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2007-01-13

[] 自由度とディスコミュニケーション  自由度とディスコミュニケーション - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  自由度とディスコミュニケーション - こぐにと。 cognit.  自由度とディスコミュニケーション - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

昨日のようなものをどんどん読みたい、とブクマコメントで仰っておられましたけれど、そもそもネタがないんですよね、アニメもラノベも地理的な問題により手に入らないという唯物論的に規定された構造があり、コードギアスは週に一回しかないし、他のWeb配信アニメを見ようとは思わないし、というか相変わらず物語が嫌いなので、適当に見繕った実学系の本を読むぐらいの趣味しかありません。そういえば今日はカフェテリアで本を読んでいるとたまたま日本人女性と会ったのですが、どうやら冬休み中にモロッコなんぞに行ってきたらしく、楽しげに「かばん盗まれました」という思い出を作ってきたようで、それだけならまだいいんですけど、その後朗らかな声で「Tさんはどうされていたんですか?」と訊かれまして、その質問は鬼門がごとく淡々と「…本読んでました」「ええーっ!」という毎回同じような反応が返ってきて「クリスマスも大晦日もですか?」「そうです」というお決まりの会話が交わされまして、そのまま少しばつの悪そうに去っていく女性、そして私はなぜか少し罪悪感を感じながら再度本に目を落とす、と。ここで脳内演出が入って、彼女は『白い巨塔』の東教授のように、ProjectXのオープニングの人たちのように、白い光へと向かって歩いていくのでした。なおこの演出に特に理由はありません。帰り際に図書館によっていくつか本を借りて、古本屋に寄って神経科学の本とミンツバーグを購入し、本日一食目である夕飯を食し、先ほどコメントを返したという流れです。…こんな感じでいいんでしょうか。こういうのはいつもmixiで書いているようなことで、私にとって書くことはストレス解消なのですが、どうにも散漫な文章は無責任になりがちで、あまりパブリックにするべきじゃないと思っているところです。

まぁ、今日ぐらいはいいか、ということで、悲劇の構造を調べ始めたJuly, 2006ぐらいから相変わらず、コミュニケーション(以下C)とディスコミュニケーション(DC)についてスタバのコーヒーの見ながら優雅に五分ぐらい思いを馳せていたんで、そういうのでよければいくらでも書けるんで、適当に書き散らします。例えばDCという単語を通常どなたかが使用する際に、Cを同定した上でのDCというものが派生的に想定されていることを強く感じるわけですが、そういうのは果たして豊穣なのかという疑念が頭をもたげつづけています。DCというものを言明するときに、局所性と規範性が分別されて、ある規範に従ってある局所について価値判断することが想定されているわけですが、その局所性と規範性に分別する手つきが問題となりうるし、そもそもその規範性、つまりどういう規則でその現象がDCであるかという判断するのか、という点が、Wittgenstein=Kripkeの規則への懐疑に載せられるわけで、その懐疑自体はなんら生産的ではありませんけれど、しかしそれが引き出す矛盾を契機とさせることはできるわけで、ある矛盾、例えばある状況AにおいてCと判断されたにもかかわらず、状況Aを一段改精緻にされた段階においてはDCと判断される状況Bがあるとすれば、それは外部観測的な立場からすれば恐らく矛盾が帰結されるわけで、ならばC/DCという対立はあくまで擬似問題として扱われるべきでしょう。もちろんここでは、かかる両者が対立概念ではないということと、そしてそのどちらもが正しいというわけではないこと、その両方が言いたいわけで、ただ両者の対立を区分けする規則の実在を措定していることが間違っているのだと言いたいわけで、決してDCが言明不可能だとかそういうことが言いたいわけではない、と。例えば昨日のコードギアスの予告から察するに、来週(ていうか既に日本では放映されているんでしょうけれど)、ゼロの正体がルル様だということがシャーリーにばれる、ということになるんでしょうけれど、このような物語構造を一文でまとめることに意味があるかと言われれば少し首を傾げつつも、とりあえずまとめてみると「これまで隠されていたことが明るみに出てきた」ということになり、ここで想起されるべきはもちろんあの使い勝手のよい『オイディプス』でしょうし、マンガであれば恐らく『スクールランブル』になるのでしょうというところを考えながら、「これまでのDCがCになったとき悲劇が起こる」という風にまとめてしまう人がいるわけで、そういうのは何の役に立つのだろう、ということを常々考えているわけです。つまり、それらにおいて想定されているのは、規範を断固として一意に定める外部観測者であって、その観測者による規則の同定であって、そんなものは決してないのだから、そういう風にまとめるよりも、そのDCとCの目的と因果の構造をきちんと把握した上で、適宜C/DCという名づけをとりあえずしておくという謙虚さとともに、視聴者である私は決して外部観測者ではなく、それでもなおその立場をとるときはきちんとそのことを留意した上で、私という内部の観測者を含んだ系のことをMK2さん並の猛々しさをもってもっと言明していくべきではないかなと思っています。ていうかですね、インターネットという媒体の有利な点は、好きな文章を好きなだけ書けるというところにあると思っていて、私の目から見て、娯楽の消費スピードは上がるばかりで、そういうのはどうにも味気ないような気もするんですよね、だから私は残念ながら映画や文学への素養はありませんが、素朴な目から見た感想を長々書ければいいな、と思います。と、また決意文で終わる。

ゲームに絡めないと…。ということで、適当に自由度について。選択肢の多さがそのゲームの自由度の感覚にそのまま直結する、と考えている人はここを見ている方にはそんなにいないと思うのですが、これについては私は皆さん同様反対の立場をとっています。というのは、最近product managementに諸事情で興味がでてきて、MBA目指してる方と一緒に勉強するかーという話で盛り上がっていたりするのですが、機能が多くなってもそれが自由と感じることとは直結しないように、ユーザエクスペリエンスを向上させるためには、選択肢(や機能)の増加だけでなく、ほかの事を考える必要があるのではないか、と考えたときに、自由度を感じる仕組み、というのを調べる必要があると思い立ったんですが、デザイン関係で高名な認知科学者D.Normanの本とかはハードウェアのデザインについての話ばかりだったように記憶しているので、MSのソフトウェアデザインの本を読む前に、このブログでゲームを主題にやってるようにもっと原理に近づこうと努力してみるのも一興かなとぼんやりと考えていたわけです。それにいわゆる『ゲームの自由度』というものがヒントになるのではないかと適当にコーヒー(グランデ;マイルド)を飲んでたわけですね。そこで社会学でおなじみの大澤真幸先生を思い出して『選択』についての『電子メディア論』からの文章は繰り返し引用しているのでここでは省きますけれども、そういえば大澤氏はどこかで「ファミレスのメニューは増えたけど、それが自由だとはあまり感じない」と発言した後に「自由には自分で選んだと言う欲求が必要なのではないか」とか言っていたように記憶してますが、私にもそういう経験はあって、例えば私は携帯電話を持っていた時期が高校入学してから半年ほどあるのですが、あの時は連絡がよく来て自由とかいうものが奪われた感覚があったのであれ以来使ってません、しかしこちらに着てからは「連絡がつかない」などと文句を言われるようになりまして、ああなるほど彼らは携帯電話で自由を感じているわけだ、と思ったわけです。ちなみにAgambenも携帯電話嫌いですね。ああ、大澤氏の例に戻りますけれど、ここで示唆されているのはもちろん消極的自由と積極的自由でありましょうし、東氏の情報自由論(http://www.hajou.org/infoliberalism/6.html)のあたりでも解説されていますけれども、ていうか東氏自身はhttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.htmlでゲームの自由について語っておられますけれども、話を戻して、後者、積極的自由に関しては、西田幾多郎その人が「意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない。かえって自己の自然に従うがゆえに自由である。理由なくして働くから自由であるのではない。よく理由を知るがゆえに自由であるのである。われわれは知識の進むとともにますます自由の人となることができる。」と『善の研究』p.144で述べているわけで、これは大澤氏の感覚と一致する、ということは恐らくこの路線で大方の方向性は掴めたかな、と思っていたわけです、なおこの大澤=西田間の類似については今のところ指摘されていないと思います。で、大澤氏の第三者の審級と合わせて欲望の正体を鑑みると、http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061225/p2のあたりが見えてくる一方で、積極的自由の問題をゲームにつなげねばいかん、というところで、まー常識的に考えて、12人の妹が出てきて誰か一人を選ぶ、という溢れんばかりの狂気が垣間見える設定だけでも驚くと言うのに、108人の女の子の中で一人選べったって正直「それは選択じゃない」と思ってしまうと思うのですが、そういう感覚の出所として、ゲームの自由度と言うものを考える際に、エロゲーの自由(http://d.hatena.ne.jp/kanose/20061020/erogame)と実行的に利用される際の自由という言葉の概念とかも抑えつつ、一度選択や選択性というものから若干離れてみるべきではないかと考えており、例えば「自由度があるから面白い」という流布されている構造を転倒させる(「面白いから自由度があるのだ」という)試みの必要性(『遊びつつ遊ばれる』構造などを考慮せよ)とか、ゲームにおける偶然性の問題(TRPGのサイコロのランダム性を想起せよ)、ついでONEにおける(意地悪?な)選択肢の問題なんかを考え出したんですが、これ以上は話が脱線しすぎだと思います。mixiではいつもこんな感じで後先考えてない文章なのでお許しください。だから無責任なんですよね。まぁ、自由という言葉の使用自体がある種類の権力や制度を含意しているのだ、などというつまらなく成果のない言説はきちんと排除した上で、自由と障害の関係については過去に書いた覚えがあるのでとりあえず放置、ここでAIRを持ってくるのですが、「AIRにおいて物語を徹底して排除した結果出てきたのは、物語の不自由ではなく語ることの自由だったと思います」と言明したことがありますけれど、そういう風に何度か自由という概念を用いてみた上で、そういう哲学や社会学の概念をうまくPMに活かせないかな、とぼんやり考えています、いえ、私、思想の話とかも書いてますが思いっきり工学系の学生なので。で、自由とは何か、という問いに意味があるとはあまり思えませんが、自由だと感じるときはいつか、という問いにはある程度の価値があると思いますし、その辺は既にd:id:hiyokoyaさんにやられていると思うのですが、そうして培われた自由と言う概念を工学的に応用することなんかは面白そうだなぁ、と思ってます。

軽く検索したら、http://blogs.dion.ne.jp/arere/archives/2531637.htmlみたいなのが見つかってへこーんとなりました。

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