら)「身体というフィルター」として身体をある種の障害とみなし、BMIやfMRIを使っての神経活動のデコーディングなどがその壁を取り払うことができるかもしれない、と仰っています。まだまだ遠い未来の話ですが、遠隔操作でリアルロボットファイトなんていうのはできるかもしれませんね。

まあもうちょっと観念よりにすると、Alain Berthozなんかは面白いと思います。空間の重視、空間の認識について特に重点を置いているという点で。そもそも空間と記憶、というものは海馬の機能を考えれば恐らく密接に関わっているわけですし、ちょっと俗っぽい具体例には伝統的な記憶術と呼ばれるものにも視覚的なペグ法とかもある。ちょっと昨日の話にも関わりますが、空間を共有することによる共感、というものは確かにあるわけで、俗な話題ですと、遠距離恋愛が失敗しやすいこととか、毎日同じ時間にスタバで会う青年と何ともいえない妙な連帯感を感じているというか。まあそういう意味で空間というものは自分のなかでホットです。そういえばphilosophy of actionだったかの本、読まないまま返しちゃったなぁ。

上はBerthozの本です。

んでもうちょっと観念よりというか郡司ペギオよりにすると、playということを意識することで、記述する観照者の立場を自然と内部観測側に引きずり落とせる、みたいなところがあると思います。<空間>とか<時間>とかいう装置もあるじゃないですか。もちろんそれは記述できない、とかそういうことじゃなくて、ゲームにせよ何にせよ、この動きとこの動きがどう違うか、という問いがほとんどナンセンスであることとか、そういうことをぼんやり考えてます。掛け声は「生成の内部へ!」。

SitiSiti2013/03/18 20:49Whoa, things just got a whole lot eaesir.

lwfavcqlwfavcq2013/03/19 21:19ENd3aB <a href="http://sehddfnfviwl.com/">sehddfnfviwl</a>

lwbpeiaqlwbpeiaq2013/03/19 21:19wsa2WJ <a href="http://ahfyvlqzoqqz.com/">ahfyvlqzoqqz</a>

kvpsrsgdhakvpsrsgdha2013/03/20 03:12lP3sXF , [url=http://ddsrsqycofxq.com/]ddsrsqycofxq[/url], [link=http://tngwvchryboc.com/]tngwvchryboc[/link], http://mktlvvbpurvw.com/

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2006-12-23

[] 多分  多分 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  多分 - こぐにと。 cognit.  多分 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

これから少しの間、更新できると思います。…思います。

[] 麻枝准の物語と確率性について  麻枝准の物語と確率性について - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  麻枝准の物語と確率性について - こぐにと。 cognit.  麻枝准の物語と確率性について - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

麻枝准氏の物語の類型と東先生の『確率的』という言葉について、両者を多少絡めながら書いた、半年前のエントリの再録しておきます。


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2006-12-08

[] クリップ  クリップ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  クリップ - こぐにと。 cognit.  クリップ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://b.hatena.ne.jp/umada/

ゲーム関係もこちらでクリップしていく予定ですので、よろしくお願いします。

具体的には$RGNタグとか&Ludologyタグとかです。日本帰ったらたぶんDiGRA JAPANとかっぽいものに参加するです。研究とか仕事とかもそっちに近づくようなトピックになるかもしれません。

DeltaDelta2019/06/08 15:04<a href="https://delta-airlines-com.com">Delta Airlines</a> uvp
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