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こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。
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2007-01-31

[] コードギアス15話感想  コードギアス15話感想 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  コードギアス15話感想 - こぐにと。 cognit.  コードギアス15話感想 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

一週間は早いな…。あ、OP馴れてました。で、15話。C.C.が可愛かった回。そして何よりルル様の優しさが見れた回。それぐらいじゃないのですか。最近のコードギアスは視聴後も「うっわー」とか思いながら震えてたので、何か物足りないですね今回は。しかし何が物足りないのか未だ掴めずですが、一つ言えるとすれば速度の欠如かなと。一シーン一シーンの緊張と先読みをさせない速度がコードギアスの持ち味だと思うのですが、今回はわりと順当なところに落ち着くことが結構予測できるし、また「心が読める」奴相手だとどうしても説明が多くなるはずなので(主人公側の行動の説明が後付されるため)、マオの存在自体が説明的台詞の多量を招くことは自明で、彼の出現が既に速度の失敗を暗示していたのだ。まぁ、とりあえず伏線張りとルル&C.C.の「絆ができました」みたいな再出発の会ということになるんでしょうか。健全な少年少女みたいな感じで不満です(えー)。そういえばC.C.さん、出てくるたびになんか傷ついてる印象があって、毎度毎度痛そうです。ルル様がシャーペンをかちかちさせる描写は学生らしさが出ていて良かったかなぁ、と。

修羅修羅しい(←造語)ルル様も、女の子を大切にするルル様も、どっちも大好きです。仕方ないとか言いながら援けに行くとか。C.C.をお姫様抱っこするとか。マオが撃たれるときさりげなく隠すとか。あとは#13でカレンに「ありがとう、カレン」とか。こういうのは決して若さゆえの甘さとかそう呼ばれるもんじゃなく、ルル様の優しさと呼ばれるべきポイントであると思います。王への階段を昇るような、そんな。王といえばガッシュは今どうなっているんだろうか。そういえば「C.C.のすべてを手に入れた」とか聴いてるこっちが恥ずかしかったです。あ、C.C.の健気さとかも良かったですよね。そんな健全さは嫌いだけれど。

日常パート。会長とルル様の会話のシーンが結構好きで。柱にもたれあっている、あの微妙な距離感が。物質が関係を規定してるじゃないですか。また会長がルル様を狙っていることはほぼ明白でありますが、恐らくシャーリーがルル様を好きだったことを知っていたので身を引いていたとかそういういじらしさは、なんとも『会長』の仇名にふさわしい行為だと褒めたたえるものの、ルル様は私のものなので渡しません。そういえばコードギアスにはロリ成分が足りないことを今にして気づきました。「C.C.っておばさん」とか言っちゃダメなんですよね。女の子はいつまでたっても女の子なのよ。

「黒の騎士団のみんなでに遠足に行きました」という言葉が騎士団日記に書いていても当然とすら思えるぐらい彼らの影が薄すぎる現状を省みるに、『囚われのナナリー』とかやってる場合じゃないよな。ナナリーを囮に総督の場所まで駆け抜ける、とかだったらルル様に更に惚れますけど、とにかく残り8話か9話なのだから、スピードアップして欲しいところです。そういえば、ルル様は片目しかギアスの紋様が出てこないのにマオのほうは両目、というのは力の現れ具合なのでしょうか。

マオといえば、C.C.をばらばらにしてあげるという余りに解りやすい狂気に笑ってしまいました。そこまで解りやすくしないでも。ああいう狂い方はどうも醒めます。じゃあどういう狂い方がいいんだろう、と考えてみましたが、なぜか『七瀬留美』という名前が出てきました(失礼な)。あれは大層酷い設定だと思うです、「乙女希望」。話を元に戻しましょう。マオのシーンは仰角気味のカメラが多かったのが印象的でした。

そしてどうしてか、コードギアスはロングショットがよく似合う。今回であれば、ルル様とC.C.が階段のところで静かににらみ合う場面。マオの能力のせいか言葉はうまく交換できず、わざと明るく振舞うようなC.C.の声が妙に室内に響き、ただ上辺だけの言葉だけを交わす二人の夜の屋内シーン。そして二人が別れゆく様を遠くから見つめるカメラ。好き。また救出後、再び二人が向き合うときはビルの屋上で、夜景を目いっぱい映した背景に取り囲まれて、小さな人間が二人手を握り合う(背後にはビルの光)。好き。でもアニメのせいか、光の迫力がなかったかなぁ、あそこは。そういえばまた階段でお別れですか。監督は階段好きなのだろうか。私も好きなのでどんどん使ってください。全て、物語が運動を開始するのは夜だけれど、月の光が差し込んでいなかったのは好印象でした。

crow_henmicrow_henmi2007/02/02 04:00物質が関係を規定しているのではなく関係が物質的に現れていると解釈すべきではないでしょうか。この場合は。

cognicogni2007/02/02 13:37もちろんそういう解釈も可能だと思いますが、個人的には「柱に凭れあっている」のが自然でツボなのです。柱がなければ、現在の二人の関係性を軸に適当な距離(親密なら近い、疎遠なら遠い)を互いは取ると思うのですが、柱があるがゆえに二人はあのような距離を取り合っている、取らざるを得ない。そんな風に、関係性を暴力的に隠蔽してしまう柱という舞台装置が好きなのです。そしてそういう風に解釈したい。そこに柱があって二人は自然に凭れあっているからこそ、今のルル様と会長の関係性は、二人の物理的距離では直示されず、隠蔽されていて解らない。本当はもっと近くにいるのかもしれないけれど、それは画面からは読み取れず、潜在するものとして提示されているという風に。
そしてたぶんきっと、そんな物質的な規定が続くと、本当に二人の関係がそんな遠くなってしまいそうなところも好きです。

crow_henmicrow_henmi2007/02/02 21:13ああなるほど。その読みは納得です。

SubhasisSubhasis2012/04/21 19:16Why does this have to be the ONLY reliable suroce? Oh well, gj!

kybhrbgtnstkybhrbgtnst2012/04/22 12:58xhQO1p , [url=http://nliwuakhjhjq.com/]nliwuakhjhjq[/url], [link=http://ooocigoydboz.com/]ooocigoydboz[/link], http://myeqbvurnqvm.com/

dscqcgpecadscqcgpeca2012/04/22 18:30aGUUNS <a href="http://tyvfddenumen.com/">tyvfddenumen</a>

gjhvghyokgjhvghyok2012/04/23 17:158snrjV , [url=http://xmhuopihqgen.com/]xmhuopihqgen[/url], [link=http://ipibeabhtgsf.com/]ipibeabhtgsf[/link], http://zyxniimocuvz.com/

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2007-01-30

[] 麻枝ワード、ラノベサイト  麻枝ワード、ラノベサイト - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  麻枝ワード、ラノベサイト - こぐにと。 cognit.  麻枝ワード、ラノベサイト - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

本日のアクセス元検索ワード:『ナナリー エロ』『ナナリーのエロCG』。恐れていたことが!しかも一日2件も!俺のナナリーになにを求めてやがりますか!後者の人はスペース入れて『ナナリー エロCG』にしたほうが絶対いいと思います!(←さりげない優しさ)そういえばこの前マンガのコードギアスの抜粋みたいなの見ましたが、あれはナナリー違いだと思うんです。名前が同じだけで。

麻枝氏のメランコリーについては多数の方々からご指摘がなされていますけれど(ここでのメランコリーとはフロイト的な、何を喪失したのかわからない状態や喪の失敗を含意するメランコリーであると思われます)、麻枝氏の歌詞の中から抜粋した個人的な「好きな麻枝ワード」を挙げるとすれば、「強さ」「泣かない」などというわりと前向きな単語だったりします。ただし麻枝氏の歌詞においてはそれらの前向きな言葉の用法はどこか後ろ向きな感じをにおわせ、また印象度という点では過去形の言葉のほうが無茶苦茶印象に残っており、現在形もどこか過去を感じさせるものであります。たとえば『青空』の「誰よりも遠くに行ってもここからまた笑ってくれる?」は疑問文なせいかなぜか仄かな過去の匂い(過ぎ去ってしまった感じ)がしてしまうのが不思議です。他にも、夏影ボーカルの「僕ら遊んだ 僕ら生きてた 今も覚えてる」などにおいては、「今も覚えてる」という現在形だけれど、思いっきりrememberで過去である。

昨日のコメントに突っ込まれてました。ラノベサイトを読まない件について。ラノベ感想サイトは購入の参考にはなるでしょうけれど、ラノベを購入できない自分にはあんまり意味ないんですよね。だから見ない。そんだけです。でもラノベ感想をよく書かれているsimulaさんやgenesisさんやevatakaさんやasukasyoさんやMK2さんや吉兆さんの感想は面白いのでよく見てます。わ、意外と多いな。まぁ、皆さんラノベ読んでらっしゃるサイトの管理人さんですけどラノベ感想サイトじゃないと感じているので。だったら上記の方々と、私が見ないサイトの管理人の方々との差があるのだと思うけれど、たぶん上記の方々はラノベ以外にもいろいろ読んでる方々じゃあないでしょうかね、ラノベに対するふとした一言も面白いんですよね(というかそっちのほうが面白いんですよね)、とか思いながら、それじゃなんか取りこぼしているような気もするのでもうちょっと考えてみます。

しかし「管理人」なんていう言葉久々に書くとすげー違和感が。なんでだろう。昔は普通に使えてたのに。たぶんブログという言葉と管理人という言葉との間にある齟齬のせいだろうけれど、あるブログを書いている人のことをどういえばいいんだろう。

genesisさんのところの空気系の話に反応しようと思ったけれど、今日は少し他のことに時間を使いすぎたのでまた明日、とか思ってましたが、明日はコードギアスの日なので、後日。

[] 感情移入と『動物化するポストモダン』  感情移入と『動物化するポストモダン』 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  感情移入と『動物化するポストモダン』 - こぐにと。 cognit.  感情移入と『動物化するポストモダン』 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

更新量が少ないというお叱りを受けそうなので、感情移入や共感についてはちょっとずつ考えていることをアピールする意味でも、とりあえずオタクの必読文献らしい『動物化するポストモダン』の数度目の再読をしてみて、それらの語が使用されている場面を以下に引用してみました。以下、全て、東浩紀『動物化するポストモダン』からの抜粋です。

 以上のような特徴から明らかなように、九〇年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタクたち自身が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費構造である。特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。この二層構造については、のちにノベルゲームを例として詳しく語るが、いずれにせよ、キャラ萌えを単なるマニアックな消費行動として片づけてしまうと、いろいろ説明できない部分が出てくることは確かである。(p. 75-6)

感情移入。ちょっとやっぱりいまいち理解できないような。

 ノベルゲームのプレイヤーは、他の多くのゲームと異なり圧倒的に受け身である。プレイ時間の大半、プレイヤーはただテクストを読み、イラストを見るだけだ。確かに最近では、BGMを充実させ、台詞に有名な声優をあて、動画を挿入しているゲームも多く、そのなかには興味深い試みも見られる。とはいえ、その中心がテクストとイラストであることはやはり変わらない。そもそもつい数年前までは、データ量が多い音声や動画を家庭用のコンピュータで処理することは難しく、それらは使いたくても使えなかったのである。このような制限のために、ノベルゲームの進歩は、半ば必然的に、効率よく感動できる(泣ける)テクストと効率よく感情移入できる(萌えられる)イラストの追求へと集中することになった。マルチストーリー・マルチエンディングの構造もこの傾向を後押しした。ストーリーが複数あり、エンディングが複数ある(攻略できる女性が複数用意されている)ということは、できるだけ多くの物語とできるだけ多くのキャラクターを、必要なモジュールの組み合わせによって効率よく作ることを要求するからだ。(p. 111-2)

「効率よく感情移入できる(萌えられる)イラスト」。ここの括弧って、感情移入できる=萌えられる、って意味なのかしら。イラストに萌えを感じることと感情移入がイコール?ううむ…。

 しかしデータベース消費の局面においては、まさにこの矛盾が矛盾だと感じられないのである。作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾だと感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。(p. 123-4)

「同一化し、感情移入し」はいまいちなのですが、「作品世界に感情移入」が個人的な感覚として近いかなと。

 そしてそのようなオタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する静的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭のなかで回り続け、あたかも取り憑かれたようだ、というのは、少なからぬオタクたちが実感を込めて語る話である。それは趣味よりも薬物依存に似ている。(p. 129)

この前、『箱庭療法』関連で言及した薬物依存とかそんなところ。

 ルソーを持ち出すまでもなく、かつては、共感の力は社会を作る基本的な要素だと考えられていた。近代のツリー型世界では、小さな物語(小さな共感)から大きな物語(大きな共感)への遡行の回路が保たれていたからである。しかしいまや感情的な心の動きは、むしろ、非社会的に、孤独に動物的に処理されるものへと大きく変わりつつある。ポストモダンのデータベース型世界では、もはや大きな共感など存在しえないからだ。そして現在のオタク系作品の多くは、明らかに、その動物的処理の道具として消費されている。このかぎりで、オタク系文化における萌え要素の働きは、じつはプロザックや向精神薬とあまり変わらない。そして同じことは、また、ハリウッド映画やテクノ・ミュージックなど、さまざまな娯楽産業の働きにも言えるのではないか。(p. 139-40)

共感について。特になし。

しかしそれでも筆者は、その空想こそが、大きな物語の凋落のあと、世界の意味を再建しようと試みて果たせず、結局はただ小さな感情移入を積み重ねることしかできない私たちの時代のリアリティを、独特の手触りで伝えているように思われる。(p. 174)

上記の文脈とあわせて考えると、感情移入と共感はかなり近い感じで使用されているらしい。

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2007-01-29

[] 二度目は喜劇として、名前を呼んで、声と約束  二度目は喜劇として、名前を呼んで、声と約束 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  二度目は喜劇として、名前を呼んで、声と約束 - こぐにと。 cognit.  二度目は喜劇として、名前を呼んで、声と約束 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/natu3kan/20070129/1169888590。二度目、言及します。"History repeats itself, first as tragedy, second as farce."

まず私の文章が引用されている部分について。「感性」という言葉に関しては、はてなキーワードのような意味で利用してました。「稚拙な語彙で雄弁に語る」という創作技法は確かにあると思います。少なくとも、『なのは』のほかにも幾つか好例は挙げられるのではないかと。だから上記エントリに関して、「そういう創作技法がある」程度なら同意します。そういう細かい創作技法は創作本には中々載ってないので、ちゃんと資料に当たりつつ考案・洗練していくのも面白いんじゃないでしょうか。ただ、個人的には、なのはさんのデバイスのような場面において、多くの意味を読み込むことできるところには、ただそういう現象があると指摘するだけでなく、その現象に驚くと同時に慄かなければならないと考えています。意味を過剰に読み込んでしまい誤解するのは読み込む者の責任もあるだろうし、付した意味に常に裏切られ覆される可能性を秘めていることを忘れてはならないだろうから。また、経験上、短い言葉はいいことばかりでなく、怖くもあります。たとえば、何を考えているのか解らないとか。あと、苦労して作って持っていった回路図とか資料に「ダメ」とか「センスが感じられない」とかの短い一言で斬られたときのあの衝撃とかは今思い出しても泣けます。

んで。上記リンクの記事で「なのは」という単語を見て思い出したのが、なのはさんの言葉である「名前を呼んで」。ちょっとまだアニメは見てないので、とりあえず名づけという行為について。Badiouは"Ethics"において、こう述べている。"'To name' simply implies that human animals are in a position to communicate about these elements, to socialize their existence and arange them in terms of their interests."(p. 81)。逆に名づけられることに対して、Butlerは"Excitable Speech"の中で"to be named by another is traumatic"(p. 38)と書いている。この二人の、引用文章の前後から、Aちゃん(仮名)はその名を呼びかけられることによって、Bさん(仮名)のいる共同体に組み込まれることにもなるだろうし、呼びかけられることによって初めて主体化が行われる…という風に解釈ができるとは思うのですが、正直社会学の人たちがやってそうであまり面白くない。Butlerと言えば、呼びかけられることの主体化によるvulnerabilityとともに、呼びかけることのvulnerability(言葉は意図を超えて演じるし、呼びかけても振り返ってくれないかもしれない、など)を思い出しますな。いやまさに。

ついで。ギャルゲーにおいては約束というギミックが使われることが多々あると思うのですが、どうして約束は声で交わされるのか、言い換えれば、どうして言葉ではあっても書面(書き文字)ではない「声」で約束が交わされるという点に常々疑問を持っていました。そりゃあもちろん、幼い頃の幼馴染同士が、結婚の約束とかを書面でするとかは不気味だろうし、「名前を呼んで」という文字が書かれた手紙を渡されたらなのはさんの言葉の何かがぶっ壊れるだろうが、ならばその不気味さや何かがぶっ壊れる感覚はどうして起こるのか。どうして叙情的な約束や、抒情とともに思い出される約束は声でなされなければならないのか。約束は常に聴かれ、更に約束だと理解されねばならない、とAutsinも言ってましたが("How to do things with words", p. 22)、どうして彼はheardという動詞を使っているのだろう。ここで幾つか補助線を引いてみて考えてみようかと思い、声優ファンご用達であろう(←妄想)Derridaの"Speech and Phenomena"を利用しようと思いついたけれど、宿題があるしいまいちまとまらないのでまた今度。ていうかどこかの批評で誰かがやってそうです。

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2007-01-28

[] 25歳、応答、コマの顔とその表情  25歳、応答、コマの顔とその表情 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  25歳、応答、コマの顔とその表情 - こぐにと。 cognit.  25歳、応答、コマの顔とその表情 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

25歳になるまでに、林さんや今木さんやflurry兄さんが昔書かれたような文章を自分で書けるようにならなければ、私は以降の全ての著述活動を控えたほうがいい、とここに書いておきます。ということは残り約三年でどれだけ自らのセンスを研ぎ澄ませるかが勝負ということになる。なぜ25歳かというと、たしか林さんのONE論が書かれたのが25歳かそのあたりだったから。また、私は基本的に年齢で考える癖があり、年齢での要求基準というものを設定する傾向にあるから。

Webに書き散らした文章に対して、読者は選べないということに疑問と不安とをもって、昨年四月にブログをプライベートモードにしてみたのですが、今年の目標は「会うこと」であると決めてからとりあえずパブリックでも書いていこうと思い、現在に至ります。さて、どのような文章であれ、読者からの反応がある可能性はあり、もし私の書いた文章に私自身の応答責任があるのなら、そして果たして本当に責任を取るべきか迷うものに対して責任を取るべきであるのなら、恐らく私はトラックバックに応答する必要性があるのでしょう。ということで応答してみます(が、応答を求めない意味でトラバは飛ばしません)。「ぎゃー、皮相的やー。どうにかしてくれ」。文は人なり、とかの方は言われましたが、まさに。トラバをもらった先の文章を読んでみるに、かの文章の筆者は廣松、丸山、そしてソシュールをすらいまだ読んでいないと思われる。そのように思わせるのは恐らく、分節やらシンボルという哲学方面の単語を使うことで、その文章の内容と単語の間で違和感を醸しているからではないだろうか。哲学の要約内容しか読まないことに対して昔林さんは憤慨しておられたが、今回の場合上記哲学者らの要約内容すらも読んでいないのではないのかと私は疑わざるを得ない。分節とかシンボルとかいう単語をよく解らずに使用していることが、それらの単語が文面から明らかに浮いていることから察せられるので、なるべくそういう理解の曖昧な単語は使わずに(教養が露呈するから)、もっと自分が馴れている言葉を使うべきではなかろうか。そして言葉を手段としてしか理解しないその態度には閉口せざるをえない。ていうか、意識や経験を言語化する(意識の先行性)、ということ自体エロゲ論壇ではわりと批判的に話されてきたことではなかったのか、すくなくとも私は最近そういうこと言った覚えがあるのだが、「本音は喋れない、という否定神学的な形をもって定義される本音」とかそういうことを。別にそういうの受け入れてなければいいんだけどさ、受け入れないのは受け入れないで、素朴過ぎなくないか。また更に、言語をメディアと同定したところにすら私は懐疑的だが、それを受け入れた上でも、「メディアはメッセージである」という手垢の付きまくった命題を思い浮かべなかったのかと不思議だ。その辺思い浮かべていればあんな貧しい解釈には至らなかったろうに。少なくともジジェクを読んでたら、体験とやらの象徴化を求める欲望がラカン的な意味での対象を生むというテーゼ(「これじゃない」の話など)が思い泛かべるだろうし、思い浮かべていたのならそれを批判的に超える試みがなされてもいいと思うが、恐らく筆者はそれをあえて避けたかもしくはそこまでにすら至っていないだろう。まぁ、言語を手段としてしかみず、更には言語は体験を劣化する媒体であるとしてしか語らない者に、言語を語る資格はないと思われるし、過去の言語論の文献を参照しようともしない言葉は大概軽すぎるし薄っぺらい。それはそれでいい場合もあるが、文脈考えるとあの文章はそれじゃダメだろ、理解さえ危うい。つーか思いっきり近代文学に悪い風に毒されてるよな、現実や想像や意識を言語によって書き写すとかそういう観念。そして最後に書かれてある、自らの責任を回避するような「気にするな」という文言はいかにも言い訳をして逃避する平凡で陳腐なオタクの臭いを感じ、私は私の権利と責任に於いて「あの文章と文体は気持ち悪い」と発言するとともに、「東浩紀の時枝誠記論まだー?」って、ちんちんと茶わんを叩いておこう。しかし、昨日皮肉ったのにも関わらずそれでもトラックバックを送ってくる度胸や、伊藤氏らの表現論の話をしてるエントリに(表現論が巧みに避けつづける→)できあがりの記号の話をトラックバックしてくる度胸は好きですよ。あと「物語の波動関数」とかいう言葉に「えーなにそれ」と爆笑しましたですよ。

さて。いずみのさんの論のコメントというか、別にいずみのさんのところにコメントするほど直接的な言及ではないので日記に書きます。いずれ来るあの論考では、「xxxxxxのコマなのか?」(xは伏字)と問うこと自体、その問いの形式が画期的なのだと思う。たとえば上記の疑問の『コマ』を『テクスト』としてみたとき、テクストの多義性という耳慣れた言葉がわりと簡単に思い泛かぶ。テクストは脱構築ができるように、マンガのコマもまた脱構築が可能であることは恐らく正しい。そしてまた同様に、いずみのさんが掲げるあの問いは恐らく答えを一義的に決めることはできない類の問いであって、コマの脱構築を容易に可能にするものではないか。つまりあの問いを整備し問いの形式として成立させることで、あの問いはテクストの多義性を明るみに出し、そして(ほぼ必然的に)読者同士の対話と読者とマンガとの対話を可能にする土壌を作るのではないか。たとえば、あのコマはどう解釈すべきか、と。そのような対話を発生させる問いはとても貴重で重要だ。そしてそれはマンガの紙面に書かれてしまった線をいまだ描かれていない線として蘇らせ、そしてその物質的剰余にすら読者の目を到達させることができるのだと思う。以上に言及したコマの多義性とは、そのコマが解釈を常に逃れ続ける(、、、、、)ということであり、抒情が常に言葉から逃れ続けるということとほぼ同義であるが、それは逆の視点から見ると、テクスト(コマ)が常に生き延び続ける(、、、、、、、)ことを示唆することになる。だからその問いに巻き込まれることによって、コマは生き生きとした表情を見せるだろう。そのような場を誘発させる、もしくはいずみのうゆき氏の名前に従って、そのような場を誘起(、、)(笑)させる問いは、これからのマンガ批評を豊穣なものにさせるに違いない。批評とは常に自らと批評対象との闘いの場であり、常に遅れてくる意味を取り戻す行為であり、対象が存在してしまうことへの驚きと嫉妬と眩暈が巻き起こる事態であり、その闘いによって互いは成立と崩壊を繰り返し、新たな形で生き延びることが獲得される行いである。だから表現論はそのような批評を可能にすることで、常にテクストを活性化させるものであるし、そうであるべきだ。マンガ表現論が単なるマンガ技術論と違うのは、この一点、テクストの活性化に求められるべきだと思う。

あとどうでもいいことはmixiにでも書いておきます。ツインテールの話とか。そもそも私がそういう話しなけりゃよかったんだから(泣)。

[] disられる  disられる - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  disられる - こぐにと。 cognit.  disられる - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070128#1169980884

わーい、disられましたー。

他人をdisるということは、同時に自分もdisられる可能性が高くなるわけで、disられること自体は別に全然構わないので機会あるごとdisっていただければと。少なくとも、当人を傷つけることや当人から嫌われること、その他の閲覧者も不快になること、自分がブクマでdisられること、コメントの応酬になり時間を割かざるを得ない危険性、アンテナを外されたりする可能性などなどを事前に考慮した上で、あえて他人をdisることに昨日(今日のエントリ)踏み切ったわけですから、まー他の方々からの逆disはされても仕方が無いかなと思ってますですよ。

natu3kan氏はあのkamimagi氏で、gooブログのほうの記事へのリンクをよくかとゆーさんのところで見ますし、オタク向けの記事で注目を浴びるに足る記事を書く方でしょう。gooブログのほうもときどき拝見してますが、読む記事読む記事なんか微妙なので、もっと良い記事を書いてくれたほうが一閲覧者として嬉しい。そしてどうやら氏が興味のあるらしい言語や想像力の問題に関してより良い記事を書くには、今のままよりはもっと勉強したほうがいいと常々思っていたのです。他にも例えば、良い記事を書くには、単語の用法とかどうでもいいことで人からなめられることはただの減点対象にしかならないのでやめたほうがいい、など。私はどうでもいい人をdisったりはしないので(トータルで見ればストレス溜まるようなことでしょう、disることは)、時間を割く価値があると判断して(反応があったら返す所存ですし)、また単に馴れ合いで優しい言葉をかけるよりも攻撃的にdisるほうが効果的じゃないかと思ったからそうしました。せっかく同じグループにいてトラバいただいたわけですし、まあトラバ打ってきたということは対話の機会だろうかなと。匿名コメントでdisるよりは記名でやったほうが恐らく互いのためになるので、あえてここで。

こういう攻撃的な手法がいやなら嫌われることも覚悟しておりますし、氏を傷つけてしまうことも解っておりますが、ただ、俺はあんたに期待してるしあんたが俺を痛烈にdisることを期待している、みたいなことを感じ取っていただければ、前の記事にとって一番の幸せではないかなと。

あとアドバイスどうもありがとうございますー。エッジによりすぎ、というのは、うーん、自分に当てはまるのか微妙ではないかと思いますが。ただ、公表することで他人から突っ込みを貰えそうな目標ではないかと。

それに別にできなければ死ぬというぐらいの覚悟ではないわけですし、書けなかった書けなかったでデータベースを整理するだとかもできますし。今のWebを見ていたら、たまに若い人で能力高すぎて見てるこっちがへこむけど期待できる人、とか発見できるじゃないですか。そういう人がこれからもどんどん出てくるでしょうし、その人たちが伸びていける土壌を整備するのも楽しそうでしょう。

明瞭に書く、というのは気をつけます。不明瞭な部分があったらご指摘くださればありがたいです。

追記:まー、私はそんなにできた人間ではありませんのでかなり挑発的です。そういえば、crow_henmiさんと僕とのやりとりの初めは、僕の脇の甘い発言に対する皮肉だったような覚えが(笑)たしか2005年12月ぐらい。

natu3kannatu3kan2007/01/28 15:53>なるべくそういう理解の曖昧な単語は使わずに(教養が露呈するから)、もっと自分が馴れている言葉を使うべきではなかろうか。
それは同意です。それに近いものが自分の狭い語彙からアレしか出てこなかったので使ってたので。

cognicogni2007/01/28 16:01「は」っていうのが、こう、あれでいいですね。
同意していただけるんなら、そういう単語を使わないか、単語を使うなら勉強してください。どっちかというと後者をお勧めしますが、そのときはもちろん本買って勉強してください。どういうタイミングで使うか、とかは実際に使われている場面をたくさん読んで馴れなきゃいけないと思いますし、そちらのブログではネットからの引用ばかり見かけましたが、ネットの哲学の言葉は信用なりませんから、是非著名な本で。
まぁこう口うるさく言うのは、同じような言語や単語を使う者としては、何か変な用法で単語が使われていると変な気分になりますし、そういう用法が一般的だとネットの大勢に勘違いされると困るからです。自分の場合もそれは同じなんで、私の単語の用法が間違ってたらWeb拍手ででもつっこみください。

crow_henmicrow_henmi2007/01/29 16:31そういやそんな出会いでしたか。確認したら確かにそんなことを。個人的には先年1月頃の、ひぐらしを巡る対象を明確にしない私信のやり取り辺りが印象的でしたが。
「できなければ死ぬ」ってのは、まあたとえが悪かったんですが、断念、というものに関して、もう少しいい加減であってもいいのではないかとか、ひいては内的規範が峻厳に過ぎるのではないか、とか、そんなことを感じたわけです。25歳で断筆、とか、断念早すぎ! と、30超えたぼくは思うわけです。もちろん切磋琢磨のための目標としてある時点を目処にするのは宜しいのですが。
 後、内的規範が優先されるのはまあ当然のことなんですが、内的規範自体の外部との整合性あたりも少し勘案していただきたいとか。具体的には、cogniさんの能力は自ら表明されているような低さではないと思いますとかそんな感じ。どの外部と比べるとそういう評価が出てくるのかなあとか少し疑問に。
 文章の可読性云々については、随想なりの構成というものがあればうれしいなとか、長文は読みにくいので適宜段落を切って欲しいとか、そのくらいのものです。後、用いている概念やタームについてもう少しわかりやすい形で出してもらえればありがたいかなとか。すでに読者がそれに熟知している、という前提だと、間口が狭くなりすぎますので。まあそうでないと語れないことも勿論ありますし、いちいち判りやすく書いてるとめどい、というのもあるのですが。
 まあそんな感じです。

cognicogni2007/01/29 22:29出会いに関しては、つっこまれて嬉しかったなぁ、と思ってます。ひぐらしについては、「ルール推理ダメだろ。あと設定とか嫌い」で一貫してたような思い出もあるのですが、他の方から見ると違うのですね。
他の方にも諭されましたが(笑)、まあわりといい加減に生活しておりますので、目標ぐらいは高く持っておこうかなと思ってます。背水の陣なのは自分にはそれが方法論的にあっているからです。お褒めいただけるのはありがたいのですが、やっぱり自分の文章は何かが圧倒的に足りないですよ。それをセンスと私は言いますが、とにかく足りない。そしていろいろ本を読んでいると、若い頃からそれはどうやら変わらないようなので、25ぐらいまでに身につかなければ諦めたほうが自分のためにもなるんじゃないかなと。どの外部と比べているのか、というと、先に挙げた方々や読んでる本とかじゃないですかね。同年代がやっているラノベサイトとか見ないですし。あ、でも、やっぱりWebにも良いサイトはいっぱいあって、出会うたびにへこみます。
段落区切りはより一層配慮してみようと思います。概念については、できるかぎり努力してみます。実は、わざと説明しないで知ってる人だけににやりとしてもらうことも考慮していたりしていました。

cognicogni2007/01/29 22:39「そしていろいろ本を読んでいると、若い頃からそれはどうやら変わらないようなので」というのは、他の方が若い頃に書いた文章を見て、統計的に判断した結果、若い頃から文章センスはほとんど変わらない(例外はある)、という意味です。解りにくくて申し訳ありません。

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2007-01-27

[] 日記、映像表現、マンガ  日記、映像表現、マンガ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  日記、映像表現、マンガ - こぐにと。 cognit.  日記、映像表現、マンガ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

堅苦しい文体は無理だと解りました。疲れる。どうせ誰も読まんというか自分も読みたくない。それに丁寧語の方が馴れてます。変えます。三日坊主にすらならない。泣けます。眼鏡微妙に壊れました。泣きます。そして帰国日ほぼ決定。わーい。詳しくは向こうのブログに書いたよ。見れる方は上側にあるリンクからどぞ。

昨日聞いた「世界の深いところを知っている」という言葉が、妙に心に残りました。

ブクマされた記事はキーワードが自動的に抽出されるので見てみました。「スクールランブル、名塚佳織、柄谷行人、江藤淳、蓮實重彦」と並んでいた。その配列具合に少し笑う。ちなみに次は「Kanon、吉本隆明、坂部恵、時枝誠記、灼眼のシャナ」だった。

http://www.exa5.jp/morige/20070126.html#p01。あのシーンを再現(、、)するための映像表現についてはちょっと思い泛かばないかなぁ、と個人的には思いましたので、ああ書きました。ですが、その事前の緊張感を高めることであのシーンの瞬発力を高める、というシークエンスを考えるのは妥当な感じがします。あ、あと「画面の緊張感」というのは良い言葉だなぁ、と思いました。

他のところで引用されていた自分の文章を読むと、そこだけ抜き取ると確かにそう読めるのかと思った。あの文で言いたかったのは、メディア性に依拠する流通の問題が消費者*1にどのように影響してくるのか、という感じのことだったのですが、これは後出しに近いのでずるいかと思いつつも、あんな読み方をされたらさすがに驚きを隠せないので書いておこう。まぁ、引用してもらってそれで面白い読みができるなら全然構わないのだけれど。あの薄っぺらさをどうにかしてくれ、と思わないでもない。と、不遜に人に言えるほど濃いテキストを書いているわけじゃないのが悔やまれるところだが。アシュタサポテのようには中々いきませんね。

いずみの(d:id:izumino)さんの論が早く公開されないかなとワクテカしているわけですが、それに関連して自分の興味関心を述べてみると、視線力学をはじめとした論は内と外とかいう二項対立が実在するという素朴な観念を解消する一石になると思う。そして昨日の日常/非日常はそういう文脈で書くべき、読まれるべきだったのかと今頃になって反省するのだった。たとえば(かなり迂回するが)、昨日の「ふと」は線の集合がマンガというゲシュタルトになって生起するあの瞬間だ。しかしそれはゲシュタルトが崩壊することもまた、線が担っていることを意味していることに他ならない。何かを可能にしつつ、何かを限定するあの働きを線に見つけることができる。そういう点から見ても、夏目氏や伊藤氏、いずみの氏らがマンガの表現論を追求しているのは凄く意義のあることだろうと思う。彼等の文章は、何かが色めき立つ瞬間を捉えようとしているから。そういう表現論が天才マンガ家の感性の邪魔になるとか主張する人はいるかもしれないが、技術と感性を対立させることは、ロジックとロマンスを対立させるのと同程度に大馬鹿であると思うのだがいかがか。ちなみに表現論と技術論は厳密には異なる。

そういえば関連して。未だに「秀才だから感性が乏しい」とか言われるのは良く解りません。「感性が乏しいなら秀才ではない」というのはまだ通じるような気もします。個人的な感想を述べるならば、頭のいい人は感性が良い人が多いと思う。感性が良いならその人は大概頭がいい。

*1:特にエロゲとラノベの消費者層が結構似通っているという特徴が恐らくあって、そこがメディア間の差異を浮き出す可能性があり面白いと思われるのだが。まぁこのままじゃ空論ですな。

MakailaMakaila2012/12/08 18:58At last, someone comes up with the "right" anewsr!

ugxhvvwvhfvugxhvvwvhfv2012/12/09 16:57OYf3zl <a href="http://cfmpwbuspnmc.com/">cfmpwbuspnmc</a>

qkievooavqkievooav2012/12/11 01:49O1GKPo , [url=http://nmrzkfgvmoig.com/]nmrzkfgvmoig[/url], [link=http://pfooazrcnxcn.com/]pfooazrcnxcn[/link], http://xmukqqtgkuvw.com/

crahetcrahet2012/12/11 17:00hWovbX <a href="http://kyyubgcsrnof.com/">kyyubgcsrnof</a>

cqpzfxsmtmcqpzfxsmtm2012/12/13 03:028sj519 , [url=http://dplvwreyvops.com/]dplvwreyvops[/url], [link=http://riqbxbvkzfri.com/]riqbxbvkzfri[/link], http://airxazjozujv.com/

cqpzfxsmtmcqpzfxsmtm2012/12/13 03:028sj519 , [url=http://dplvwreyvops.com/]dplvwreyvops[/url], [link=http://riqbxbvkzfri.com/]riqbxbvkzfri[/link], http://airxazjozujv.com/

lzllemlzllem2012/12/31 15:34txbjFy , [url=http://vjysyshfuvja.com/]vjysyshfuvja[/url], [link=http://zgbopohmptft.com/]zgbopohmptft[/link], http://hiwsybyfeurc.com/

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2007-01-26

[] ネトラジ、文体、日常  ネトラジ、文体、日常 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ネトラジ、文体、日常 - こぐにと。 cognit.  ネトラジ、文体、日常 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

crow_henmiさんのところでネトラジをやったなどという報を見る。ネトラジとはネットラジオの略らしい。なるほど、いくら和みの名塚と言えど他人が喋るラジオを聴くのは耐えがたかったが、自ら行えばその問題は解消される。なんと簡単な回答だったのだろう。しかし何のために?自意識の満足のために。いつ?時差は約半日だぜ。などとそんなことを気にしても始まらない。ためしにネットラジオについて検索してみる。livedoorが引っかかる。ライブドアか…と呟きつつ、放送方法の項を見る。すっげ面倒くさそうだ。諦めよう。そもそも喋ることがない。そんなラジオ放送にただ一つメリットがあるとすれば、自分は果たしてオタク臭い喋り方かどうか、ということを多人数に判断してもらえることだろう。統計を取れば、オタク臭い喋り方というものは恐らく存在する。喋り方が特徴的過ぎると「アレな人だな」と解ってしまう。その域に自分が入り込んでいるかどうかがかなり心配である。もし話し方がアレであれば直さなければならない。特に笑い声が奇矯で嫌気がさしたりするのは誰でも経験があると思うのだが。声ではそんなに差が出ないものの、笑っているときの息遣いには特に個性が出るように感じている。ひゅうひゅう言う人とかいるよね。

文体のことを考えている。参加されることを要求してくる文体とただ見られる文体とを便宜的に分別してみる。このとき、テキストサイトは恐らく後者に属するだろう。フォントいじりは見ることに特化しているから(テキストサイトはフォントいじりという文体を利用していた)。同時、テキストサイトが自嘲という自己対象化、つまり自己を対象化して笑うという作業をしばしば経ていたことも見逃すことはできない。ここにおいて文体と内容の分離不可能性を見て取ることもできる。さて、対象といえばそれは指示されるものだ。例えば吉本隆明は言語の性質を大きく自己表出と指示表出に分けた。これは一時のFrege的な分割(sense/reference)に相似していると見ることもできる。だが、truth-valueなどを吉本は考えてはいないようなので、その内実までも同じだとは口が裂けてもいえない。しかし譲歩して、その分割操作そのものについての相似は言えよう。そして日常の文章を考える上では吉本に寄り添う方が豊穣な結果を生むように思える。時枝誠記などを参照し、文芸(特に詩作)のほうに適用を試みていたのが吉本だから。もちろん、Fregeよりも劣る点はあると思う。例えばFregeのsense/referenceのほうが、自己表出と指示表出が拮抗するような書き方をしている吉本よりも、その適用範囲は広いのではないか。…どっちを持ち上げたいんだ。

文章からその人の素養や知能は滲み出るものだとは思う。例えば編著の本を読めば、どの論文の著者が将来有望であるかすんなり解るときがある。特に人文科学。問題への切り込み方が違う、論理展開が違う、文体が違う、などの点をもっておおよその著者の能力を判断できるだろう。これはどうやら年老いても変わらないらしく、この前九鬼周造についての編著本を読んだら、坂部恵の論文だけが妙に輝いていた。また、引用の一つとってすらその人の質を表すに十分だと思われる。詳しくはユリイカの論文作法の号を参照のこと。Webには狂気の沙汰としか思えない引用があったりして、必要もない驚きで満ち溢れているものである。

日常と非日常について。二つは扱いやすい概念であり事実多様な用法を見かけるが、その内実はほとんど考慮されない。二つはただ名指されるだけである。ためしに非日常を定義してみよう。多くの人は「非日常とは日常的ではないもの」と言うのではないか。ここで注目すべきことは、日常という言葉に潜んでいる規則性が、この定義に含意されていることである。故に非日常という上記の定義をWittgensteinの規則についての問題として変換するならば、「日常でないと言われたら、非日常である」という命題が導出される。非日常の側から日常を定義しようとしても同様だ。つまり、非日常は日常を包摂する形で定義され、日常は非日常を包摂する形で定義される。しかしそれはおかしくはないか。この出発点から考える限り、日常は常に我々の手から逃げていくのではないか。「それは日常ではない」「ならば何だ」「非日常だ」などという応酬は無意味ではないか。

ためしにほかの事を考えてみる。日常と非日常は現代学園異能などと呼ばれる物語形式においてしばしば見られる対比であると聞いた。日常と非日常は、物語論的な運動によって反復する。例えば『灼眼のシャナ』における日常と非日常は、吉田さんとシャナという二人のヒロインによって象徴され、主人公はその間を反復する、と聴く。しかし恐らく、シリーズが進むにつれて作品のマンネリ化などと蔑まれることが起こるだろう。それは読者がその物語論的な運動に馴れてしまうという現象だ。言い換えればここでは、日常と非日常の反復運動が日常化している。同様の現象がKanonの舞シナリオでも見られると言ってよい。毎晩の魔物退治というイベントは、昼間の弁当も相俟って、すぐに日常と言う言葉に回収される。ここで注意すべきは、その運動が『毎晩』という時間的な定期性において、その非日常の日常化、ルーティンワーク化を推し進めているという点である。むろん、ここではこのルーティンワークが美少女ゲーム全般に見られる構造であるという、astazapoteの指摘(ONEやTo Heartのレビュー参照)を下敷きにしている。ルーティンワークはすべてのゲームに組み込まれている装置であり、イベントの「そのもの性」を回収する装置でもある。ただ間断なく続いていく、常に宙吊りされる日常。日常は常にその範囲を拡張する概念である。日常は敗北しない。しかしそれでは全てが日常という言葉に含まれてしまう。ならば果たして、日常は指し示せる形で実在するのか。実在しないとすれば日常というものの理解は不可能なのか。

この問いに対して、私はそうではないと考える。私はかつて、舞シナリオにおける日常と非日常の地続きを指摘したことがある。あの麦畑の一瞬の成立には宙吊りが必要だったのだとも。ONEの永遠の世界とてそうである。永遠の世界の描写は合間合間に挿入されるものの、永遠の世界が生起した理由を説明する過去のエピソードは、ほとんど唐突にプレイヤーの目の前に現れる。しかし両者とも、圧倒的な体感と速度をもって、とにかくイメージが過ぎ去っていくこと、とにかく存在が消えることが了解される。この唐突さ。この唐突さには、日常を継起的に顕現させることを可能にするとともに、しかしその日常においては決して見ることのできない、何らかの装置を見ることができるのではないか。そしてそこから、日常や非日常という垢のついた概念で搦め捕られないものを見つけられるのではないか。スタバの窓からふと犬を見つける、この「ふと」の一瞬を。そこにおいて、日常と非日常の物語論的な反復は霧散する。なぜなら、日常も非日常もなくなるのだから*1。そして「ふと」そのものが顕れる。

つまりこうである。日常と非日常という概念に惑わされることなく、それらを区別してしまう何かに我々は手を伸ばすべきだ。それはdifferance(sameness which is not identical)と書くかもしれないし、質料性と書くかもしれない。それを知るのではなく、モデル化する試みが果たされたとき、日常と非日常が構成的に理解されるのである。恐らくは。(つづかない)

追記:なんか面白くないなぁ…。多分もう二ひねりほど必要なんじゃないだろうか。

*1:なお、永遠の世界から帰還後の浩平の状態については田辺元の『懺悔道の哲学』と比較するのが適当だと思われる。自覚や媒介、自己否定などがその共通点だから。永遠の世界を日常の限界まで推し進めた点として理解し、その世界を日常と非日常の結節点として働かせるのである。

AlexAlex2011/07/29 13:01You are so aewosme for helping me solve this mystery.

tikrwstxgtikrwstxg2011/07/30 01:04to7uNX <a href="http://jkwnlxypdcbf.com/">jkwnlxypdcbf</a>

pjuxenuwbapjuxenuwba2011/07/30 20:45LZGZ8v , [url=http://zwdrwykjclva.com/]zwdrwykjclva[/url], [link=http://bczseqybyzck.com/]bczseqybyzck[/link], http://fziifoninisj.com/

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hhusbzkdhhusbzkd2011/08/01 23:17g9RzrW , [url=http://soltowqtqpkg.com/]soltowqtqpkg[/url], [link=http://wyiubjaprmml.com/]wyiubjaprmml[/link], http://inaogqlpysbs.com/

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2007-01-25

[] 文体  文体 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  文体 - こぐにと。 cognit.  文体 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

これまでの議題を更新してみました。

http://d.hatena.ne.jp/simula/20070124

そんなsimulaさんにPLANETESとか。思いっきり修羅修羅言ってますし。あとルル様の行為を「揺るぎない確信を求めて」と曲解するとちょうどイーガンの「行動原理」(『ひとりっ子』所収)で似たような話を読んだところでした。ちなみに私は第一期OPの「悩みながら悔やみながら決めればいいさ」って嫌いです。

あ、とりあえず『ひとりっ子』は全部読みましたが「ルミナス」「ひとりっ子」が当たりでした。

文章についての助言を下賜いただいたからか、今日は文章のことを考えてました。そして、書きたいことを書く、となれば、たぶん書けるのは自分の考えていることぐらいです。ということで、自重しつつ書いてみます。

文体のことを考えている。文に力を感じる書き手は、独自の文体がある人だろうと思う。たとえば、今木さんのアンテナは非常に便利で時折使わせていただいているが、その中でも文体が出ている人の文章は面白いので、更新しているとしばしばリンクを踏ませてもらう。逆に「あそことあそこの文章の差が解らない」などと思うところは大抵つまらないので、リンクは踏む回数は少なくなる(大抵ラノベ感想サイトだ)。もちろん、悪文過ぎて受け付けないところもある。悪文は一つの文体だけれど、生理的に駄目な文体というものも私には多々ある。次に褒めるのに絞って個人名を挙げていこう。まて、なぜ以下で私の雑感を挙げるか。文体に関しては、恐らく本人に聞いても無意識の部分が多いせいか、内容のある答えは返ってきにくいだろうから。それは作家と話して解決する問題ではないと同程度に。自然と戯れて自然科学が解らないのと同程度に。ということで以下は私個人の、各人の文体に対する雑感と言うことになる。まずMK2さんの文章は自分の内面を言語化できる個性を感じて、毎日のように楽しくかつうらやましく読んでいる。今木さんの文章は、心地よい切れ味の鋭さとそれらを裏打ちする知識量が垣間見える。flurry兄さんの文章は、なんというか、シンパシーを感じるというか、ああいう迷いの中で考えることや間投詞とかが好きである。astazapoteの林さんの文章は総じて冷徹でありつつもどこか熱を感じさせる文体だ。疏水さんの文章は短い一文の中に優しさを感じさせる。それぞれの文体にそれぞれの人柄と私との関係性が出ているのだろう。江藤淳に言わせずとも、文体は生の一つの行為であることは間違いないのだから、それは当然のことだ。他にも例えば、蓮實重彦は過剰さの中で語ろうとする戦略をとっているが故に一文も過剰に長い。柄谷行人は文章にせよ引用にせよ鋭さを持っている。麻枝准は文はシンプルではあるが、一連の文章のリズムを通して何かを訴えかけてくる(昔見よう見まねで麻枝准の文体分析などしたものだ)。そしてWittgensteinのTLPの感動は、その多くを、あの構造と一文の短さに負っているものだと私は考えている。あの2ちゃんねるですら文体の影響はあるだろう。2ちゃんねるの言葉を使うということは、自己の匿名性を増して、交換可能性を感じさせる行いだと感じている。つまりどうでもいい文章向けの文体が2ちゃんねる文体だ。マンガでもそういうことはある。例えば竹熊によって指摘されているが、背景と人物でペンを変えないことにより、大友は風景の中に人物を埋め込むことに成功した。また、伊藤がコマ構造と呼ぶものですら、その作者の作家性というものが如実に反映されるものであることは、どこかで見た、『げんしけん』の一ページ当たりのコマ数がほぼ一定であることから見て取れるだろうし、マンガの引きの手癖などについてはd:id:izuminoさんがスクールランブルを例にとって、本日も論じておられた。このように、文体や形式などといったものは、描かれるその内実と切り離せないものだと思うし、考えるに値することはほぼ間違いない。また、かつてのテキストサイトの隆盛を再評価する際は、そうした面からのアプローチが面白いと思う。ただし、決して文体は目的ではないが。

では私にとっての私の文体はどうか。場合場合に応じて変えていることは確かだとは思われる。感想の際は句読点をできるだけなくすことは、勢いを感じさせる一つの技法だからしばしば採用している。また、真面目な分を書く際は一文を短くするよう心がけてはいるつもりである。英語での書き物が多くなってからは余計にだ(なお、日本人らしく、私の英文は(微妙なニュアンスの用法を除けば)その文章構造を褒められることが多い)。一つの経験則は、文体は書きたいことと密接に関わっているべきだ、ということである。だから「書きたい内容を明確に定める」というアドバイスと「文体」を考えることとは私において切り離せないだろう。もちろんその場合、書きたいことを明確に定めることからスタートしたほうが容易い。書きたいこととは何か。何だろう。たぶん、まぁ、他人にとってはどうでもいいことだろう。そしてまた、こういう書き方のほうが似合っていることなのだと思う。だからこの文体のまま少し続けることにする。一つ注意をしておくと、石川が指摘するような、ペラい春樹とか舞城とかにはなりたくないものだと個人的には考えている。奴らはやはり敵だ。まぁ、なんというか、俺は堅苦しく行動するのが好きでね。作家ではないから行動しないが。

少し江藤の本を読み直してみた。すると、本来の意味のイメージはサスペンスの状態にあると、江藤は言っていた。出来上がりの人形よりも、人形と見立てた座布団のほうが長く子どもは遊ぶ、などと。なるほど、全然記憶していなかったが(泣)、それはONEだ、ONEの永遠の世界だ。常に新鮮なものを汲み取れる構造がそこにある。ONEの永遠の世界がイメージだけの世界だというのは酷く正しいように思われた。しかしこのような指摘すらも今は既に制度の中に取り込まれていると言っても良い。だからただ、私は反撥することしかできない。CLANNADの魅力の無さを、その構造の解りやすさなどに求めてはならない、AIRやKanonやONEの魅力を説明の欠如に求められるべきではない、と。舞シナリオにせよそうである。私の過去の、舞についての二つのエントリ(1/16など)はいまだ不満ではあるが、そこには何がしか、作品と真摯に向き合うことの難しさと楽しさがある。私は前者に挫折しそうではあるが、良い一言が見つかったときの快感は換えがたい。まぁ、たぶん、この調子じゃ諦めるのだろうが。私には才能がない。哲学にしろ科学にしろ。マンガにおいても、『テヅカ・イズ・デッド』の巻末参考文献を読んでへこんだぐらいだ。圧倒的なまでの才能の欠乏。私にはマンガを読む資格がないと思った。マンガを読むのは難しい。事実、mixiでいずみのさんと交わしたマンガの読み方には、如実に差が出ていて随分とへこんだものだ。皮相的に読むのは簡単だが、直接向き合って対話をすることには資格が必要なのだろう。少しでも製作者の意図を汲みつつ、良いところを褒めつつ、悪いところは批判する。面白いという言葉で留めてはならないし、悪しき価値相対主義に則って「評価はできない」などと呟くことなど、命がけで書かれた作品の前では許されてはならない。それは倫理的要請である。これに関連して、http://b.hatena.ne.jp/entry/http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070122/p1がブックマークされていて驚いたのだが、引用されている文章は決定的に説明が足りない文章だと思ったものだった(別にzoniaさんをdisるわけではありませんしzoniaさんあての文章ではないですが、ブクマのコメントや引用、タグはその人のセンスが明確に出るものだと思う。同種のことをd:id:nanariさんが言っていたと思うのだがログが見つからなかった…)。あれはmixiで以下のようなことを書いた過去を考慮したほうがまだ意味は通じると思う。「いずれにせよフィクションは虚構である。だから「面白ければいい」や「エンタテイメントだから楽しんだもの勝ち」などという言葉が出てくるのだろう。しかしそういう奴に限って、フィクションの終わりの虚構性には全く気を払わない。ENDマークが打たれた時点で、本当にENDだと思う者どもだ。そのENDすら虚構であることも知らず、彼らは現実とやらに帰っていく。傷つかず、ただ楽しかったなどと言う。見ていることと見られていることの同時性にも気づかない。それを嫌悪する私にそんなことが許されるはずはない。ならば作品がある限り、その作品の磨耗とともに私は傷つかねばならない」などと過去に唸っていたものだった。まだいろいろと言いたいことはあるが、とりあえず虚構と現実を分けて考えたくないのは、私にとっての倫理的要請である。それは主に蓮實や、エロゲ論壇から学んだことだ。後者の響きはなんというか、とても人前ではいないというか、いやほんと楽しいんですけどね?ともあれ、誠実に書くことだけが私に許された唯一の手法であることは恐らく間違いない。ここでの誠実さは包み隠さず話すことではなく、感じたことを必至に言語化する行いだ。隠すことができるほど誰しも器用ではないだろう。そして誠実さとは他者を前提とした言葉であるが故に、そこには責任の重さがあり、その前に常に崩れそうであって、マジ作品読みたくない。物語は嫌いだ。感想文も嫌い。読むのも嫌いでね。黙れ、と言いたくなるものもネットには多い。しかし黙らせるにはそんな言葉は不適当であり、唯一の反抗ができるとすれば、良質な文章をネットで発表していくことぐらいしかないのだろう。私には荷が重い話だから誰か若い方に頼もうと思う。老いた私は近いうちに消えるから。

文章への倫理と言えば、もう一つある。たとえば、知識もしくはセンスのない者に発言する権利はないとすら思うことがある。しかしそれはいきすぎだろう。穏当にすれば、知識がないことを恥じない者は発言する権利がない、程度になる。無知の知、などと解ったつもりで言ってふんぞり返る者もまた権利はない。恥じるそぶりを見せずともいいし、恥を語る必要も無いが、ただその恥を感じる心は発言者には必要なものだろうと思っている。少なくとも自分には。そして私は常に自分のことをしか書かない。正確には自分のことしか書けない。助言をいただいたことに沿うならば、これからもそうするだろう。だから私の文章は考察や批評にはならず、感想という言葉が最も適当であるとずっと思っている。

そしてここで文体の話に戻れば、一文の短さは、言語への拙さを感じさせ、未熟な自分にはぴったりなのだ。A picture is a fact.文体も一つの事実だろう。

さて。ばっとキャラクターが性格を持って、それ以降はずっと、という閾値があるような。認識論的断絶でも認識論的切断でも何とでも名前を付けていただいて構いませんが。それは一体、どういうときなんだろうか。思い返してみても、見つけることが、ちょっと難しい。

ONEのような10 9年前のエロゲーを話すのは楽しいことですが、10年後のラノベでそんなことできるのかどうか。ラノベは棚からなくなるの早いらしいですし。

名塚佳織のWebラジオがあると聞いて早速音泉で聴いてみた。…私にはああいうの聴くの無理のようで。普通の声の人やん。ナナリーちゃう。

ropgsqnropgsqn2011/03/17 15:22T1wpWf <a href="http://raztwaenpoiu.com/">raztwaenpoiu</a>, [url=http://sykkeuwgebwz.com/]sykkeuwgebwz[/url], [link=http://pnlhobnfzjnd.com/]pnlhobnfzjnd[/link], http://rdnxwcdjlsvm.com/

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2007-01-24

[] コードギアス14話感想、リアリティ、SF  コードギアス14話感想、リアリティ、SF - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  コードギアス14話感想、リアリティ、SF - こぐにと。 cognit.  コードギアス14話感想、リアリティ、SF - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ブログの名前変えてみました。

本日笑ったリンク元検索ワード→『美少女ゲーム 革命』。空白の中に「の」を求めているのか「で」を求めているのか。後者なら何をする気だろう。

http://broadband.biglobe.ne.jp/program/index_geass.html

ということでコードギアス14話、感想です。

ルルはいつでも泣かない子。そして強い子。…というのはAIRとevatakaさんの言葉のミックスで。まぁ、そんな感じではないかと。ルル様と観鈴ちんが重なりだしてきた。

で、d:id:evatakaさんが予想されていた通り(1/18)の結果になって狂喜乱舞の回。切ない?まさか。あれは俺にとっては喜ぶところだ。詳しくはevatakaさんの1/19日の日記で。あとd:id:rulia046さんの写真と日常についての指摘も。

 それはそれとして。『コードギアス』。

 積み重ねた日常の、そのような絆をシャーリー思い出させる、ばらまかれた写真。

 それは必ずしも「決定的瞬間」ではなく。他愛ない日常の一コマの寄せ集めで。

 だけど、一瞬で失われるのだ、というハナシ。

 そして失って初めて気付くのだという。

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070123/p2

以下は私の感想です。

男の子は一人でなきゃいけません、女の子に癒されるなんてもってのほかです、いえーい、と全世界のエロゲの7割程度を否定するようなことは毎日のように思っているのですが、シャーリーへの謝罪と感謝すら受け容れてもらえない圧倒的なまでの王の孤独、癒しも許しも私が人間であると認められることも投げ捨てて、「お前らは間違ってる(そして俺も間違っている)」と叫ばせる権利とそれに見合うだけの力を求めるという、まったく好みすぎる展開にただただ「楽しー!」と視聴するばかり。interfuckingesting。このままでは自分のために作られているアニメだと錯覚しかねない。ここで思い出すのはONEであり、忘れられてゆく過程で学校へと向かう非常に健全な久弥浩平ではなく(しかも茜にそれを受け入れてもらうという健全さ!)、事実から逃げ出す麻枝浩平のほうであって、逆ONEと総称されるシナリオの構造を持つものが総じてつまらないという評価を持つことそれ自体が、ONEと逆ONEを忘却と喪失という一言で括ってしまうのが乱暴だということを示しているとは思えませんか。忘れてしまうことには興味ありません。そして忘れられる側である浩平とルル様の違いはといえば、誰かが忘れられてしまうという受動性と、自ら忘れてもらうという能動性との違いであって、言い換えれば時間は何もかも解決してくれるとの暴言を吐く受動性と、時間は何もかも解決してしまうという時間を敵に回す能動性だ。「君の罪は全部俺が」、つまり、あなたは忘れてもいい俺が覚えているから、というメサイアコンプレックスにも近い責任の取り方。次回予告の「確かに俺は甘いのかもしれない。……ギアス。この力が人を孤独にするというのなら、俺はもっと耐える心を持たねばならない」、強くなければならない、弱い自分に生きる価値などない、All Hail Lelouch!

いろいろなことができたかもしれない、と思うのはただの過去の捏造であって、また一つしかなかったのだと開き直るのも単なる思考停止にしかすぎず、空を見上げることでの阿呆らしい解放感を得ることへと徹底的に刃向かい、ただ視線をまっすぐ向けて地を踏んで運命などと呼ばれるものへと反逆するがごとく、ルルーシュはまっすぐと闇の中へと消えていくのだ。人であるということはこれほどまでにいろいろなことがあり、人外の気持ちとか自称非人間の気持ちを慮る余裕すらないのであって、evatakaさんの言うようにC.C.の力場は本当に邪魔ですね、と。これからアクロバットしてくれるか、さくさく終わらせてもらえればいいんですが。

始末するのかとC.C.にさんざ忠告されておいてルルは優しいものだから記憶をなくして遠くへー遠くへー越えてゆく遥か夏もー渡る川の流れもーいつか変わっていつか忘れて同じ思い守れずいるー♪と夏影Vocal(作詞:麻枝准)を思い出してしまうほどにルルはシャーリーから遠くへ遠くへ、そして見ようによってはC.C.の嫉妬とも感じられるキス発言連呼なのですが、やっぱり二人にはドライな関係のままでいてほしく、そしてシャーリーに「忘れるんだ」といって少し悲しそうに話すルル様の姿は他の物語でも見たことある展開だけれど、ルル様はひとりになっても歩くんだー誰もいなくなってそれでもー♪とLife is Like a MelodyのWebに落ちてる歌詞(作詞:麻枝准)まで引用してます。だってシャーリーはいい子すぎますよ「私も一緒に死んであげるから」なんて言ってくれる子なんていい子すぎます、最近の女キャラは「あんたさえいなければぁっ!」とかふつーに言ってくるのでシャーリーに癒されます。でもルルは俺のもので(事実、「ルル」と愛称で呼ぶ人はもう我々以外にいなくなったのだ!)、これは俺の戦いで、俺はあまりに無力でシャーリーをきっと守れないから、世界が誰かを傷つけることが許せないのがルル様で、自らの行為が誰かを傷つけることも決して許せず、だからこそ苛立ち、世界にはすでに失われたものといずれ失われるものしかないのだから、幸福かもしれないもの全てをかなぐり捨てて、もっときれいでしあわせなものを求めて、さあ行こう、あの高みへ。世界は美しく、そして、人生はかくも素晴らしい(智代アフター)。

と、すげー実存主義的なあおりで。で、不満を幾つか。「ダメーっ」のあとの写真の挿入とか去り際の靴音の演出はまぁまぁ好きなんですけど、やはりあの別れのシーンは横からのロングじゃないとちと不満です。#12, #13の夜の二人を思い出しながら、あの構図で12,13,14の三回連続で終わり、しかも#12においてはキスシーンなのに雨(背後には森)、#13は戦場、#14は別れのシーンなのに満天の星空での晴れ晴れとした空(背後には森)という、シーンに描かれる内容と皮肉なまでに反する天気というのが彼らを引き立てるのであって、その引き立てるからには対比が出来るような構図が恐らく必要とされ、そしてまた二人の絶対的な距離感を演出する構図として、横からのロングショットであのシーンをモンタージュでのつなぎなしのワンカットで撮ればよりいい感じの構図になったのではないかと思うのですが(追記:なんかそれだと動きがなさすぎるから違うかもしれず、いまいち想像がつかないです)。いちおう空間的な配置から見ると#12, #14ではシャーリーが(カメラから見て)左側にいて、#13ではルル様が左側で、そのシーンにおける受動的な者が左側にいるという構図は、まるでd:id:izuminoさんの視線力学についての記事が適用できそうな。なんかそういうの映画理論にもあるんでしょうか。あと階段について。この前書いたことがまんまで面白かったです。「ほんとう階段というのはおもしろい場所で、たとえば二人がそこで出会うとしたら、いつだってどちらかが上でどちらかが下で、その空間的な上下関係はまるで人間的な上下関係に転置してしまい、上に立つものが審判を下す者、下側には下される者、という絶妙な配置が暗示されるという形になってしまうと思います」。シャーリーが上側でルル様下側だったし。

そしてここで一つ疑問に思ったことを取り上げると、どうして二人は肩を並べなかったのか、ということであって、同じ二人が肩を並べつつ、同じ慰霊碑を見上げ、それでも互いの視線は決して重ならないまま、他人事のような言葉のやり取りを行うことで、群衆の中にいる他人同士のような、近くにいるのに圧倒的な距離感を感じるというやるせなさ(AIRにおける観鈴の幼児退行と晴子の空回りを想起せよ)をどうして演出しなかったのか、ということです。むしろ眼が合っていたほうが、他人同士らしいのかもしれませんが。でもそれは恐らくルルーシュがあれ以上近づけなかったという彼自身の甘さと、スタッフのコードギアスという作品に対する思いが影響しているのではないかと思われるのは、何度もいうように、コードギアスはいつも優しすぎるから。会話の探りあいが足りぬ。顔のアップが説明的にすぎる。最後の台詞が多すぎる。二人の視線が交わってしまっている。全てが分かりやすすぎる。故にコードギアスは優しい。また最後のルル様の言葉がシャーリーに届いてしまっていて、その言葉が「ありがとう」とかいうのが俺には許せない。「すまない」だろうあそこは。もっとエゴイスティックに、意味のわからぬ感謝よりも誰に発したかもわからないエゴにしかならぬ謝罪を。でもまぁ、「朝は来ますよ」の唐突さとか、「ありがとう」という決定的に宙に浮く言葉が届いてしまうこの不幸と幸福が、AIRの往人さんの「笑ってろ」で笑ってくれるなみに、なんか好きです。言語が社会的な側面を含むとはいえ。なお、今木さんの1/20も参照のこと。

しかし、忘却という物語装置の本質が二人の記憶のズレの切なさにあるのならば、そのズレを感知できる我々視聴者は一体どんな視点を持っているのか、そして果たしてそこに切なさを感じる権利はあるのだろうか。あと、ルル様の「もし生まれ変わることができたら、君に」って、絶対嘘だよね。生まれ変わりとか信じなさそうなタイプだし。だからそれはすぐに忘れられてしまうと知っているけれど、幾ばくかのシャーリーへの謝罪の気持ちを含めて、どうしても吐かなければいけないほとんど独り言のほとんど欺瞞の言葉を呟いたと、そう感じます。だからルル様大好きだ。

rulia046さんの21日あたり。リアリティについて。『テヅカ・イズ・デッド』ではリアリティ(現実感)を『もっともらしさ』と『現前性』で分けていたような記憶が。その区別でいくと、「紅蓮弐式の演出に足りてな」さは現前性の問題ではないかなと。で、この前d:id:crow_henmiさんとこでやられてたガンダムのコクピットはもっともらしさの問題。TIDが扱うのは現前性。

イーガンの『ひとりっ子』は最後の一つを残して全部読みました。ルミナス以外は微妙。順列都市とルミナスを読んでからSFハードルがえらい高くなってしまったような。最果てのイマなんてSFじゃねぇよ、なんて言ってしまいそうだ。いや、訊かれたら絶対そう言いますが。やはりラッカーあたりに進むべきだろうか。むー。

自分の文章は、なんというか、対象化できてないし、自分のことしか書いてないよな。つか自分のことしか書けないんですよね。ネタがない。世界がない。あと自分の文章スタイルというのが定まらなくて、四苦八苦です。

ところで『ナナリー』という単語でGoogleイメージ検索しても引っかからないんですが、人気ないのですか。

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私のmixiからの転載ですが。

センスの良い人というのは、その必要条件の一つとして、何かを見分けられる能力を持っている、ということが挙げられると思います。何かを見分けられる、というところで思い出すのは、マッキンゼー出身の人の書いた本にはよくMECEという概念です。これはMutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの略で、訳せば「互いに重なりなく、全部集めたら漏れがない」ということになります。問題分析に関してはこの方略を取れ、とのことがコンサル本とかにはよく書かれてます。その一方で「MECEは役に立たない」とか本のレビューに書かれていたりで、そのあたりに個人的に齟齬がありました。では、役に立たないと言われるのは何故かと考えると、やはり一つのものを複数に分割する能力、見分けられる能力が欠乏していない人にとっては、 MECEなど役に立たないお題目になるのではないかなと。レストランのメニューであれば簡単にMECEが適用できますが、一つの現象、例えばビジネス上の問題であれば、MECEは一つの指針になれど問題を分解するのにてこずる人も多いはずです。もちろん、MECEを適用できるフレームワークを多く記憶している人は、いろいろな状況でもMECEを使えるのでしょうけれど、ちょっと新奇な場合とかは困ると思います。

また成長する手法のために、本を読め、とよく言われます。読書量が多いとどうなるかというと、やはり言葉に触れる機会が多くなり、言葉を単語レベルでも多く習得すると思います。そこで思い出すのが、哲学者・丸山圭三郎が主張した身分け/言分け構造です。我々は身体と言葉によって世界を分節している、と。だから言葉に触れる機会が多いと、もしくは単語の貯蔵量が多いと、世界の分節がしやすくなるとは考えられないでしょうか。もしこれが正しいのならば、読書量に裏打ちされた言葉への親しみは、問題や現象の分割、MECEの適用にも十分な効果を発揮するようになるのだと思います。だからビジネスセンスを磨くために本を読むということは、非常に的を射たアドバイスではないかなと。それだけでなく、そのビジネスの問題へのてこずり感の面白さと、作品という一つの現象への直接的な付き合い方というものは、どこか似通っているような気がして、そんな直感から、作品をよく読める人はビジネスでも成功できるんじゃないかと、そんな感じがしてます。

sosuitarousosuitarou2007/01/24 13:05>ナナリー
僕もしょっちゅう検索するのですが,がっかりすることしきりです.

cognicogni2007/01/24 13:10疏水さんの絵を見て初めて検索してみたんですけれど、ないですよねぇ…。
でも、ナナリーのエロ同人が引っかかったら引っかかったで、「こんなのナナリーぢゃない!」と叫んでしまいそうです。

tt2007/01/24 15:40話をもうひとつ先へ進め記憶の忘却に隣接するものとして存在の消滅と感情の消滅を設定する。前者の代表が死、後者の代表が浮気などの心変わり。ONEの忘却は存在の消滅の前触れとして描写される。感情の消滅が主眼となるのが「カードキャプターさくら」で、誰かを好きでいるという気持ちの在り方が永遠に失われるとされる。前者がキャラクター中心主義だとすれば後者は関係性中心主義。存在が先行するか認識が先行するか。存在の消滅を絆という関係性で繋ぎとめたなら関係性が絶対的に先行するのか。

cognicogni2007/01/24 22:45C.C.さくら、詳しく知らないんです。申し訳ないです。
で、ONE。ONEについては、存在の消滅への不安、とだけで表せるのか疑問です。(制度的に考えれば)存在の消滅の前触れにおいて、私が他人から(、、、、)忘却されるという構造を取っている以上、むしろ存在と関係性の分かちがたさをONEでは示しているとも言える。他人との繋がりを求めることで存在の消滅から免れるのも、その分かちがたさが麻枝氏個人の感覚の下で通底しているからこそのものではないか。ただしここでは、存在と関係性のどちらかが先行している、とは少し言いにくい。まぁ、個人的にはそれらは独立分離不可能なものとして扱いたいのです(分離はできないが、区別はできるという扱い方によって)。だから、ONEがキャラクター中心主義というのは少し乱暴すぎませんかね、と。
ONEにおける存在の消滅が死を意味するのなら、通常ならば誰かの死を描きそれを嘆くという構造を取るギャルゲー(e.g. 加奈とか)と比較して、ONEは自らの死を描いたという点で一品だったということも言えそうですが、どうにもそれは拡大解釈過ぎるしあまり面白くないような…。
学校行ってきまーす。

tt2007/01/25 09:02>存在と関係性の分かちがたさ
その言葉の当否はともかくとして、ONE においては通常想定される関係性に近しい概念が欠落しているために忘却が存在の消滅に直結している、という言い方が成立する。もうひとつの世界は少女との盟約と同質で関係性はダイレクトに時空間と連結している。具体的には、少女とヒロインは一見すると主人公を奪い合う関係のようだが実際は顔を合わせないし互いを排除しあう関係だとは思っていない。ここで嫉妬や独占心など関係性の過剰発動が発生する可能性は最初から排除される。セックスを過剰要求するだけで絆が壊れることに注意。セカイにキミとボクだけしかいないと指摘される根拠だが、一方で一人のヒロインと結ばれる結末を無数の分岐から選択する構造上、分岐間の排除しあう関係を分岐後のテキストに織り込むことは選択を無効化し分岐シナリオの効率悪化を免れないことを考慮するなら、嫉妬関連の排除は ONE の絆に不可欠であったと言える。
話を戻して、ONE における関係性は忘却前も後も世界から分離される以前の状態にあり、別の言い方をすると日常という単語の範囲内にある。

cognicogni2007/01/25 14:18みずかとヒロインとの非排他性については首肯しました。そして『嫉妬や独占心など関係性』の非過剰が永遠の世界発動からの要請であることも、的を射ていると思います。それが「忘却=存在消滅」に結びつくのは、なんというか、凄いというか、私がこれまでに見たことのない、非常に面白い指摘だと思います。正直かなり感動しました。せっかくだからもう少し見通しが良く出来ればいいんですが、うーん…。
「忘却前も後も世界から分離される以前の状態」というのがちょっと不明瞭で、解りませんでした。誰から忘却されたのか(他人?ヒロイン?)、誰の状態なのか(浩平?他の人々?)、忘却後って永遠にいった後か前か、というところが。あと、これは個人的な悩みなのですが、『日常』が事後性の仮構物であり、現在の日常は無根拠だというアシュタサポテの論を取った上で、今木さんらによる指摘である麻枝准の視点の特異性から導き出された「現在の幸せな日常は、幸せであるために、いずれ失われてしまう日常である」などというテーゼを考慮すると、ONEにおける日常という言葉の使い方が結構混乱してます。

riynamqriynamq2011/03/18 23:52EcLzD1 <a href="http://clvkrwjsrgii.com/">clvkrwjsrgii</a>, [url=http://jhvibevfwamr.com/]jhvibevfwamr[/url], [link=http://gvtfmeuckapx.com/]gvtfmeuckapx[/link], http://ezgvjewhnnmt.com/

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2007-01-22

[] ルミナス、「本当は」  ルミナス、「本当は」 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ルミナス、「本当は」 - こぐにと。 cognit.  ルミナス、「本当は」 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

完璧に風邪を引きました。頭痛いし鼻水止まらないしでいろいろと遅延が…。

で、頭が動いていないままスタバ行ってルミナス再読。最高。まさにファーサイドを感じさせる展開がもうね。隣接する体系とか論理と超光速とか、字面だけでも興奮。そして我々は世界を共有している、と。すぐそこにある不思議。しかし内容を人にいまだ説明しにくいという点で、まだ理解は7割も到達していないのだろうなぁ。まったく、イーガンは天才です。

朦朧としたまま昨日mixiに書いた感想があって、まあ今も目が痛くて大概頭が働いていませんが、その感想のなかで、ある漫画における表現論の一つとして、台詞のフキダシとキャラとの間に横たわる空白の距離が建前(=台詞)と本音(=キャラ)の間にも遠い距離がことを図像的に明示しているのではないか(更にそこでは効果の線や背景音なども書き込まれない白である)、と(ある程度の前提を踏まえながら)書いたものの、そもそも本音と建前という区分けこそが、その作者の言語への信頼に一躍買っており、また言語による誤解が物語を牽引しているという点でも、結局言葉は解釈できるものであるとしているところに、またシニフィアンとシニフィエをまるで分離できるかのようにしているところに、作者の健全さというか楽天さを感じつつ(ただし以降の巻ではあまり感じない)、その区分けこそが問題になるとはそのときあまり書かなかったのですが、恐らく躊躇すべきはそこであって、エクリチュールの空間性とかいう井筒のデリダ論を思い出しつつ、また最近のルル様の動機をめぐる一連の話を振り返りつつ、いわゆるラノベ感想サイトで二月ほど前に見た、「本音は語れない」とかゆー素朴すぎる形で否定神学的に定義され実行的である『本音』という言葉に不満を持つのはきっと、この前「現実と虚構の区別がついていない」とtさんにゆわれて、その言葉が通常は悪い意味での用法に扱われていることを知っていながらも、正直うれしかったようなところと同じような部分にその土台を置いているのかな、などと思っております。むしろ、そのフキダシの中の言葉の手触り、言葉の質料性とでもいうべきものが、本音と建前という二項対立を可能にしながら(時間的差異において)無効にする媒介項であることに、また抒情は書いても逃れてゆくものと発言するとき、単に記述では言い表せないものと言いあらせるものという素朴な二元論を擁立するしかないということに、郡司的に私は反撥したいと思う。例えば「これはリアルだ」などと発言する際に、きわめて単純にリアルとフィクションのクリアカットな区別が導入されていることは見て取れるだろうし(実在するカップに「これはリアルだ」とはゆわない)、その発言に対する気持ち悪さといったらもう髪の毛をぐしゃぐしゃとしたいぐらいの気持ちに駆られるのですが、そうした文脈で、言語化できないものとしての「本当は」というものは、恐らく求めても無駄であって、言語、特にエクリチュールの脱時間性と認められるものが、この気持ち悪さの原因ではないかと、本日ふと思いまして、いやそれも違うなと違和感を抱いているのであります。ただここで言いたいのは、動機を言語化した途端にそれが本当になる、とかそういうことではなく(それは事後性に依拠するなんかだろうし)、動機が言語化できるという前提への反撃でもなく、つまりその違和感を感じる過程を言葉の質料性を用いてどのように理解するか、という点で、なんとなーく悩んでいるのです。

それと、お名前の件、お許しいただけたようで、ありがとうございます。

KhalidKhalid2012/04/21 20:23This is the ideal aneswr. Everyone should read this

pfehicpfzpfehicpfz2012/04/22 09:07WI9FJs <a href="http://aqvvzafzjeld.com/">aqvvzafzjeld</a>

jadjnonxwcjadjnonxwc2012/04/22 19:48pSSvXI <a href="http://cknyjyvoenrz.com/">cknyjyvoenrz</a>

fdrjjksjqlfdrjjksjql2012/04/23 17:04A0BhM1 , [url=http://ejlietmofgbc.com/]ejlietmofgbc[/url], [link=http://iivqekhinjkn.com/]iivqekhinjkn[/link], http://afiqicbfvsfu.com/

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2007-01-21

[] ルミナス  ルミナス - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ルミナス - こぐにと。 cognit.  ルミナス - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

『ルミナス』がうちにやってきた!

ということで、某さんにお勧めされたイーガンの『ひとりっ子』を、今すぐ読むべきだとお勧めされた即日に日本に帰っていた友人にメールで連絡し即効で頼み、昨日見事に届けていただきまして(ついでに他の本も)、受け取って直後に図書館のカフェテリアで読んでいましたが、公衆の面前でずーっとにやにやしっぱなしになってしまい(覚醒したところをピークに、なんか、なんか、すげぇ、でっかい。すごい)、いやもうなんていうか、幸せ。こんなの見せられたら、SF最高、と呟くしかない。そりゃこれに比べればイーガンに比較されるチャンのSFマインドを疑わざるを得ないですな。いまだ興奮冷めやらぬ。ていうか、順列都市もそうだったですけど、あのアイデアであの展開を見せるのは確かに凄いというしか。

まー、とにかく、もう一回読む必要があることは確かで、今日は頭働いていないので明日にでも。時間があれば。

しかし不満だったのは奥泉光による巻末解説で、なんというか、「人文科学の学生って、ほんとに視野が狭いんだから」(p. 84)という感じで、「この小説をネタに無闇に社会とか階層性とかだけ語ってグロテスクとか言いやがってこいつはまっとうすぎてロマンの欠片すら感じられない!ばーかばーか!ちんこ!」とか小学校低学年レベルな煽りを思ってしまい、同じ解説のなかで順列都市の計算についてああいう理解を開陳することが余りに普通すぎて陳腐すぎて、それでいいのかと怒りながら、ルミナス読んだ直後に期待しながら解説だからついつい破り捨てたくなるぐらいの沸騰しちゃう具合だったのは、おそらく、順列都市のアイデアの実現後に現れてくる世界だけに目を向けて、その過程とか論理のステップとかそういうの書いてないあたりに不満があるのだろうと思いますが、今でも自分では解っておりませんので、とりあえず順次言葉にできたらいいなぁとか思っております。

ちなみにそのあと読書会→飲み会と続いたのでルミナスしかまだ読んでないんですが、まあ適宜。

コードギアスのOPの感想とか、擁護(?)をしている方々の言葉は勉強になるなぁ、と思ったりしており、それがたとえ良かった探しだとしても、その良かったというところを言語化できるというのは凄いことだ、と思いながら、まあこういうことがあってもよかったかな、と、そういう感想になりつつあります。

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2007-01-19

[] ともだち、コードギアス、階段  ともだち、コードギアス、階段 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ともだち、コードギアス、階段 - こぐにと。 cognit.  ともだち、コードギアス、階段 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

去年の四月からプライベートモードで土にもぐってましたが、たぶん今は太陽の下で友達を作る時期なんだろうと思うことにしました。気分はそういう気分かもしれません。帰国したときオフ会とか誘ってほしいし(←地元に友達いないのかと泣くところ*1)。数年ぶりに実家に滞在してる期間は家族からニートとか家畜とか人類の敵っぽい扱いを受けそうで想像するだけでつらいです。実家怖いよー。

コードギアス話つづき。ルルたんがナイトメア戦で弱いのは別にいいんです。白兜と互角に戦ってほしいとは思わないし、負けるのもいいし、おっちょこちょいでもかまわないし、わんぱくでもいいから強く育ってほしいと思ってるし、「え?ルルのことを可愛いと思わない人類なんてこの地球上に存在するの?」と考えてるぐらいにルルかわいいよルルだから何をしようとされようととりあえず全部許すんですが、それでも、格闘ゲームなら"Perfect!"とか出てきそうなほどのノーガードノーダメージで負けるのは情けなくてかわいそうだし、何度も負けていたら頭いいはずのルルの学習能力すら疑ってしまうので、せめてちょっと白兜がガードする反撃をくりだせるできるぐらいに強くしてあげるとか、そんなちょっとだけでいいのでなんとかしてあげてほしいのです。

既にはてなキーワードの『黒歴史』入りしているかのコードギアスOPですが、あのわけわからんボーカルの人が愚痴をブログで書いたらしく、そのあまりの痛ましさにはたと「その愚痴はロックなパフォーマンスに違いない」との結論に思い至ったのですが、OPで傷ついた心証が変化するとかそんなこともなく、教えてもらった2chスレまとめからたどったミュージックステーションのライブ映像に大声で笑ってしまったので、まあそれによって心がずいぶんと落ち着きまして、とりあえず次からはOPを飛ばすことにします。あのバンドはこのまま突き抜けてほしいというか、ここでなんか謝ったりしたら興ざめに違いないのですが、でもOPはやっぱり変えてほしいです。14話は放映されていると思うのですが、まだあのままなんですか。そういえばあのMステの映像は観客がいなかったからか非常にかわいそうで見るからに哀愁を誘う映像に仕上がっていたのですが、ていうかやっぱり生だとボーカルがばかばかしいほどに下手だと思ったのですが、たとえライブ会場でああいうパフォーマンスをやられても、あれをどうやって楽しめばいいのか理解に苦しむと思います。観客の中に飛び込む、とかはまだ理解可能だけれど。

最近のコードギアスを見ていて不満に思うのは、この前も書いたのですが、やはり周りの情況が描かれていないという点で、正義の味方というからには個人の話もしくは小さな人間関係の中に回収できるものを作ってほしくないという希望があって、たとえば生活を脅かされるからという理由でアンチ黒の騎士団の日本人もいるだろうし、他の国も黒の騎士団を見習ってレジスタンス活動が活性化しているとかそういう話を盛り込んでほしいと思っているのですが、実際コードギアスで一度はそれをやってくれたわけで今もまだ期待しているわけでして、というのは9話なのですが、9話は基本的に嫌いですけれどあのホットドッグ屋のイレブンを描いたところは非常によかったと思っています。あと、ルルはもっといい子だから、そんな復讐とか妹のためとかばっかりに焦点をあてず、周りのことを気にしている1話とかで見せた優しさにもちゃんとライトを当ててほしいなと思います。あともちろん社会への怒りと自らの無力とかその辺のこととかも。

階段について。昨日「階段成分が足りない」と書きましたが、疏水太郎さんが「階段を好む」と書かれていたのを見て、なるほどと首肯したことを思い出したのですが、ほんとう階段というのはおもしろい場所で、たとえば二人がそこで出会うとしたら、いつだってどちらかが上でどちらかが下で、その空間的な上下関係はまるで人間的な上下関係に転置してしまい、上に立つものが審判を下す者、下側には下される者、という絶妙な配置が暗示されるという形になってしまうと思います。その辺をうまくあらわしていたのは、Fateの凛が夕方の学校の階段の上でたたずむというCGだと思うのですが、というかFateで覚えているCGなんてほとんどそれぐらいなのですが、あれは夕方の学校というだけでも個人的には「卑怯な!」とか思う舞台なのに、それでいて凛が階段の上で仁王立ちしてこっちを睨みつけてくるという点で、これから起こる出来事を暗示しながら夕日の中の少女を見上げるっていうのは、いやもうまじ素敵で、構図と情況と象徴とが非常にマッチしているCGだからこそあの場面を記憶していたと思うので、そういうのを考えると、これまでふと記憶に昇ってくるシーンというものは確かにそうした絶妙な感覚があったからこそそして何かに引っかかっていたからこそじっくりと記憶の底にたまっていたのではないかと思い、そういう引っ掛かりを言葉にしていってどんどん忘れていきたいなと思っている一方で、昨日の新海誠氏のあれは力が感じられないというか、「空映すことしか考えてねぇだろ」という11月の感想が当てはまってしまいそうな気もして、一つのシーンを見るにも色々動体視力とかが必要になってくるものだなと、今更ながら感得するのでした。階段といえば、ゲーム版AIRのオープニングもまた印象に残っている階段で、空に続く階段をあのゆっくりと摩擦を感じさせどんどんと登っていくシーンは何か無茶なエネルギーを感じて泣いてしまうのですが(というか未だにあの階段がなぜOPに描かれていたのかすら解らないからとりあえず麻枝氏の感性が無茶して差し込んだのだろうと思っているのですが)、あれはアニメ版AIRのOPでも残されているのかと、Youtubeとかでなら確認できるにもかかわらず帰国後の楽しみに取っている私としては、あのシーンが滑らかな風に改定されてたら京都アニメーションを見下してしまうかもしれません。逆にあまり良い印象を持っていない階段はTH2のオープニングの階段かなぁ。あれはいまいち。

ついき:疏水さんの名前、これまでずっと間違って書いておりました。今の今まで気づかず、申し訳ありませんでした。さきほど全て訂正しました。

ついき2:他のことでも間違っているところなどありましたら、是非教えてください…。

*1:いや、予定はいくつか入ってるんですよ!といちおう脚注で友達づきあいをアピール。

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2007-01-18

[] コードギアス話続きと新海  コードギアス話続きと新海 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  コードギアス話続きと新海 - こぐにと。 cognit.  コードギアス話続きと新海 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

RSSで読んでる方も、コメント欄でたまにコメントを入れてくださる方もいて少し掘り下げていたりするので、そちらも読んでいただけるとありがたいです。

milkyhorseさんのところからのアクセスが20ぐらいきてて凄いな…と思ってたら、milkyhorseさんのエントリがどっかの個人ニュースサイトに出てたようで、そこから大勢飛んでくるようです。どれだけの人が長文をぜんぶ読むのか解りませんが、個人ニュースサイトは相変わらず健在ですねぇ、と。でも読者が増えると面倒なことが起こりやすいので、なんというか、どうしよう。

今回で日本解放戦線がつぶれたということは今後は尻馬に乗ることができなくなって、本格的に黒の騎士団がブリタニアの第一の敵という立場に立つことになると思うのですが、今後の反逆と革命がどうなるのか、ってのが争点になりつつも、まぁとりあえずシャーリーどうにかしなきゃいけないので色々問題は山積みで、そういえば革命っつっても、その革命という概念が先に実在しているということを考えるのは恐らく間違いだ、the revolutionを求めるのではなくwhat is revolutionary act?とaskしろ、というのを最近日本語にも翻訳された"Fragments of an Anarchist Anthropology"(アナーキスト人類学のための断章)で読んだ覚えがあるのですが(読みにくかったことは覚えている)、まぁそんなわけでこれからのルルーシュたちの革命はどのような道をたどるのかと心配しつつ、evatakaさんが確か「スザク、スザク、いつだってお前が正しかったんだ」(最果てのイマぽく)という結論もありうるかもね、とコードギアスが始まった頃に仰っていたと思うのですが、個人的には「お前の…指図は受けんよスザク…!」とか「決心してくれたのか……やっと黒の騎士団の支部長を引き受けてくれるんだな?これで俺の黒の騎士団も磐石だ……。世界は…、代わりの人間が…、二人で…、二人で…」(白い巨塔ぽく)という結論のほうが好きかなと思います、ルルが死んじゃ嫌ですけれど。あとそういえば、コードギアスの後半のスピード感って、やっぱりショットの切り替えの早さとかそういうのに起因しているんでしょうか。その辺は映画理論の本をきちんと参照してからのほうがよさそうということで借りてきたのですが、いつ読めることやら…。

アニメといえば、新海誠氏のムービーが年々劣化しているように思える件について、新海誠嫌いの人の意見を見つけようとしているのですが、どうにも礼賛ばかりで滅入ります。どういう検索ワードで検索すればいいのか。efのデモムービー(http://www.youtube.com/watch?v=CvNlpnM79n4)が出たときに書いた感想と愚痴はhttp://d.hatena.ne.jp/cogni/20061128にあって、とても表に出せるようなものではないのですが、愚痴の要点をまとめると「諦観うざい。瞬発力がない。動体視力が要らない。台詞が抽象過ぎ。その口から物語とか言う権利はあるのか」とかそのあたりで、なんというか最近その自分の意見は言葉が足りないような気がしてきて、何が気に食わないのだろうと考えていたりしています。efにおける空と逆光の描き方(絵自体は綺麗だからなおさら)とか絵の構図、全体の繋がりが嫌い、というのは変わってませんが。それはほとんどじゃないのか。だけれど、まぁ、不自由さが感じられないとか、摩擦がないというか、無防備すぎるというか、なんか全体的に(台詞も含んで)キモくないですかefのあれはさすがに。一つ具体的に言えるのは、階段成分が足りないということで、新海氏っつったらキャラの足の動きが見所(問い詰めゲームの電車から降りるところや、はるのあしおとの元気に走り回る女の子たちとかの足が元気に動くところを思い出しながら。上半身の動きだけ見せられたんじゃ足りない)だろうと感じている自分にとっては、efはただ新海氏の手抜きムービーでキモいところしか残ってないような気がしてきて…と書いてて自分の語彙の貧相さに軽くへこみますが、なんかあれを認められない自分は確かにいるといったところで今日はお開き。

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2007-01-17

[] コードギアス13話とJPOPなど  コードギアス13話とJPOPなど - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  コードギアス13話とJPOPなど - こぐにと。 cognit.  コードギアス13話とJPOPなど - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

編集画面からアクセス元を見る限り、最近は一日たぶん20アクセスぐらいあるらしくてありがたいかぎりです。RSSの人は換算されていないだろうから、もう少しいるかもしれませんが。

いつのまにか仇名がーしかもマリラー、というのは前に書いた覚えがあります。

http://broadband.biglobe.ne.jp/geass/。ということでコードギアス。

新OP。この微妙さは何だ…。改悪ですよねこれ。そもそも9話ぐらいからちょっぴりOPが変更されていたのもあれは改悪だったと思っていたりするのですが、というのは、COLORSの最初のドラムとともに入ってきてドンと大きな音が来るところで、ゆっくりと力強く歩むルル様の顔にアップしてたじゃないですか変更前は。COLORSの音楽としてのできがどうあれあれだけで第一期OP肯定だったのに、途中から凡百な光の玉が迸る様に変えたりしてさ。しかし今回のは酷いというか、曲名どおり解読不能というか歌詞が聞き取り不能なのですが、ああいうのがJPOPの売れ線なんですか。そりゃあ「JPOP好きなんだけどそれでも売れ線とは少し違う好みでちょっと普通とは違う自分の個性をアピールしたい」という数だけは多そうな自称マニアックな音楽好きの層に受けそうな微妙に外した声と楽曲って感じでそれなりに売れてても別にいいんだけどそれだけじゃねぇかなあと思ったのですが、そういうのを作るのはいいとしてものすげぇアニメーションと組み合わせいにくいもん作ってくるなよ、というところにわざとこういうの作ってきて「お前らわかってない俺わかってる」とかゆってそうな高校生並みの思考能力を発揮してる感がびんびん感じるのですが、これは被害妄想ですか。ていうかああいう、なんというか、気だるげで「本気で歌ってませんよ」的な感じがするシニシズムを体現したようなそれでもどこか無理した声が嫌いで、若さとかいう言い訳でスルーはできないので本気でどうにかしてほしいんですが。見る気なくなるですよ。オタにそんなこと言われたくないっつんならオタ唸らせるものを作ってこいや、と。いやマジでへこんでます。良いところを探すとしたら、あの日本の女の子の手の位置が女の子女の子していたところが良かったということぐらいである。絵ですが。

一通り愚痴ったので本編。ナレーションがC.Cさんに変わったような。今回のナレーション内容は割と好きかもしれません。あとやっぱり全般的に音楽が良い。挿入歌はStoriesというのですか。サントラ買おうかな。雨と断絶。悩みと雨はよく似合う。「王の力はお前を孤独にする」とC.C.は言ったけれど、その通りであって、孤独に耐えるとかそういう馬鹿馬鹿しい言葉ははかないし、人は一人で悩まねばならないし、悩んだ後は眼を血走らせて突き進め、ということで作戦開始。ルル様弱い(泣)。もっとナイトメアの練習するか、もっと性能の良い機体を与えてあげてください、ずっと負けっぱなしでそろそろ本気で情けなくて可愛そうです(号泣)。しかし後半からは本当に凄いですね。全速力だ。次回予告も粋なアップだけで先を見せないという点で非常にどきどき。まったく、なんという面白さ。

で、今回はルル様悩む回。スザクも悩む回。C.C.もシャーリーも独立して生きていて互いの思惑が交錯していき、そして何より視聴者である私にとっては麻枝准ファン標準装備であると思われるところの匂いセンサーがC.C.を押し倒したときに過敏に反応し、「C.C.ってどんな匂いがするのだろう…?」と頭を悩ませたに違いない回。ナナリーは結構解りやすそうな甘いほんわかした匂いが主に髪の毛からしそうなのですが(だって髪の毛ふわふわですよ?)、C.C.は一向に解らないので(風呂入っているかすら解らないので)悩みぬいた末に『無臭』というところに落ち着きました。異論反論お待ちしております。

解っているけれど悩まなければならないときというのは必ず存在し、自分が絶対に正しいという自信を持っているにもかかわらず理不尽に圧し掛かってくるのは責任という名の概念である。『正義の味方』とはルル様に付き従ってきた我々には耳に新しい言葉であるが、気鋭の社会学者北田暁大の主著『責任と正義』がその名より示すとおり(入手できないので読んでないがタイトル名が示すとおり)、正義と責任は切り離せず、そもそもにおいてその二つは同義であるとも思えるときすらあるのですが、それら概念が実在するかどうかは脇に於いておいて、正義の行使において結果が惹起されそしてその結果の発生において因果関係が遡行されて、他者の介入と行為の個別化をとおし行為者に帰属させられた当の結果は副産物として責任という名を与えられ、例えばたまたま(、、、、)そこにいて巻き込まれて死んだ人の責任は誰に帰せられるべきかという問題が発生し(「殺していいのは殺される覚悟のある奴だけだ」)、その責任という副産物は潔白なはずの正義という観念を現実でもまれることを強要してその観念に摩擦を引き起こし("we need friction", Wittgenstein)、観念がいかなる矛盾をきたそうとも行為によってその矛盾が消されるかのように、それでもなお進むというところにルルーシュの気高さを感じるのは自分だけではないだろうし、同様にスザクもまた理想を掲げる一人として私は好感を持って迎えています。スザクうざい、というのをどこかで見た気がしますが、個人的にはうざくないです。あのような事件において「問題はない」とすっきりと言ってしまえる浅いニヒリズムに陥るよりかはよっぽどましだろうし、『問題がモンダイなのだ』において哲学の劇場の方々が定めた問題という定義、「問題は人に不確定な状態を生じさせ、なんらかの対応を迫る」というもの(らしい)のように、問題はWittgenstein的(であろう)に解消されねばならないが、それでもなお問題が解消されない場合には、自らの言葉と自らの行為の間に横たわる徹底的なまでの違和感にたいして、叫ぶ以外に何が出来ると。

「お前さえいなければ!」「お前がいるから!」はまるで漫画によくある悪魔と天使の葛藤のようです。その前にあるルルーシュの科白、「立ち止まることはできない」「流した血を無駄にしないためにも」は恐らくその言葉の嘘くささにルルーシュも気づいているはずで、それでも「社会が悪いんだ」との一言すら吐かず大人のせいにしないところが、我々ガキに許されるせめてもの誇りではありますまいか。そもそも正義の味方という言葉は『Fate』でもやられていましたが、新しい時代の幕開けを告げるかのように見えた17分割を描いた『月姫』の奈須きのこ*1ですら、Fateにおいては正義の味方を個人の問題として片付けざるを得ず、やさぐれ正義の味方アーチャーに対して士郎は「―――決して、間違いなんかじゃないんだから……!」という他人の否定という糞つまらん手法で自己肯定をして何ら自らの正義の擁立や補助をなんらしておらず、またVNの制限ゆえにだろうか、正義の味方として守った多数の無関係の人々のことをほとんど描いていないという時点で、Fateの正義とかいうものは正義ですらなく、キャラクターのために使われるただの補助概念としての正義なんて糞くらえであると思っている私はもちろん、Eagletonのように正義はありうると思っているし(でしたよねイーグルトン)、Derridaのように正義に近づいていかねばならぬと思っているし、正義の当否を馬鹿にするならまだしも正義の存在を馬鹿にしている奴らは敵だ敵とか思っているからこそ、コードギアスではきちんとそのあたりを描いてくれると信じていて、だからこそ彼らの煩悶と叫びは私自らのものと受け止め傷つかねばならないはずだ。

奇襲、というものはかの蓮實重彦が言うように、何かしらのきっかけがその存在を事前に知らしめるものであり、そのきっかけというものは「何もない」といったような何かの不在であることが常であることを、「静か過ぎる」や「誰もいない」「作戦がうまく行き過ぎている」などという言葉をもって、我々は十分に知っているはずである。しかしそれでも「お前にはもう動揺したり立ち止まる権利などない」のであって、前回のキスシーンの背後に降り注いでいた雨がまるで再来するように、自らの情けなさと問いの繰り返しにシャワーの中で一人床を叩き、海辺の水が爆発によって降り注ぎ開戦を告げるという降雨の共通性をもって、その散らばる水という概念の象徴性がコードギアスの世界では作劇を行い、それが夜の帳と重なり合ったときに一つの行為の結果が生まれ、前回の終盤にあわせるかのごとくルル様とシャーリーの邂逅が果たされたと。他はいつもの通り、高いレベルの水準で。

OPについて再び。まぁ、私はJPOPというか音楽全般を聞かないほうなのであのOPの音楽の評価の仕方は解らなく、私が取り逃しているような良い点とかいうのがあれば皮肉でもなく是非聞きたいと思うところです。どういう風に受けがいいのかというのも気になるというか、音楽の楽しみ方が拡がるにこしたことはないのです。ていうか、I'veも最近というかここ五年ほどぱっとしないし、ave;newは聞くに堪えないし、頼みの綱は麻枝准のLoveSongと智代アフター(体験版の音を聞く限りかなり期待)ぐらいしか。しかしLoveSongはriyaさんが作詞というところが少し心配。私は基本的にJPOPの歌詞は嫌いで、「たとえ」とか「もし○○であったとしても」とかゆー歌詞が聞こえた時点で胸糞悪くなる性格で、JPOPは何のいじめかそういう曲がヒットに多いような感じなので「ふざけるな!」ということになって、ほとんど聞かないわけです。そういえば最近のエロゲーでも音楽はあまり盛り上がっていないような気がします。2000年前後が音楽的にも異常だったのでしょうか。まぁ私は夏影があれば生きていけると半ば思ってて、実際1GBのMP3プレイヤーの中には夏影と残光とpodcastしか入れていないという状況で、麻枝信者なめんなという感じです。最近ちょっといいかなと思ったのは、『さくらむすび』のデモムービーのピアノ曲と、たしかeufoniusの何かの曲をMADで聴いたんですけれど、それなりによかったのでその辺のグループに期待してます。あと何か良い曲があったら教えてください。

*1:「月姫はネロ戦で終わっていれば良かったのだ」派。それ以降は蛇足と言う名のおまけにしかすぎない。遠野家ルートはそれなりに面白いとは思うけれど別に小説でもああいうのは読めますしねー。Fateは面白いが個人的に面白くないていうか力が感じられるのは月姫である。

rulia046rulia0462007/01/17 22:08>「C.C.ってどんな匂いがするのだろう…?」
 どう考えたってピザの香りなのでは?

cognicogni2007/01/17 22:27ピザは盲点でした。「女の子=いい匂い」の等式を自明だと考えていたので。
でもピザの匂いにすると幻想的な雰囲気がなくなってしまうので、ギアスの力でなんとかしてほしいです。

cognicogni2007/01/17 22:34しかしタイアップがこんなところ(ヒロインの匂い)まで影響するとは思いもしませんでした。ルルーシュの部屋はピザの匂いがしていても構わないので、C.C.は許してあげてください。

rulia046rulia0462007/01/18 02:12 ちょっとだけ。「殺していいのは殺される覚悟のある奴だけだ」は「他人を殺す者は自分が殺される覚悟を持て(さもなくば殺すな)」の妙にわかりにくい言い方で。「殺される覚悟していない人を殺してはいけない」の意は発言時にはないのではなかろか。
 一方で、ルルは本気で弱者の味方でもあるので「自分が殺される覚悟をすれば他人を殺していい」と思ってるわけでもない(それはブリタニア皇族式の発想で、反逆の対象だろう)。
 それはそれとして。イタリアあたりにはピザ臭漂う美少女ちゃんもそこそこいるのではないかと思うんだけど(偏見?)。ピザ差別反対。

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/01/18 05:44ピザがだめなら酸っぱい匂いで妥協するとよいと思います。
蒸れ蒸れムンムンの美学。
奥襟の垢染みた匂い。

>「JPOP好きなんだけどそれでも売れ線とは少し違う好みでちょっと普通とは違う自分の個性をアピールしたい」という数だけは多そうな自称マニアックな音楽好きの層に受けそうな微妙に外した声と楽曲
それ一般にはファッションヒップホッパー・FLOWの悪口なんじゃ。

「解読不能」についてですが、キレのあるギターリフ、パワフルなボーカル、激しいドラムプレイ、重たいベースライン、漢語、それも破裂音を多用することで攻撃的な響きを帯びさせられた、対句を多用したテクニカルな歌詞と、ダサカッコイイ、とか称するには微妙な、今時本気でカッコイイと言っては正気を疑われる、実録・たかされロックンロールとも言うべき美意識に貫かれていて、大変好ましい、と俺などは思うのですが。360度どこからみても多摩のロクデナシなビジュアルもポイント高いです。
毛色の違うJPOP、というよりは、今時珍しいロックンロールなのだと思います。
そのあたり、まさに反逆的な楽曲・バンドなのではないかと。

映像と合ってないのはひとえに前OPからの流用が多いからだと思います。

cognicogni2007/01/18 10:54>rulia046さん
「殺していいのは殺される覚悟のある奴だけだ」については、いちおうもともとのルルーシュの言葉の文意は理解しているつもりです。この前simulaさんもその発言について、コーネリア総督の発言と比較しながらエントリを書いていらしましたし、前後の文脈を照らし合わせればrulia046さんの仰るとおりだとは認識してます。上記で8話の「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」をちょい変更して引用したのは、単なる思い付きで、文章の意味が二義あって面白いんじゃないかなー、という感じでした。自分でも書いてて微妙かなと思ったところでしたので、ご注意どうもありがとうございます。
ルルーシュは本気で弱者の味方であろうとしていることは解るのですが、最近はその辺迷走してるかなぁ、というか、多分日本の他の人の情況が描かれていないせいでしょうけれど、本当にナレーションどおりに「母の復讐とナナリーのため」に傾いてきているような気もします。ルルーシュには正義の味方としてちゃんと頑張ってほしいです。

ピザ美女はきっといるとは思うのですが、C.C.には似合わないと思います。匂いというものはキャラクターの性格や外見を含んだ全体を示すべきであると思うのですが、たとえば「殺すな!」(#1)とか叫んで見知らぬ少女が自分の前にざっと出てきてふわっと彼女の匂いがしてきたとき、それがピザの香りだったらあのシーンの何かが損なわれるというか、個人的にはとてもとてもへこみます。「え、ピザ?!」みたいに。別にピザ差別してるわけじゃなく、ホットドッグでもラーメンでもだめですから、もうちょっと、こう、俗っぽさをなくした匂いの方がC.C.にはあっていると考えてます。あ、カレーならわりといけるかもしれません。甘口の匂いでさりげなく子供っぽさが含まれていると好ましいです。

>K_NATSUBAさん
>蒸れ蒸れムンムンの美学。
それは個人的にはマニアックすぎる嗜好の位置づけといいますか、ハンドルネームの頭にMのつく方がKanonを再プレイしているときにアップしていた日記に、「栞のストールの、特に握り締められてた部分の匂いを嗅ぎたい」と仰っていたのを見て、「この人には敵わないな…」と思いました。

えーと、FLOWについては良く知らないんですが、あれってJPOPの王道みたいな感じがしたんですが、ファッションヒップホッパーなんでしょうか。COLORSのイントロは良かったなぁと思ったものの、曲全体は可もなく不可もなくという感想だったのですが。いや、私のJPOP観はHello,Againぐらいで止まっているものでして、小室あまり好きでなかったし買ったJPOPのCDなんて片手で数えるほどもないので本当にJPOPのことは知りませんから、自分の曲評価に関しては的外れではないかといささか不安です。

で、新OPの曲ですが、ロックと名づけられると何となく許せるような気がしました。私のロック観はとりあえず許容範囲が広いとかそんな感じです。あと反逆的といわれると、コードギアスに合っているかもと説得されてしまいそうです。でもなんかどっかで聞いたことがあるようなメロディのような気もします。ということで、やっぱり声は嫌いですが、アニメと同期させない単体の曲としてはまあありかな、というレベルで。ただやはり、CDを買うところまではいかないとは思います。映像については、個人的には、ヴィレッタさんがアンニュイな顔で髪が解けながらどこかに吸い込まれて行くシーンで、ヴィレッタさんの代わりにオレンジことジェレミア卿が出演していたら全部ネタとして許せたかもな、と思っています。

あと、私、関東には三度しか行ったことがないので多摩がどこかすら知らないです。

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2007-01-16

[] 舞シナリオについての思いなど  舞シナリオについての思いなど - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  舞シナリオについての思いなど - こぐにと。 cognit.  舞シナリオについての思いなど - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

TV版Kanonで舞シナリオが終わったらしいです。

あのシナリオには思い入れがあるというか、Kanonでギャルゲーの洗礼を受けたことは前に書きましたが、その中でも最初にクリアしたのが川澄舞だったはずなので、私というギャルゲーマーを生誕させるに至った(ここで嗚咽)のは舞と佐祐理さんという上級生で三年生の先輩方であり、また麻枝准と言うその人であり、私はそのことを今振り返れば、なんというか、誕生させなくてもよかったんじゃないかとか思いながらも、嬉しいといえば嬉しい出発点だった思います。だからこそ、TV版Kanonにさしたる興味はないのだけれど、麻枝准のファンとして舞シナリオラストと真琴シナリオラストだけはDVDでも借りて視聴しようかなと思っていたところ、同じく麻枝准ファンであるところのもりげさんがTV版舞シナリオへの不満を語っておられ、「ああ不安が当たってしまったか」と少しばかりKanonを見る気を失いました。というのはもちろん、舞シナリオ終盤の整理されてなさをどう扱うかということが事前の心配事としてあったのですが、従順にシナリオどおりにしたら意味解らないし、かといって希釈したら意味ないし、「とりあえず短くて麻枝成分が摂取できるシナリオは?」と誰かに問われたら「…じゃあ麻枝汁100%の舞シナリオかなぁ」と答えるであろう舞シナリオ終盤の強度をいかにして動画で表すかがアニメ化における問題であって、舞シナリオ終盤の整理されてなさは「あれがいいのだ」と麻枝ファンならば恐らく口をそろえて言うところで、もりげさんの以下のような記述はひざを打ってただ首肯するばかりです。

舞シナリオは、物語ではなく、音楽にたとえるべきものなのです。なんだか知らんが不条理にも絶望の底で夜の校舎をボロボロになりながら駆け回り続ける羽目になって、そうやって世界が闇に閉ざされていった末、唐突に――そう、唐突に!――あの米畑(原作ではnot麦畑なのだ)が広がる感覚が。伏線ほとんど皆無の状態から、無理やりに受け入れるしかないあの説明の衝撃が。無駄に薄まっている。

http://www.exa5.jp/morige/20070115.html#p01

私の意見を付け加えるならば、そもそも舞シナリオは動画には絶対向かないのです。なぜなら、突然の麦畑(細かいところですが、画像はどうあれ、テキストでは麦畑になっております)の出現、そしてまるで記憶の奥底からフェードインしてくるあの奥深しくも密やかに何かを祝福するような『残光』の音色と、その抒情あふれる音と同期するようにフェードインしてくる見知らぬワンピースの少女(黒髪ロング)!かの存在は不条理だからこそ衝撃でありあのわけわからん具合がよいのであり、あの画面が完成する一瞬の煌きのために物語は無駄に長い間サスペンドされてきたようなもので、シナリオの起伏のない長さがあの一瞬を引き立てるという構造を有しており、何よりあれはあの瞬間が発生する瞬発力の問題であって、私はこれまであのシーンほどに物語の瞬発力を感じたシーンは10数年ぐらいのゲーム経験の中でもないのですが、だからこそ動画みたいに『突然』を中々示しにくい媒体では向かないシーンでもあって、そういう点でスタッフを無碍に責めるのはいささかつらいものがありますが、それでもやはりきちんと表現して絶賛を受けてほしかったと思うのがファンの心情と言うものでしょう。もちろんこれは真琴シナリオもそうで、草むらにたたずむ真琴、飛んでいくヴェール、そして子供のように泣きじゃくる真琴、というのは静止画でしか表現できないと思います。動画だと予備動作が必ず入ってしまって、それじゃダメなのだと私は訴えたい。意味の前に強度が来る体験、というのはそう中々ないのだから、それは大切にしなければ。そしてONEにおいて『永遠の世界』と初めてであったときも似たような感覚があったからこそ、しかし『永遠の世界』はそれ単体で効力を発揮し、シナリオ全体という点ではONEにおける麻枝キャラはいささか弱いと考え、私はKanonの舞シナリオをもって、麻枝純度の高い麻枝シナリオとするのである。AIRは長いし、ONE成分は舞シナリオのほうが強いし。

つーことで、私が昔書いたゲーム版の感想も上げておきます。長いよ。

舞クリア

ずるい!

というのが最初に出てきた感想でした。麦畑で立ちつづける少女はずるい。その画面だけで泣いてしまうではないですか。彩色が良いのも関係しているのだと思うのですが、夕陽を跳ね返して黄金色に光る草原ってイメージは素晴らしい。音楽が変わる、ってのもずるいです。舞ーっ!舞ーっ!あとはえっと、一人佇む少女、ってのは麻枝氏のチョイスとして好きですね。これは心理的にでもあり空間的にでもある。舞は麦畑で待っていて、観鈴ちんは堤防で風を受け、渚は桜並木の坂道で佇み続ける。出会いは空間と心理の同時的な邂逅でなければならない。まあ、麻枝氏に限らずよく使われる手法ではあると思いますが。新しい場所には新しい出会いが待ってるものなのよ。ただし上記変遷は、夕方(舞)、昼間(観鈴)、朝(渚)であって、その辺は一貫した要素はなさそうです。むしろ逆に日中の時間性に依拠せずに出会いはあるとも言える。夜において演劇練習中の渚と出会ったことも含めて考えれば。

まぁ、ラスト近辺は全体的に説明不足で、速度と強度だけで駆け抜けていく、というのはどこかで指摘されているとおりでした(再プレイしても印象変わらず)。それを難解といって持ち上げるよりも、説明不足と切ったほうが多分的確でしょう。ただし説明しすぎると速度とかテンポが落ちる上に、何を言っているのか解ってしまう。解ってしまうのはよろしくないです。最早時系列とかは関係ないので加速して駆け抜けろー。あと切腹描写も結構簡素で、感情移入なんてできませんでしたよん(そこと対比すると、子供舞と母親とのシーンは気合入りすぎで実感篭ってるとか思いました)。切腹に至るまでの詳しい経緯はhttp://www2.odn.ne.jp/~aab17620/kanon_mai.htmとかhttp://www6.airnet.ne.jp/mandn/favorite/mai_txt.htmlを読めばそれが何故起こったか、という舞の心情の因果関係としては解るんですが、まぁ舞の心情を解りやすくしてみたところで我々が受けた強度の経験の説明にはあまり寄与してないんで、その辺りをまごまごと語る必要がありそうだ、と。ぼくは語彙も知識も解析ツールも足りないんで、とりあえず間違えが多いと思いますが、プライベートモードだしねぇ、とか思いながら。えーと、ここでの強度(intensity)というのはDeleuze的な使い方です。

Affect is inteisive because it happens to us, across us; it is not objectifiable and quantifable as a thing that we then perceive or of which we are conscious. Affect operates on us in divergent ways, differing in kind -- the light that causes our eye to flinch, the sound that makes us start, the image of violence which raises our body temperature. Deleuze therefore referes to intensities. (Colebrook, "Gilles Deleuze", p. 39, 原文ママ)

解説本からの引用はちょっと恥ずかしいのですが、Repetition読んでないので。

こういう文脈でいくと、今木さんが阿部嘉昭を引きながら論じていらした野島伸司の『唐突さ』というやつのほうが、強度に関しては重要である。引用するには長いので、http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200310.html#24へどうぞ。これら唐突さに加えて、(恐らく意図的であろう)人称切り替えを加速していくことにより、視線をどんどん混同させていく。最早我々が見ているものは祐一の視線を通した風景ではなく、何かを見ていること(、、、、、、)そのもの、イメージの奔流そのものとなり、そこに意味を見つけさせないとする強迫的ですらある継起的な強度の発生において、脳を直接揺さぶられるような、「とにかく凄いことが起こっている」なる感情を引き起こすのだ、とか。この辺についてはもう少し考えよう。

あと、上記舞解説のURLで触れられなかった言葉でぼくが泣いたのは、

ただ、もし、その嘘が現実となることを願う少女がいて、

そのときより始まったひとりきりの戦いがあるというのなら、

そこには最初から魔物なんてものは存在せず、

ただひとつの嘘のために十年分の笑顔を代償に失い、

そして自分の力を、忌まわしき力を拒絶することを求めた少女が立ちつくすだけなのかもしれない。

と詩的なモノローグが続いた後で、こういう言葉が来たところでした。

一瞬の、ほんの数日の出会いから。

(号泣)

あとは場所性ですか。CLANNADとかに通底するところで、astazapoteの林さんが確か言っていたように、思い出は空間的に束縛されていなければならない、という。記憶は心理的なものだけで想起するものではなく、場所が触発して想起するものでもありましょう。ただし心情よりだというのは、学校にせよ麦畑にせよ、あまり具体性が感じられない。麦畑というイメージだけに牽引されているような感じがするのは、恐らくCLANNADの桜とは違って想起させるのが一回だけだからというのもあると思いますが。あと動物園という本来地理的な言葉が単なる(空疎な、願望の)言葉として何度も宙に浮くのは不思議な感じです。えーと、他のゲームなら『約束の指輪』とかになるところをあえて空間的なものに持っていく手つきはとてもよいものだと思うのですよ。ウサギの耳は正直ご都合主義が見え隠れしていらないと思ったんですが、舞はちっさかったのだ!という一点において全肯定。ウサギの耳をつけなければ同じ高さにならないほどちっさかったのです!どんなにちっさかったんだ!

まぁ、「こうあるべきだ」ってのが先行する人たちの振る舞いにはほんと弱いわけで。その「べき」というのが過去の嘘とか過去の罪とかそういうのか、過去の贖いだったらどうしましょうという感じで。その所作は保身のためとかじゃなくてですね。観鈴ちんだって、友達ができないのは呪いのせいだということをぼくらは知っているけれど、観鈴ちんは自分のせいだって思ってるわけですよ。自分で理由を知らずとも自分が泣いてしまうということに呵責を感じて、笑わなきゃ笑わなきゃっていうのはベタかもしれませんけど大好きだ。

えーと、今は真琴やってます。今は、という表現は的確ではないが。

http://d.hatena.ne.jp/cogni/20061013

で、今のところベストは舞。舞というか、舞と佐祐理さん。舞と佐祐理さんというか、舞と佐祐理さんと俺(最早祐一と同化)。ずっと三人でいません?あの幸せ空間とあのイメージだけで押し切られる感覚だけで敗北。そういえば初プレイ時も舞からクリアしたよーな記憶があります。子供っぽいお姉さんだけどお姉さんらしいお姉さんとかそういうのに割と偏っていた時期だったのだと覚えています。舞は(以下3kb妄想略)だから好きです。舞ーっ!

http://d.hatena.ne.jp/cogni/20061014

基本的にはこれら感想とほぼ変わりませんし、こちらに既に上げている舞シナリオについての感想も今のところ大きく変更するところはありません。ただ、エンディングはなんか微妙ですよね。そりゃハッピーエンドだけど、何か、なんというか、足りない。

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http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20070115#p2

長さが効果的に働いているのではないか、ということを書いたのは、疏水さんが挙げられているような、疏水さんの過去の考察からかなり影響を受けていると思います。実際、上記の舞シナリオについての雑感においても、「あの一瞬の成立のためには起伏のない長さが必要だった」と書いているのは、疏水さんやもりげさんを意識してます。あと、過剰さにより現れてくるもの、ってところは毎度ながら蓮實重彦を思い出します。Wittgensteinのように、語るものと示すもの、との区別も想起したり。

量の素敵さには感慨を抱くほど首肯するのですが、ただ回数と長さは互いに量的な要素という点で共通である一方、両者はきちんと分けておくべきではないかとも感じています。まず一度会って長くいっしょにいることはできますが、短くいっしょにいることもできるというのが前提にあって。そして一回、というのは会ってから別れることを指示しているのだと思いますし、始まりにも終わりにも、何かしらの力が加わっているような。たとえば一度別れてからもう一度会おうとしたとき、何かきっかけというものが必要になって、「もう一度」を積み重ねるときには、きっかけとかいう障害を乗り越えなきゃならない。飲み会の終わりには、誰かが言い出しにくそうに歓談を止めなきゃいけない。だから、ある時間の長さT1に一回の出会いと会話で到着することと、T1に回数を積み重ねて到達することは、結構違うのではないかなと。そういう点で、「好意は回数で測られる」と「好意はいっしょにいる長さで測られる」は明確に区別されるべきだというのが私の考えです。そして、どちらかといえば、回数のほうが何となくいいような。やはり「会おうか会うまいか」を迷ったあとに会い、その回数が増えているのならば、会う前の煩悶という障害をそのたびに越えているということであり、「おはよう」などの挨拶もそのたびに交わすことになるし(挨拶はやっぱり大事です)、選択肢やマップ選択というシステムはそれを可視化させていますでしょうし、たとえ意図せぬ逢瀬があろうともそれは同じ場所に同じ時間にいたという証明になりうるという面で、長さより回数を重んじたほうが、なんとなく、素敵な感じがします。だって、大学生になって友達ができにくくなったと皆が一様に呟くのは、クラスが違うことが多くて会う回数が重ねられなくなったからかもしれませんし。

そういえば私も、マイミク登録は「五回直接会った人」という制限を個人的に設けていたりもします。笑。最近ルールが破られましたが、まあ、その辺は適当に。

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名塚佳織という名前を覚えて以来、『名塚佳織の甘えん坊ディスク』というものを作るべきだという思いに囚われているcogniですこんばんは。もしそんなのが製作されたら五枚ぐらいかって各プレイヤーに一枚ずつ入れておいてトーストとコーヒー、サラダを食しながら毎朝優雅に聞いて一日の活力にするよ。もちろん朝食の机の対面にCDプレイヤーを置いてちゃんと受け答えの反応する。「お兄様、今日は早く帰ってきてくださいね」「もちろん」「寄り道なんかしないでくださいね」「大丈夫だって」そんな感じで。内容に対応するトラック番号まで覚えて自分の気分にあった名塚の甘えん坊ボイスを選択するというダメブレードランナーの様相を繰り広げる様を誰かに見られたらキモい変態キモい変態キモーっ!というコールが聞こえてきそうですが、一人暮らしだからいいじゃん毎日の潤い欲しいじゃん、という現代人的自己肯定により特に問題はなく生活できそうです。だからまきいづみのわけわけんねー百人一首なんて作っている場合ではなく。お叱りディスクとかもわかんない。怒られたらへこむやん。「そんなんもわからへんのー?」という優しげにお叱りくださる神戸弁であれば全然かまいませんが。関西弁と播州弁にはさまれた、わりといいとこの娘が発する神戸弁なめんな。最早仮想敵が誰だか解らなくなってきたところで本文です。

基本的に他人の会話を聞いているのは苦手で、「Webラジオなんて誰が聞いてるの?」という疑問をうたわれラジオなる存在を耳にするたびに思うのですが、その文脈で考えると、名塚佳織が出ているWebラジオが仮にあったとして聞く気にはならないので、できれば私が聞いてるScientificAmericanのpodcastとかあたりに出てくれねぇかなぁ、と可能性がほとんどない夢に思いを馳せているのですが、ただやはり問題はというと、ナナリーは傍にいてくれればいいわけではない、というのがあって、観鈴ちんであれば一人で適当に遊んでいてくれるからほほえましく見守っているだけでいいんですけれど、ナナリーは眼が見えないからちょっと傍にいてずっと話しかけてやらねばならず、かといって間をおいて話しかけるときはきっと自分に話しかけられているということが視線ではわからなくて、「え、なんですか?」という聞き返しを結構しているに違いないんですが、その疑問文のアクセントがまたいいわけですよ。そういえばナナリーにギアスは使えないんですかね。使えたら抱っこさせてもらいます。してもらうんじゃなく、する。ささやか。

で、先日キャラメルBOXの新作の体験版をプレイしまして。タイトルは覚えてないんですが、全体的に立ち絵の大きさというか背の高さというかに驚きました。身長差を実寸であらわすとこういうことになるのか、という感慨とともになんか果てしない違和感というか、ウィンドウの高さいっぱいぐらいまで立ち絵があると「身長高すぎ」という圧迫感を感じたりもしましたが、主人公が小さいらしいので、そういうところを示唆しているのかなと思いましたが、でもやっぱり高すぎだろあれ。あと会話が遠い。この前までAIRとかKanonとをやってあの距離感が狂わされる会話をふんだんに積み重ねていたせいか、まあ実際にしてみれば妥当な会話の距離感だろう、と思われる会話すらも、なんだか自分とは違うところで行われているような会話の遠さを感じてしまい、唯一、義妹であるところの少女との距離感は認めてもいいかなという具合でした。やはり積み重ねてきた時間が違うのか。しかし、他のキャラとの会話も妥当なんですよ、本当にあんな感じの会話をしそうで、まあ時折筆者の悪ふざけが入るかなというところで、違和感はないんですけれど、ただどこか遠いというか、ギャルゲー的現実感がないというか、お前ら他人行儀すぎというか、ギャグがすべるというか、個人的には浩平みたいなはちゃめちゃさがもう少しほしいところですが、まぁ体験版ですし、ctrlスキップふんだんに使いましたしね。声優さんは北都さんしか解りませんでしたが、まあそもそも私は声の分別などできるほどの聴覚を持ち合わせておらず、正直言ってこちらの街のスタバなどで耳に入ってくるきゃあきゃあうるさい日本人女性の方々の声はまるで同じに聞こえるし、ていうか化粧したら顔も同じじゃないか…、ということを、この前日本人がいっぱいいたところで感じたのですが、まあ本当声優さんの声の独特さというのは凄いですね、とあのとき思って以来、男の方が声優さんと結婚したくなる気持ちがわかったような気がします。

そういえばKanonのアニメ版で携帯電話の存在はどうなっているのかなと。astazapoteの林さんが指摘していたように、携帯電話は物語の構造を多少なりとも変える(たとえば、夜の学校に入ると『圏外か』などという言葉が入らざるをえないとか)がゆえに、工学の視座は物語にも勘案すべき一なのかと思い出しまして。ほら、佐祐理さんが大怪我するとき、祐一も佐祐理さんも携帯電話持ってたらあの出来事を防げるじゃないですか。

AntronAntron2013/03/18 20:38That's a sharp way of thinikng about it.

sdpmmienvcrsdpmmienvcr2013/03/19 21:22U1zkIU <a href="http://zpnpdjebfjdp.com/">zpnpdjebfjdp</a>

accqrmtgxkyaccqrmtgxky2013/03/20 03:15u6IW4H , [url=http://dfzewjgebdlw.com/]dfzewjgebdlw[/url], [link=http://rbwllplibazh.com/]rbwllplibazh[/link], http://owxsgqadhknf.com/

accqrmtgxkyaccqrmtgxky2013/03/20 03:15u6IW4H , [url=http://dfzewjgebdlw.com/]dfzewjgebdlw[/url], [link=http://rbwllplibazh.com/]rbwllplibazh[/link], http://owxsgqadhknf.com/

thkexsmcthkexsmc2013/03/20 03:15bJbmdH , [url=http://edfjjqaebeez.com/]edfjjqaebeez[/url], [link=http://sbpglxvkspgl.com/]sbpglxvkspgl[/link], http://ybvjstoyfoxw.com/

kqkyiledjgykqkyiledjgy2013/03/22 03:21F4LZCD , [url=http://tnncbxikqtwy.com/]tnncbxikqtwy[/url], [link=http://vjipswhxznlg.com/]vjipswhxznlg[/link], http://kzrbqucqeeig.com/

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2007-01-15

[] 勢いで書くのは楽しいですね  勢いで書くのは楽しいですね - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  勢いで書くのは楽しいですね - こぐにと。 cognit.  勢いで書くのは楽しいですね - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

昨日、「明日は休みます」とかゆってたじゃないですか。あれって実は飲み会の誘いがあったからなんですが、今日いざゆかんとしていたときにメールが来て、「人が集まらないので中止します」ってメールで、「なにぬーっ!」と頭からずっこけてから本を読んでました。ミント王女さまのごとく。やってみたかったんです。そしてなんか時間余ったので(勉強しなきゃいけないんですが…)書きます。

rulia046さんから、昨日の記事が感情移入あたりと繋がってくるんではないかと示唆をいただきました。考えてましたが、いまだよくまとまりません。うーん…。

話は変わりますがたとえば。誰かが何かを見つめている顔を映して、その誰かが見ている風景を映すことを、『見た眼』と言うことはほぼ周知でありますが、その技法であらわされるものと、人と風景が一緒に写っているものの両者がどう違うのか、と問われたとき、我々は恐らく、前者の中の時間差にも注意を向けねばならず、それと同時に、誰かが何かを見ている、そのあてどなき視線が一時でも我々に向かって放たれているという、その映像に注意を払うことはほぼ間違いなく、それはまるでギャルゲーの立ち絵のようで、私のようなプレイヤーに視線を放つ彼女らは一体何を見ているのだろうと考え込んでみましたが、たどり着いた暫定的な結論は、むしろ彼女らは何も見ておらず、その何も見ていない視線の裏側に我々は彼女らの瞳というものを見出しているからこそ、私はキャラの瞳の大きさについて視線抜きで語ってきたのかもしれません。彼女は私を見ていないと同時に、私も彼女を見ていなかった。…という反省文みたいになってしまいました。

引用してみると。

 或る現実に対してある表現を行う、ということは、好むと好まざるとにかかわらず、また、特に意識するとしないとにもかかわらず、その現実に対してある態度をとる、ということなのである。すなわち、観客の側からしても、壁の前に並ぶ労働者たちの姿に感動する、ということは、自ずから、自分を彼等の見方として立場づけるということになるのである。そして彼等の立場に自分の認識を切り変えるということなのである。こうして、感情移入という心性が成立する。そこに描かれた労働者の眼が自分の眼になるので、次にその現実に対してどう反応するか、或るいはどう働きかけるか、という思索についても、自ずからまた新しい道が開けてくる。(佐藤忠男, 『映画の読み方』, p. 40-1)

この辺の話ですかね。ある現実に対してある態度をとる、ということが感情移入なのだとしたら、ですが。わりとそういう感じの言葉遣いは好きです。

今度はポエム。ブクマしてもらわなくても結構ですよ。ただ、突っ込まれても困りますが。「思う」とか省略してます。

コードギアスを布教した友人に感想を聞いてみると、「中途半端」とか言われまして、「ええそんなー、どの辺がですか」と尋ねてみると、とりあえず「少年漫画っぽくない」「スケールが中途半端」「絵柄がなんか…」ということだそうで、私は再び「でもあれは青春ですよ。思春期の頃は革命とか夢見ますよ」「見ねぇよ。あんなの青春じゃないよ。青春はスラムダンクとかだよ」「あっちのほうがありえねー!先生バスケがしたいですゆうんですか」「いやありうるから、俺中学時代そうだったから」「じゃあもしかして耳を澄ませばとかありうるとか思ってるタイプですか」「あれはありえん、けどあれはれで楽しめる」「ですよね」ということで決裂の末微妙に合意に至りましたが、「耳をすませば」が独身男性の方々からの槍玉に挙がっているごとに何となく違和感を持ち続けてきた同じく独身男性の私としては、やっぱりあれはコードギアスが面白くない(面白くないというよりは、進んで見ようとは思わない、らしい)、という人には初めて会ったので、色々訊いてみたのでした。その色々訊いてみるという所作、そして言語化しようとするその行為に、AIRという作品との対話をすることにおける一種の共通性を感じ、「抒情とは、それを説明しようとすると常に逃れていくもの」という感じのことを仰っていたのはastazapoteの林さんの言ですが、ただ常に違和と戯れるように、その違和感の只中で立ち止まりそして言語化を何度も阻まれながらもその言葉にこそ異和を見出しながらも搾り出すことこそが重要なのであって、言葉と世界とのずれの中に我が身を潜め、自らの崩壊を予感しつづけることによって、私は概念を皮相的に論じることよりも、ただ素朴に、私の言葉の不充分さに嘆きながら、泣きそうになるぐらいもどかしい感情を何とか言語化しようと試みようとしたとき、今の私はその無力ゆえに黙るほかなく、ただ一言小さくこう呟くしかない。沢近は可愛い、と。しかし何かを付け加えるのなら、私はただただこう願う。沢近が六歳ぐらいに出会いたかった、と。いやむしろ六歳の沢近がほしい。いまここに。マジで。髪の毛はもちろん金髪ロングでさらさら。見上げてる。だから中学生はちょっと大きすぎで要件を充たさない。それにツインテールはちょっとまずいんで、ちょっとやめてくれますか。あの、なんというか、倫理的に。それでねそれでね、頭なでなでしたら目をつぶってくすぐったそうにしてくれて甘えてくるんだけれど、自分はそうあっちゃいけないって思っている沢近少女ろくさいはどうすればいいか少し狼狽え気味で、なんか居心地悪そうにしているけれど俺はそんなの気にせず無理やり存分に甘やかす!このような変えがたきユーザーの嗜好が表現される場においてさえ、さて感動だ感動だツンデレだと叫びながらも、結局は似通った言葉しか出していないというところに大して無感動である私のような者は常に自らを戒めねばならぬ。我々が常々主張していることではあるが、ツンデレというものは一つにその正確に筋が通っていなければならず、彼女はある種の規定(例えばプライドの高さなど)によって自らを律しているからこそ、現実の齟齬に対してツンや『強がり』という態度をとらざるをえないのであって、単に短気な少女がかくなる称号を得られるわけではない、のではない。そもそもツンデレというその実在こそが疑われるべきであって、外部から見たときのツン/デレの状態指定にこそ問題が潜んでいるのであり、ただ内部に留まり彼女と生きることによってツンデレなるものは解消される。ただし常にこのような語りにこそ、「ツンデレという概念の本当のことは私だけが知っていればいいの」という構造が潜んでおり、『いつもつんつんしているあの人の本当のデレや弱点は自分だけが知っていればいい』という、我々がツンデレに萌えるているときの機構が垣間見え、ツンデレについて語る我々がまさにそのツンデレであることに自覚的でなければならず、それを脱する術がないことに気づいたとき、我々はツンデレという名の呪縛から解放されるに違いない。

立ち絵で背中があって、私はそれが好きで、でもアーチャー@Fateの背中は嫌いです。明穂@もしらばの背中は好きです。無防備なのが好きです。マンガにせよ映画にせよアニメにせよ、フレームに写りこむ背中という存在があるのは、ただ振り返るかもしくは別れるためであって、背中というものを示す際はそういう消滅と喪失を示唆しているからこそ、我々はあの茜@ONEの後姿に何かしらを受け取っていたのだろうし、いざ正面を向いてもらい瞳と瞳が交わったときに我々は心を揺るがされたのだろう。それはただの正面からの立ち絵だというのに。だからこそ、立ち絵はただ消えることがその第一の存在理由としてあり、我々プレイヤーはクリックや物語によって理不尽に失われた立ち絵を再び見るために、言い換えれば消えた少女との間に横たわる時間と空間をなんとか縮小するために、それを目指してゲームを進める時期があると言っても過言ではない。マップであれ選択肢であれ、我々は常に消えた、もしくは消えようとしている誰かを追い求めている。だからこそ逆説的に、マンガと眼との距離はいささかもその遠さを保証しないように、まるで触れるような近さが得ることすらできるともいえる。たとえばロングショットで横か斜めから見ると、真正面からこちらを見られる場合よりも傍観者的になり、いや正確には傍観者でいなければならないという状況になることになり、その情景からセンチメンタルな気分を出せる、という技法が存在し、だからこそ、葬式の列などは横から撮っているのだろうし、撮るべきなのであるように、そこには距離には関係しない情感が必ず存在し、存在せねばならず、その共感によって我々は遠さを克服する。

MinaMina2011/07/31 00:23I love reading these atrilces because they're short but informative.

jsdspimqmjsdspimqm2011/07/31 19:03cH6q9c <a href="http://jdziwtdtpnhm.com/">jdziwtdtpnhm</a>

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zesqghzesqgh2011/08/02 22:47plXHoj , [url=http://hgbecuhgdiwz.com/]hgbecuhgdiwz[/url], [link=http://znyfunurjmdq.com/]znyfunurjmdq[/link], http://vhsgatgovngm.com/

CjwCjw2012/12/09 02:56Thought it wluodn't to give it a shot. I was right.

adpvjmbbcwxadpvjmbbcwx2012/12/09 18:391h7V2W <a href="http://uumoqtwxoxsl.com/">uumoqtwxoxsl</a>

wpkqcrpgkjuwpkqcrpgkju2012/12/11 03:451hI9Mu , [url=http://ecfvfuxvamma.com/]ecfvfuxvamma[/url], [link=http://flwokjcslnur.com/]flwokjcslnur[/link], http://cnbhcxizkqhw.com/

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2007-01-14

[] まとめる  まとめる - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  まとめる - こぐにと。 cognit.  まとめる - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

議論が長くなりがち(良いことだと思います)なので、とりあえずこれまでしてきたことを列挙してみます。(2/27更新)

■コードギアス感想

■Kanon

■ONE

■CLANNAD

■ゲーム

■その他

こんなもんですか。

[] キャラクターといっしょにいること  キャラクターといっしょにいること - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  キャラクターといっしょにいること - こぐにと。 cognit.  キャラクターといっしょにいること - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20070114

疏水太郎さんからノーマンラブなエントリをいただきました。ありがとうございます。

Donald Normanの本は私も高校の頃に読んで色々影響を受けたと思います。『誰のためのデザイン?』『人を賢くする道具』を読んでいました(前者は図書館で読了、後者は古本で購入)が、『エモーショナル・デザイン』については発売したことすら存じておりませんでした。読んでみます。それと他にも色々と懐かしい名前(『ワンダープロジェクト』や『シーマン』、あのあたりだと『どこでもいっしょ』もそれ系ですね)が出てきて、あの頃はゆっくりしていたなぁ、と懐古しました。最近、「最近のエロゲは最初のつかみがないとすぐに止めてしまう」という話があったので、なおさらです。

キャラクターと一緒に時間を過ごすことの重要さ、というのは私も実感しているところで、観鈴ちんと出会ってからはもう6年にもなりますが、日々を過ごすごとに飽きるどころか愛しさが募っていく感じです。こういうことを感じているときもまた、頭の中では観鈴ちんと過ごす時間が増え続け、いっしょの場所にずっといて、だからこそastazapoteの2003年2月「ギャルゲーとは場所と記憶を巡って展開される形式」という定義が有効性を持つところだと思いますし、また各エロゲーメーカーがアペンドディスクを製作しそれがそれなりに売れるというところからも、その『一緒に時間を過ごすこと』がユーザーに受いれられているのだろうとも思います。会話の量を積み重ねる、それこそ「繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでいる」(astazapote, 2000/04)状態であり、あのMK2さんをして『会話の名手』と言わしめる*1麻枝准は、まさにギャルゲーの申し子であるなぁ、と常々思っております。

他にも例えば、今木さんの『智代アフター』感想で言及されておりました、石川忠司『現代小説のレッスン』の保坂についての項*2ではこんな部分があります。

 しかし「目が合う」とか「お喋りし合う」とかのたんなる物質的「共同作業」が即コミュニケーションなのだとしたら、では「深い(真の)」コミュニケーションと「行きずり」のコミュニケーションとの区別は一体どうなるのか。. . . 両者を区別するのはたんに時間の長さにほかならない。「深い」コミュニケーションとは端的に物質的「共同作業」が持続し長引いた状態を指すわけで、つまりコミュニケーションにとっては理解や交歓よりも何よりも、その当事者たちがなるべく長時間、ただいっしょにいるということの方がはるかに大切なのだ。

 したがって保坂和志の小説においては「時間」なる存在が非常に大きな意味を持つ。ひたすら時間の力によって、コミュニケーションは「行きずり」的なものからさらに「深い」ものへと、荒削りなものからさらに洗練されたものへと発酵的に移行しよう。だが同時に時間は物質的コミュニケーションのみならず、最終的にはあらゆる存在者を完全に討ち滅ぼしてしまうのだ。(石川忠司, 『現代小説のレッスン』, p. 92-3)

最後のほうは、このトピックには少し余計かもしれませんけれど、いちおうそういう反面もあるということで。

私の専門に近づけますと、空想の友達と会話する子供は良い発達の傾向を示しているとか(例えば拙サイト)、幼児はinteractiveなものを人間だと認めるという研究結果が出ています。我々成人にもそういう認知の傾向があるとして、会話というinteractionが及ぼす心理効果というものは面白い題材で、機会があれば調べてみたいです。じ、時間が…。

[] 1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど  1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど - こぐにと。 cognit.  1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ええーと、昨日のまで面白いと言われるとさすがにちょっと逆に困ります。あれは自分向けに特化されたような言葉ばかり使っていたので、まさか面白いと思われるとは思いませんでした。となると、何でも書けてしまうから逆に困ります。しかしながら反骨精神、もしくはマイルドなガキっぽさを大いに残す私は、「面白くない」という判断を下してもらうべく、今日はふつうの日記を書いてみます。

ということで日記です。

今日は窓から学校の校舎が見えるスターバックスで、去年の九月ぐらいに空気系とか言われていたもののことを時間差的にぼーっと考えていました。片手にはFregeの論文と井筒俊彦の本と郡司先生の本を携えながらそんなことを考えているのは今世界でただ私一人でしょうということで、くつくつと<単独性>を感じていました。ちなみに<>でくくっているのはそれが契機だからです。どうでもいいですね。まあとにかく、時流から遅れたときに考えてみるのはとても愉快で優雅なことだと思います。あれについては、夏葉さんの9月の一連のエントリか、genesisさんのエントリなどが非常に参考になります。というか他のところはあまり参考にならないです。稚拙ですが私も9/6や9/4などでも少し触れましたが、やっぱりAIRは『大気系』ということで、私の中ではshe is waiting in the airとなって独立したジャンルが形成されています。これもどうでもいいですね。

genesisさんは当該エントリにおいて、『テヅカ・イズ・デッド』に触れて引用されていますが、最近のid:rulia046さんとのキャラ/キャラクターの分別に関しても、そして上記の『いっしょに時間を過ごすこと』についても(genesisさんもこれを触れられておりますが)、この空気系というものは考えられてもいいんじゃないかなぁということで、なんともタイミングがいいことでありますね。

『テヅカ・イズ・デッド』にはこういう文章があります。

『ぼのぼの』の変化を「物語」のもたらす快楽から、キャラたちが戯れるさまを眺め、寄り添うことの快楽へのシフトということもできるだろう。そこでキャラたちは「物語」からゆるやかに切り離され、ただ個別に戯れることを許されている。つまり、キャラたちの「存在」が自在に組み合わされた結果を記述したかのようなテクストが生産されるに至ったのだ。(伊藤剛, 『テヅカ・イズ・デッド』, p. 53)

そして、『ぼのぼの』のキャラクターたちが、キャラKyaraとして我々の前に現れているのだ、というのが伊藤氏の主張です。このあたりは割りと同感で、『ぼのぼの』系マンガであろう『あずまんが大王』では、その登場キャラたちが二次創作的に扱われているキャラKyaraとして物語から遊離しうるように感じているのですが、一方でAQUAやARIAはそうじゃないような気がしているのです。これについてはちょっと後のパラグラフで。

そして空気系を技法的に解釈した、夏葉さんの9/11のエントリにはこんな言葉があります。個人的には、空気系というものが提唱された意義は、この言葉が出てくるところにあったと感じています。

問題はやはり『ARIA』の話柄の大きさであって、そしてそれを支えるダイナミックなカメラワークだ。

フレームサイズもショットサイズも自由自在に切り替わるあのうるささは、『苺ましまろ』や『あずまんが大王』のミニマルさとはどうしたって相容れないだろう。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060911

私はこれに大きく頷いていました。ちなみに私、AQUAしか読んだことないのですが。

AQUAでは対象全てに焦点を当てるパンフォーカスで、背景がきめ細かに描かれていることなど*3も見逃せないところでしょうけれど、やはり、壮大なスケールを出すにはそれに応じる形でのダイナミックなカメラワークと言うものが必要なのだと映画を見ていても感じますし、マンガやアニメはそれこそ映画よりも人の手から生み出されるという点で人工的で、その分カメラの設定が色々と自由が利く、というところから、AQUAなどに見られるマンガの手法は夏葉さんの指摘されるような観点で一度考えられても良いのではないかと思います。そしてまた、平均的な少女マンガの内面描写特化と対比して、そうしたカメラの切り替えのダイナミックさこそに、男の子が惹かれるのであり、AQUAが男の子のためのマンガであるという傍証になるのではないでしょうか。いや、女性の先輩方はあまりAQUAを好んでいなかったようなので。「ふーん」みたいな。

さて話は変わって、私の日記を続けます。雄大な空を見上げる灯里さんが描かれるときは、『仰ぐ灯里さんと空』の両者がコマの中に収まっていて、それをカメラがローアングルから捉えられていたと記憶しています。もしそうでなくとも、私の中のAQUAのイメージはそんな風に、風景と人が一つのフレームの中に必ず収まっていて、『風景だけ』という場面は捨てゴマ以外にはなかった、という感じになってます。

私自身は風景画というのがあまり好きではないので、こういう手法は好きです。そのコマを見ると、必ず灯里さんが立っていますから、私は美麗に書き込まれた風景だけでなく、その中にいる灯里さんのことも考えることができます。例えば、これはあくまであやふやな記憶なのですけれど、一つの印象的なコマに、上を向いているせいで顔には鼻しか読者には見えてない灯里さんと、だだっぴろい青空と、細い線で描きこまれた雲があるというとき、「灯里さんは空を見ながら、風の音を聞いて、時間の流れを感じているのだなぁ」と思います。これは灯里さんと風景がフレームの中に映っているからこそこういう思考が促されるのであり、「灯里さんはどんな風景を見ているのだろう」と想像をしてみることすらできるんだと思います。もちろん、モンタージュや見た眼の技法を使って、「一度灯里さんの顔を映したあとに、灯里さんの見ている対象(風景)を映す」ということもできますけれど、そうじゃなくて、一緒のコマに収めるからこそ、私は灯里さんのことを考えることができるのだと思うんですね。ここで重要なのは、彼女の見ている風景じゃなくて、彼女が見ている何かを一緒に私が見ていることと、私が彼女の視線になって考えられるという点だと思うのです。

これに関連するような話題で、敬愛するflurryお兄ちゃんはこんなことを仰ってました。

 前にもこれ書いた気はするけれど、ゴンドラ漕ぎの技量というのは単純に肉体的なものだけではないわけで。自動車の運転がそうであるように、先読みの能力――つまり、様々な雑多な情報の中から「出来事」の徴候を読み取る能力――が重要だと思うわけです。なのに灯里ときたら、ゴンドラを漕いでるアリシアさんの姿に魅せられてばかりで、「アリシアさんは何を見て、何を読み取っているのだろう」ということには、ちっとも頭が向かわない。

 「師を見るのではなく、師が見ているものを見よ」

 でもね灯里、それは単に、師と同じ風景を見るということではないんだよ。「師の視点を通して」風景を見るということ。

http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200408.html#16_2

ただの風景だけでなく、風景と人とを一緒に描くこと、そしていっしょにいる人とその風景を共有したり、その人が見ている風景を想像すること、こういうことができるのは、もちろん人の見る風景がきちんと描きこまれていたからこそでしょうし、そして灯里さんがすぐそばにいるからで、だからこそ、風景と一緒の灯里さんたちはキャラKyaraとして遊離はしないし、灯里さんはAQUAに住んでいて、その住んでいる空間総体が一つのいわゆるキャラクターとして立っているのだと思います。たとえば、私はときどき目を開きながら、私が盲人であった場合の風景を想像したりするのですが、そしてそのときは決まって心臓が早鐘を搏つのですが、その真っ暗な闇のなかであってさえも、確かに風景が見えてくるような気がするのでした。まぁ、盲目の人でも三次元的な視覚の能力は残っているという研究をKennedyあたりがやってるんですけれども。

で、風景画が嫌いなのはなんだか恩着せがましい感じがするから、というのと、なぜか諦念とかを含んでいるような感じがする映像が多いからなのですが、そう感じるのはなぜかというのがいまいち理解できていません。ただ、私は人がいない風景というのには出会ったことがないというのは一つの要因としてあると思います。たとえば保養地に行っても人がいっぱいですから、純粋な風景というものは私の中に記憶としては存在しないでしょう。だから、純粋な風景というのは、私にとってはただの捏造された感傷のための心象風景であって、そいつは記憶ではありません。もちろん記憶は幾分かの捏造がされるものだとは思いますけれど、純粋な風景のみの映像はありえないという自信があります。だからこそ、風景だけの映像は嘘っぽく感じてしまいます。あとmixiの『空を見上げる』コミュなんて潰れてしまえ、と思ったりします。"Back to the rough ground!" (Wittgenstein, "Philosophical Investigation", S107)。だからコードギアスは好きです。空とか無闇に映さないし。PLANETESは空の向こうに宇宙があるから空はいいものなのです。逆に言えば、ONEの永遠の世界の描写がかのようであったのは、より大きなインパクトと空虚さを残して、私の中に記憶されています。そういえば、一番のイメージショットはやっぱり『AIR』のタイトルロゴで、さざめく波の音、真っ青な海と空と白いワンピースの少女、二つの鮮やかなコントラストと夏の匂い。あれを越えるものは今のところないです。ああそういえばAIR止まってます。あれプレイすると疲れるんですよ。書くことが多くなるせいか。

そうそう、今木さんのhttp://d.hatena.ne.jp/imaki/20070114#p1は、私も感じていた『コードギアス』における冒頭ナレーションへの違和感を言葉にしてくださっています。ありがたや。ルル様の動機を「ナナリーのため」に回収してしまうことへの異和について、さらにその感が強まったのは、この前の年末年始全話放送で一話だけ見たときで(もちろん今木さんの指摘されている7話のシャーリーとのエピソードも含めつつ)、ルル様は『ムダに律儀』だからこそ、C.C.を運んでいたトレーラーの事故にただ一人向かっていって、野次馬を見下すようにしていたではないですか。そんなとき、「どうしてあいつらは動かないんだ!」とか、そういう苛々があったに違いない。そういう人でしょう、ルルーシュは。あと、ぼんやり生きている人とかが嫌いだったり、しかし自分も同様にそうであるから自分も嫌いだったり。だから、復讐とか、ナナリーのためとか、そういうことだけで動いているんじゃないと思います。複雑です。しかし、こういう『優しい』面があるからといって、12話現況のような、誰かを犠牲にしてしか物事を遂行できないときに事実誰かを犠牲にしている行為に対して、我々視聴者が「ルルーシュは強がっている」というのも違うと思います。「ルルーシュは実は凶悪なのだ」とかも違う。ただ単にどっちもできる。それだけの話で。それに「実は」とか、あんまりそういうのはないと思う。理想があるがゆえに行動する、という観点から見ると、ルルーシュは誰かに優しくもできるし、誰かを殺すこともできて、それは十分にキャラが立っていると思いますし、だからこそ私はルルーシュがきちんとシャーリーを口封じしてくれると思ってます。悲痛な面持ちで「すまない」とかゆって。今頃ルルが「シャーリーのほうが大事だ!」とか言っても説得力ないですし。もしくは、シャーリーがルルとの交渉に持ち込んで、「黙っていてあげるから、私と付き合って」とかゆって、付き合い始めて、最初は幸せなんだけど、時間が経過するごとにシャーリーの精神が擦り切れていって、18話ぐらいでシャーリー発狂→銃殺とかそんな方向しか思いつきません。

たぶん、明日はお休みします。

*1:MK2さんのKanonレビューを参照。

*2:なお、この両者は近々どこかで対談があるらしいです。最近どこかのブログで見た情報。

*3:その逆に関して、人物しか映していないという点については、『スクールランブル』を引き合いに出しながら固有名と絡めて、私が9/6のエントリで書いたように思います。人物しか写していないという点は、映画でいうフォーカスの問題に近似してくるのかな、と思ったので、パンフォーカスと対比する意味で。

cognicogni2007/01/14 13:11こういうときにZeitigung(時熟)という言葉を使っていいんですかねぇ。あの辺のHeidegger用語、まだいまいち理解できないんですよね。

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2007-01-13

[] 自由度とディスコミュニケーション  自由度とディスコミュニケーション - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  自由度とディスコミュニケーション - こぐにと。 cognit.  自由度とディスコミュニケーション - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

昨日のようなものをどんどん読みたい、とブクマコメントで仰っておられましたけれど、そもそもネタがないんですよね、アニメもラノベも地理的な問題により手に入らないという唯物論的に規定された構造があり、コードギアスは週に一回しかないし、他のWeb配信アニメを見ようとは思わないし、というか相変わらず物語が嫌いなので、適当に見繕った実学系の本を読むぐらいの趣味しかありません。そういえば今日はカフェテリアで本を読んでいるとたまたま日本人女性と会ったのですが、どうやら冬休み中にモロッコなんぞに行ってきたらしく、楽しげに「かばん盗まれました」という思い出を作ってきたようで、それだけならまだいいんですけど、その後朗らかな声で「Tさんはどうされていたんですか?」と訊かれまして、その質問は鬼門がごとく淡々と「…本読んでました」「ええーっ!」という毎回同じような反応が返ってきて「クリスマスも大晦日もですか?」「そうです」というお決まりの会話が交わされまして、そのまま少しばつの悪そうに去っていく女性、そして私はなぜか少し罪悪感を感じながら再度本に目を落とす、と。ここで脳内演出が入って、彼女は『白い巨塔』の東教授のように、ProjectXのオープニングの人たちのように、白い光へと向かって歩いていくのでした。なおこの演出に特に理由はありません。帰り際に図書館によっていくつか本を借りて、古本屋に寄って神経科学の本とミンツバーグを購入し、本日一食目である夕飯を食し、先ほどコメントを返したという流れです。…こんな感じでいいんでしょうか。こういうのはいつもmixiで書いているようなことで、私にとって書くことはストレス解消なのですが、どうにも散漫な文章は無責任になりがちで、あまりパブリックにするべきじゃないと思っているところです。

まぁ、今日ぐらいはいいか、ということで、悲劇の構造を調べ始めたJuly, 2006ぐらいから相変わらず、コミュニケーション(以下C)とディスコミュニケーション(DC)についてスタバのコーヒーの見ながら優雅に五分ぐらい思いを馳せていたんで、そういうのでよければいくらでも書けるんで、適当に書き散らします。例えばDCという単語を通常どなたかが使用する際に、Cを同定した上でのDCというものが派生的に想定されていることを強く感じるわけですが、そういうのは果たして豊穣なのかという疑念が頭をもたげつづけています。DCというものを言明するときに、局所性と規範性が分別されて、ある規範に従ってある局所について価値判断することが想定されているわけですが、その局所性と規範性に分別する手つきが問題となりうるし、そもそもその規範性、つまりどういう規則でその現象がDCであるかという判断するのか、という点が、Wittgenstein=Kripkeの規則への懐疑に載せられるわけで、その懐疑自体はなんら生産的ではありませんけれど、しかしそれが引き出す矛盾を契機とさせることはできるわけで、ある矛盾、例えばある状況AにおいてCと判断されたにもかかわらず、状況Aを一段改精緻にされた段階においてはDCと判断される状況Bがあるとすれば、それは外部観測的な立場からすれば恐らく矛盾が帰結されるわけで、ならばC/DCという対立はあくまで擬似問題として扱われるべきでしょう。もちろんここでは、かかる両者が対立概念ではないということと、そしてそのどちらもが正しいというわけではないこと、その両方が言いたいわけで、ただ両者の対立を区分けする規則の実在を措定していることが間違っているのだと言いたいわけで、決してDCが言明不可能だとかそういうことが言いたいわけではない、と。例えば昨日のコードギアスの予告から察するに、来週(ていうか既に日本では放映されているんでしょうけれど)、ゼロの正体がルル様だということがシャーリーにばれる、ということになるんでしょうけれど、このような物語構造を一文でまとめることに意味があるかと言われれば少し首を傾げつつも、とりあえずまとめてみると「これまで隠されていたことが明るみに出てきた」ということになり、ここで想起されるべきはもちろんあの使い勝手のよい『オイディプス』でしょうし、マンガであれば恐らく『スクールランブル』になるのでしょうというところを考えながら、「これまでのDCがCになったとき悲劇が起こる」という風にまとめてしまう人がいるわけで、そういうのは何の役に立つのだろう、ということを常々考えているわけです。つまり、それらにおいて想定されているのは、規範を断固として一意に定める外部観測者であって、その観測者による規則の同定であって、そんなものは決してないのだから、そういう風にまとめるよりも、そのDCとCの目的と因果の構造をきちんと把握した上で、適宜C/DCという名づけをとりあえずしておくという謙虚さとともに、視聴者である私は決して外部観測者ではなく、それでもなおその立場をとるときはきちんとそのことを留意した上で、私という内部の観測者を含んだ系のことをMK2さん並の猛々しさをもってもっと言明していくべきではないかなと思っています。ていうかですね、インターネットという媒体の有利な点は、好きな文章を好きなだけ書けるというところにあると思っていて、私の目から見て、娯楽の消費スピードは上がるばかりで、そういうのはどうにも味気ないような気もするんですよね、だから私は残念ながら映画や文学への素養はありませんが、素朴な目から見た感想を長々書ければいいな、と思います。と、また決意文で終わる。

ゲームに絡めないと…。ということで、適当に自由度について。選択肢の多さがそのゲームの自由度の感覚にそのまま直結する、と考えている人はここを見ている方にはそんなにいないと思うのですが、これについては私は皆さん同様反対の立場をとっています。というのは、最近product managementに諸事情で興味がでてきて、MBA目指してる方と一緒に勉強するかーという話で盛り上がっていたりするのですが、機能が多くなってもそれが自由と感じることとは直結しないように、ユーザエクスペリエンスを向上させるためには、選択肢(や機能)の増加だけでなく、ほかの事を考える必要があるのではないか、と考えたときに、自由度を感じる仕組み、というのを調べる必要があると思い立ったんですが、デザイン関係で高名な認知科学者D.Normanの本とかはハードウェアのデザインについての話ばかりだったように記憶しているので、MSのソフトウェアデザインの本を読む前に、このブログでゲームを主題にやってるようにもっと原理に近づこうと努力してみるのも一興かなとぼんやりと考えていたわけです。それにいわゆる『ゲームの自由度』というものがヒントになるのではないかと適当にコーヒー(グランデ;マイルド)を飲んでたわけですね。そこで社会学でおなじみの大澤真幸先生を思い出して『選択』についての『電子メディア論』からの文章は繰り返し引用しているのでここでは省きますけれども、そういえば大澤氏はどこかで「ファミレスのメニューは増えたけど、それが自由だとはあまり感じない」と発言した後に「自由には自分で選んだと言う欲求が必要なのではないか」とか言っていたように記憶してますが、私にもそういう経験はあって、例えば私は携帯電話を持っていた時期が高校入学してから半年ほどあるのですが、あの時は連絡がよく来て自由とかいうものが奪われた感覚があったのであれ以来使ってません、しかしこちらに着てからは「連絡がつかない」などと文句を言われるようになりまして、ああなるほど彼らは携帯電話で自由を感じているわけだ、と思ったわけです。ちなみにAgambenも携帯電話嫌いですね。ああ、大澤氏の例に戻りますけれど、ここで示唆されているのはもちろん消極的自由と積極的自由でありましょうし、東氏の情報自由論(http://www.hajou.org/infoliberalism/6.html)のあたりでも解説されていますけれども、ていうか東氏自身はhttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.htmlでゲームの自由について語っておられますけれども、話を戻して、後者、積極的自由に関しては、西田幾多郎その人が「意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない。かえって自己の自然に従うがゆえに自由である。理由なくして働くから自由であるのではない。よく理由を知るがゆえに自由であるのである。われわれは知識の進むとともにますます自由の人となることができる。」と『善の研究』p.144で述べているわけで、これは大澤氏の感覚と一致する、ということは恐らくこの路線で大方の方向性は掴めたかな、と思っていたわけです、なおこの大澤=西田間の類似については今のところ指摘されていないと思います。で、大澤氏の第三者の審級と合わせて欲望の正体を鑑みると、http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061225/p2のあたりが見えてくる一方で、積極的自由の問題をゲームにつなげねばいかん、というところで、まー常識的に考えて、12人の妹が出てきて誰か一人を選ぶ、という溢れんばかりの狂気が垣間見える設定だけでも驚くと言うのに、108人の女の子の中で一人選べったって正直「それは選択じゃない」と思ってしまうと思うのですが、そういう感覚の出所として、ゲームの自由度と言うものを考える際に、エロゲーの自由(http://d.hatena.ne.jp/kanose/20061020/erogame)と実行的に利用される際の自由という言葉の概念とかも抑えつつ、一度選択や選択性というものから若干離れてみるべきではないかと考えており、例えば「自由度があるから面白い」という流布されている構造を転倒させる(「面白いから自由度があるのだ」という)試みの必要性(『遊びつつ遊ばれる』構造などを考慮せよ)とか、ゲームにおける偶然性の問題(TRPGのサイコロのランダム性を想起せよ)、ついでONEにおける(意地悪?な)選択肢の問題なんかを考え出したんですが、これ以上は話が脱線しすぎだと思います。mixiではいつもこんな感じで後先考えてない文章なのでお許しください。だから無責任なんですよね。まぁ、自由という言葉の使用自体がある種類の権力や制度を含意しているのだ、などというつまらなく成果のない言説はきちんと排除した上で、自由と障害の関係については過去に書いた覚えがあるのでとりあえず放置、ここでAIRを持ってくるのですが、「AIRにおいて物語を徹底して排除した結果出てきたのは、物語の不自由ではなく語ることの自由だったと思います」と言明したことがありますけれど、そういう風に何度か自由という概念を用いてみた上で、そういう哲学や社会学の概念をうまくPMに活かせないかな、とぼんやり考えています、いえ、私、思想の話とかも書いてますが思いっきり工学系の学生なので。で、自由とは何か、という問いに意味があるとはあまり思えませんが、自由だと感じるときはいつか、という問いにはある程度の価値があると思いますし、その辺は既にd:id:hiyokoyaさんにやられていると思うのですが、そうして培われた自由と言う概念を工学的に応用することなんかは面白そうだなぁ、と思ってます。

軽く検索したら、http://blogs.dion.ne.jp/arere/archives/2531637.htmlみたいなのが見つかってへこーんとなりました。

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2007-01-12

[] 立ち絵の大きさとコードギアス12話  立ち絵の大きさとコードギアス12話 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  立ち絵の大きさとコードギアス12話 - こぐにと。 cognit.  立ち絵の大きさとコードギアス12話 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

「コードギアスはWebで視聴できますよ!」というメッセージをsimulaさんのブログから郵便的に受け取って以来、ビッグローブ様とサンライズ様には足を向けて寝れないなぁと思いながらこの子供心を大きく残す大きなお兄さん向けアニメだけは毎週見続けているという状況で、水曜日が待ち遠しいというか最近は「あ、今日は水曜日か」という具合の気がつけば水曜日なのでそんなに日々の遠近を感じることはないのですが、実は見るたびに拙い感想もいくつか書いていたりしまして、しかしその一方で結局正月の全話放送は少しだけしか見れないという状況で発言するのはなんとも心許ない、と感じつつ、とりあえず言っておくべきこととしては、ナナリーの声は、なんか、こう、いいなぁ(にやけながら)。和むっていいますか、そのですね、眼をずっと閉じているところと髪の毛の色がいい。ごめん私は視線には耐えられない人間なの。あと微笑みながら首を左に(向きは大事)傾けたりしそうなところが庇護欲という獰猛な感情をかきたててくれるわけです。それ声関係ないじゃないか、いやそんなことはなく、映像は声をどう解釈するかに大いに影響してくる…よね?言い訳する気満々ですけれど、私アニメとか声とか詳しくないので、自信ありません。ちなみに言ってることはマガーク効果とかじゃない。声優さんの声質については、2ちゃんねる声優板を覗いたことすらないという私が何か言うのはおこがましい限りなのですけれど、個人的には、透き通りはしないけれどどこか心地よいところで淀んで、名残りを残して通り抜けていく甘えん坊だなぁもうお兄ちゃん困っちゃう(はぁと)、という感じです。ああそうそう、そろそろ(はぁと)とかが臆面なく使える年齢になってきました。そんな20代前半の頃。

本題はまったく別の話なんで、そろそろ始めます。やー、ここゲームのブログなんでゲーム絡めないといけません、という風に一応自分の中では制限しておりますので。この前ぽつりと隠れブログで漏らしたことを再演するのですけれど、コードギアスはどんなに陰惨な図像を描こうと悲劇が起ころうと、その画面全体から発せられるある種の手つきはどうにも優しげな感じがします。というのは、やはり映画的手法を鑑みるに、アップが多く、またキャラクターの顔を正面からそれを捉える図が多いからではないかな、と。基本的に突き放した情景を描きたければ、俯瞰的に状況を知らしめるカメラの位置にすればいい、ということをどこかの本で読んだような覚えがありますので、その逆はしかるに、という感じで。もちろん優しさというものは、全ての場合に役立つものではなく、異常なまでにその映像を解りやすくしてしまうという欠点はあると思いますが、まぁそのあたりはスタッフがキャラの魅力を知らしめたい愛です愛、という気持ちがびんびん伝わってきて、キャラは幸せだなぁ、とくにナナリーは可愛いなぁかわいいかわいい。あの妹の声のためなら世界を壊すのも同意せねばならない。

という前座を置いて結論を書くと、美少女ゲームにおいても立ち絵が大きいと優しく感じるのかな、と。例えばKanonの立ち絵の大きさについてはびっくりするほどで、キャラが一人分しか描くことが不可能という、「いたる絵前面化!」というユーザーを歓喜と失望の渦に巻き込んでくれそうなシステムが採用されていたわけですが、いたる絵が出たら幸せというパブロフの犬な状態の我々がいざ他人に勧めようとするとき「…大丈夫、慣れるから」としか呟けないという具合だったではないですか。しかしいざやってみると、Kanonのように立ち絵の大きなゲームではキャラが一人しか表示されないという点で、以前の視線の話も含めつつ、何かしら効果があるものではないかと思います。そしてその一つが、なんとなく優しく感じてしまうものではないか、と。保証はないです。実験しないと。それと今頃思い出したのですが、三人の立ち絵が(キャラ同士が一切の重なりがない形で)表現されたゲームをはじめてやったとき、割と違和感と驚きがあったんですよね。一つ当たりの画面の配置分量が小さい、というのはその違和感の一つの要因ではないかと思うのです。ゲームの名前忘れましたけれど。まぁこのあたりの正誤を調べるには、違う画像を用意して遠近少し変えて実験してやればいい話だと思うのですけれど、質問紙の作り方が難しそうだ。うぐぅ。

ついでにこっちにコードギアス12話の感想を書いておきます。ちなみにこういう上から下へ滴るような出たとこ勝負の文章スタイルはmixiで採用しているのですが、パブリックにするのは初めてじゃないかなとか思いながら、「mixiでコメントつかないんです…(泣)」という愚痴をまずは吐かせてください。どうでもいいですな。まぁ、まずシャーリーの絵のくびれが艶かしく描かれていて、愛されているなぁ、と思いました。ルル様とシャーリーの身長差もさりげなく描きつつ、シャーリーの可愛さアップ!、としか反応できないような構図が二回ぐらいあったような。そして「るっ、ルル!」「はい(裏声っぽく)」と答えるルル様の性格、突然のことにはあんまり対応できないところとか、ルル様はおっちょこちょいなところがあるところとか可愛いなぁ、と。可愛さしか読み取ってないところは批判されても仕方がないのですが、可愛いものは恥じることなく可愛いとゆうべきだ。しかるのち後悔すべきだ。

しとしとと雨降る木々の中で抱き合う恋人、というときに注目すべきは、その雨では決してなく、傘と塗れた髪であることは自明であって、まるでこれが平然だとも言うように規則正しく反復的に鳴り響く雨の音の中で軽く音を立てて落ちる傘といい(しかも傘は二人の姿をきちんと一瞬視聴者から隠してカメラはミディアムへ!)、夜の雨という象徴を効果的に使いつつ、塗れた髪・涙とまざり生気のない肌に滴る雨・立ち込める雲とともに光と影のコントラストを極限にまで抑えるために背景へ林を配置することといい、そのまんまなタイトルの予告を見ずとも、あまりにその一連の動作と映像が絵になりすぎているという点で物語の文法に沿っていることが予見されるから、あの短いキスシーンが既に崩壊の予感に包まれているあの映像は、映像への素養のない私のような視聴者は酷く悲しげでただただ無音にその画面を見るしかありませんでした。そして雨の音だけが残響する。というよりも、ロングショットからのキスシーンなんて既に何かを予感させるつくりになっているものなのだから(俯瞰させることの客観性と抒情について参照せよ)、画面上の二人には試練があると初見の人すら分かってしまうほどに分かりやすいまでの画面の表情を読み取りつつ、愛情に包まれているシーンはきちんと唇を過度に見せるような形で現れていた(と思う)点は映画を見れば明らかだし、コードギアスならば11話のC.C.の映像と対比して見るべきところであったように思います。対比と言えば、少なくとも、ルルの瞳にはシャーリーの泣き顔が映っており、シャーリーの瞳にはルルの顔が映っていないという点は対比すべきだ。あれが示唆することは最早言わずとも分かるように、一つの事実に対して、二人がどのような私情と感情を持っているかという、その徹底的とすら言えるズレ…もうあとは省略というか、素朴すぎてダメな着眼点だと(自分のことながら)思う。…いやむしろ見るべきだったのは、空の模様だったのか、と思い直しつつ、アニメでは風景は情景という単語と置換可能であるとかいう陳腐な一般化はとどめておき、思い出してみれば、前半パートでは日常と青空の対比をしつつ、後半では非日常と夜との対比という分かりやすさ。事件が起こるのは常に光と影のコントラストが明確になる夜であって、淡々と流れていく時間の上でそれに反抗するすべはなく、夕方すら抜いて語られるその出来事の唐突さは、ストーリーの加速に充分な影響を与えていると思われます。ただもちろん、ここでの学生の日常という概念は、我々エロゲーマーというか私は鍵っ子なのでONEを取り上げますけれど、というかastazapoteを読み直していたのはこのあたりの関連なのですが、あのような日常にギャルゲーによって発見された『日常』からの影響を少し感じるのは近いのではないかと思うのです。そしてその上で、そうしたギャルゲーの様相すら見せるコードギアスの昼パートとピカレスクロマンな夜パートは、その実物語上は明確に絡み合っていることが「ルルは昼寝が多い」などという9話ぐらいのシャーリーの発言で自明であって、いざ今回において昼のキャラが夜にきっちりと絡んできた点は、ただの言葉だけではなくイメージがようやく侵食してきた、と解釈するべきではないでしょうか。つまりこれからより混乱をきたしていくと言う分かりやすい予兆であると。もちろんここでコードギアスの分かりやすさを闇雲に批判するのは間違いだと思いますし、というのは、どうしてここまで分かりやすいかということを考える際に避けて通れないのは、コードギアスのテーマに即す形でその作品特有の時間性を考慮せねばならないということで、恐らく作品の時間性を考える際にはARIA(アニメ見たことないけど)を少しばかり思い出してもらえばいいわけですが、展開のスピードを上げていくには美少女ゲームとは違い日付を明示しないなどという作法を通りつつも、萌え萌えか懊悩するかの二択であるたるいアニメに馴致されてしまった大きなお兄さんである我々視聴者たちをその圧倒的なスピード感についてこさせるために分かりやすくせねばならないという制限が強く利いているところではありましょうし、しかもその分かりやすさをきちんと描けていて表層的過ぎるという違和感を抱かせることがないのは、最早演出のなせる業なわけでほめられる点でもありましょうから。

むしろ最近気になっているのは、この監督特有とさえ思える、幾度も足を見せることであって、CLAMPの絵は基本的な嫌いな私としても、きゃールル様!という発言が出そうになるぐらい脚線美と、そして歩くにせよ動きにせよ、足の見せる表情(今回はシャーリーのが特に)というものに対しての敏感さについては、幾度かの作文が必要ではないかと思うわけです。私は考察や批評なんて大仰なものは目指さずただ感じたことを書くだけですが、そういうの書くと無責任な文章になるので、そういうのはmixiでやります。チャオ。

あと最後に、アニメは静止画の連なりではなく、動画であり、その運動にこそ敏感でなければなりませんが、あのような淫靡な運動をしている眼鏡娘はどうにかしてください。何よりナナリーは彼女に喋りかけすぎで、なんか変なフラグが立ちそうで、一人のお兄ちゃんである私はナナリーのことがとても心配です。

追記:思い出したんですが、シャーリーのアップが多かったのは、やはり最後の雨に濡れる涙の顔を際立たせたかったためでしょうね、と。書き忘れていたので追記しておきます。

sosuitarousosuitarou2007/01/13 01:47立ち絵の大きさについて,予備実験的なものとしては昔,秋風氏が実施してます.http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/cha4.htm 調査法の問題点も含めて,よくまとめられていると思います.ご存知だったかもしれませんが,念為.

tt2007/01/13 05:40昔、いたる絵の進化についての考察がネットのどこかに転がってたんだけど見失いました。えーと、要するに画面に対するに顔の比率じゃなく瞳の大きさの比率を考えるという趣旨で、ONEからKanonにかけて画面の構成変化に合わせるように顔の描き方も瞳を極大にする方向に進化し、結果として、瞳の拡大による「内面」描写の強化へと大きく傾斜した、という話。確か、ONEの製作チームがTacticsを抜ける際のエピソードも絡めての考察でした。(URL知ってる人がいたら教えてください
これと対比して、ササキバラ・ゴウ氏あたりからは、エロゲーの立ち絵で服の下の乳首が強調されることへの指摘(エロコミックやフィギュアからの表現様式の輸入)があります。Kanonのようなアップでは、当然ながら胸や腰つきなどは画面に入りません。
いたる絵の瞳の話の傍証として思いつくのはPLAYMの「リアライズ」、メーカーの紹介ページを見てもらえれば判りますが、この作品では画面に同一人物の「立ち絵」と「顔のアップ」が並びます。この顔アップ配置、ちょっと他では見ない珍しい画面構成で、真の理由は不明ですが私は「リアライズ」の頃の水無月氏の絵柄の変化(顔全体に対して目の比率が極めて小さくなり「リアル」になった)によって、従来の立ち絵では表情の微妙な変化が見えなくなってしまったための画面構成ではないかと思いました。(新作の「レイナナ」では改めて目が大きくデフォルメ化されています)

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/01/13 08:32ナナリーの外の人こそガード不能http://b.hatena.ne.jp/entry/http://lapis.dameda.net/d/200204.html%2320020413のフレーズでおなじみ名塚佳織です。『コードギアス』の声優陣から彼女の声に反応できるってのは、いい耳だと思います。

cognicogni2007/01/13 12:32錚々たるメンバーからコメントをいただけて、恐縮です。

>sosuitarouさん
ご教示ありがとうございます。恥ずかしいことに、秋風氏の実験を読んだ覚えはあるのに想起できませんでした。きちんと検索すべきだったこと、反省します。
改めて読んでみると、秋風氏の記事の内容はとても参考になりました。調査結果だけでなく、アンケートへの意見なども見るに、立ち絵一つにしても考えるべき点がまだまだあるのだなぁ、と感じました。

>tさん
一通り検索してみましたが、URLは引っかかりませんでした…。読みたいので、また後日再度検索してみます。いたる絵進化といえば、最近のいたる絵に味がないように感じるのはどうしてなのかも気になります。
ササキバラ氏の仮説は、鬼畜系ゲームのリアル志向な絵柄では服の上からでも乳首のでっぱりが見えるキャラがいたりして、その仮説も当てはまりそうですけれど、いわゆる萌えゲーでは少し違うような気がします。tさんの仰るようにデフォルメされているので、もう少し記号的というか、吾妻系統のマンガからの影響が大きいと思っています。このあたり、『思う』ばかりで申し訳ないのですが…。また、疎水太郎さんが上で挙げてくださった記事では、「でっかい方が親密感を感じる」という言葉がありましたけれど、親近感という言葉も感情移入と同じくなんか微妙な言葉だなぁ、と。こっち関係の話題で一つ覚えているのは、『SNOW』(未プレイ)の「だっこシステム」という奴ですけれど、あれは成功していたんでしょうか。
『リアライズ』、未プレイなのでHPを見てみました。http://www.playm.co.jp/realize/system.htm。tさんの仰るような効果、表情を良く見せるための顔のアップというのはありうる話だと思います。『痕』の頃は水無月氏の手による瞳は結構大きめだったと思いますし、瞳の変化があったこと(特に楓の瞳)を覚えています。また、そのあたりはあの高橋氏が気づいていないわけはないでしょうし。『リアライズ』の上記画面を見た限りでは、顔同士が向き合って目線がかち合っていると、なんだか対立しているような、ゲームで言えば格闘ゲームのロード中の画面の構図のような感じがします。リアライズは能力バトルものだと窺っていますので、そういう対立をにおわせるような効果も狙っているのではないでしょうか。そういえば、格闘ゲームで思い出しましたが、一般ゲームでは『ガンパレードマーチ』がバストアップの立ち絵を使っていたように記憶しています。…一般というか、あのゲームの消費のされ方はギャルゲー的だったようにも思いますが。例えば二次創作多すぎとか、その辺の点で。
竹内オサム『マンガ表現学入門』からの孫引きですが、フレームにおけるキャラクターの遠近について、マンガであればこんな指摘もあります。
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人物を小さく描くロング表現は、大事件や、社会的につながりのある大きなテーマを描く時に使われます。それと逆に、アップやバストショットは、個人的な小さな物語に向く構図です。
『少女まんがの描き方』p. 174
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>K_NATSUBAさん
声優サッカーまでこなせる夏葉さんのような方にお褒めに預かって光栄です。ガード不能というのも、なんというか、良いたとえで、しあわせです。
コードギアスの声と言えば、7話かそこらのコーネリア総督のセリフで、憂鬱そうに「殺せ」というのを聴いたときは、とても男前で感動しました。あと、一年前ぐらいに授業中で発言した白人の女の子がすっごいアニメ声で感動したことがあります。友達になりたかったです。ちっちゃかったです。

tt2007/01/13 13:29ササキバラ氏の指摘は(確か「新現実 Vol.2」での指摘でしたが)、私は「人物を小さく描くロング表現」以外に、「顔ではなく身体を軸とする構図」の文脈を見出す取り掛かりとして捉えました。舞台でのライブの演技や踊りに近い捉え方です。
あと、メッセージウィンドウの横に表示される発言者の顔アップの文脈と、3Dダンジョンで表示される立体配置のキャラクターの文脈の混合は、個人的課題として常に念頭にあります。この違いを強く認識したのはオーガストの「 Princess Holiday ~転がるりんご亭千夜一夜~」からで、この作品では膝上からの「立ち絵」と発言者の「顔ウィンドウ」が画面上で並存するのですが、顔ウィンドウが台詞にあわせて表情をころころと変化させるのに対して「立ち絵」のほうは変化のパターンがなく、同一画面に同一人物の異なる表情が二つ並ぶという状態になります。表情に思い入れるタイプである私からすると、この状況は強い違和感を感じるのですが、テキストへの移入の度合いのほうが強い人(疎水氏は確かそういう自己申告をしていたはず)は異なる感じ方をするかもしれません。とまれ本来であれば「ノベルエロゲーの立ち絵」も「顔ウィンドウ」からの系譜を引いているはずなのですが、ここで(おそらく予算や技術の問題で)改めて「身体を見せる立ち絵」と「表情を見せる顔ウィンドウ」の分裂が生じています。
また、Kanonと同じ率での顔のアップが印象的な例としては「サクラ大戦」シリーズ、口パクの形が声優の喋る声にあわせて「あいうえお」の形をなぞるなど、顔のアップにあわせて特化した技術とあわせてこのタイプの代表例と言えます。あわせて『ガンパレードマーチ』については、マップ画面上でキャラクターたちが既にいるのとあわせて考えるべきだと思います。RPGや戦術シミュレーションなど、ゲームのメインシステムが他にある(そして会話するキャラクターのグラフィックがシステム内に配置される)場合は「会話するキャラクターの表示」はサブシステムですから、画面の中心ではなくサイド側に配置される(やや顔ウィンドウ的な扱いになる)のは至極当然な流れであると思います。
>『思う』ばかりで申し訳ない
私は「私は思った」ことしか書いてないのでお構いなき様。

cognicogni2007/01/13 16:03「顔ではなく身体を軸とする構図」、ですか。うーん、そのあたりは私の実感としては今のところないので、私はもうちょっと考えてみる必要がありそうです。
『Princess Holiday』の事例は興味深いと思いました。立ち絵とウィンドウの顔との差異に慣れればそれまでかもしれませんけれども、そうした差異がどのように感情移入などを阻害するか、などという点で、調べ甲斐がありそうです。あと、『「ノベルエロゲーの立ち絵」も「顔ウィンドウ」からの系譜』、とのことですが、例えば反論として、AVG系列の『ポートピア殺人事件』などでのドット絵全身が、徐々に前面に出てきたのだ、という仮説も立てられると思います。それはさておき、立ち絵の出現時期は気になるところですが、美少女ゲームにおいて立ち絵が出現するのは女の子の魅力を引き出すためには、バストアップ前後の立ち絵を用意するのは当然とすら思えます。もちろんこれは、遠近法的倒錯かもしれませんが。うーん…。PC-98ぐらいのときは違うのでしょうか。美少女ゲームについてはKanonから入ったような新参者なので、そのあたりの知識がなくて私にやっぱり歴史は無理っぽいです。
顔について。口パクは今の美少女ゲームでもそれほど実装されていない感じがします。最近やってないので、現状の詳細は知りませんが、あくまで印象として。しかし『サクラ大戦』(未プレイ)でそれがやられていたとは知りませんでした。少し路線をずらすと、やはり今度は立ち絵の身ぶりについて気になってきますね。なんか印象的なのあったかなぁ…。
ガンパレとRPGの関係について、すとんと理解できました。ただ、あれは結構立ち絵が大きかった(cf. http://www.alfasystem.net/game/gp/introduction.html)ので、やはり割とギャルゲー的だと思います。まぁ、このあたりは程度問題でしょうけれど、立ち絵の存在やその大きさによってギャルゲー成分は結構感じられるのではないかなぁと。例えば、PS2の『アルトネリコ』(http://ar-tonelico.jp/at_release/index.htm)とか。

t2007/01/14 07:04「ギャルゲー」という区分は非常に難しくて、というのはアシュタサポテの言うギャルゲーの定義はシステムというよりも歴史区分に近いものなので、今、距離を置いて「ギャルゲー」を精密に語ろうとすると、世代論やオタク論(そして個人史)のような語り口に近くなってしまいがちなのです。昔ながらの「美少女ゲーム」とアシュタサポテの言う「ギャルゲー」との概念の違いは明白ですよね。あと、「葉鍵」という言葉は避けるべきですと、この場を借りて書かせていただきます。派閥によって葉っ派だけでも「『雫』だけが大事」「『痕』が大事」「東鳩が大事」で論拠が全く異なりますし、「雫・痕重視の旧葉(枯葉)」と「東鳩以降の新葉」の対立は深刻ですし、「葉は大事だが鍵はどうでもいい」なんて人はザラにいます。この分裂の背景には、それぞれ過去のゲーム・ノベル文脈があると考えるべきでしょう。某「はじょーはかぎくす」の最大の問題点は、そのへん無視して「葉鍵」というネットの2ちゃんねる時代とリンクしたムーブメントと「エロゲー論」を力技で纏め合わせてしまった点だと思っています。
さておき、ビジュアルノベル(全画面に文字が表示される)では、立ち絵はあってもバストアップがポピュラーというわけではない、と言えると思います。顔の上に文字が被さりますので。では数多くあるビジュアルノベルスタイルがギャルゲー的ではないのかというと、そういうわけでもない。ならば、Kanon以降のバストアップ「だけ」を画面の中心に据え置く形をKeyの特異性と捉えるべきではないでしょうか。

cognicogni2007/01/14 11:29▼astazapoteのギャルゲー定義って、いちおう調べた限りでは、1999年10月「ギャルゲーの特異性はプレイヤーとプレイヤーキャラクターとの間に横たわる距離に対する意識」、2000年4月「繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでおり、ギャルゲーはそれを表現しうる」、2003年2月「ギャルゲーとは場所と記憶を巡って展開される形式」、ぐらいしかなかったのですが、歴史的な区分というものはどこでやられておられたのでしょうか?
▼さておき、ギャルゲーを語る際に、世代論やオタク論になりがちという危懼はまったく同意です。だからこそ我々やRGNでは迂遠ながらも表現論を語っているのでしょうし。この文脈で、『テヅカ・イズ・デッド』でも非常に共感した文章がありまして、それはp. 7にあるのですが、表現論を経由してマンガへアプローチする手法への宣言です。文章的に引用しにくいので信用は控えますけれど、手元にあれば是非。あと、『エロゲー』『ギャルゲー』『美少女ゲーム』『葉鍵ゲー』などの用語のとりあえずの整理は確かに必要かなと。特に葉鍵の扱われ方について。Kanonで洗礼を受けた私としては「葉はどうでもよくて、鍵」なので。年上の方々が瑠璃子さんを語るとき、「『雫』の瑠璃子さんを引き合いに出されてもわからねー」とか思ってます。『雫』したことないですし、私は1996年発売当時小学生だったですよ。いや、小学生のときからエロゲーやってる人は友人にいますけれど…、私はさすがに。
▼一般的な美少女ゲームにおける立ち絵の大きさは、秋風氏の実験で行われていた得票数が多いあたりが順当に採用されているように思います。VNでなくとも、バストアップはポピュラーではないのではないかなと。ちなみに『CLANNAD』はバストアップですが、『AIR』においてはバストアップじゃない(太ももから上程度)ので、二人以上が画面に出ることもあります。そういえば、Keyのゲーム以外でバストアップを見た覚えはほとんどないですね。先述のガンパレがそれなりに大きかったぐらいです。そうした面でのKeyの特異性というのも了解できるところですが、バストアップの立ち絵がどのような効果を持っているのかが気になるところです。

tt2007/01/14 19:08>歴史的な区分というものはどこで
2000年2月での「ギャルゲーの定義」が一応の区切りとして設定されていますが、この「システムによる区切り」の有効性が期限付きのものであろうということです。少なくとも現在、美少女ゲームでもエロゲーでもギャルゲーでも何でも構いませんが、一つのジャンルとして指し示しうる作品群について、このシステムによる定義が当てはまらないものも多い。それらを除外してギャルゲーのゲームシナリオ構造による定義の純粋性を維持する気は私にはありませんので、当然ながら当時その定義が指し示していた作品を構成していた構成要素を個別に追いかけていくことになります。システムの追跡を断念してアシュタサポテ的ギャルゲー定義に拘る場合、今度は「日常」の発見というエポックメイキングについて語ることになるわけですが、この「日常の発見」を巡る議論をそれのみで語るのは90年代論やオタク論といったコミュニティの横の広がりにダイレクトに接続することになります。ですので、私個人は「日常の発見」を「物語・シナリオの拡大によって逆照射させられた、コンピューターゲームというジャンルの持つ<ゲーム性>の再発見」あたりに言い換えようと思っています。どちらにせよゲームの流行との絡みで語るしかないのですが。

cognicogni2007/01/14 23:24astazapoteの日付のほう、ありがとうございます。ちょうど一昨日読んだところなのに忘れてました…(泣)
tさんのお進みになられる方向、なんとなくですが了解できました。システム的なところやシナリオといった見地からギャルゲーを定義はしない、というのは難しいでしょうが豊穣な成果を生むと思います。「日常の発見」と「物語・シナリオの拡大」、そしてゲーム性を結びつけるのも面白いと思いますし(もちろん、その拡大を支えたコンピュータの性能の進歩など技術的視点も盛り込めるでしょうし)、実際私は麻枝准においては(通常は忌避される)シナリオの長大さが彼の武器にもなっていると考えています。最近はシナリオの長さについてのバックラッシュが多いなと、Webの議論を見ていて思いますけれども、そうした表層だけの反撥ではなく、シナリオの長さをきちんと考察することは大切でしょうから、tさんの議論を期待しています。

SergeySergey2013/03/20 21:04It's good to get a fresh way of liookng at it.

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2007-01-10

[] Edith Stein  Edith Stein - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  Edith Stein - こぐにと。 cognit.  Edith Stein - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

あのEdith Steinの博論が『感情移入について』らしいことを本日知りました。Husserlまで思い出してたのならそれをチェックするのは当然、という突っ込みを貰いそうな蒙昧具合でした。すみません。

On the Problem of Empathy (Collected Works of Edith Stein)

On the Problem of Empathy (Collected Works of Edith Stein)

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2007-01-08

[] ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ!  ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ! - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ! - こぐにと。 cognit.  ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ! - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

 あと。まあ。二次創作には大雑把に言って、二つの方向があって。

 原作の「文脈」にどれだけ沿っている(沿った上での読替も含まれるので複雑だが)かが問われる、つまり虚構の水準として原作と同次元にあるもの、と。

 虚構としての水準、あるいは位相をズラして「キャラ」を二次使用(という創作)するもの、と。

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070108/p2

勉強になります。二次創作はあまり存じておりませんから。

キャラ/キャラクタの循環構造についてはなんとなく理解できますけれど、まだ理解が不安なのでとりあえずTIDを読み直してみます。キャラ/キャラクタの分別について、個人的には前から『わはー』のような『えここ』や『OSたん』とかの事例への応用が気になっています。「文化的文脈が付与される」ことを考慮に入れると、なんとなーく腑に落ちる感じもありますけれど、文化的文脈ってなんか便利すぎるような気がして少し戸惑うかなぁ、と。

『無意識と前意識』の特に後者については、精神分析(というかフロイト)を想起させるので個人的に避けていました。unconcious/preconscious/conscious分けて考えてもいいんですけれど、フロイトについてあまり知らないので、私の慣れている方面の慣例に従ってunconscious/conciousで分けて考えてます。しかしそういうラインで考えても、没入が『意識狭窄の一種』っていうのは、割としっくりきます。fMRIで読書没入状態の脳を撮像できればいいんですけどね。誰かやってないかな。

『手塚/石森』については、『教養としての<まんが・アニメ>』のp. 250~です。昨日の記事に「面白かった」と書いた理由は、ストーリー主体/キャラクター主体というmetricで作家性とかいうものを幾分解きほぐすことができるんじゃないかな、と思ったからです。仰るとおり、手塚/石森をそのままストーリー主体/キャラクター主体に当てはめることは異論もあるでしょうけれど、あくまで両者を分別するフレームワークに注目した、ということになります。

[] ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成  ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成 - こぐにと。 cognit.  ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ノリノリで書いた。明日から授業だと思うと書けるもんですね(泣)。

見詰め合う二つの目、というメロドラマ的な演出がどのメディアにおいても力を失い、また同時に視線と言うものの圧力が実証的な研究に乗せられていることは想像にたやすく、例えば北田暁大が『広告の誕生』で指摘するように、常に我々は他者からの視線に晒され、また常にベンヤミン的な<気散じ>をもってして何かを見ていることは既に明らかとされているだろうと思われる現在、そのような視線という立場の頽落にも関わらず、我々がゲームを行う際に於いてもその視線の顕著な特徴が見られるといっても過言ではないだろうと言い切ってみれば、そこには新しい何かが現れるかもしれないという予感がある。例えば2006/12/28のコメント欄にて行われた私とt氏とのやり取りに於いて、二人称としてのビジュアルノベル画面構成が示唆されたと解釈しても良いだろうし、また当のビジュアルノベルの構成要素が他ゲームと比べると非常に少ないものから成立させられていることは明白であることからして、岡本氏の文学およびゲームの視点の認知言語学的研究を踏まえたうえでさらなる一歩として、ビジュアルノベルの画面の特異さ、特にビジュアルノベルにおける立ち絵の特徴を鑑みることは決して的外れな論考とはならないはずであろうと考え、以前検討したことのあるAIRの観鈴の立ち絵についての考察と、Kanonの舞の立ち絵における視線の表情などを発展させる形で、ふと軽いエッセイでも書こうと思い立った。たとえば、いたる絵における瞳の大きさはデッサンの乱れや畸型として扱われることが多いが、その積極的な効果を認めることも可能であろうし、事実その瞳の大きさによりその動きが詳細に描けるという利点があることは以前記述したとおりであり、またここでは多くの立ち絵においてこちらを見続けるという行為がキャラクターの子供っぽさを増強させているということを新たに指摘することで、キャラクターが発する視線というものを再び考察の対象へと位置を上がらしめ、そこから飛躍する形でさらにビジュアルノベルにおける画面の特異さを強調するとするならば、それは我々プレイヤーが画面を見ることによって感じる存在というものの二分化であることは恐らく簡単に合意を得られることであろう。具体的に言えば、ビジュアルノベルの画面を見ることによって現れるのは、立ち絵としてのキャラクターに視線を注ぐ我々と、常に視線が注がれる存在であるプレイヤーである我々とが同時に屹立することを可能とするところに求めることができ、ただしここで注目さるべきなのは、単にこちらに視線が向いているということではなく、アニメやマンガでは到底不可能であろう恒常的な視線の並置であって、たとえ少女の立ち絵が二枚以上並んでもその視線は必ずプレイヤーたる<わたし>の方向へと向いているという驚くべき事実であり、彼女らの視線が決して我々の目の前で交錯しないという事態であり、プレイヤーたる<わたし>は常にコミュニケーションの媒介として働かざるをえない優しさの強制の構図であり、これら全ての特徴が示すその視線の固定化はいかなる他媒体では再現できない特異な形として現れていることは間違いなく、その視線の固定化・並置によってビジュアルノベルが「あなたにとっての<あなた>」という二人称な画面構成を得ることができた、とその特異さを擁立することができるものと豪語できるであろう。もちろん、ビジュアルノベルの一つの源流として挙がるゲームブックにおいて、二人称による記述が他のジャンルに比べて有意に多いことは、この仮説を補強するに足るものであると考える。

ここで想起すべきは、このような視線の具体性であり、その視線が引き起こすある種の感情であることは想像に難くなく、例えばメルロ=ポンティが<肉>と名づけた「存在」の原型、<感じ取られながら感じ取るもの>としての人間の身体を語り、「すべての視覚には、一種のナルシシズムが存在する。そして同じ理由から、見る者は視覚を行使することにおいて、事物の側から視覚を行使される」(『メルロ=ポンティ コレクション』p. 132)と語るとき、我々がその言葉に沿って発見するのは、ビジュアルノベルにおける「画面上のキャラクターを見る者」としてのプレイヤーと同時に、サルトル的でありながらそれほど単純化もされていない対他存在としての<わたし>もしくは「キャラクターに見られる者」としてのプレイヤー、言い換えれば二人称としての「あなたにとっての<あなた>」という概念に他ならず、これがかのビジュアルノベルの二人称的視点という概念を補強するとともに、そこにおいて見る者としてのプレイヤーと見られる者としてのプレイヤーは同時に存在しえることを示唆することだけでなく、映像・音楽やその他効果によって没入を深めることによって主客の概念を根抵から無効化することができ、また立ち絵を消すことによってあてどなく彷徨う視線が美麗な風景に吸い込まれることなどで、最早<あなた>なる概念は霧散し主客の一体化を図ることが可能となり、ビジュアルノベルにつきまとうある種の叙情や感情移入の容易さ、<肉>としてのあるべき世界を、そのビジュアルノベルというシステム自体が顕現させうるのではないか、という推察が導き出され、このような特長を考えることにより自然とビジュアルノベルというシステムに要請された演出の特異性というものを捉えることができるだろう。むろんそれを語る際に、ササキバラゴウによって提唱された『第三の性』という概念を想起し、受動的な第三の性としてのプレイヤーの立つ地盤をより図像的にもしくはシステムの要請として考慮することも可能であり、同時に、その第三の性が提唱されるに至った源流が少女マンガにあるということを考えると、葉鍵の源泉を少女マンガに求めることも可能であることと思われるだろうし、同時にその視線(=眼差し)すらも取り込むことで男性の中に女性性が芽生えると言う俗流の精神医学や、そして眼差しというものを考えれば当然とは言えるラカン的な解釈すら許すことで、ビジュアルノベルの隆盛という現象が間接的に示唆する、男性の女性化(ttp://d.hatena.ne.jp/chunyan/20050707/1120755365、ttp://d.hatena.ne.jp/chunyan/20050721/1121928220など)や男性性からの逃避(ttp://d.hatena.ne.jp/arctan/20070107/1168151261)がラカンの言葉で説明することが可能である俎上に乗ることが窺えるが、そうした行為はこの文章の表層を記号の戯れへと変化させることに繋がり、また類似性による安易な連結は己の首を絞めることに他ならないから、ここでは割愛することが適当であろうが、そのような危険性を承知で再度強調しておきたいのは、このような特徴がビジュアルノベルというシステムから要請されたものであるということであることは間違いない、ということである。

以上の議論で、ビジュアルノベルにおいては「二人称的に見られるわたし」というものがほぼ自動的に描かれることになり、ここに美少女ゲームの独自性を求めるのもやぶさかではないだろうと指摘したが、ここで注記しておくべきは、カメラの位置の固定化という共通性から想起すべきある映画監督がいるということであり、読者諸氏は以上ヒントで心得たものだと思われるが、それは小津安二郎であることは周知のごとくである。特にここで想起すべきは小津な視線の非交錯、ビジュアルノベルで言えば二人以上の少女の立ち絵が決してその視線を交わらせないことであるが、その直接的な比較は双方を貶める行為に繋がるであろうし、そもそも小津といえばカメラのローアングルが有名であろうからして、ビジュアルノベルの常にミドル~アップというカメラ視点を鑑みるに、両者の直接的な比較は禁ずるべきであろうが、両者に共通する点が確実に存在することは最早自明であり、そしてここでAIRを持ち込むことによって、ビジュアルノベル特有とも言える演出の技法が発見されるのではないかと思われる。

むろん様々な要因が絡み合ってビジュアルノベルの特異性を成立させていると考えるのが妥当であるが、ここで考えたいのは、AIRという代表的なノベルゲームにおける『未決定の宙吊り』状態とも言える特徴であり、この点でAIRはサスペンスであると断言しても構わないが、もちろんここではヒッチコック的な緊張と甘美を併せ持つサスペンスではなく、ただ弛緩しつづける形で継続する、字義通りのサスペンスであることを念頭においてビジュアルノベルを考えると、プレイヤーの全身を弛緩させて埋没させるビジュアルノベルはその弛緩するサスペンス性において常に決定を遅らせ続けていることは以前からastazapoteなどで指摘されていた通りである、という従来の議論をまず想起するべきであろう。可視的なものから推察される不可視的な普遍性は、全ての可視的なものを従属させることではなく、また以下の行為が象徴へと逃避する幇助たるものでもないと断った上で以下の考察を進めたいが、AIRにおいて読者は突然の女の子との出会いから、常にその物語は進行を拒むように遅々と進んでいき、そして何よりエンディングを迎えてもプレイヤーがサスペンドの状態に置かれ続けていたという事実は、恐らく多くのAIR読者が体感したことであろうし、その人数の多さは「AIRプレイ後に欝になった」と言う感想の量が示してくれていることであろうと思われるが、AIRはそもそもにおいて、その物語の中心をなす会話が常にずれを孕み、未決定であり続けるという構造にも表出していることは付記しておくべきことであるし、またその構図こそがキャラクターの成立に一役買っているという点で、AIRというビジュアルノベルにおけるゲーム性の背後にある緻密に計算された上で立脚するキャラクターの構築は、この文脈でゲームとして高く評価されても良いだろうし、さらに言えば馴れ馴れしくも近づいてきながらも、その内面を決して見せない(故に強い子であるのだが)という観鈴という少女は、読めそうでありながらもその心情の解読を許さず同一化を拒み続ける少女でもあり、彼女は魅力的であると同時に不気味である異性というものを如実にあらわしており、麻枝キャラをもってして『他者』と大仰に言及した人が多かったことも、ここにおいて頷けるものになるであろうし、このような特徴がAIRの文学的な評価を高めるものであると信ずる。またAIRは塗りにおいてもその卓抜さを垣間見せ、光についての描きこみも多いところを見ると、それは光へのこだわりを見せた小津とまた重なる結果となり、非常に小津的であるといえるものの、本来の議論であるこのサスペンスの体験こそがビジュアルノベルというシステムが強要したものであることを指摘することについて、そしてさらにAIRにおける演出面について語ることについて述べるには、時間と知識が少々足りないのでしばしお待ちいただきたい。眠い。

ChianaChiana2011/07/31 00:32Way to go on this essay, hleepd a ton.

rfjzfyiywrfjzfyiyw2011/07/31 19:13usiitR <a href="http://orvbzyjghdpr.com/">orvbzyjghdpr</a>

canuzubbcanuzubb2011/08/01 00:58l1J90X , [url=http://ufjewmlolaqg.com/]ufjewmlolaqg[/url], [link=http://zzifjjmwjqrb.com/]zzifjjmwjqrb[/link], http://tnwrfzokzzsd.com/

gxiwqnegxiwqne2011/08/01 20:00eJI4df <a href="http://lcmyiuwcdgqk.com/">lcmyiuwcdgqk</a>

wdziehcwdziehc2011/08/02 21:37uyH6gs , [url=http://xqlqntpsgjmh.com/]xqlqntpsgjmh[/url], [link=http://vfnpkfwcblmt.com/]vfnpkfwcblmt[/link], http://llrlpdgbofkh.com/

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2007-01-06

[] 感情移入という概念が解らないので割と真剣に悩んでいます  感情移入という概念が解らないので割と真剣に悩んでいます - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  感情移入という概念が解らないので割と真剣に悩んでいます - こぐにと。 cognit.  感情移入という概念が解らないので割と真剣に悩んでいます - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

酷いエントリタイトルだ。

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070105/p1

笑っていただいたほうが嬉しいかな、と。先人がいると安心できます。箱庭療法についてはちょっと手元に文献がないので、ひとまず放っておきます。

共感と同情の区別ができない、というよりも、個人的には、今生きているこの体験と共感とかの区別も、なんというか、曖昧で?(←よく解ってません)…なんか表に書けるような内容じゃなくなったので裏に。

さておき。

TIDと感情移入

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(以下、TID)がようやく図書館に入りましたので、読みました。今頃で申し訳ないです。そしてこの前(一年ぐらい前)はユリイカのみで中途半端に言及してすみませんでした。さすが必読書と言われるだけはあって、重要なところ目白押し、付箋貼りまくりました。巻末の参考文献が300冊(論文含む)ぐらい?で凄い。そして私にはマンガは手に負えないということが解りました。もうマンガは読めないぜ。

図書館にあるだけのマンガ論の本を3/4ぐらい読みました。理由は、どのような文脈で『感情移入』という言葉が使われているのか調べるためです。ある意味、脳内のコーパスを増やそうという試みです。また、TIDはマンガ論の基礎文献なので、ビジュアルノベルにも近接してそうで、示唆に富むかな、と思ったので具体的に取り上げてみます。ということで、感情移入に関係しそうなところだけ抜粋して検討・コメントを付記します。具体的には、『感情移入』とう単語が出てくる文の前後、もしくはそれに関連しそうな文章を引用、その後にコメント、というスタイルですが、当方のコメントは非常に混乱しております。

引用開始しますが、引用多すぎ、というご注意などありましたら、Web拍手などでご連絡ください。なお、以下は注記しない限り『テヅカ・イズ・デッド』からの引用となります。

 何であれ「表現」が作中世界を受け手の前に現前させるということは、受け手がじゅうぶんに作中世界に「没入」していることを意味する。そのために、さまざまな工夫がされ、表現上の技術は蓄積される。受け手が作中世界に没入している以上、普通はその「没入」をもたらす装置のことは意識されない。たとえば、普通の観客が映画を見てもカットのつなぎには気がつかないといったことは、その好例だろう。本書で見ていこうとするリアリティとは、この「現前性」のほうなのである。 (p. 85)

この辺は没入の概念。リアリティとかの話の前後なのですけれど、感情移入と没入は結構似ているかな、と思うので。没入をさせる装置を解明するための表現論、という感じでした。で、没入というのが自分にとっての問題なのですが、没入するためにはリアリティが必要か、と言われると、うーん、そういわれてみればそういう気もするし、わざとらしい演出とかあったら没入は阻害される、というのは解ります。xでないと感情移入が阻害される、みたいに否定形でしか感情移入を指示できない、とか?…えー?

 たとえば、マンガ作品を評価するのに際し、「人間が描かれているかどうか」を評価基準とすることはよく行われている。「評価」の基準とまでいかなくとも、私たちがマンガを読み、それを面白く感じるときには、程度の差こそあれ、登場人物に対して共感を覚えたり、感情移入を行ったりしている。(p. 97)

面白く感じているときは、共感していたり感情移入をしているそうです。なるほど。でも、なんか、うーん、…?感情移入、と言うのだろうか。

 藤子・Fは、耳男を「こんなにかわいい副主人公」という。また「悲劇」であること(の)根拠を「感情移入させながら死なせた」ことに求め、その衝撃を語っている。つまり「悲劇」を成立させる過程には「感情移入」があり、さらにその背後には耳男を「かわいい」と感じる感性の存在がある。そう、耳男は「かわいかった」のである。 (p. 129, 斜体部は引用者による補足)

悲劇がきました。先行文献多すぎてあんまり扱いたくない話題ですが…。とりあえず一般的な感じに悲劇の意味を解釈して、この筋で行くと、『オイディプス』とかの構造で有名な「志村、うしろうしろ!」的なものにも感情移入している、という文が実行的になる、と。だとしたら、やはりPCへの感情移入というものは考えないほうがいいのでは。うーん、こういう感じの話はizuminoさんがttp://d.hatena.ne.jp/izumino/20060901や04(TB防止のためh抜き)、http://d.hatena.ne.jp/cogni/20060904あたりでもしていたような。読者の方々は『School Rumble』に感情移入しているんでしょうか。ディスコミュニケーションに感情移入?…ええー?

いささか想像が過ぎるかもしれないが、ここで手塚が感じた「必要」は、「キャラとしてのかわいさ」の維持にこそあったのかもしれない。「かわいさ」とは、キャラの持つ「強度」の一形態である。それを保持しようという内なる要請が、手塚にはあったのではないか。さらにこの事態を、「萌え」のそれこそ原初的な姿ということすら可能だろう。この回路を通じて、読者の感情移入を「耳男の死」へと導いたのである。マンガという表現の持つ、この際どい回路を、手塚は無意識的に知っていたのではないか。(p. 136)

感情移入とかわいさ。感情移入を導く?感情移入が萌え?かわいさ?いや、なんか、うーん…。萌え、というのは、なんかもっとこう、愛でるような?感情移入が愛着?いや、違うと思うんだけれどそれは。

あと竹内オサム氏の『同一化技法』については、ゲームの視点の問題と絡めながら。なにせ「読者と作中人物の視界を一致させる”同一化の技法”」らしいので。感情移入と同一化、ていう言葉が引っかかっております。まぁ、ただ続くTIDの章では批判されております(p. 240~)。この批判は、我々ゲーマーにとって非常に有効だと思われます。「想像的同一化ではない」という点が特に。映画理論では、作品世界への退行的な「没入」が前提にされているとか。そんな感じの話です。

『GUNSLINGER GIRL』に対するウェブなどの感想を見ると、本作が実に激しい賛否両論に迎えられていることがわかる。こんなマンガは倫理的に許せない、悪趣味である、気持ち悪い、という声がある反面、この不幸な少女たちに感情移入をするだけでなく、作品として高い評価を与える声も数多くある。(p. 268)

GSG。少女への感情移入、とかそういう?自分で言っといて「への」ていうのが、なんか、微妙に嫌悪感。http://b.hatena.ne.jp/genesis/GSG/あたりのリンクを読み直すべきなのでしょうか。嫌悪感を表明している人は感情移入しているからあんなに文章が書けたんだろうか。…なんか違うような。

むしろ、ここで前面に出されているのは、彼女らの「存在」によって媒介される切ない「感情である」ここに、マンガ=キャラ表現のもうひとつの特性を見て取ることができる。「痛み」に代表される身体的な感覚よりも、広い意味での「感情移入」が先行するという特性である。(p. 270)

広い意味での感情移入。むつかしい。広く使える概念だ、ということは、承知しているつもりですけれど。感情移入…?痛んでいるところを見ると自分も痛く感じる、というのが感情移入?うーん、移入、とか書いてるんだから、もうちょと能動的なような、そんな?いや、どうだろう。感情移入させられる、という言葉も実行的だと思いますが、それは、やっぱり他動詞ですよね。受動態で。感情移入…?

たぶん、これでTIDに出てくるほとんどの『感情移入』という言葉はチェックできているはずです。あとは、p. 55, p. 271にもその言葉は出てきますが、省略してます。

…なんか、どうも腑に落ちないなぁ、という感じがいまだ残ってます。つーか、なんか、感情移入の議論のためになってない。ぜんぜんクリティカルじゃない、ような。…どうすれば。

キャラと二次創作性とやおい

ついでに。夏目氏の本と読み比べて面白かったところをメモしておきます。まず、TIDの、「『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている」という議論を把握した上で。かつ、「「二次創作」という現象が、キャラ/キャラクターを考えるときに、たいへん重要な自証である」(p. 103)とかそういうのを考慮したうえで以下の文章。

 つまり、『NANA』に対して「キャラが弱い」といった少女のいう「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さであると考えることができる。この「横断性」こそが、重要な点なのである。

 そして、「キャラ」としての「強度」は、程度の差こそあれ、すべてのマンガ作品に共通して存在するはずのものだ。であれば、その「強度」を見えないようにすることが、「キャラ」を固有のテクストのうちに封じ込め、「キャラクター」を立たせることを可能にしたと考えられるのではないか。そのよな視点からは、二次創作や「萌え」といった現象を、実はマンガという表現全体を貫く、大きな基本原理と通じているととらえることができる。(p. 108)

そしてやおいについての文章を比較。『テニスの王子様』のやおい二次創作の話。

やおい系の知人に色々話を聞くと、こういうことらしい。

 多くのキャラクターを出しながら、けっして彼らの人生や動機の背景を詳しく描かないことで、やおい的な想像力(誰と誰がくっついて、どちらが「受け」「攻め」で、という奴ね)が働きやすくなっている(その側面でいうと『NARUTO』は人物の背景を描き込みすぎるようだ)。話としても単純で、あまり緻密に作り上げず、ひたすらテンション上げる構造でつっこみやすい作品にしており、しかも美少年だらけ。タイトルからして、少年マンガなのにナゼか『王子様』だし、わざとやおい的な「読み」を呼び込みやすく作っているという。同人誌受けを、少なくとも編集者は狙ったのではないか、というのだ。けれど、やおい系の方にいわせると「アザとすぎて引く人も多い」のだそうだ。(夏目房之介, 『マンガは今どうなっておるのか?』, p. 45)

NANAの登場人物がテクスト依存性が強い、だから「キャラクターは立っているけれど、キャラが弱い」から「二次創作が少ない」*1ということだと思うのですが、じゃあテニプリの登場人物たちは、どう言えばいいのかなぁ、と。キャラKyaraは、だいたいで言えば、「人格のようなものを持っている存在感を感じさせるもの」とp. 95で書かれている。で、テクスト横断性とキャラの強度とは正の相関があって、キャラが強いと二次創作が多い。でもどうやらテニプリはキャラは強くなさそうだぞ、と(過去とか少なかったら、キャラは弱くなるのではないかな、と)。やおい受けする条件は「キャラが弱くて、キャラクターも弱い」のか?えー。キャラクターは強い、のか?まあ夏目氏の本に引用されてる画像が「岩清水? イワシ水だよ」というところなので、ものすごく反応に困るんですが、これキャラクター強いのか?…やおい的感性をあまり持たないのでお手上げです。

でも、「自分の場合は、キャラの情報が多すぎると感情移入はしにくくなるタイプ」という方もいるそうです。…もう、感情移入とか、さっぱり。

やおいと人称

あと、こういうのも調べてきました。いやー、ほら、http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061229/p1のあたりで言及してしまったので。

 <やおい小説>の「読者・作者」は、女性性を備えている<受>の方に感情移入して作品を読むことが多い。その結果、従来は、<受>の感情が描きやすい<受>の一人称の作品が多くなる、と分析する傾向にあった。

 しかしデータを集計すると、三人称作品が、全381冊のうち241冊と、約63%を占める結果となった。一人称作品は140冊と、約37%。三人称作品は、一人称作品のおよそ二倍という圧倒的な分量の差が出た。文字メディアとしての小説全体に通底する傾向ともいえるだろうが、予想に反し、<やおい小説>は、三人称の作品が多いことが分かる。

 「語り手・視点人物」を、<攻>よりも<受>にする作品の方が圧倒的に多い。一人称作品と三人称作品を合わせた中で、約68%。しかしここから、「読者」の感情移入もしくは視点の<受>への固定化を読み取ることは、テクストの本質を見誤る危険性がある。テクストの「語り手・視点人物」、および「読者」の視点(知覚・認識)と言説の視点(知覚・認識)の問題は、より多角的に分析する必要があるだろう。(永久保陽子 , 『やおい小説論 女性のためのエロス表現』, p. 147)

こういうデータは楽しいなぁ。

*1:TIDの著者である伊藤氏は本書の中で直接的にはそう仰っておられません。ただ、キャラKyaraの強度と二次創作の多さは相関しているものだと本書から読み取りましたので、たぶんNANAの二次創作は少ないんじゃないかな、と。このときの『少ない』、というのは絶対数ではなく、おおまかな読者:二次創作者の比率で。

tt2007/01/07 14:24あまり慎重に使用していないと思われる用語については、とりあえず具体例を挙げていって「日常的な用法」を絞り込んでから、そこから異なる用法が使われていると思われる「学術的な用法」を選別していくことを勧めます。考えすぎて自分で区別がつかない状態ならば行きずりを適当に掴まえて聴く。「AはBに共感する」「AはBに同情する」「AはBに感情移入する」「AはBに没入する」まず左記の用法は実際に使うか。AとBに固有名詞や代名詞、通常名詞等を実際に入れて確認。次「する」を「した」に変更、「する」を「している」に変更、「は」を「が」に変更、「に」を「と」に変更、「A」と「B」を入れ替え、「Aは」「Bに」をそれぞれ削除、等々の作業をAおよびBの内容を細かく入れ替えるたびに行う。なるべく「いま目の前にある事物・人物」から展開していく。
以前に「貴方のフィクションとフィクション以外の区別の枠組みは、あまり自明でない」と指摘した私としては、「小説」「フィクション」に限定した言葉の用法を先行して考えるのは効率的でないと判断して上記を提案します。文献引用のみでの議論が完全に成立するのは「小説」「マンガ」といった対象の区分や枠組みをガチに定義している人、定義を先人から引き継いでいる人だけです。

cognicogni2007/01/07 23:30具体的な方略のヒント、どうもありがとうございます。
実はそういう方向(i.e. とりあえず具体例)で考えているつもりなのです。脳内コーパスみたいなの、という風に上記エントリに書きましたが、コーパスは自然言語からなる文の集合みたいなものですし。そういう実際の具体例を見ていこうとする試みが、TIDの検討でした。また、フィクションに限らず、感情移入という行為については考えてみました(例えば、「私は彼に感情移入する」という文を1/4ぐらいに書いて検討したことをメモったはず)。が、どうにも、やはり。うーん…。とりあえず、「する」を「した」に変えてみるとか、ご教示されたことを色々やってみます。

話はそれますがそういえば、没入、というのは、例えば、自動車を運転していていつの間にか自宅についていたとき。non-descriptiveな記憶が駆動して、意識しなくてもそういうことができて、自宅についてから「あれ、運転してたっけ?」という形で思い出す。これも一種の没入だと考えると、まぁ、没入に関してはなんとなく解ってくるかなぁ、と。自己を強く感じるときはたいてい障害がある場合だ、ということは何度か言及してますけれど、まあ、そういう風に、没入しているときは自己を感じないのではないか、というのがあるんですよね。そしてこの『意識しなくても』とか『自己を感じない』というのが非常に興味深い現象でありまして。…感情移入、とはやっぱりちょっと違うような気もしますけれど。

あと、http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200408.html#23_3みたいなことを仰っていたflurryさんにお話をお聞きしたいところです。

まぁ、感情移入についてたいした理解なくこれまで生きてこれたのですから、解らなくても生きていけるものだとは思いますので、そんなに深刻ではありません。が、割と真剣に。

tt2007/01/08 03:29思いつき用例「少年漫画と共感する」「 <!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"> に没入する」「私は「534+22.1=556.1」で感情移入した」「私は「繊細なタッチで描かれた設定資料を見ながら、ここまでの旅を振り返ってみよう。」に同情した」

tt2007/01/08 03:59あと、私は個人的には「感情移入」に拘る気はありません。考えても仕方ないものは考えないというのもありますが、それより「感情」嫌いだし。

cognicogni2007/01/08 14:24うーん…。用例、最初のもの以外は微妙な感じです。やっぱり、「A”に”感情移入する」、ですよねぇ。withとかonとかtoっぽい感じで。「A”で”感情移入する」だと用具的な感じが。…そういえば高校のとき、ベトナムからの留学生にこういう日本語の教え方をしたような。

昨日考えていたのは、「私はAに感情移入する」んじゃなくて、「私はAがXしているところに感情移入する」としたほうがいいかー、ということでした。マンガのコマわりとかのことを考えている途中で思いついたので、少し無理やりかなと思うところもあります。哲学の言葉で言えば、proposition(命題)とpropositional attitude(命題態度と訳すのかな?)との関係です。感情移入しているときは、I empathize that A is X-ing.であって、propositional attitudeとして『感情移入するempathize』という動詞がある、と(なお同様のpropositional attitudeは、例えばbelieveとかfeelとかその辺です)。だから、「私はAに感情移入する」という文を書いたときに想像しているのは実は「私はAがXしているところに感情移入する」という文である、と解釈すべきではないか、と。無機物でも擬人化してあるのであれば、こういう用法は使えますし。でも、そこから発展しないので没にしました。

感情移入に拘らないとすると、恐らく「ある体験をどのように言葉で表すのか?」ということになると思いますが、その辺は哲学でやってますしねぇ。まぁ、飽きるまで『感情移入』という言葉で私はやってみます。

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2007-01-04

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http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070103/p3

感情移入と言うか言わないか、というレベルでの話しをちょっとメモっておこうと思ったので。しているかしていないか、というのは別レベルの話のつもりです。だから『実行的な場合』というエントリタイトルをつけてました。

テニスに感情移入している、というのもなんとなく解るんですが、普通は(9.5割以上の場合は)言わないでしょうから。むしろ普通は没入している、というのではないかな、と。そうした言葉の使い分けを通して、構成的な理解へ向かえるだろうか、というのが今のところです。ただ、手足などを無理やり対象化して感情移入する、という際に問題になるのは、その対象化のプロセスで何が切り捨てられるのか、ということなどで、恐らくそのラインで議論すると、感情移入が先か対象化が先か、という変な議論になりそうな気が*1。むー、この辺まとまってませんね。すみません。あと、仰るとおり、相互作用というかinteractivityが没入を助ける、というのは感覚としてあります(すみません他の議論でした, 15:18変更)。身体とか、interactivityについてはhttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061103/p1あたりでちらっと書きました。「プレイヤーの身体の延長」というのはまったくその通りだと思います。

閑話休題。

それで今日感情移入のことをずっと考えていたら、感情移入という言葉がさっぱり解らなくなってきまして、泣きそう。いや、そもそも議論のはじめから、『感情移入とかいう』という言葉を使って言い逃れをしつづけてきたのですが。真面目に考え出すとドツボにはまっていって、混乱してます。どうやら自分は、どの文脈でその単語を使えば良いか、という規則はきちんと学習しているようで、実際に実行的に利用はできているとは思うのですが、感情移入という言葉と体験がぜんぜん一致しない。使用できるが意味が解らない。meaning is useなんて嘘っぱちだ。

…なんていう個人的な悩みはあっち(d:id:cogni)でやるとします。少し人数増やしました。

気を取り直して。

『抽象と感情移入』を読み直しました。ヴォリンゲル*2がリップスを参照してて、そのリップスによる定義が見つかったので以下に引用しておきます。

即ち、感情移入の元来の意味はこちら側の感情が相手側に反映されることである。こちら側の感情が先行し、その結果相手側に同じ感情を認知することである。これに対し、共感を相手側の感情が先行し、その結果こちら側に同じ感情が誘発されることと考えることもある。

http://syass.kwansei.ac.jp/tatsuki/Thesis97-98/CL/5kyokan.html

うーん…。

ヴォリンゲル自体は抽象と感情移入を対立軸におき、生命的・有機的なもののなかに自己の満足を見出す、とかを感情移入にして、生命を否定する無機質的なもの・抽象的な合法則性の中に自己の満足を見出すのが抽象衝動だそうです。…そういう分類を求めているんじゃないんだけどなぁ、とか。

ということで、他の用法も調べてみると。

このような自己同一化、登場人物への感情移入というのは、ライトノベル系作品の大きな特徴のひとつでもある。

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/016.html

 1970年代までの文学鑑賞は主人公の心情を中心化して、そこに作者の心情の投影を見出すと共に、思い入れたっぷりに自分の感情移入を行う、という読み方が主流だった。制度だったと言ってもいい。

http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/symposium/western/wash_07.html

などが引っかかる。…しかしやはり意味が解らない。

問題となっているのは、「感情移入とは何か?」ではない、と思います。恐らくその疑問は疑問足りえていないだろうから。「萌えとは何か?」という疑問が疑問たりえていないのと同程度に。…続きは出せる内容じゃないので向こうにでも。

ということで、なんか自分の専門分野でないかな、と思い返していて、石黒先生のロボット研究を思いつく。対象に自律性というものが認められた場合に、感情移入なる言葉が使われるのではないかと予測して検索。

本研究では、ふるまいの多様化により人間のロボットに対する感情移入の向上を目標とし、実験により従来法より提案方法の方が人間が感情移入していることを示した.

http://www.fujita.soft.iwate-pu.ac.jp/theses_f/2003b/yagihashi.pdf

まぁ、そんなもんかな、と。認知の傾性にもっていくのは個人的に嫌なんですけれども。

あとHusserlのイデーンを以前挙げたのですが、手元にないので、Merleau-Pontyのキアスム(絡み合い)の部分を再読。うーん、感情移入、というよりもこっちのほうがしっくりくる、というのは、触れるとともに触れられる、触れられるとともに触れる、という主客自体を素朴に脱構築、というのは好みでありまして。しかしDerridaあたりにこれ批判されていたような。あとHeideggerの"Fundamental Concepts of Metaphysics"を引っ張り出してきましたが、どうにも該当部分が見つからない。

あと、連想したのが箱庭療法。上田閑照が世界内存在の二重性について語っていたのを思い出しながら、play-worldの二重性、二重空間への開かれ、そして箱庭世界への感情移入、というのは言葉の使い方として間違ってはいない路線のはず。物を動かせるという実感の充実、などはゲームにも通ずる、というか遊戯療法play therapyからの派生のはずなので。

…ぐう。詰まった。

*1:追記:対象化しているから感情移入できるのか、感情移入しているから対象のように感じられるのか、どちらが正しいのか、とかそういう。

*2:Worringer、ヴォリンガーじゃないのかなぁ…。

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2007-01-03

[] ちょっと続けます  ちょっと続けます - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ちょっと続けます - こぐにと。 cognit.  ちょっと続けます - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

このブログのタイトルどおり、2006年で終わろうと思ってたんですが、もう少しだけ続けます。たぶん。

[] Unit 1; core concepts読了  Unit 1; core concepts読了 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  Unit 1; core concepts読了 - こぐにと。 cognit.  Unit 1; core concepts読了 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

Ch9まで?読了。基本文献として早く翻訳してほしいな、と。かなり慎重に書かれているし、参照している文献も多いので、ゲームを語る際の基本文献となることは絶対に間違いない。Rule, Play, Culutureなどの大まかな分別は見るべき点が多いだろうし。

何よりゲームを学問的分野に上げることに価値があると思うのは、playという体験experienceを常に意識できるからだ、と今は思っています。それは生きていることをより深く知ることができるだろうからして。

[] 感情移入という言葉が実行的な場合  感情移入という言葉が実行的な場合 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  感情移入という言葉が実行的な場合 - こぐにと。 cognit.  感情移入という言葉が実行的な場合 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

  • テニスをプレイしているときに感情移入とは言わない(没入とは言う)。
  • テニスゲーム(e.g. マリオテニス)をプレイしているときに感情移入と言うかもしれない(没入とは言う)。
  • テニスをプレイしている人についての物語(ゲーム含む)を読んでいるときに感情移入と言う(没入とも言う)。

Bollnou, "Mensch und Raum"(ボルノウ『人間と空間』)あたり参照するべきか。ドイツ語目下勉強中なり。

文献

このあたりも一応ざっと読む予定で。あとGame Design Readerの参考文献より、

A Theory Of Fun For Game Design

A Theory Of Fun For Game Design

「おもしろい」のゲームデザイン ―楽しいゲームを作る理論

「おもしろい」のゲームデザイン ―楽しいゲームを作る理論

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2007-01-01

[] プロフィール  プロフィール - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  プロフィール - こぐにと。 cognit.  プロフィール - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

初めての方のためにプロフィールなどを書いてみます。

なまえ

cogniと言います。cognitiveのcogniです。

84年生まれ。技術屋。

ブログについて

「こぐにと。」

たぶん消えます。

これまで盛り上がった記事はhttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070114/p1とかにまとめてます。

好きなWebサイト(アルファベット順)

  • flurryさんとこ
  • 林さんとこ
  • 今木さんとこ
  • MK2さんとこ

好きな人(ぽっ←顔を赤く染めつつ)

  • Wittgenstein
  • Heidegger
  • 郡司せんせ
  • 麻枝准

いただいた仇名

  • マリラ

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