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2007-01-06

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酷いエントリタイトルだ。

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070105/p1

笑っていただいたほうが嬉しいかな、と。先人がいると安心できます。箱庭療法についてはちょっと手元に文献がないので、ひとまず放っておきます。

共感と同情の区別ができない、というよりも、個人的には、今生きているこの体験と共感とかの区別も、なんというか、曖昧で?(←よく解ってません)…なんか表に書けるような内容じゃなくなったので裏に。

さておき。

TIDと感情移入

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(以下、TID)がようやく図書館に入りましたので、読みました。今頃で申し訳ないです。そしてこの前(一年ぐらい前)はユリイカのみで中途半端に言及してすみませんでした。さすが必読書と言われるだけはあって、重要なところ目白押し、付箋貼りまくりました。巻末の参考文献が300冊(論文含む)ぐらい?で凄い。そして私にはマンガは手に負えないということが解りました。もうマンガは読めないぜ。

図書館にあるだけのマンガ論の本を3/4ぐらい読みました。理由は、どのような文脈で『感情移入』という言葉が使われているのか調べるためです。ある意味、脳内のコーパスを増やそうという試みです。また、TIDはマンガ論の基礎文献なので、ビジュアルノベルにも近接してそうで、示唆に富むかな、と思ったので具体的に取り上げてみます。ということで、感情移入に関係しそうなところだけ抜粋して検討・コメントを付記します。具体的には、『感情移入』とう単語が出てくる文の前後、もしくはそれに関連しそうな文章を引用、その後にコメント、というスタイルですが、当方のコメントは非常に混乱しております。

引用開始しますが、引用多すぎ、というご注意などありましたら、Web拍手などでご連絡ください。なお、以下は注記しない限り『テヅカ・イズ・デッド』からの引用となります。

 何であれ「表現」が作中世界を受け手の前に現前させるということは、受け手がじゅうぶんに作中世界に「没入」していることを意味する。そのために、さまざまな工夫がされ、表現上の技術は蓄積される。受け手が作中世界に没入している以上、普通はその「没入」をもたらす装置のことは意識されない。たとえば、普通の観客が映画を見てもカットのつなぎには気がつかないといったことは、その好例だろう。本書で見ていこうとするリアリティとは、この「現前性」のほうなのである。 (p. 85)

この辺は没入の概念。リアリティとかの話の前後なのですけれど、感情移入と没入は結構似ているかな、と思うので。没入をさせる装置を解明するための表現論、という感じでした。で、没入というのが自分にとっての問題なのですが、没入するためにはリアリティが必要か、と言われると、うーん、そういわれてみればそういう気もするし、わざとらしい演出とかあったら没入は阻害される、というのは解ります。xでないと感情移入が阻害される、みたいに否定形でしか感情移入を指示できない、とか?…えー?

 たとえば、マンガ作品を評価するのに際し、「人間が描かれているかどうか」を評価基準とすることはよく行われている。「評価」の基準とまでいかなくとも、私たちがマンガを読み、それを面白く感じるときには、程度の差こそあれ、登場人物に対して共感を覚えたり、感情移入を行ったりしている。(p. 97)

面白く感じているときは、共感していたり感情移入をしているそうです。なるほど。でも、なんか、うーん、…?感情移入、と言うのだろうか。

 藤子・Fは、耳男を「こんなにかわいい副主人公」という。また「悲劇」であること(の)根拠を「感情移入させながら死なせた」ことに求め、その衝撃を語っている。つまり「悲劇」を成立させる過程には「感情移入」があり、さらにその背後には耳男を「かわいい」と感じる感性の存在がある。そう、耳男は「かわいかった」のである。 (p. 129, 斜体部は引用者による補足)

悲劇がきました。先行文献多すぎてあんまり扱いたくない話題ですが…。とりあえず一般的な感じに悲劇の意味を解釈して、この筋で行くと、『オイディプス』とかの構造で有名な「志村、うしろうしろ!」的なものにも感情移入している、という文が実行的になる、と。だとしたら、やはりPCへの感情移入というものは考えないほうがいいのでは。うーん、こういう感じの話はizuminoさんがttp://d.hatena.ne.jp/izumino/20060901や04(TB防止のためh抜き)、http://d.hatena.ne.jp/cogni/20060904あたりでもしていたような。読者の方々は『School Rumble』に感情移入しているんでしょうか。ディスコミュニケーションに感情移入?…ええー?

いささか想像が過ぎるかもしれないが、ここで手塚が感じた「必要」は、「キャラとしてのかわいさ」の維持にこそあったのかもしれない。「かわいさ」とは、キャラの持つ「強度」の一形態である。それを保持しようという内なる要請が、手塚にはあったのではないか。さらにこの事態を、「萌え」のそれこそ原初的な姿ということすら可能だろう。この回路を通じて、読者の感情移入を「耳男の死」へと導いたのである。マンガという表現の持つ、この際どい回路を、手塚は無意識的に知っていたのではないか。(p. 136)

感情移入とかわいさ。感情移入を導く?感情移入が萌え?かわいさ?いや、なんか、うーん…。萌え、というのは、なんかもっとこう、愛でるような?感情移入が愛着?いや、違うと思うんだけれどそれは。

あと竹内オサム氏の『同一化技法』については、ゲームの視点の問題と絡めながら。なにせ「読者と作中人物の視界を一致させる”同一化の技法”」らしいので。感情移入と同一化、ていう言葉が引っかかっております。まぁ、ただ続くTIDの章では批判されております(p. 240~)。この批判は、我々ゲーマーにとって非常に有効だと思われます。「想像的同一化ではない」という点が特に。映画理論では、作品世界への退行的な「没入」が前提にされているとか。そんな感じの話です。

『GUNSLINGER GIRL』に対するウェブなどの感想を見ると、本作が実に激しい賛否両論に迎えられていることがわかる。こんなマンガは倫理的に許せない、悪趣味である、気持ち悪い、という声がある反面、この不幸な少女たちに感情移入をするだけでなく、作品として高い評価を与える声も数多くある。(p. 268)

GSG。少女への感情移入、とかそういう?自分で言っといて「への」ていうのが、なんか、微妙に嫌悪感。http://b.hatena.ne.jp/genesis/GSG/あたりのリンクを読み直すべきなのでしょうか。嫌悪感を表明している人は感情移入しているからあんなに文章が書けたんだろうか。…なんか違うような。

むしろ、ここで前面に出されているのは、彼女らの「存在」によって媒介される切ない「感情である」ここに、マンガ=キャラ表現のもうひとつの特性を見て取ることができる。「痛み」に代表される身体的な感覚よりも、広い意味での「感情移入」が先行するという特性である。(p. 270)

広い意味での感情移入。むつかしい。広く使える概念だ、ということは、承知しているつもりですけれど。感情移入…?痛んでいるところを見ると自分も痛く感じる、というのが感情移入?うーん、移入、とか書いてるんだから、もうちょと能動的なような、そんな?いや、どうだろう。感情移入させられる、という言葉も実行的だと思いますが、それは、やっぱり他動詞ですよね。受動態で。感情移入…?

たぶん、これでTIDに出てくるほとんどの『感情移入』という言葉はチェックできているはずです。あとは、p. 55, p. 271にもその言葉は出てきますが、省略してます。

…なんか、どうも腑に落ちないなぁ、という感じがいまだ残ってます。つーか、なんか、感情移入の議論のためになってない。ぜんぜんクリティカルじゃない、ような。…どうすれば。

キャラと二次創作性とやおい

ついでに。夏目氏の本と読み比べて面白かったところをメモしておきます。まず、TIDの、「『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている」という議論を把握した上で。かつ、「「二次創作」という現象が、キャラ/キャラクターを考えるときに、たいへん重要な自証である」(p. 103)とかそういうのを考慮したうえで以下の文章。

 つまり、『NANA』に対して「キャラが弱い」といった少女のいう「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さであると考えることができる。この「横断性」こそが、重要な点なのである。

 そして、「キャラ」としての「強度」は、程度の差こそあれ、すべてのマンガ作品に共通して存在するはずのものだ。であれば、その「強度」を見えないようにすることが、「キャラ」を固有のテクストのうちに封じ込め、「キャラクター」を立たせることを可能にしたと考えられるのではないか。そのよな視点からは、二次創作や「萌え」といった現象を、実はマンガという表現全体を貫く、大きな基本原理と通じているととらえることができる。(p. 108)

そしてやおいについての文章を比較。『テニスの王子様』のやおい二次創作の話。

やおい系の知人に色々話を聞くと、こういうことらしい。

 多くのキャラクターを出しながら、けっして彼らの人生や動機の背景を詳しく描かないことで、やおい的な想像力(誰と誰がくっついて、どちらが「受け」「攻め」で、という奴ね)が働きやすくなっている(その側面でいうと『NARUTO』は人物の背景を描き込みすぎるようだ)。話としても単純で、あまり緻密に作り上げず、ひたすらテンション上げる構造でつっこみやすい作品にしており、しかも美少年だらけ。タイトルからして、少年マンガなのにナゼか『王子様』だし、わざとやおい的な「読み」を呼び込みやすく作っているという。同人誌受けを、少なくとも編集者は狙ったのではないか、というのだ。けれど、やおい系の方にいわせると「アザとすぎて引く人も多い」のだそうだ。(夏目房之介, 『マンガは今どうなっておるのか?』, p. 45)

NANAの登場人物がテクスト依存性が強い、だから「キャラクターは立っているけれど、キャラが弱い」から「二次創作が少ない」*1ということだと思うのですが、じゃあテニプリの登場人物たちは、どう言えばいいのかなぁ、と。キャラKyaraは、だいたいで言えば、「人格のようなものを持っている存在感を感じさせるもの」とp. 95で書かれている。で、テクスト横断性とキャラの強度とは正の相関があって、キャラが強いと二次創作が多い。でもどうやらテニプリはキャラは強くなさそうだぞ、と(過去とか少なかったら、キャラは弱くなるのではないかな、と)。やおい受けする条件は「キャラが弱くて、キャラクターも弱い」のか?えー。キャラクターは強い、のか?まあ夏目氏の本に引用されてる画像が「岩清水? イワシ水だよ」というところなので、ものすごく反応に困るんですが、これキャラクター強いのか?…やおい的感性をあまり持たないのでお手上げです。

でも、「自分の場合は、キャラの情報が多すぎると感情移入はしにくくなるタイプ」という方もいるそうです。…もう、感情移入とか、さっぱり。

やおいと人称

あと、こういうのも調べてきました。いやー、ほら、http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061229/p1のあたりで言及してしまったので。

 <やおい小説>の「読者・作者」は、女性性を備えている<受>の方に感情移入して作品を読むことが多い。その結果、従来は、<受>の感情が描きやすい<受>の一人称の作品が多くなる、と分析する傾向にあった。

 しかしデータを集計すると、三人称作品が、全381冊のうち241冊と、約63%を占める結果となった。一人称作品は140冊と、約37%。三人称作品は、一人称作品のおよそ二倍という圧倒的な分量の差が出た。文字メディアとしての小説全体に通底する傾向ともいえるだろうが、予想に反し、<やおい小説>は、三人称の作品が多いことが分かる。

 「語り手・視点人物」を、<攻>よりも<受>にする作品の方が圧倒的に多い。一人称作品と三人称作品を合わせた中で、約68%。しかしここから、「読者」の感情移入もしくは視点の<受>への固定化を読み取ることは、テクストの本質を見誤る危険性がある。テクストの「語り手・視点人物」、および「読者」の視点(知覚・認識)と言説の視点(知覚・認識)の問題は、より多角的に分析する必要があるだろう。(永久保陽子 , 『やおい小説論 女性のためのエロス表現』, p. 147)

こういうデータは楽しいなぁ。

*1:TIDの著者である伊藤氏は本書の中で直接的にはそう仰っておられません。ただ、キャラKyaraの強度と二次創作の多さは相関しているものだと本書から読み取りましたので、たぶんNANAの二次創作は少ないんじゃないかな、と。このときの『少ない』、というのは絶対数ではなく、おおまかな読者:二次創作者の比率で。

tt2007/01/07 14:24あまり慎重に使用していないと思われる用語については、とりあえず具体例を挙げていって「日常的な用法」を絞り込んでから、そこから異なる用法が使われていると思われる「学術的な用法」を選別していくことを勧めます。考えすぎて自分で区別がつかない状態ならば行きずりを適当に掴まえて聴く。「AはBに共感する」「AはBに同情する」「AはBに感情移入する」「AはBに没入する」まず左記の用法は実際に使うか。AとBに固有名詞や代名詞、通常名詞等を実際に入れて確認。次「する」を「した」に変更、「する」を「している」に変更、「は」を「が」に変更、「に」を「と」に変更、「A」と「B」を入れ替え、「Aは」「Bに」をそれぞれ削除、等々の作業をAおよびBの内容を細かく入れ替えるたびに行う。なるべく「いま目の前にある事物・人物」から展開していく。
以前に「貴方のフィクションとフィクション以外の区別の枠組みは、あまり自明でない」と指摘した私としては、「小説」「フィクション」に限定した言葉の用法を先行して考えるのは効率的でないと判断して上記を提案します。文献引用のみでの議論が完全に成立するのは「小説」「マンガ」といった対象の区分や枠組みをガチに定義している人、定義を先人から引き継いでいる人だけです。

cognicogni2007/01/07 23:30具体的な方略のヒント、どうもありがとうございます。
実はそういう方向(i.e. とりあえず具体例)で考えているつもりなのです。脳内コーパスみたいなの、という風に上記エントリに書きましたが、コーパスは自然言語からなる文の集合みたいなものですし。そういう実際の具体例を見ていこうとする試みが、TIDの検討でした。また、フィクションに限らず、感情移入という行為については考えてみました(例えば、「私は彼に感情移入する」という文を1/4ぐらいに書いて検討したことをメモったはず)。が、どうにも、やはり。うーん…。とりあえず、「する」を「した」に変えてみるとか、ご教示されたことを色々やってみます。

話はそれますがそういえば、没入、というのは、例えば、自動車を運転していていつの間にか自宅についていたとき。non-descriptiveな記憶が駆動して、意識しなくてもそういうことができて、自宅についてから「あれ、運転してたっけ?」という形で思い出す。これも一種の没入だと考えると、まぁ、没入に関してはなんとなく解ってくるかなぁ、と。自己を強く感じるときはたいてい障害がある場合だ、ということは何度か言及してますけれど、まあ、そういう風に、没入しているときは自己を感じないのではないか、というのがあるんですよね。そしてこの『意識しなくても』とか『自己を感じない』というのが非常に興味深い現象でありまして。…感情移入、とはやっぱりちょっと違うような気もしますけれど。

あと、http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200408.html#23_3みたいなことを仰っていたflurryさんにお話をお聞きしたいところです。

まぁ、感情移入についてたいした理解なくこれまで生きてこれたのですから、解らなくても生きていけるものだとは思いますので、そんなに深刻ではありません。が、割と真剣に。

tt2007/01/08 03:29思いつき用例「少年漫画と共感する」「 <!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"> に没入する」「私は「534+22.1=556.1」で感情移入した」「私は「繊細なタッチで描かれた設定資料を見ながら、ここまでの旅を振り返ってみよう。」に同情した」

tt2007/01/08 03:59あと、私は個人的には「感情移入」に拘る気はありません。考えても仕方ないものは考えないというのもありますが、それより「感情」嫌いだし。

cognicogni2007/01/08 14:24うーん…。用例、最初のもの以外は微妙な感じです。やっぱり、「A”に”感情移入する」、ですよねぇ。withとかonとかtoっぽい感じで。「A”で”感情移入する」だと用具的な感じが。…そういえば高校のとき、ベトナムからの留学生にこういう日本語の教え方をしたような。

昨日考えていたのは、「私はAに感情移入する」んじゃなくて、「私はAがXしているところに感情移入する」としたほうがいいかー、ということでした。マンガのコマわりとかのことを考えている途中で思いついたので、少し無理やりかなと思うところもあります。哲学の言葉で言えば、proposition(命題)とpropositional attitude(命題態度と訳すのかな?)との関係です。感情移入しているときは、I empathize that A is X-ing.であって、propositional attitudeとして『感情移入するempathize』という動詞がある、と(なお同様のpropositional attitudeは、例えばbelieveとかfeelとかその辺です)。だから、「私はAに感情移入する」という文を書いたときに想像しているのは実は「私はAがXしているところに感情移入する」という文である、と解釈すべきではないか、と。無機物でも擬人化してあるのであれば、こういう用法は使えますし。でも、そこから発展しないので没にしました。

感情移入に拘らないとすると、恐らく「ある体験をどのように言葉で表すのか?」ということになると思いますが、その辺は哲学でやってますしねぇ。まぁ、飽きるまで『感情移入』という言葉で私はやってみます。

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