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2007-01-14

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議論が長くなりがち(良いことだと思います)なので、とりあえずこれまでしてきたことを列挙してみます。(2/27更新)

■コードギアス感想

■Kanon

■ONE

■CLANNAD

■ゲーム

■その他

こんなもんですか。

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http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20070114

疏水太郎さんからノーマンラブなエントリをいただきました。ありがとうございます。

Donald Normanの本は私も高校の頃に読んで色々影響を受けたと思います。『誰のためのデザイン?』『人を賢くする道具』を読んでいました(前者は図書館で読了、後者は古本で購入)が、『エモーショナル・デザイン』については発売したことすら存じておりませんでした。読んでみます。それと他にも色々と懐かしい名前(『ワンダープロジェクト』や『シーマン』、あのあたりだと『どこでもいっしょ』もそれ系ですね)が出てきて、あの頃はゆっくりしていたなぁ、と懐古しました。最近、「最近のエロゲは最初のつかみがないとすぐに止めてしまう」という話があったので、なおさらです。

キャラクターと一緒に時間を過ごすことの重要さ、というのは私も実感しているところで、観鈴ちんと出会ってからはもう6年にもなりますが、日々を過ごすごとに飽きるどころか愛しさが募っていく感じです。こういうことを感じているときもまた、頭の中では観鈴ちんと過ごす時間が増え続け、いっしょの場所にずっといて、だからこそastazapoteの2003年2月「ギャルゲーとは場所と記憶を巡って展開される形式」という定義が有効性を持つところだと思いますし、また各エロゲーメーカーがアペンドディスクを製作しそれがそれなりに売れるというところからも、その『一緒に時間を過ごすこと』がユーザーに受いれられているのだろうとも思います。会話の量を積み重ねる、それこそ「繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでいる」(astazapote, 2000/04)状態であり、あのMK2さんをして『会話の名手』と言わしめる*1麻枝准は、まさにギャルゲーの申し子であるなぁ、と常々思っております。

他にも例えば、今木さんの『智代アフター』感想で言及されておりました、石川忠司『現代小説のレッスン』の保坂についての項*2ではこんな部分があります。

 しかし「目が合う」とか「お喋りし合う」とかのたんなる物質的「共同作業」が即コミュニケーションなのだとしたら、では「深い(真の)」コミュニケーションと「行きずり」のコミュニケーションとの区別は一体どうなるのか。. . . 両者を区別するのはたんに時間の長さにほかならない。「深い」コミュニケーションとは端的に物質的「共同作業」が持続し長引いた状態を指すわけで、つまりコミュニケーションにとっては理解や交歓よりも何よりも、その当事者たちがなるべく長時間、ただいっしょにいるということの方がはるかに大切なのだ。

 したがって保坂和志の小説においては「時間」なる存在が非常に大きな意味を持つ。ひたすら時間の力によって、コミュニケーションは「行きずり」的なものからさらに「深い」ものへと、荒削りなものからさらに洗練されたものへと発酵的に移行しよう。だが同時に時間は物質的コミュニケーションのみならず、最終的にはあらゆる存在者を完全に討ち滅ぼしてしまうのだ。(石川忠司, 『現代小説のレッスン』, p. 92-3)

最後のほうは、このトピックには少し余計かもしれませんけれど、いちおうそういう反面もあるということで。

私の専門に近づけますと、空想の友達と会話する子供は良い発達の傾向を示しているとか(例えば拙サイト)、幼児はinteractiveなものを人間だと認めるという研究結果が出ています。我々成人にもそういう認知の傾向があるとして、会話というinteractionが及ぼす心理効果というものは面白い題材で、機会があれば調べてみたいです。じ、時間が…。

[] 1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど  1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど - こぐにと。 cognit.  1月13日の日記:空気系、キャラ、カメラ、風景、コードギアスなど - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ええーと、昨日のまで面白いと言われるとさすがにちょっと逆に困ります。あれは自分向けに特化されたような言葉ばかり使っていたので、まさか面白いと思われるとは思いませんでした。となると、何でも書けてしまうから逆に困ります。しかしながら反骨精神、もしくはマイルドなガキっぽさを大いに残す私は、「面白くない」という判断を下してもらうべく、今日はふつうの日記を書いてみます。

ということで日記です。

今日は窓から学校の校舎が見えるスターバックスで、去年の九月ぐらいに空気系とか言われていたもののことを時間差的にぼーっと考えていました。片手にはFregeの論文と井筒俊彦の本と郡司先生の本を携えながらそんなことを考えているのは今世界でただ私一人でしょうということで、くつくつと<単独性>を感じていました。ちなみに<>でくくっているのはそれが契機だからです。どうでもいいですね。まあとにかく、時流から遅れたときに考えてみるのはとても愉快で優雅なことだと思います。あれについては、夏葉さんの9月の一連のエントリか、genesisさんのエントリなどが非常に参考になります。というか他のところはあまり参考にならないです。稚拙ですが私も9/6や9/4などでも少し触れましたが、やっぱりAIRは『大気系』ということで、私の中ではshe is waiting in the airとなって独立したジャンルが形成されています。これもどうでもいいですね。

genesisさんは当該エントリにおいて、『テヅカ・イズ・デッド』に触れて引用されていますが、最近のid:rulia046さんとのキャラ/キャラクターの分別に関しても、そして上記の『いっしょに時間を過ごすこと』についても(genesisさんもこれを触れられておりますが)、この空気系というものは考えられてもいいんじゃないかなぁということで、なんともタイミングがいいことでありますね。

『テヅカ・イズ・デッド』にはこういう文章があります。

『ぼのぼの』の変化を「物語」のもたらす快楽から、キャラたちが戯れるさまを眺め、寄り添うことの快楽へのシフトということもできるだろう。そこでキャラたちは「物語」からゆるやかに切り離され、ただ個別に戯れることを許されている。つまり、キャラたちの「存在」が自在に組み合わされた結果を記述したかのようなテクストが生産されるに至ったのだ。(伊藤剛, 『テヅカ・イズ・デッド』, p. 53)

そして、『ぼのぼの』のキャラクターたちが、キャラKyaraとして我々の前に現れているのだ、というのが伊藤氏の主張です。このあたりは割りと同感で、『ぼのぼの』系マンガであろう『あずまんが大王』では、その登場キャラたちが二次創作的に扱われているキャラKyaraとして物語から遊離しうるように感じているのですが、一方でAQUAやARIAはそうじゃないような気がしているのです。これについてはちょっと後のパラグラフで。

そして空気系を技法的に解釈した、夏葉さんの9/11のエントリにはこんな言葉があります。個人的には、空気系というものが提唱された意義は、この言葉が出てくるところにあったと感じています。

問題はやはり『ARIA』の話柄の大きさであって、そしてそれを支えるダイナミックなカメラワークだ。

フレームサイズもショットサイズも自由自在に切り替わるあのうるささは、『苺ましまろ』や『あずまんが大王』のミニマルさとはどうしたって相容れないだろう。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060911

私はこれに大きく頷いていました。ちなみに私、AQUAしか読んだことないのですが。

AQUAでは対象全てに焦点を当てるパンフォーカスで、背景がきめ細かに描かれていることなど*3も見逃せないところでしょうけれど、やはり、壮大なスケールを出すにはそれに応じる形でのダイナミックなカメラワークと言うものが必要なのだと映画を見ていても感じますし、マンガやアニメはそれこそ映画よりも人の手から生み出されるという点で人工的で、その分カメラの設定が色々と自由が利く、というところから、AQUAなどに見られるマンガの手法は夏葉さんの指摘されるような観点で一度考えられても良いのではないかと思います。そしてまた、平均的な少女マンガの内面描写特化と対比して、そうしたカメラの切り替えのダイナミックさこそに、男の子が惹かれるのであり、AQUAが男の子のためのマンガであるという傍証になるのではないでしょうか。いや、女性の先輩方はあまりAQUAを好んでいなかったようなので。「ふーん」みたいな。

さて話は変わって、私の日記を続けます。雄大な空を見上げる灯里さんが描かれるときは、『仰ぐ灯里さんと空』の両者がコマの中に収まっていて、それをカメラがローアングルから捉えられていたと記憶しています。もしそうでなくとも、私の中のAQUAのイメージはそんな風に、風景と人が一つのフレームの中に必ず収まっていて、『風景だけ』という場面は捨てゴマ以外にはなかった、という感じになってます。

私自身は風景画というのがあまり好きではないので、こういう手法は好きです。そのコマを見ると、必ず灯里さんが立っていますから、私は美麗に書き込まれた風景だけでなく、その中にいる灯里さんのことも考えることができます。例えば、これはあくまであやふやな記憶なのですけれど、一つの印象的なコマに、上を向いているせいで顔には鼻しか読者には見えてない灯里さんと、だだっぴろい青空と、細い線で描きこまれた雲があるというとき、「灯里さんは空を見ながら、風の音を聞いて、時間の流れを感じているのだなぁ」と思います。これは灯里さんと風景がフレームの中に映っているからこそこういう思考が促されるのであり、「灯里さんはどんな風景を見ているのだろう」と想像をしてみることすらできるんだと思います。もちろん、モンタージュや見た眼の技法を使って、「一度灯里さんの顔を映したあとに、灯里さんの見ている対象(風景)を映す」ということもできますけれど、そうじゃなくて、一緒のコマに収めるからこそ、私は灯里さんのことを考えることができるのだと思うんですね。ここで重要なのは、彼女の見ている風景じゃなくて、彼女が見ている何かを一緒に私が見ていることと、私が彼女の視線になって考えられるという点だと思うのです。

これに関連するような話題で、敬愛するflurryお兄ちゃんはこんなことを仰ってました。

 前にもこれ書いた気はするけれど、ゴンドラ漕ぎの技量というのは単純に肉体的なものだけではないわけで。自動車の運転がそうであるように、先読みの能力――つまり、様々な雑多な情報の中から「出来事」の徴候を読み取る能力――が重要だと思うわけです。なのに灯里ときたら、ゴンドラを漕いでるアリシアさんの姿に魅せられてばかりで、「アリシアさんは何を見て、何を読み取っているのだろう」ということには、ちっとも頭が向かわない。

 「師を見るのではなく、師が見ているものを見よ」

 でもね灯里、それは単に、師と同じ風景を見るということではないんだよ。「師の視点を通して」風景を見るということ。

http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200408.html#16_2

ただの風景だけでなく、風景と人とを一緒に描くこと、そしていっしょにいる人とその風景を共有したり、その人が見ている風景を想像すること、こういうことができるのは、もちろん人の見る風景がきちんと描きこまれていたからこそでしょうし、そして灯里さんがすぐそばにいるからで、だからこそ、風景と一緒の灯里さんたちはキャラKyaraとして遊離はしないし、灯里さんはAQUAに住んでいて、その住んでいる空間総体が一つのいわゆるキャラクターとして立っているのだと思います。たとえば、私はときどき目を開きながら、私が盲人であった場合の風景を想像したりするのですが、そしてそのときは決まって心臓が早鐘を搏つのですが、その真っ暗な闇のなかであってさえも、確かに風景が見えてくるような気がするのでした。まぁ、盲目の人でも三次元的な視覚の能力は残っているという研究をKennedyあたりがやってるんですけれども。

で、風景画が嫌いなのはなんだか恩着せがましい感じがするから、というのと、なぜか諦念とかを含んでいるような感じがする映像が多いからなのですが、そう感じるのはなぜかというのがいまいち理解できていません。ただ、私は人がいない風景というのには出会ったことがないというのは一つの要因としてあると思います。たとえば保養地に行っても人がいっぱいですから、純粋な風景というものは私の中に記憶としては存在しないでしょう。だから、純粋な風景というのは、私にとってはただの捏造された感傷のための心象風景であって、そいつは記憶ではありません。もちろん記憶は幾分かの捏造がされるものだとは思いますけれど、純粋な風景のみの映像はありえないという自信があります。だからこそ、風景だけの映像は嘘っぽく感じてしまいます。あとmixiの『空を見上げる』コミュなんて潰れてしまえ、と思ったりします。"Back to the rough ground!" (Wittgenstein, "Philosophical Investigation", S107)。だからコードギアスは好きです。空とか無闇に映さないし。PLANETESは空の向こうに宇宙があるから空はいいものなのです。逆に言えば、ONEの永遠の世界の描写がかのようであったのは、より大きなインパクトと空虚さを残して、私の中に記憶されています。そういえば、一番のイメージショットはやっぱり『AIR』のタイトルロゴで、さざめく波の音、真っ青な海と空と白いワンピースの少女、二つの鮮やかなコントラストと夏の匂い。あれを越えるものは今のところないです。ああそういえばAIR止まってます。あれプレイすると疲れるんですよ。書くことが多くなるせいか。

そうそう、今木さんのhttp://d.hatena.ne.jp/imaki/20070114#p1は、私も感じていた『コードギアス』における冒頭ナレーションへの違和感を言葉にしてくださっています。ありがたや。ルル様の動機を「ナナリーのため」に回収してしまうことへの異和について、さらにその感が強まったのは、この前の年末年始全話放送で一話だけ見たときで(もちろん今木さんの指摘されている7話のシャーリーとのエピソードも含めつつ)、ルル様は『ムダに律儀』だからこそ、C.C.を運んでいたトレーラーの事故にただ一人向かっていって、野次馬を見下すようにしていたではないですか。そんなとき、「どうしてあいつらは動かないんだ!」とか、そういう苛々があったに違いない。そういう人でしょう、ルルーシュは。あと、ぼんやり生きている人とかが嫌いだったり、しかし自分も同様にそうであるから自分も嫌いだったり。だから、復讐とか、ナナリーのためとか、そういうことだけで動いているんじゃないと思います。複雑です。しかし、こういう『優しい』面があるからといって、12話現況のような、誰かを犠牲にしてしか物事を遂行できないときに事実誰かを犠牲にしている行為に対して、我々視聴者が「ルルーシュは強がっている」というのも違うと思います。「ルルーシュは実は凶悪なのだ」とかも違う。ただ単にどっちもできる。それだけの話で。それに「実は」とか、あんまりそういうのはないと思う。理想があるがゆえに行動する、という観点から見ると、ルルーシュは誰かに優しくもできるし、誰かを殺すこともできて、それは十分にキャラが立っていると思いますし、だからこそ私はルルーシュがきちんとシャーリーを口封じしてくれると思ってます。悲痛な面持ちで「すまない」とかゆって。今頃ルルが「シャーリーのほうが大事だ!」とか言っても説得力ないですし。もしくは、シャーリーがルルとの交渉に持ち込んで、「黙っていてあげるから、私と付き合って」とかゆって、付き合い始めて、最初は幸せなんだけど、時間が経過するごとにシャーリーの精神が擦り切れていって、18話ぐらいでシャーリー発狂→銃殺とかそんな方向しか思いつきません。

たぶん、明日はお休みします。

*1:MK2さんのKanonレビューを参照。

*2:なお、この両者は近々どこかで対談があるらしいです。最近どこかのブログで見た情報。

*3:その逆に関して、人物しか映していないという点については、『スクールランブル』を引き合いに出しながら固有名と絡めて、私が9/6のエントリで書いたように思います。人物しか写していないという点は、映画でいうフォーカスの問題に近似してくるのかな、と思ったので、パンフォーカスと対比する意味で。

cognicogni2007/01/14 13:11こういうときにZeitigung(時熟)という言葉を使っていいんですかねぇ。あの辺のHeidegger用語、まだいまいち理解できないんですよね。

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