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2006-12-28

[] 人称とか  人称とか - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  人称とか - こぐにと。 cognit.  人称とか - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ちょい制度的に。人称の問題について。http://rosebud.g.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061228/1167273184への質問として以下のようなリストを。

  1. 三人称の場合はどうなのか。『最果てのイマ』など。
  2. 女性主人公の場合はどうなのか。『このはちゃれんじ』など。
    1. 女性主人公かつ三人称の場合はどうなのか。『アトラク=ナクア』など。
  3. メタフィクションにおける感情移入の問題はどうなのか。

これらの例外にある程度一貫して答えられるようならば、「人称と感情移入」仮説は鍛えられると思います。

もちろん、例えば2.1の感情度合いが2よりも低い、というときにどういう風に感情移入を評価するのか、というmetricなところがわりと問題になると思います。

あとは個人的なメモ。

確かに経験則として、一人称の感情移入というものはあるかもしれません。例えばElements of Fiction Writing - Characters & Viewpointだったかそのあたりの物語製作手法本において、視点変更は没入を阻害する、などと書いてあったと思います。でもまあ、経験則といえば疑ってしかるべしものだとも思います。

そういえば、英語文献読んでても、empathyというのが感情移入とも共感とも日本語訳されるところなので、どういう風なニュアンスで日本語に直せばいいのかいまいち良く解りません。empathyとsympathyを分けて使ってくれているのは親切な本です。ついでに書いておけば、この前関係している心理学の論文読んだけれど覚えてないです。あんまり重要じゃない、という判断を下したような覚えが。

実を言うと、人称と感情移入というか、キャラクター個人への感情移入というのがいまいち解らないのですが。架空世界への感情移入、というのならまだ理解はできる、という程度です。…美学的?いやむしろ絶対矛盾的自己同一みたいな。ヴォリンガーの『抽象と感情移入』は美学関係ですけど、まあ古典として参考になるのではないかなと。http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/artwords/a_j/einfuhrung.htmlというのもあります。

t2006/12/29 17:49感情移入というより、語り手の信用度合いというか。また佐藤亜紀になるけど『バルタザールの遍歴』、一人称で書かれた自伝形式だけど、二人の書き手がいます。しかし、二人は事情により一人です。「多重人格」の人による自己申告みたいなものですが。とまれ、語り手が信用できないとなると内容も信用できませんから、当然、警戒して読まざるをえなくなり、没入しづらくなるのではないかと。

cognicogni2006/12/29 23:12なるほど、語り手の信用度合いという視点は思いつきませんでした。『バルタザールの遍歴』のようなスタイルの場合、警戒感が生まれて没入できない、というのは納得できます。
加えて、ゲームを考える上でなら、語り手の登場しないゲーム(例えば『三国志』のようなシミュレーションゲームや、『ギャラガ』のようなシューティング、『サイレントヒル』『ボンバーマン』など)にも恐らく感情移入みたいなものをしていると思われるので、感情移入/信用度合い/没入とかを分けて考えるのは良いかもしれないと思いました。Rules of Playでいう、cognitive interactivityをより深めていく、という方向性で。

tt2006/12/30 21:38えー、この先は日本文学とか外国文学の人のフォローキボン。私見ですと、基本的に小説も報告書も論文も同じスタートラインと考えますと、誰がどういう立場でどのような書式で書いているかが、文章の読みやすさや内容の掴みやすさにおいて大事であろう、と。フィクションの場合、原理的には実用文書の形式から踏み外していくものですから、第一に「本当のこと」が書かれている実用文書の書式に準じていると理解しやすい。今思いつきましたが、HTMLの書式で考えましょう。で、フィクションは、タグや要素記述を何処かの時点でわざと間違える。それをコンピューターにフツーに読ませるとエラー=没入できないとなりますが、人間てのは途中まで合っていれば途中まではエラーだと思わずに読める。読み終えてエラーに気づいたとき「あ、フィクションだったんだ」と気づくことができます。その間違えたところを気づくことで、実用文書の弱点に気づいたりする。(そこに社会批判その他いろいろ実用書式に盛り込まれないことを盛り込んだりする)で、視点をやたら変更するであるとか、人称をコロコロ変えるというのは、読み込む側からすると要素記述があちこち間違いだらけで、そもそも元の書式が何だったのかわからないという状態で、つまりごく単純に言うと読み方がわからない。ただ小説は長年書き継がれてますから、そこんとこの技術の積み重ね、研鑽がありますので、人称の問題ひとつでもいろいろあります、て話になって、その「いろいろ」は私は知りません。

tt2006/12/30 23:15ああ、ええと、最初の書き込みは「とまれ、」で段落が区切られているものとして読んでください。「バルタザールが没入しづらい」と書いているわけではないです。(読み辛い文章の典型)

cognicogni2006/12/31 00:14その辺の話は難しいですね。文学屋さんなら解るんでしょうか。いちおう認知屋としてコメントすると、テクストをどう読んでいるのか(誰がどういう意図で書いているのかというコンテクストを解釈すること、文章の読みやすさや内容の掴みやすさ、エラーを訂正すること、エラーを訂正して信用度を格付けすることなどなどを含んで「どう読んでいるのか」)、という現象レベルの話をしている研究はあまり見たことないです。さすがに大雑把すぎるので。
でも例えば心理言語学で一時story grammarとかschemaの研究が流行って、中でも例えばculutural differenceが見つからない読書の特徴というのがいくつか出てました。そういう研究からは、differenceがない活動が人類普遍的な認知と見て取れるでしょうし、differenceがある部分も文化と読書の関係に示唆を与えてくれるものだと思います。あとは、文法的にはあっているけれど意味が通じにくい文章は読むのが遅い(読みにくい)、とかそういう基礎的な研究も関係あるかなぁ、と。例えば、The lion wants to eat the rabbit.よりも、The rabbit wants to eat the lion.のほうが読むのが有意に遅いです。あとは事後的な判断(offline)ではなく、読んでいる途中で行われる判断(online)の研究もいくつかやられてます。
また「フィクションに対する態度」と乱暴にまとめてしまうなら、分析哲学も応用できるかなと。Kendall Waltonあたりのmake believe説とか。http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0410/main.cfmなど。あとは『虚構世界の存在論』。
と分析哲学を挙げたのは、分析哲学は真偽の判断に強いところがあり、tさんがお書きになっている、『エラーに気づいたとき「あ、フィクションだったんだ」と気づくこと』というのが果たして起こりうるのか、というのにそういう視点から突っ込めるからです。ある文がエラーや間違いかどうかをどう判断するか、という問題です。例えば、今現在イラクのことを誰かがレポートしてきても、それをフィクションだともノンフィクションだとも読めるわけで、文の真偽の解釈は常に豁かれている。だから信用度合いという程度問題に持ち込むのは賛成ですが、その一方で程度問題は常にmetricの問題を生じさせるわけで、なかなか難しいなぁと。また先ほどonline/offlineの区別を挙げましたが、ある文章を読んだ後にフィクションを判断しているのか、と言われればちょっと首をかしげます。むしろフィクションはフィクションとして先入観を持って読んでいるように思いますから、その点で「誰がどういう立場でどのような書式で書いているかが」重要であるというtさんの意見には賛同を示します。
ただ、個人的にはその書式についての混乱がテクスト内部から来るもの、という場合は非常に少ないと思います。また、「実用文書から踏み外していく」という感じではなく、例えばある論者ならば「フィクションを通して実用文書を読んでいるのだ」とか言うと思いますし、その点ではどっちの命題も等権利だと思うので、そういう対立軸が問題なのではないかなとか思ってます。他にも、エラー、間違いもしくはテクスト内矛盾というものが、どの程度読者の解釈に影響を与えているのか、というと自分としては少なめに評価しています。というのは、そんなん気づかないから。例えば、ホームズの記述に一部矛盾があること(e.g. http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/X10-knox.html)に気づきませんでしたし、気づいたからといってどれだけ信用度が下がるのか、という点でいささか疑念が。まぁ、以上、個人的な感想です。なんか本当にイバラの道のような。
あと有効そうな方法はGadamerあたりの解釈学かなぁ、と思います。http://members.at.infoseek.co.jp/serpent_owl/arch-text/gadamer.htmなど。Truth and Methodは買ってるんですけど読んでないです。
なんというか、まとまりのない文章で申し訳ないです。色々こんがらがってます。

tt2006/12/31 03:12ああ、私が何故「実用書式」から分岐させていくかというと、単に多数派だからです。今木さんのところの栗本薫の小説道場の引用が非常にわかりやすいですけど、訓練されていない書き手/読み手は人称の問題をさほど意識しない。それで「自分には」通じるし、「自分と同じ文法(言語ゲーム)のサークルでは」人称の問題はさほど意味を持たない。小説ばかりを読んで役所の書類など今まで見たことも無い人は、小学生であれば十分多数派でしょうし、日常会話の積み重ねを無視するなら彼らが小説で学習した以上の意味を人称の用法に見出すとは考えにくいでしょう。
ですが一方で、「誰か他のひとに事実に基づいた情報を伝える」という枠組みから完全に外れたなら、軽く想像するに、どんな文法、どんな単語もありえますし、そこには外の言語によるいかなる真偽の判断も持ち込みえない、となってしまいます。実質カオスです。ですから、そうしたあらゆる可能性のどれもありうるような「フィクションであることが自明であるという圏内で使用される閉じた言語」はとりあえず考慮から排除します。逆に言えば、閉じた言語圏内で通じさえすれば良いなら、人称の問題は最初から存在しえませんし、読みやすさの比較は成立しません。ですから、やはり考えても仕方ありません。
人称の問題というのは、より開かれた相手へ向けて差し出すための技巧であると割り切って構わないと思います。面白ければ人称がデタラメでも大丈夫という言葉の裏返しは、一寸つまらなそうに見える題材でも人称などの技巧が整理されていることでより多くの読者に伝わる可能性が増える(かもしれない)ということです。

tt2006/12/31 03:41さらに、実際の言葉の用法が慣習のみで出来上がっていて事実が参照されていないとしても、その用法をその言葉を使っている内側の立ち位置から分析しようと試みたときに、そのような言葉の自己言及な用法は慣習という流れを打ち破ってしまっていますから、そこには慣習から外れた起源(言葉に対応する「ほんとう」)が成立しているはずです。

tt2006/12/31 09:18もうひとつ。「フィクションであることが自明である圏内で使用される閉じた言語」は、多くの場合、そのフィクションのジャンルの歩んできた積み重ね、コンテクストに依拠します。つまり、美少女ゲームの人称の用法の由来が実用文書に直結しないのであれば、その由来はコンテクストの遡行によってのみ問題が見出されます。直近のコンテクストを実作を追って確認すること、すなわち「美少女ゲーム年代記」と題する集団の仕事の領分です。

cognicogni2006/12/31 15:49▼実用書式から出発する理由、および(遅れましたが)バルタザールの件、了解しました。

▼まず一つ目のコメントへの返信から。まとめてみると、人称の問題は感情移入とはそれほど関係がない、ということでしょうか。ただし「より開かれた相手へ向けて差し出すための技巧」として人称は効果を発する、と。逆に言えば、人称の「技巧が整理されて」いない場合は、読書を阻害することがある。それは人称が慣習に基づくからである、と。
少し話がずれますが、私もrulia046さんと同じく、人称の利用は「実際のトコロ慣例」(http: //d.hatena.ne.jp/rulia046/20061231/p1)というぐらいの位置(crow_henmiさんならメソッドと呼ばれるような位置)に賛成かなと思っているところです。感情移入というよりも、単なる読みやすさに関わる技巧として、人称を位置づけるのが妥当なところではないかなと。例えば、私の場合二人称の小説をあまり読んだことないせいか、二人称の小説は三人称のそれよりも読みにくいです(チャン『あなたの人生の物語』など)。このような点から考えると、一人称や三人称はconventionalだから読みやすい、という仮説が成り立ちます。ただし、読みにくければ感情移入しにくいということもあるので、人称と感情移入が関係ないとは言い切れないかな、とも。少し例がずれますが、例えば「個人的には、隠喩のレベルを超えると感情移入は阻害されます」とは今木さんの弁(http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html)。

▼ 二つ目。自己言及、もしくは内部性についての問題は承知しています。30日のエントリで書いたのは、そうしたある特定の言語ゲームにおける、ある言葉の実行性の議論をどう超えていくか、という話でした。つまり、感情移入という言葉を捉えなおすために、我々(…我々?)が大好きであるところの郡司氏などが提唱している内部観測internal measurementあたりの話が突破口になるかなと、めぼしをつけています。

▼三つ目のコメントへ。個人的な意見としては、人称の用法の由来は実用文書に”それほど”直結しない、つまりコンテクストや慣習に依拠するという考えです。しかし、コンテクストや慣習の遡行は中々難しそうです。やはりそれを考えるとなると、文学まで手を伸ばすしかないと思いますし。ただ、美少女ゲームという範囲内でなら、 genesisさんの描かれる1982年からの歴史が参考になるのではないかなと思います。美少女ゲームがノベルの体裁を取り始めたのはいつごろだ、とか。それにライトノベルとエロゲーとの越境がgenesisさんの記事中で指摘されていますが、エロゲー以降ラノベでも一人称が多くなってきた、などという統計が出てくればコンテクストとして面白いのではないかなと。
あと、手元に『江戸春画の性愛学』という本があるんですが、これを見ると、わりと今のエロゲーのCGに通ずるところ(例えばアングルとか体位とか)があったり、違うところ(男性の顔が映ってるとか塗りが違うとか)があったりして面白いです。エロゲーのCGの視点は非常に一人称的だと思うので、そういうビジュアルの面も美少女ゲームの文章の人称に影響を与えているかもしれませんね。なにせ、三人称の主人公のゲームでも、CGになると一人称的視点になっているぐらい、CGの視点は固定されているようなので。むしろ一人称というよりも、女性しか映していない、といったほうが正しいかもしれません。かの自慰映画『女哲学者テレーズ』みたいな。いや、astazapoteさんのログ(99年 10月)でこの映画のことを知ったんですけれど、同日の日記には女性に感情移入するという形式は他のメディアでも同様、と書かれているので。
最後に弱音を吐きますが、私自身は実作をあまり追いませんので、年代記は他の方におまかせします。自分は自分の興味のあるところをやっていくつもりです。

tt2006/12/31 21:36>人称の問題は感情移入とはそれほど関係がない
個人的な意見ですが、一人称については、日常、自分のことを悪く言う人間は多くありませんので、一人称の語り手の人物について、読者全員が一方的に彼を悪い人格だと判断する事態に陥ることはあまりないのではないでしょうか。語りの制度的にも語り手をある程度は信頼しなければテキストを読む行為は成立しませんし。彼の言い訳がましさに苛立つ人間が多少いるにしても。
>エロゲーのCGの視点
「絵」については、一人称、三人称という言い方はあまり賛同しません。絵画について宗教画(イコン)は三人称で印象派あたりから一人称となるのか、そう決めた場合、今度は日本画は絵巻物は三人称で浮世絵は一人称なのか、など。絵には絵のコンテクスト(エロCGの構図はパクリの歴史です。宗教画の構図が決まっているのと同じくらいに)があり、人称とは呼びづらい。ですので「一人称というよりも、女性しか映していない」に賛成します。
思い当たるのは目を髪の毛で隠す手法について。『水月』で主人公が構図に入ってくるときに男性の目をきちんと瞳まで描きこんであり、それが語りの手法とも連動しているために強い印象を受けました。
ゲームシステムに準じるものであれば、3Dダンジョンやフライトシミュレーターのグラフィックは一人称、RPGや戦術SLGの上からの見下ろし視点のマップは三人称、と個人的に呼んでいます。それが最もしっくりくると思っている。但し、ゲームの画面構成は常に多元的です。ビジュアルノベルぐらい構成要素が少なくなってくると一つの要素が請け負う役割が大きくなりますから、その用法が強い意味を持ってくると思います。
人称と関連して、システムレベルで2ちゃんねるエロゲー板などで「最近のゲームで自分で主人公の名前を入力できないと萎える」という主張が昔から(今でも)あります。「一人称への感情移入」ではありませんが、コンテクストとして大きい。そして主人公の名前がデフォルトで決められるようになったのは声優の普及とも連動しています。例えば、『君が望む永遠』では主人公の名前は変更できませんし、その主人公の名前を声優が連呼しますが、一方でイベントCGでは主人公は相変わらず目線を髪の毛や影で隠されています。それがエロのみならず、駅のベンチでのほのぼのとしたスナップショットのようなCGまで徹底されているため、奇異にすら見えます。逆に『水月』などでは名前変更が可能ですが、CGでは目線は隠されません。名前変更可能なためにテキストが奇異になった例として、『ワンコとリリー』、ワンコの発言は基本的に平仮名に開かれています(ヒロインの透子は「とーこ」、池なら「いけ」)ですが、主人公の名前だけは漢字で呼ばれることになる(デフォルトなら「誠一」)ため、主人公の名前だけがやや浮いて見えます。

cognicogni2007/01/01 05:02▼一人称について。そうですね、胸中で自分のことを悪く言う人間はほとんどいませんから、一人称での記述は読者が好感を持ちやすいのかもしれません。また、一人称だと直接的に主人公の感情を記述できるから、三人称での描写と比べて強いところがある、という基本的な技巧や効果はあると思います。少し話がそれますが、個人的には、美少女ゲームにおいては「俺>僕>私」の順で慣れ親しんでおり、「私」という一人称を使う主人公にはどうにも違和感があります。こうした一人称の使い分けも没入を妨げる要因として挙げられるかもしれません。
▼絵に関しては、少し私の勇み足が過ぎたかな、と今頃思っております。当方美学についての教養がないもので、頓珍漢なことばかり言ってしまいそうで。それに、このあたりは美術をきちんと履修した原画屋さんとかに聞いたほうが、いい話が聞けそうです。また水月は未プレイなのですが、そういう技法には興味あります。
ゲームシステムの視点については、31日のエントリに挙げた『user involvement』の報告書で、岡本さんは四種類に分けています(p. 5)。そこで比較されているのを見ると、tさんが仰るようにビジュアルノベルは構成要素が少なく、非常にシンプルな構成だと思います。こうした特長的なビジュアルノベルの視点(?)がいつごろ採用されたのか、また、tさんが仰るようにビジュアルノベルの要素が果たす役割の大きさや効果については、今後も考えていかないといけないのかな、と。そこまでくると、ちょっと自分の興味からは外れてしまうかなぁ、というところですけれど。
▼名前について。名前が入力できないと萎える、というのは、自分としてはあまり解らないです。しかし一方で、そうした意見もなんとなくは理解できます。やはりこうした違いが出てくるのは、読者の読み方の違いや読者と書籍の関わり方の違いのせい、でしょうか。例えば、この前驚いたのが、ドリー夢小説の存在でした。http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=%A4%C8820263227503243300&kind=jn&mode=5など。これは存在意義からしてほとんど解らないです。名前が気になる人もいれば、気にならない人もいる、というのは、どういう視点から物語に没入しているのか、を示すいい例になるかもしれませんね。
「名前がデフォルトで決められる」ことと「声優の普及」との関係の仮説については賛同します。結構堅実な仮説だと思うので、それを示すデータがあればより良いのですけれど。あと、ときメモ2でしたっけ、声優のボイスを合成して名前を発声させようとしていたのは。それほど普及しなかったことをみると、主人公が自分の名前かどうかは気にしない人が多いのかな、と思います。
加えて、確かに名前の任意入力は昔のRPGからあったと思いますけれど、昔のAVGもそうだったんでしょうか。例えば『ポートピア殺人事件』では『ボス』と代名詞的に呼ばれていたようですが。ビジュアルノベルはAVGに近い形式だと思うので、そうした系譜は少し気になります。また、こうした名前入力の効果については、たぶんゲーム学会などでも俎上に上がってそうな話題なので、hiyokoyaさんなどにメールして直接尋ねてみたほうがいいのかもしれませんね。
▼またちょっと話題がそれますが、http://www.critiqueofgames.net/talk/001.htmlとか、わりとでっかい選択肢について、プレイヤーが悩む、ということが話されているので、プレイヤーとプレイヤーキャラの関係について考える際の参考になるかなと。

tt2007/01/01 18:04ネタバレクレームが来たので私のコメントは削除お願いします。とりわけ最初のほう。

tt2007/01/02 02:31声についてはツッコミが入る前にいくつか。声優ボイス合成が「ときメモ」後に続かなかったのは、技術力と予算の関係だと思います。で、名前と声優にどう呼ばせるかの実例ですが、コンシューマーのギャルゲーで先行して、山ほどあります。まず、正々堂々、「○○はどう思う?」であれば「○○」の部分を抜いたまま「…はどう思う?」とだけ言わせるというもの。昔はけっこうありました。次に、「○○くん、ちょっと待って」であれば「ちょっと待って」の部分だけを発話する、という手法。文脈的に抜くのが難しければ「○○クン」のところを「キミ」と発話させたりもします。「○○は昔から納豆が好きだものね」>「キミは昔から納豆が好きだものね」
そして「『ボス』と代名詞的に呼ばれていた」のと同じ手法、「キミ」「あなた」「先生」「王子」「先輩」「ご主人様」「マスター」「管理人さん」「お兄ちゃん」「お兄様」「兄クン」「アニキ」「あにぃ」「おにいたま」「兄上様」「にいや」「兄チャマ」等々の呼び方を使用する。とりわけ「お兄ちゃん」関連については、妹属性の利点を強調する妹萌え論者により以前より指摘されています。
あと、シナリオで最初からなるべく名前を出さない呼ばせない、なども。
面白いのが、アニメ作品とタイアップしたゲーム。レイアース、ブルーシード、エヴァ、ナデシコ、ウテナと94年、95年、96年、97年のアニメ作品のゲームがセガから出ているのですが、レイアース、ブルーシード、エヴァはアニメ主人公がそのままPC、ナデシコはゲーム1作目はアニメ主人公がPCで、劇場版に連動した2作目は記憶喪失のオリジナルキャラがPC、ウテナもゲームオリジナルキャラ(PCは女性で、確か顔は表示されなかった)と、時代が新しくなるにつれ、PCが「アニメに登場しない無個性な一人称キャラ」にシフトしているんですね。ゲーム内容も、レイアースとブルーシードはRPG、エヴァとナデシコ1作目は実質「時間内早押し」のパズルゲー、ナデシコ2作目とウテナに至って、原作アニメの各登場人物と結ばれるマルチエンディングへ向けて選択肢を選んでいく、「ノベルギャルゲー」な内容になります。同じ流れで「アイドル雀士スーチーパイ」が「スーチーパイアドベンチャー」を出すに至る、というのもあるのですが…(涙

tt2007/01/02 02:52追記。同じくアニメタイアップのアキハバラ電脳組(DC版)は「ゲーム」の部分はタイミング押しのミニゲームでしかないのですが、全体の目的がパタPを通じて友達を増やすというもので、ノベルギャルゲーの分岐図を上から俯瞰して眺めたYU-NOのような(笑)友達マップが提示されるポストギャルゲーな野心作でした。こちらのPCもゲームオリジナルキャラですが、面白いことに、アニメの主要キャラ5名は大勢いる友達の中の一部に紛れ込んでしまっています。漫画の吹き出しの形でメッセージをテンポ良く表記する会話(ショートコント)が目新しかった、隠れた佳作です。

cognicogni2007/01/02 05:06▼コメント削除の件、了解しました。いちおうネタバレに抵触するであろうコメントだけ除いておきましたが、全削除が必要でしたらお申し付けください。なお、私のネタバレコメントも削除しておきました。また、ローカルにバックアップを取っておりますので、参照したくなったときは仰ってください。

▼一段落目の声の扱い方の特徴、確かにいくつかのゲームで覚えがあります。ただ、個人的にはこのような手法は不自然のように感じたんですが、一般的にはどうなんでしょう。少なくとも私の場合は、その手法を採用しているゲームでは、感情移入というか没入というか、そういうのが阻害されます。文字とボイスは一致しておいてほしいなぁ、と。近年であれば、『キスミス』のプレイをyoutubeで見たのですが、それも確かそんな感じだったと思います。

▼『妹属性の利点を強調する妹萌え論者』なんて方がいるんですか(笑)。いや、議論にはあんまり関係ないですけれど、びっくりしたので。

▼『アニメ作品とタイアップしたゲーム』に関して。そのような傾向(90年代後半、時代とともに無個性なPCが増える)に関しては初耳でした。勉強になります。しかし同時、やはり私では美少女ゲームの歴史に関しては手が出せそうにないなぁ、と少ししょんぼりしました。

また、上記議論を統括するような文脈の議論であれば、美少女ゲームの主人公にボイスが付きだしたのはいつごろか、という議論ができると思います。主人公ボイスのゲームは実数としては少ないとは思いますけれど、感覚としては少しずつ増えているかなと。例えば、百合ゲーみたいな『乙女は処女に恋してる』(未プレイ)とかは主人公にボイスがついていたと記憶しています。他にも、Littlewitchの諸作品にはボイスついてました(ただLWはシステム自体目新しいような)。では、こうしたボイスがつくことによって、主人公(PC)は「アニメに登場するような(個性的な?)キャラ」としての効果が得られるのではないか、という仮説が提出できるのではないかと。しかし同時に、そうした特徴や個性を付け加えたことにより、感情移入や没入、好感度がどれだけ変わったのか、ということも射程に入ると思います。ここで先人の意見を参照すると、genesisさんは月姫の項目で、主人公の復権と書いておりますが、そうした復権の風潮があるのならば、主人公の復権によるPCの個性の確立、それに伴う感情移入やボイスの関係など、色々絡めて面白い議論ができるのではないかなと思います。ちなみにgenesisさんの当該記事に関して、鍵っ子としては「ONE(1998)も主人公の個性や非代替性は現れていると思います」と突っ込みを入れられるかなと。七瀬と浩平、長森と浩平はセットじゃないと駄目だと思います。

また、アニメはほとんど見ないのですが、ここ数年、ゲームを原作としたアニメが増えているように感じています(最近はラノベですか)。『タイアップしたゲーム』を『原作つきゲーム/アニメ』として議論を少し広げて、そのあたりの差異を議論すれば広い範囲の読者が興味を持ってくれるかな、と。例えばKanonのマルチシナリオをアニメで表現した場合のいびつさ。milkyhorseさんが12/30ぐらいの記事で図像化し、地道にやられておられるのは、そうした議論の土台になると思います。他にも例えば、『アイドルマスター』がアニメ化するらしいですけれど、ゲームでは決定的に無色透明のプロデューサーがPCなわけで、アニメ版の主人公はどうなるのか、など。
まぁ、一種のメディアミックスという言葉が盛んに言われはじめるのは、Wikipediaによれば1995年以降のようですけれど、そうしたミックスによってどのようなシステム変更が迫られ、どのような効果が得られているのか、という点をより掘り下げていく形の議論はいまだあまり見たことないので、個人的に読みたい、というのがあります。私が自分で考察するにはちょっと荷が重いかなと。

tt2007/01/02 11:10解説しますと、セガのメディアミックスゲームは、セガが最初からスポンサーとしてついていて「TVアニメと同じアニメOPがゲーム機で流れる」「TVアニメオリジナルスタッフによる新作アニメパートも付いてくる」「アニメと同じ声で喋る」のが大きなウリでした。セガサターンの発売が94年、レイアースのゲームは初期のSSソフト中でも頭ひとつ抜き出た秀作で、「次世代機」の能力によりTVアニメに見劣りしない動画がゲーム機で実現されたのを印象づけましたが、以降のTVアニメとタイアップした作品はサターンの苦戦を背景に次第に予算と開発期間が減らされていくのが手に取るようにわかりました。おそらくは開発規模の問題でゲームバランスを作りこまなくてもいいAVGへのシフトが余儀なくされ、またウテナ、ナデシコ2作目のゲームの発売が1998年と、既に1997年のWindowsの『 To Heart 』と同時代になっているのも関係してくるかと。
>美少女ゲームの主人公にボイスが付きだしたのはいつごろか
昔は、PC美少女ゲームのコンシューマー機移植の際の大きなウリとして「声優が喋る」がありました(これも時期によって意味合いを微妙に違ってとらえていました)。PC側での声付き自体は私が知るだけでもPC88の音声合成まで遡れますしCD-ROMの普及やWindowsの普及など技術革新に応じて声付きがアピールされていますが、「声優がつくのが当り前」へのパラダイムシフトを印象付けられたのは00年の『顔のない月』、発売前から話題作として注目を集めていたのが、発売直前に「声なしを声つきに変更するために」発売延期になった(本当の理由は知りませんが)あたりでしょうか。90年代後半は「アニメに出ているあの声優が名前を隠して仕事する」(それを発見して喜ぶオタク)で、00年代からは「エロゲーをプラットフォームとした声優が活躍する」(特定エロゲー声優にファンがつく)へ。このエロゲー声優のパラダイムの以降は仕事量の増加と重なっていると思います。あと、声優の件はエロゲーからタイトルを貰い受けて製作されるポルノアニメに詳しい人にも話を聴いたほうが。

tt2007/01/02 11:27二段落目、完全に勘違いしたレスになっていますね。失礼。「美少女ゲーム」だと、PCエンジンの時代から「美少女の主人公」が喋ります。そのへんは夏葉薫さんの得意分野。個人的には「ゆみみみっくす」が時代を先んじて燦然と輝いています。

cognicogni2007/01/03 00:37ノベルゲーへの移行は開発規模の問題、という風にも考えられるのですね。やはり、そのあたりを体感するにも、実際にプレイしてみないと解らないところで、自分はほとんどプレイしていないので、とても参考になります。
声の歴史に関してのご教示も、どうもありがとうございます。PCエンジンの時代から喋ること、知りませんでした(無知で申し訳ないです…)。00年のパラダイムシフト、というのも面白そうです。まとまったデータとかあればいいんですけどねぇ。声優の話も興味があるのですけれど、あっちはなんというか、深すぎてついていけないような。

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