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2007-01-08

[] ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ!  ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ! - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ! - こぐにと。 cognit.  ロリ返信!なんか感情移入から外れてきたみたいな感じ! - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

 あと。まあ。二次創作には大雑把に言って、二つの方向があって。

 原作の「文脈」にどれだけ沿っている(沿った上での読替も含まれるので複雑だが)かが問われる、つまり虚構の水準として原作と同次元にあるもの、と。

 虚構としての水準、あるいは位相をズラして「キャラ」を二次使用(という創作)するもの、と。

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070108/p2

勉強になります。二次創作はあまり存じておりませんから。

キャラ/キャラクタの循環構造についてはなんとなく理解できますけれど、まだ理解が不安なのでとりあえずTIDを読み直してみます。キャラ/キャラクタの分別について、個人的には前から『わはー』のような『えここ』や『OSたん』とかの事例への応用が気になっています。「文化的文脈が付与される」ことを考慮に入れると、なんとなーく腑に落ちる感じもありますけれど、文化的文脈ってなんか便利すぎるような気がして少し戸惑うかなぁ、と。

『無意識と前意識』の特に後者については、精神分析(というかフロイト)を想起させるので個人的に避けていました。unconcious/preconscious/conscious分けて考えてもいいんですけれど、フロイトについてあまり知らないので、私の慣れている方面の慣例に従ってunconscious/conciousで分けて考えてます。しかしそういうラインで考えても、没入が『意識狭窄の一種』っていうのは、割としっくりきます。fMRIで読書没入状態の脳を撮像できればいいんですけどね。誰かやってないかな。

『手塚/石森』については、『教養としての<まんが・アニメ>』のp. 250~です。昨日の記事に「面白かった」と書いた理由は、ストーリー主体/キャラクター主体というmetricで作家性とかいうものを幾分解きほぐすことができるんじゃないかな、と思ったからです。仰るとおり、手塚/石森をそのままストーリー主体/キャラクター主体に当てはめることは異論もあるでしょうけれど、あくまで両者を分別するフレームワークに注目した、ということになります。

[] ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成  ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成 - こぐにと。 cognit.  ロリ仰天! 散漫すぎるエッセイと二人称的な画面構成 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ノリノリで書いた。明日から授業だと思うと書けるもんですね(泣)。

見詰め合う二つの目、というメロドラマ的な演出がどのメディアにおいても力を失い、また同時に視線と言うものの圧力が実証的な研究に乗せられていることは想像にたやすく、例えば北田暁大が『広告の誕生』で指摘するように、常に我々は他者からの視線に晒され、また常にベンヤミン的な<気散じ>をもってして何かを見ていることは既に明らかとされているだろうと思われる現在、そのような視線という立場の頽落にも関わらず、我々がゲームを行う際に於いてもその視線の顕著な特徴が見られるといっても過言ではないだろうと言い切ってみれば、そこには新しい何かが現れるかもしれないという予感がある。例えば2006/12/28のコメント欄にて行われた私とt氏とのやり取りに於いて、二人称としてのビジュアルノベル画面構成が示唆されたと解釈しても良いだろうし、また当のビジュアルノベルの構成要素が他ゲームと比べると非常に少ないものから成立させられていることは明白であることからして、岡本氏の文学およびゲームの視点の認知言語学的研究を踏まえたうえでさらなる一歩として、ビジュアルノベルの画面の特異さ、特にビジュアルノベルにおける立ち絵の特徴を鑑みることは決して的外れな論考とはならないはずであろうと考え、以前検討したことのあるAIRの観鈴の立ち絵についての考察と、Kanonの舞の立ち絵における視線の表情などを発展させる形で、ふと軽いエッセイでも書こうと思い立った。たとえば、いたる絵における瞳の大きさはデッサンの乱れや畸型として扱われることが多いが、その積極的な効果を認めることも可能であろうし、事実その瞳の大きさによりその動きが詳細に描けるという利点があることは以前記述したとおりであり、またここでは多くの立ち絵においてこちらを見続けるという行為がキャラクターの子供っぽさを増強させているということを新たに指摘することで、キャラクターが発する視線というものを再び考察の対象へと位置を上がらしめ、そこから飛躍する形でさらにビジュアルノベルにおける画面の特異さを強調するとするならば、それは我々プレイヤーが画面を見ることによって感じる存在というものの二分化であることは恐らく簡単に合意を得られることであろう。具体的に言えば、ビジュアルノベルの画面を見ることによって現れるのは、立ち絵としてのキャラクターに視線を注ぐ我々と、常に視線が注がれる存在であるプレイヤーである我々とが同時に屹立することを可能とするところに求めることができ、ただしここで注目さるべきなのは、単にこちらに視線が向いているということではなく、アニメやマンガでは到底不可能であろう恒常的な視線の並置であって、たとえ少女の立ち絵が二枚以上並んでもその視線は必ずプレイヤーたる<わたし>の方向へと向いているという驚くべき事実であり、彼女らの視線が決して我々の目の前で交錯しないという事態であり、プレイヤーたる<わたし>は常にコミュニケーションの媒介として働かざるをえない優しさの強制の構図であり、これら全ての特徴が示すその視線の固定化はいかなる他媒体では再現できない特異な形として現れていることは間違いなく、その視線の固定化・並置によってビジュアルノベルが「あなたにとっての<あなた>」という二人称な画面構成を得ることができた、とその特異さを擁立することができるものと豪語できるであろう。もちろん、ビジュアルノベルの一つの源流として挙がるゲームブックにおいて、二人称による記述が他のジャンルに比べて有意に多いことは、この仮説を補強するに足るものであると考える。

ここで想起すべきは、このような視線の具体性であり、その視線が引き起こすある種の感情であることは想像に難くなく、例えばメルロ=ポンティが<肉>と名づけた「存在」の原型、<感じ取られながら感じ取るもの>としての人間の身体を語り、「すべての視覚には、一種のナルシシズムが存在する。そして同じ理由から、見る者は視覚を行使することにおいて、事物の側から視覚を行使される」(『メルロ=ポンティ コレクション』p. 132)と語るとき、我々がその言葉に沿って発見するのは、ビジュアルノベルにおける「画面上のキャラクターを見る者」としてのプレイヤーと同時に、サルトル的でありながらそれほど単純化もされていない対他存在としての<わたし>もしくは「キャラクターに見られる者」としてのプレイヤー、言い換えれば二人称としての「あなたにとっての<あなた>」という概念に他ならず、これがかのビジュアルノベルの二人称的視点という概念を補強するとともに、そこにおいて見る者としてのプレイヤーと見られる者としてのプレイヤーは同時に存在しえることを示唆することだけでなく、映像・音楽やその他効果によって没入を深めることによって主客の概念を根抵から無効化することができ、また立ち絵を消すことによってあてどなく彷徨う視線が美麗な風景に吸い込まれることなどで、最早<あなた>なる概念は霧散し主客の一体化を図ることが可能となり、ビジュアルノベルにつきまとうある種の叙情や感情移入の容易さ、<肉>としてのあるべき世界を、そのビジュアルノベルというシステム自体が顕現させうるのではないか、という推察が導き出され、このような特長を考えることにより自然とビジュアルノベルというシステムに要請された演出の特異性というものを捉えることができるだろう。むろんそれを語る際に、ササキバラゴウによって提唱された『第三の性』という概念を想起し、受動的な第三の性としてのプレイヤーの立つ地盤をより図像的にもしくはシステムの要請として考慮することも可能であり、同時に、その第三の性が提唱されるに至った源流が少女マンガにあるということを考えると、葉鍵の源泉を少女マンガに求めることも可能であることと思われるだろうし、同時にその視線(=眼差し)すらも取り込むことで男性の中に女性性が芽生えると言う俗流の精神医学や、そして眼差しというものを考えれば当然とは言えるラカン的な解釈すら許すことで、ビジュアルノベルの隆盛という現象が間接的に示唆する、男性の女性化(ttp://d.hatena.ne.jp/chunyan/20050707/1120755365、ttp://d.hatena.ne.jp/chunyan/20050721/1121928220など)や男性性からの逃避(ttp://d.hatena.ne.jp/arctan/20070107/1168151261)がラカンの言葉で説明することが可能である俎上に乗ることが窺えるが、そうした行為はこの文章の表層を記号の戯れへと変化させることに繋がり、また類似性による安易な連結は己の首を絞めることに他ならないから、ここでは割愛することが適当であろうが、そのような危険性を承知で再度強調しておきたいのは、このような特徴がビジュアルノベルというシステムから要請されたものであるということであることは間違いない、ということである。

以上の議論で、ビジュアルノベルにおいては「二人称的に見られるわたし」というものがほぼ自動的に描かれることになり、ここに美少女ゲームの独自性を求めるのもやぶさかではないだろうと指摘したが、ここで注記しておくべきは、カメラの位置の固定化という共通性から想起すべきある映画監督がいるということであり、読者諸氏は以上ヒントで心得たものだと思われるが、それは小津安二郎であることは周知のごとくである。特にここで想起すべきは小津な視線の非交錯、ビジュアルノベルで言えば二人以上の少女の立ち絵が決してその視線を交わらせないことであるが、その直接的な比較は双方を貶める行為に繋がるであろうし、そもそも小津といえばカメラのローアングルが有名であろうからして、ビジュアルノベルの常にミドル~アップというカメラ視点を鑑みるに、両者の直接的な比較は禁ずるべきであろうが、両者に共通する点が確実に存在することは最早自明であり、そしてここでAIRを持ち込むことによって、ビジュアルノベル特有とも言える演出の技法が発見されるのではないかと思われる。

むろん様々な要因が絡み合ってビジュアルノベルの特異性を成立させていると考えるのが妥当であるが、ここで考えたいのは、AIRという代表的なノベルゲームにおける『未決定の宙吊り』状態とも言える特徴であり、この点でAIRはサスペンスであると断言しても構わないが、もちろんここではヒッチコック的な緊張と甘美を併せ持つサスペンスではなく、ただ弛緩しつづける形で継続する、字義通りのサスペンスであることを念頭においてビジュアルノベルを考えると、プレイヤーの全身を弛緩させて埋没させるビジュアルノベルはその弛緩するサスペンス性において常に決定を遅らせ続けていることは以前からastazapoteなどで指摘されていた通りである、という従来の議論をまず想起するべきであろう。可視的なものから推察される不可視的な普遍性は、全ての可視的なものを従属させることではなく、また以下の行為が象徴へと逃避する幇助たるものでもないと断った上で以下の考察を進めたいが、AIRにおいて読者は突然の女の子との出会いから、常にその物語は進行を拒むように遅々と進んでいき、そして何よりエンディングを迎えてもプレイヤーがサスペンドの状態に置かれ続けていたという事実は、恐らく多くのAIR読者が体感したことであろうし、その人数の多さは「AIRプレイ後に欝になった」と言う感想の量が示してくれていることであろうと思われるが、AIRはそもそもにおいて、その物語の中心をなす会話が常にずれを孕み、未決定であり続けるという構造にも表出していることは付記しておくべきことであるし、またその構図こそがキャラクターの成立に一役買っているという点で、AIRというビジュアルノベルにおけるゲーム性の背後にある緻密に計算された上で立脚するキャラクターの構築は、この文脈でゲームとして高く評価されても良いだろうし、さらに言えば馴れ馴れしくも近づいてきながらも、その内面を決して見せない(故に強い子であるのだが)という観鈴という少女は、読めそうでありながらもその心情の解読を許さず同一化を拒み続ける少女でもあり、彼女は魅力的であると同時に不気味である異性というものを如実にあらわしており、麻枝キャラをもってして『他者』と大仰に言及した人が多かったことも、ここにおいて頷けるものになるであろうし、このような特徴がAIRの文学的な評価を高めるものであると信ずる。またAIRは塗りにおいてもその卓抜さを垣間見せ、光についての描きこみも多いところを見ると、それは光へのこだわりを見せた小津とまた重なる結果となり、非常に小津的であるといえるものの、本来の議論であるこのサスペンスの体験こそがビジュアルノベルというシステムが強要したものであることを指摘することについて、そしてさらにAIRにおける演出面について語ることについて述べるには、時間と知識が少々足りないのでしばしお待ちいただきたい。眠い。

ChianaChiana2011/07/31 00:32Way to go on this essay, hleepd a ton.

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canuzubbcanuzubb2011/08/01 00:58l1J90X , [url=http://ufjewmlolaqg.com/]ufjewmlolaqg[/url], [link=http://zzifjjmwjqrb.com/]zzifjjmwjqrb[/link], http://tnwrfzokzzsd.com/

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wdziehcwdziehc2011/08/02 21:37uyH6gs , [url=http://xqlqntpsgjmh.com/]xqlqntpsgjmh[/url], [link=http://vfnpkfwcblmt.com/]vfnpkfwcblmt[/link], http://llrlpdgbofkh.com/

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