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こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。
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2006-12-27

[] 観鈴と立ち絵と短い会話  観鈴と立ち絵と短い会話 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  観鈴と立ち絵と短い会話 - こぐにと。 cognit.  観鈴と立ち絵と短い会話 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ドラマ感想文はあっち。ぜんぜん関係ないですが、AIRをAirと書いてしまうような鈍さはどこから来るのだろう。まぁ、入れ込みようが違う、という具合ですか。To HeartをToHeartと書くようなもので。いやいや話がそれすぎ。

文字情報と立ち絵との情報のずれ、という比較をして、どちらが優位かといわれると、絵のほうが優位に立つ、と思います。ご飯粒を取ってくれた観鈴の動きを文字で与えられ、その様子は想像できますが、立ち絵はあまり変わってない。これを一種の抑制として捉えると、ゲーム中の観鈴の動きは随分と抑制されているなあ、と。まあ大体、立ち絵の量的制限によってゲームでは制限されがちですが。そういえば、ToHeart2だったか、委員長がコミカルに腕を振り上げる立ち絵が出てきたときの違和感は、あまりに漫画的というか。AIRではその分、目や眉毛の変化の微妙な変化が逆に目立ちます。目が異常なまでに大きいというのは、いたる絵の欠点として挙げられる点ですが、それが逆に目による感情表現をうまくこなしていると思います。あと塗りの上質さと。そしてその微妙な変化が麻枝氏の手つきともいえる、些細なことに拘る姿勢とうまく合わさっているのではないでしょうか。これはいたる絵と麻枝シナリオの幸運な結婚ともいえる相互作用があると思います。いや、そもそもにおいて、麻枝シナリオとノベルゲーの相性の良さ、というものは確かにある。ちなみに、一番好きな立ち絵は泣きそうで我慢してる観鈴の立ち絵です。我慢というのがポイント。観鈴は強い子。でもやっぱり笑っていてほしいんですけど。笑わせるのは自分の力でしたいです。

会話で言葉の短い部分はまるで、意味内容を含まない、ただの言葉のやり取りだけのように映ります。しかしそれはそれで、Giddensのpure relationship(孫引き)とかそういう概念よりも、それはもっと豊穣であると思います。例えば食卓での「しょうゆ」「うん」「うまい」「ですね」。他、実例。

【観鈴】「………」

【往人】「どうした、遅かったな」

【観鈴】「新聞の勧誘だった…。しつこかった…」

【往人】「そら災難だったな」

【観鈴】「うん、災難だった」

ようやく席につく。

【観鈴】「伸びてるし…」

【往人】「だな…。俺が食ったときは、おいしかったぞ」

【観鈴】「うん、おいしく作れたから」

【観鈴】「でも、伸びちゃってる…」

【往人】「俺を呼べばよかったんだ」

【観鈴】「今度からは呼ぶね」

【往人】「そうしろ」

【観鈴】「うん」

涙目のまま食べ始める。

【観鈴】「すごい量だし…」

【往人】「増えてるもんな」

ずるずる…

【観鈴】「でもおいしい」

【往人】「ああ。うまかったって言ってるじゃないか」

【観鈴】「よかった」

このあたりのリズムも見るべきものがあると思いますが、そもそもノベルゲームというものは、三行表示ウィンドウによるこうした短い会話を積み重ねられる、という特徴があると思います。事実、麻枝氏はインタビューで短い文章を書くように気をつけていたという発言もあります。また、以前も指摘したことですが、発言者の名前を【観鈴】と明記することで、合間を置いて連続する発言を自然と記述できて、それが会話の自然さをかもし出していると思います。【観鈴】「うん、おいしく作れたから」【観鈴】「でも、伸びちゃってる…」の部分とか。小説なら「」で発言をくくることができますが、合間の開け方は……とか――とかいう文字に頼るとかできますが、ノベルゲームのような表記の仕方のほうが、合間の感じとか会話の空気感が出てくると思います。というか幸せですよね。短い会話を積み重ねられるというのは。

さて、上記実例ではここで往人は観鈴の言葉に反応しているけれど、全て観鈴の独り言として聞き流そうと思えば聞き流せる程度の発言です。それが何度も重ねられていて、往人の面倒見のよさをさりげなく引き出してます。こうしたなんでもない会話の裏に隠れたこと、そうした部分に気をつけていくべきだと思います。ここ数日他のことしててプレイしてないんで、まあ、自分へのコメントとして。

[] より大きな物語としてのデータベース  より大きな物語としてのデータベース - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  より大きな物語としてのデータベース - こぐにと。 cognit.  より大きな物語としてのデータベース - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

大澤先生の本で新しいのが図書館に入っていたので、休憩時間にちょっとだけ読みました。で、rosebudに関係しそうな論文が採録されてあったので報告しておきます。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1084.htmlのあたりにもレビューがあります。

くだんの論文のタイトルは『マルチストーリー・マルチエンディング』で、大航海の2002年2月号に収録してあったものらしいです。大澤先生は東先生のデータベースモデルを基盤にして議論を進めていらっしゃいます。でも僕自身はデータベースモデルを評価してないです。でもとりあえずそれが正しいものとして話を進めます。

大澤先生のメインの議論は、データベースそれ自体であり、データベースを『物語の否定や物語への無関心の上に成り立つものではなく、それ自身大きな物語、「より大きな物語」とも呼ぶべきものではないだろうか』(p. 65)とされています。メタ物語的な領域で動作するものとしての物語、という少し拡張されたデータベースモデル、というのは東先生の論を補強するものとして説得的だと思います。ここで大澤先生は、キャラクターの属性(確定記述)に対しての偶有性を『積極的な偶有性』、固有名などにまつわる単独性を『否定的な偶有性』とし、オタクの行動は偶有性をなくしていこうとしている、とします(p. 74ぐらい)。こうした偶有性を極度になくしていこうという積極的な働きによって、キャラクターの特徴は属性として記述され、データベースの一項目として付け加えられることになる、と。

私見では、データベースという幻想を明るみに出すことによって(具体的には「そのキャラのその特徴はこういう属性だ(データベースの一部だ)」と言うことによって)、より大きな物語の保護下にあることを認識できる、という風に議論を発展させることもできますし、事実大澤先生はp. 77で「要するに、オタクにとって、「データベース」とは、普遍性を直接に具現する(との幻想を与えられた)対象なのである」と仰ってます。偶有性をなくして、既視感、既知感を高めること、それは一種の偶有性を回避する働きに繋がるでしょう。議論としては妥当だと考えます。ただ、繰り返すことになりますが、データベースそれ自体の存在を受け入れた上での議論です。

ですから、データベースを把握することで偶有性がなくなる、とまとめてみると、東先生が過視性とか、前島さんがRSSリーダー的不安とか言ってたのを思い出して、

そんな私たちの閉塞感を表すために、90年代の「郵便的不安」に対応する言葉を無理やりひねり出すとすれば「RSSリーダー的不安」とでもなるだろうか。00年代後半、不透明さは拭い去られて、私たちにはたしかに未来も希望も選択肢も与えられている。だが、そのどれもが、想定の範囲内でしかない。どこまでいっても現れるのは半径三メートル以内のデータベースに存在していた予想通りの事実しかないのだ。

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/010.html

ということになるようです。個人的には前島さんのような不安をリアルに感じたことは多分ないんですけれど、もしそういう不安があるとして(仮定が多いなぁ)、「データベースを把握したら把握したで不安がある」ということではないかなと考えられると思います。だったらそれはそれでなんか大変だなぁ、と人事に思いました。まぁ、エリート層であるはずの東大生も不安に感じてるらしいですしねぇ*1。職業観や人生すらもデータベース化されているとか、全体的にそういう感じなんでしょうか。それはそれですげぇな、と思います。そこから穏やかにもう一反転してほしいものです。そういえば『漫画で学ぶ』とかいう就職関係のコラージュもありました。あそこまで解りやすく脅迫されなきゃ動けないものなんでしょうか。世の中は謎で一杯だ。

…ということを書いてましたが、こういう中途半端な現代思想*2を流用するよりも、「観鈴ちん可愛い!」と言ってるほうが自分にあっているのではないかと考えている最近です。まあ、読み方に倫理的な善悪はないけれど、豊饒かそうでないか、という点で良し悪しはあると思います。あと公にできないレベルの文章はプライベートとかmixiでやっていきたいと思います。

ついでに本書関連になるかもということで追記しておきます。いや、キャラ議論とかの文脈で、arctanさんの12/02のエントリを読んだので。

現代的天皇とは、その空虚さ、存在の小ささによってこそ権力として機能する、いわばおかわいそうな姫とでも呼ぶべきものなのだ。

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/013.html

というのは割りとあると思います。弱いからこそ権力として機能する、というのは、例えば、苛められている子供はある種の権力を持つと思います。具体的には学級委員長の権化のような人が現れて守ってくれる、という形はある種の権力を発揮していると捉えられるのではないかと。でも、その苛められていた子供がいじめっ子たちに反撃してしまうと、委員長は守ってくれなくなる。イラクが苛められていたときには守っていた評論家も、イラクがテロを起こしてしまうと守らないようになるとか。このような評価の変化は、苛められていた子供が攻撃的な手段に出てしまったからでしょう。言い換えれば、攻撃をすることで権力の剥奪が起こった。これが普遍的であるとすれば、弱い限り、苛められている限り、委員長は守ってくれるという、どうしようもない構造になります。まああと、観鈴ちんとか真琴とかの話です。でも弱さの聖性についてはどこかで読んだような…。ガンジーの非暴力の強さとはまた違う次元で考えるべき話題として、一つの考慮すべき点として自分に課しておきます。

[] テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと  テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと - こぐにと。 cognit.  テレビ版の真琴シナリオが終わったときの他人の感想文を読んでmixiに書いたこと - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

真琴シナリオにおいて、幸福であったことは罪であり、幸福であることは贖罪となる構造をとっているように思います。

真琴との思い出を忘れるのは、それがたいしたことではなかったからです*3。真琴シナリオにせよ、舞シナリオにせよ、ただ些細なことは忘れてしまったという当然のことが起こった。それだけです。ONEの永遠の世界の発動にせよ。そしてそれが今、彼らにとっては苛酷な事態を与えてしまっている。ほんの少しの優しさだったのに。ほんの些細な約束だったのに。今木さんがhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#11で仰ってることとかも参照してください。

祐一はそれに対して、責任を取ろうとします。偶然に起こった出来事と言って差し支えないであろうそれに、責任を取る。これは考えてみれば非常に倫理的なことです。責任が問われるのは常に偶然的に起こった事柄の責任でしょう。偶然的に起こったことは不測の事態です。責任が問われるのは不測の事態においてです。推測されていた事態ばかりならば、責任を取れと言われるようなことは起きないでしょうし。むしろそうした責任こそが主体のありようを決める一手となる。だから麻枝准のキャラはこの点で非常に倫理的だと言えると思います。しかしその罪として現れるものは、非常にリリカルであると思います。そのリリカルさを与えるイメージ、というものが麻枝氏にあると思います。やー、だからあの人、イメージ主導の人だって。

しかし、罪というものが成立するのは常に事後であり全ての責任を負う、というときに考えるべきことがあります。例えば、それは主体の帰責の範囲を曖昧にさせる、とか。AgambenのHegel批判とかあったですよね。HegelのAetheticsまで読んだ覚えが。いやそれはさておき。

真琴シナリオでの私が好きな点といえば、言葉の手前でとどまることです。そこでは「真琴」と、ただ名前を呼ぶことすらできはしない。その名前すらも嘘であることを留保しなければなりません。姿かたちさえも嘘であり、呼びかけることすらも嘘になる。そして麻枝准は正しさに拘る傾向にあります。嘘は避ける。ならば言葉は吐けない。できることはただ昔のように戯れることだけであり、本当であることは、ただ会いに来た狐がいるということだけです。命を投げ出してまでも、幼い頃の友に会いに来た子供が一匹いる。そこにはONEでも見られたような、麻枝准独特の説明の断絶がある。言葉で分節できない、ただありのままの世界が現れる。これもまた、麻枝准独特の表現だと言っても良いでしょう。だから遊ぼう。それは真琴にとって効果的です。我々はいつだって子供で、その中でも悪戯というものは技巧を必要とする行動でしょうから。Piagetが指摘するように、playはassimilationとaccomodationのための行動でしょうから。それらがまったく逆に働いているように見えるところが悲しく。

真琴は知らないんです。愛することすら知らない。愛されることすらも知らない。こうした決定的なまでに(ある一面では)弱いキャラクター、というのは麻枝氏の描くキャラの一つの特徴だと思います。そうした相手を、我々はただ一方的に、無力にも愛するしかない。これをエゴイズムと呼ばずに何と呼びましょうか。救われるために救うことの何が悪いんだい。だからこそそこでは、解らないと言ってはならない。悲しいと言ってはならない。ましてや不幸や幸福などと言ってはならない。世界とやらの中心で愛を叫ぶという、言葉に託すことなどという野暮なことはしない。でも読者は、そこから叫びというものを受け取れるわけで。まー、解りやすさというのも必要なのかもしれませんが。

というか、最後意味解らんですね。あと真琴については田中さんという凄い人の感想を読んだほうがいいと思います。

[] rosebudの方向性  rosebudの方向性 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  rosebudの方向性 - こぐにと。 cognit.  rosebudの方向性 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/genesis/20061227/p1

個人的にはgenesisさんの意見に賛同しますし、(2), (3)などに挙げられているその方向性は残すに値する仕事だと思うので、rosebudの現在の方向は健全だと思います。と、いちおう、参加している者として簡単に表明をば。

まあ、自分自身はかなり適当にやらせてもらってますが、これでいいんでしょうか。批評でも評論でも考察でもないレベルの感想文、しかも自分の楽しみのためのものが多いですけれども。

あと、

美少女ゲームに関して、ある潮流の「起源」ではなく、その潮流が起こる下部構造を知りたい、というのがあります。

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061226#1167176733

それじゃ社会分析になるのでは。負担が多すぎるように思います。もちろん、仰られていることは重要で、起源や特徴を社会的コンテクストの中においてみることは重要だと思いますし、いわゆる存在論的ゲリマンダリングのようなものには留意する必要はあるし、歴史学の手法を参照したほうがいいとは思いますが。どの程度のことを達成したいのか、目的を決めると同時に手法が考えられるべきでしょうから、美少女ゲーム年代記というレベルではgenesisさんの採択される手法が妥当ではないかなと、僕は思っています。

*1http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/061214/gkk061214000.htm

*2:真面目に思想やってる人の思想は面白いと思うんですけどね。

*3:記憶喪失などで、重大な出来事の記憶を失うというものではありません。祐一や真琴の身に降りかかったことは確かに理不尽でしょうが、理不尽なことを起こす手つき、というものは筆者それぞれにあり、真琴の(一種の)記憶喪失という装置を扱う際にも麻枝氏の独特の手つきというものが出てきています。智代アフターでも記憶喪失という装置が出てくるようですけれど、それは乱暴なまでの類型化であって、類種の記憶喪失とは違うものだと思います。このあたり、一つの単語にまとめてしまうことによる、重要な見落としがあることがしばしばあると思います。TLPのRussellあたりの文脈でWittgensteinも言ってるじゃないすか。

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