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2007-01-12

[] 立ち絵の大きさとコードギアス12話  立ち絵の大きさとコードギアス12話 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  立ち絵の大きさとコードギアス12話 - こぐにと。 cognit.  立ち絵の大きさとコードギアス12話 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

「コードギアスはWebで視聴できますよ!」というメッセージをsimulaさんのブログから郵便的に受け取って以来、ビッグローブ様とサンライズ様には足を向けて寝れないなぁと思いながらこの子供心を大きく残す大きなお兄さん向けアニメだけは毎週見続けているという状況で、水曜日が待ち遠しいというか最近は「あ、今日は水曜日か」という具合の気がつけば水曜日なのでそんなに日々の遠近を感じることはないのですが、実は見るたびに拙い感想もいくつか書いていたりしまして、しかしその一方で結局正月の全話放送は少しだけしか見れないという状況で発言するのはなんとも心許ない、と感じつつ、とりあえず言っておくべきこととしては、ナナリーの声は、なんか、こう、いいなぁ(にやけながら)。和むっていいますか、そのですね、眼をずっと閉じているところと髪の毛の色がいい。ごめん私は視線には耐えられない人間なの。あと微笑みながら首を左に(向きは大事)傾けたりしそうなところが庇護欲という獰猛な感情をかきたててくれるわけです。それ声関係ないじゃないか、いやそんなことはなく、映像は声をどう解釈するかに大いに影響してくる…よね?言い訳する気満々ですけれど、私アニメとか声とか詳しくないので、自信ありません。ちなみに言ってることはマガーク効果とかじゃない。声優さんの声質については、2ちゃんねる声優板を覗いたことすらないという私が何か言うのはおこがましい限りなのですけれど、個人的には、透き通りはしないけれどどこか心地よいところで淀んで、名残りを残して通り抜けていく甘えん坊だなぁもうお兄ちゃん困っちゃう(はぁと)、という感じです。ああそうそう、そろそろ(はぁと)とかが臆面なく使える年齢になってきました。そんな20代前半の頃。

本題はまったく別の話なんで、そろそろ始めます。やー、ここゲームのブログなんでゲーム絡めないといけません、という風に一応自分の中では制限しておりますので。この前ぽつりと隠れブログで漏らしたことを再演するのですけれど、コードギアスはどんなに陰惨な図像を描こうと悲劇が起ころうと、その画面全体から発せられるある種の手つきはどうにも優しげな感じがします。というのは、やはり映画的手法を鑑みるに、アップが多く、またキャラクターの顔を正面からそれを捉える図が多いからではないかな、と。基本的に突き放した情景を描きたければ、俯瞰的に状況を知らしめるカメラの位置にすればいい、ということをどこかの本で読んだような覚えがありますので、その逆はしかるに、という感じで。もちろん優しさというものは、全ての場合に役立つものではなく、異常なまでにその映像を解りやすくしてしまうという欠点はあると思いますが、まぁそのあたりはスタッフがキャラの魅力を知らしめたい愛です愛、という気持ちがびんびん伝わってきて、キャラは幸せだなぁ、とくにナナリーは可愛いなぁかわいいかわいい。あの妹の声のためなら世界を壊すのも同意せねばならない。

という前座を置いて結論を書くと、美少女ゲームにおいても立ち絵が大きいと優しく感じるのかな、と。例えばKanonの立ち絵の大きさについてはびっくりするほどで、キャラが一人分しか描くことが不可能という、「いたる絵前面化!」というユーザーを歓喜と失望の渦に巻き込んでくれそうなシステムが採用されていたわけですが、いたる絵が出たら幸せというパブロフの犬な状態の我々がいざ他人に勧めようとするとき「…大丈夫、慣れるから」としか呟けないという具合だったではないですか。しかしいざやってみると、Kanonのように立ち絵の大きなゲームではキャラが一人しか表示されないという点で、以前の視線の話も含めつつ、何かしら効果があるものではないかと思います。そしてその一つが、なんとなく優しく感じてしまうものではないか、と。保証はないです。実験しないと。それと今頃思い出したのですが、三人の立ち絵が(キャラ同士が一切の重なりがない形で)表現されたゲームをはじめてやったとき、割と違和感と驚きがあったんですよね。一つ当たりの画面の配置分量が小さい、というのはその違和感の一つの要因ではないかと思うのです。ゲームの名前忘れましたけれど。まぁこのあたりの正誤を調べるには、違う画像を用意して遠近少し変えて実験してやればいい話だと思うのですけれど、質問紙の作り方が難しそうだ。うぐぅ。

ついでにこっちにコードギアス12話の感想を書いておきます。ちなみにこういう上から下へ滴るような出たとこ勝負の文章スタイルはmixiで採用しているのですが、パブリックにするのは初めてじゃないかなとか思いながら、「mixiでコメントつかないんです…(泣)」という愚痴をまずは吐かせてください。どうでもいいですな。まぁ、まずシャーリーの絵のくびれが艶かしく描かれていて、愛されているなぁ、と思いました。ルル様とシャーリーの身長差もさりげなく描きつつ、シャーリーの可愛さアップ!、としか反応できないような構図が二回ぐらいあったような。そして「るっ、ルル!」「はい(裏声っぽく)」と答えるルル様の性格、突然のことにはあんまり対応できないところとか、ルル様はおっちょこちょいなところがあるところとか可愛いなぁ、と。可愛さしか読み取ってないところは批判されても仕方がないのですが、可愛いものは恥じることなく可愛いとゆうべきだ。しかるのち後悔すべきだ。

しとしとと雨降る木々の中で抱き合う恋人、というときに注目すべきは、その雨では決してなく、傘と塗れた髪であることは自明であって、まるでこれが平然だとも言うように規則正しく反復的に鳴り響く雨の音の中で軽く音を立てて落ちる傘といい(しかも傘は二人の姿をきちんと一瞬視聴者から隠してカメラはミディアムへ!)、夜の雨という象徴を効果的に使いつつ、塗れた髪・涙とまざり生気のない肌に滴る雨・立ち込める雲とともに光と影のコントラストを極限にまで抑えるために背景へ林を配置することといい、そのまんまなタイトルの予告を見ずとも、あまりにその一連の動作と映像が絵になりすぎているという点で物語の文法に沿っていることが予見されるから、あの短いキスシーンが既に崩壊の予感に包まれているあの映像は、映像への素養のない私のような視聴者は酷く悲しげでただただ無音にその画面を見るしかありませんでした。そして雨の音だけが残響する。というよりも、ロングショットからのキスシーンなんて既に何かを予感させるつくりになっているものなのだから(俯瞰させることの客観性と抒情について参照せよ)、画面上の二人には試練があると初見の人すら分かってしまうほどに分かりやすいまでの画面の表情を読み取りつつ、愛情に包まれているシーンはきちんと唇を過度に見せるような形で現れていた(と思う)点は映画を見れば明らかだし、コードギアスならば11話のC.C.の映像と対比して見るべきところであったように思います。対比と言えば、少なくとも、ルルの瞳にはシャーリーの泣き顔が映っており、シャーリーの瞳にはルルの顔が映っていないという点は対比すべきだ。あれが示唆することは最早言わずとも分かるように、一つの事実に対して、二人がどのような私情と感情を持っているかという、その徹底的とすら言えるズレ…もうあとは省略というか、素朴すぎてダメな着眼点だと(自分のことながら)思う。…いやむしろ見るべきだったのは、空の模様だったのか、と思い直しつつ、アニメでは風景は情景という単語と置換可能であるとかいう陳腐な一般化はとどめておき、思い出してみれば、前半パートでは日常と青空の対比をしつつ、後半では非日常と夜との対比という分かりやすさ。事件が起こるのは常に光と影のコントラストが明確になる夜であって、淡々と流れていく時間の上でそれに反抗するすべはなく、夕方すら抜いて語られるその出来事の唐突さは、ストーリーの加速に充分な影響を与えていると思われます。ただもちろん、ここでの学生の日常という概念は、我々エロゲーマーというか私は鍵っ子なのでONEを取り上げますけれど、というかastazapoteを読み直していたのはこのあたりの関連なのですが、あのような日常にギャルゲーによって発見された『日常』からの影響を少し感じるのは近いのではないかと思うのです。そしてその上で、そうしたギャルゲーの様相すら見せるコードギアスの昼パートとピカレスクロマンな夜パートは、その実物語上は明確に絡み合っていることが「ルルは昼寝が多い」などという9話ぐらいのシャーリーの発言で自明であって、いざ今回において昼のキャラが夜にきっちりと絡んできた点は、ただの言葉だけではなくイメージがようやく侵食してきた、と解釈するべきではないでしょうか。つまりこれからより混乱をきたしていくと言う分かりやすい予兆であると。もちろんここでコードギアスの分かりやすさを闇雲に批判するのは間違いだと思いますし、というのは、どうしてここまで分かりやすいかということを考える際に避けて通れないのは、コードギアスのテーマに即す形でその作品特有の時間性を考慮せねばならないということで、恐らく作品の時間性を考える際にはARIA(アニメ見たことないけど)を少しばかり思い出してもらえばいいわけですが、展開のスピードを上げていくには美少女ゲームとは違い日付を明示しないなどという作法を通りつつも、萌え萌えか懊悩するかの二択であるたるいアニメに馴致されてしまった大きなお兄さんである我々視聴者たちをその圧倒的なスピード感についてこさせるために分かりやすくせねばならないという制限が強く利いているところではありましょうし、しかもその分かりやすさをきちんと描けていて表層的過ぎるという違和感を抱かせることがないのは、最早演出のなせる業なわけでほめられる点でもありましょうから。

むしろ最近気になっているのは、この監督特有とさえ思える、幾度も足を見せることであって、CLAMPの絵は基本的な嫌いな私としても、きゃールル様!という発言が出そうになるぐらい脚線美と、そして歩くにせよ動きにせよ、足の見せる表情(今回はシャーリーのが特に)というものに対しての敏感さについては、幾度かの作文が必要ではないかと思うわけです。私は考察や批評なんて大仰なものは目指さずただ感じたことを書くだけですが、そういうの書くと無責任な文章になるので、そういうのはmixiでやります。チャオ。

あと最後に、アニメは静止画の連なりではなく、動画であり、その運動にこそ敏感でなければなりませんが、あのような淫靡な運動をしている眼鏡娘はどうにかしてください。何よりナナリーは彼女に喋りかけすぎで、なんか変なフラグが立ちそうで、一人のお兄ちゃんである私はナナリーのことがとても心配です。

追記:思い出したんですが、シャーリーのアップが多かったのは、やはり最後の雨に濡れる涙の顔を際立たせたかったためでしょうね、と。書き忘れていたので追記しておきます。

sosuitarousosuitarou2007/01/13 01:47立ち絵の大きさについて,予備実験的なものとしては昔,秋風氏が実施してます.http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/cha4.htm 調査法の問題点も含めて,よくまとめられていると思います.ご存知だったかもしれませんが,念為.

tt2007/01/13 05:40昔、いたる絵の進化についての考察がネットのどこかに転がってたんだけど見失いました。えーと、要するに画面に対するに顔の比率じゃなく瞳の大きさの比率を考えるという趣旨で、ONEからKanonにかけて画面の構成変化に合わせるように顔の描き方も瞳を極大にする方向に進化し、結果として、瞳の拡大による「内面」描写の強化へと大きく傾斜した、という話。確か、ONEの製作チームがTacticsを抜ける際のエピソードも絡めての考察でした。(URL知ってる人がいたら教えてください
これと対比して、ササキバラ・ゴウ氏あたりからは、エロゲーの立ち絵で服の下の乳首が強調されることへの指摘(エロコミックやフィギュアからの表現様式の輸入)があります。Kanonのようなアップでは、当然ながら胸や腰つきなどは画面に入りません。
いたる絵の瞳の話の傍証として思いつくのはPLAYMの「リアライズ」、メーカーの紹介ページを見てもらえれば判りますが、この作品では画面に同一人物の「立ち絵」と「顔のアップ」が並びます。この顔アップ配置、ちょっと他では見ない珍しい画面構成で、真の理由は不明ですが私は「リアライズ」の頃の水無月氏の絵柄の変化(顔全体に対して目の比率が極めて小さくなり「リアル」になった)によって、従来の立ち絵では表情の微妙な変化が見えなくなってしまったための画面構成ではないかと思いました。(新作の「レイナナ」では改めて目が大きくデフォルメ化されています)

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/01/13 08:32ナナリーの外の人こそガード不能http://b.hatena.ne.jp/entry/http://lapis.dameda.net/d/200204.html%2320020413のフレーズでおなじみ名塚佳織です。『コードギアス』の声優陣から彼女の声に反応できるってのは、いい耳だと思います。

cognicogni2007/01/13 12:32錚々たるメンバーからコメントをいただけて、恐縮です。

>sosuitarouさん
ご教示ありがとうございます。恥ずかしいことに、秋風氏の実験を読んだ覚えはあるのに想起できませんでした。きちんと検索すべきだったこと、反省します。
改めて読んでみると、秋風氏の記事の内容はとても参考になりました。調査結果だけでなく、アンケートへの意見なども見るに、立ち絵一つにしても考えるべき点がまだまだあるのだなぁ、と感じました。

>tさん
一通り検索してみましたが、URLは引っかかりませんでした…。読みたいので、また後日再度検索してみます。いたる絵進化といえば、最近のいたる絵に味がないように感じるのはどうしてなのかも気になります。
ササキバラ氏の仮説は、鬼畜系ゲームのリアル志向な絵柄では服の上からでも乳首のでっぱりが見えるキャラがいたりして、その仮説も当てはまりそうですけれど、いわゆる萌えゲーでは少し違うような気がします。tさんの仰るようにデフォルメされているので、もう少し記号的というか、吾妻系統のマンガからの影響が大きいと思っています。このあたり、『思う』ばかりで申し訳ないのですが…。また、疎水太郎さんが上で挙げてくださった記事では、「でっかい方が親密感を感じる」という言葉がありましたけれど、親近感という言葉も感情移入と同じくなんか微妙な言葉だなぁ、と。こっち関係の話題で一つ覚えているのは、『SNOW』(未プレイ)の「だっこシステム」という奴ですけれど、あれは成功していたんでしょうか。
『リアライズ』、未プレイなのでHPを見てみました。http://www.playm.co.jp/realize/system.htm。tさんの仰るような効果、表情を良く見せるための顔のアップというのはありうる話だと思います。『痕』の頃は水無月氏の手による瞳は結構大きめだったと思いますし、瞳の変化があったこと(特に楓の瞳)を覚えています。また、そのあたりはあの高橋氏が気づいていないわけはないでしょうし。『リアライズ』の上記画面を見た限りでは、顔同士が向き合って目線がかち合っていると、なんだか対立しているような、ゲームで言えば格闘ゲームのロード中の画面の構図のような感じがします。リアライズは能力バトルものだと窺っていますので、そういう対立をにおわせるような効果も狙っているのではないでしょうか。そういえば、格闘ゲームで思い出しましたが、一般ゲームでは『ガンパレードマーチ』がバストアップの立ち絵を使っていたように記憶しています。…一般というか、あのゲームの消費のされ方はギャルゲー的だったようにも思いますが。例えば二次創作多すぎとか、その辺の点で。
竹内オサム『マンガ表現学入門』からの孫引きですが、フレームにおけるキャラクターの遠近について、マンガであればこんな指摘もあります。
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人物を小さく描くロング表現は、大事件や、社会的につながりのある大きなテーマを描く時に使われます。それと逆に、アップやバストショットは、個人的な小さな物語に向く構図です。
『少女まんがの描き方』p. 174
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>K_NATSUBAさん
声優サッカーまでこなせる夏葉さんのような方にお褒めに預かって光栄です。ガード不能というのも、なんというか、良いたとえで、しあわせです。
コードギアスの声と言えば、7話かそこらのコーネリア総督のセリフで、憂鬱そうに「殺せ」というのを聴いたときは、とても男前で感動しました。あと、一年前ぐらいに授業中で発言した白人の女の子がすっごいアニメ声で感動したことがあります。友達になりたかったです。ちっちゃかったです。

tt2007/01/13 13:29ササキバラ氏の指摘は(確か「新現実 Vol.2」での指摘でしたが)、私は「人物を小さく描くロング表現」以外に、「顔ではなく身体を軸とする構図」の文脈を見出す取り掛かりとして捉えました。舞台でのライブの演技や踊りに近い捉え方です。
あと、メッセージウィンドウの横に表示される発言者の顔アップの文脈と、3Dダンジョンで表示される立体配置のキャラクターの文脈の混合は、個人的課題として常に念頭にあります。この違いを強く認識したのはオーガストの「 Princess Holiday ~転がるりんご亭千夜一夜~」からで、この作品では膝上からの「立ち絵」と発言者の「顔ウィンドウ」が画面上で並存するのですが、顔ウィンドウが台詞にあわせて表情をころころと変化させるのに対して「立ち絵」のほうは変化のパターンがなく、同一画面に同一人物の異なる表情が二つ並ぶという状態になります。表情に思い入れるタイプである私からすると、この状況は強い違和感を感じるのですが、テキストへの移入の度合いのほうが強い人(疎水氏は確かそういう自己申告をしていたはず)は異なる感じ方をするかもしれません。とまれ本来であれば「ノベルエロゲーの立ち絵」も「顔ウィンドウ」からの系譜を引いているはずなのですが、ここで(おそらく予算や技術の問題で)改めて「身体を見せる立ち絵」と「表情を見せる顔ウィンドウ」の分裂が生じています。
また、Kanonと同じ率での顔のアップが印象的な例としては「サクラ大戦」シリーズ、口パクの形が声優の喋る声にあわせて「あいうえお」の形をなぞるなど、顔のアップにあわせて特化した技術とあわせてこのタイプの代表例と言えます。あわせて『ガンパレードマーチ』については、マップ画面上でキャラクターたちが既にいるのとあわせて考えるべきだと思います。RPGや戦術シミュレーションなど、ゲームのメインシステムが他にある(そして会話するキャラクターのグラフィックがシステム内に配置される)場合は「会話するキャラクターの表示」はサブシステムですから、画面の中心ではなくサイド側に配置される(やや顔ウィンドウ的な扱いになる)のは至極当然な流れであると思います。
>『思う』ばかりで申し訳ない
私は「私は思った」ことしか書いてないのでお構いなき様。

cognicogni2007/01/13 16:03「顔ではなく身体を軸とする構図」、ですか。うーん、そのあたりは私の実感としては今のところないので、私はもうちょっと考えてみる必要がありそうです。
『Princess Holiday』の事例は興味深いと思いました。立ち絵とウィンドウの顔との差異に慣れればそれまでかもしれませんけれども、そうした差異がどのように感情移入などを阻害するか、などという点で、調べ甲斐がありそうです。あと、『「ノベルエロゲーの立ち絵」も「顔ウィンドウ」からの系譜』、とのことですが、例えば反論として、AVG系列の『ポートピア殺人事件』などでのドット絵全身が、徐々に前面に出てきたのだ、という仮説も立てられると思います。それはさておき、立ち絵の出現時期は気になるところですが、美少女ゲームにおいて立ち絵が出現するのは女の子の魅力を引き出すためには、バストアップ前後の立ち絵を用意するのは当然とすら思えます。もちろんこれは、遠近法的倒錯かもしれませんが。うーん…。PC-98ぐらいのときは違うのでしょうか。美少女ゲームについてはKanonから入ったような新参者なので、そのあたりの知識がなくて私にやっぱり歴史は無理っぽいです。
顔について。口パクは今の美少女ゲームでもそれほど実装されていない感じがします。最近やってないので、現状の詳細は知りませんが、あくまで印象として。しかし『サクラ大戦』(未プレイ)でそれがやられていたとは知りませんでした。少し路線をずらすと、やはり今度は立ち絵の身ぶりについて気になってきますね。なんか印象的なのあったかなぁ…。
ガンパレとRPGの関係について、すとんと理解できました。ただ、あれは結構立ち絵が大きかった(cf. http://www.alfasystem.net/game/gp/introduction.html)ので、やはり割とギャルゲー的だと思います。まぁ、このあたりは程度問題でしょうけれど、立ち絵の存在やその大きさによってギャルゲー成分は結構感じられるのではないかなぁと。例えば、PS2の『アルトネリコ』(http://ar-tonelico.jp/at_release/index.htm)とか。

t2007/01/14 07:04「ギャルゲー」という区分は非常に難しくて、というのはアシュタサポテの言うギャルゲーの定義はシステムというよりも歴史区分に近いものなので、今、距離を置いて「ギャルゲー」を精密に語ろうとすると、世代論やオタク論(そして個人史)のような語り口に近くなってしまいがちなのです。昔ながらの「美少女ゲーム」とアシュタサポテの言う「ギャルゲー」との概念の違いは明白ですよね。あと、「葉鍵」という言葉は避けるべきですと、この場を借りて書かせていただきます。派閥によって葉っ派だけでも「『雫』だけが大事」「『痕』が大事」「東鳩が大事」で論拠が全く異なりますし、「雫・痕重視の旧葉(枯葉)」と「東鳩以降の新葉」の対立は深刻ですし、「葉は大事だが鍵はどうでもいい」なんて人はザラにいます。この分裂の背景には、それぞれ過去のゲーム・ノベル文脈があると考えるべきでしょう。某「はじょーはかぎくす」の最大の問題点は、そのへん無視して「葉鍵」というネットの2ちゃんねる時代とリンクしたムーブメントと「エロゲー論」を力技で纏め合わせてしまった点だと思っています。
さておき、ビジュアルノベル(全画面に文字が表示される)では、立ち絵はあってもバストアップがポピュラーというわけではない、と言えると思います。顔の上に文字が被さりますので。では数多くあるビジュアルノベルスタイルがギャルゲー的ではないのかというと、そういうわけでもない。ならば、Kanon以降のバストアップ「だけ」を画面の中心に据え置く形をKeyの特異性と捉えるべきではないでしょうか。

cognicogni2007/01/14 11:29▼astazapoteのギャルゲー定義って、いちおう調べた限りでは、1999年10月「ギャルゲーの特異性はプレイヤーとプレイヤーキャラクターとの間に横たわる距離に対する意識」、2000年4月「繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでおり、ギャルゲーはそれを表現しうる」、2003年2月「ギャルゲーとは場所と記憶を巡って展開される形式」、ぐらいしかなかったのですが、歴史的な区分というものはどこでやられておられたのでしょうか?
▼さておき、ギャルゲーを語る際に、世代論やオタク論になりがちという危懼はまったく同意です。だからこそ我々やRGNでは迂遠ながらも表現論を語っているのでしょうし。この文脈で、『テヅカ・イズ・デッド』でも非常に共感した文章がありまして、それはp. 7にあるのですが、表現論を経由してマンガへアプローチする手法への宣言です。文章的に引用しにくいので信用は控えますけれど、手元にあれば是非。あと、『エロゲー』『ギャルゲー』『美少女ゲーム』『葉鍵ゲー』などの用語のとりあえずの整理は確かに必要かなと。特に葉鍵の扱われ方について。Kanonで洗礼を受けた私としては「葉はどうでもよくて、鍵」なので。年上の方々が瑠璃子さんを語るとき、「『雫』の瑠璃子さんを引き合いに出されてもわからねー」とか思ってます。『雫』したことないですし、私は1996年発売当時小学生だったですよ。いや、小学生のときからエロゲーやってる人は友人にいますけれど…、私はさすがに。
▼一般的な美少女ゲームにおける立ち絵の大きさは、秋風氏の実験で行われていた得票数が多いあたりが順当に採用されているように思います。VNでなくとも、バストアップはポピュラーではないのではないかなと。ちなみに『CLANNAD』はバストアップですが、『AIR』においてはバストアップじゃない(太ももから上程度)ので、二人以上が画面に出ることもあります。そういえば、Keyのゲーム以外でバストアップを見た覚えはほとんどないですね。先述のガンパレがそれなりに大きかったぐらいです。そうした面でのKeyの特異性というのも了解できるところですが、バストアップの立ち絵がどのような効果を持っているのかが気になるところです。

tt2007/01/14 19:08>歴史的な区分というものはどこで
2000年2月での「ギャルゲーの定義」が一応の区切りとして設定されていますが、この「システムによる区切り」の有効性が期限付きのものであろうということです。少なくとも現在、美少女ゲームでもエロゲーでもギャルゲーでも何でも構いませんが、一つのジャンルとして指し示しうる作品群について、このシステムによる定義が当てはまらないものも多い。それらを除外してギャルゲーのゲームシナリオ構造による定義の純粋性を維持する気は私にはありませんので、当然ながら当時その定義が指し示していた作品を構成していた構成要素を個別に追いかけていくことになります。システムの追跡を断念してアシュタサポテ的ギャルゲー定義に拘る場合、今度は「日常」の発見というエポックメイキングについて語ることになるわけですが、この「日常の発見」を巡る議論をそれのみで語るのは90年代論やオタク論といったコミュニティの横の広がりにダイレクトに接続することになります。ですので、私個人は「日常の発見」を「物語・シナリオの拡大によって逆照射させられた、コンピューターゲームというジャンルの持つ<ゲーム性>の再発見」あたりに言い換えようと思っています。どちらにせよゲームの流行との絡みで語るしかないのですが。

cognicogni2007/01/14 23:24astazapoteの日付のほう、ありがとうございます。ちょうど一昨日読んだところなのに忘れてました…(泣)
tさんのお進みになられる方向、なんとなくですが了解できました。システム的なところやシナリオといった見地からギャルゲーを定義はしない、というのは難しいでしょうが豊穣な成果を生むと思います。「日常の発見」と「物語・シナリオの拡大」、そしてゲーム性を結びつけるのも面白いと思いますし(もちろん、その拡大を支えたコンピュータの性能の進歩など技術的視点も盛り込めるでしょうし)、実際私は麻枝准においては(通常は忌避される)シナリオの長大さが彼の武器にもなっていると考えています。最近はシナリオの長さについてのバックラッシュが多いなと、Webの議論を見ていて思いますけれども、そうした表層だけの反撥ではなく、シナリオの長さをきちんと考察することは大切でしょうから、tさんの議論を期待しています。

SergeySergey2013/03/20 21:04It's good to get a fresh way of liookng at it.

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