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2007-01-25

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これまでの議題を更新してみました。

http://d.hatena.ne.jp/simula/20070124

そんなsimulaさんにPLANETESとか。思いっきり修羅修羅言ってますし。あとルル様の行為を「揺るぎない確信を求めて」と曲解するとちょうどイーガンの「行動原理」(『ひとりっ子』所収)で似たような話を読んだところでした。ちなみに私は第一期OPの「悩みながら悔やみながら決めればいいさ」って嫌いです。

あ、とりあえず『ひとりっ子』は全部読みましたが「ルミナス」「ひとりっ子」が当たりでした。

文章についての助言を下賜いただいたからか、今日は文章のことを考えてました。そして、書きたいことを書く、となれば、たぶん書けるのは自分の考えていることぐらいです。ということで、自重しつつ書いてみます。

文体のことを考えている。文に力を感じる書き手は、独自の文体がある人だろうと思う。たとえば、今木さんのアンテナは非常に便利で時折使わせていただいているが、その中でも文体が出ている人の文章は面白いので、更新しているとしばしばリンクを踏ませてもらう。逆に「あそことあそこの文章の差が解らない」などと思うところは大抵つまらないので、リンクは踏む回数は少なくなる(大抵ラノベ感想サイトだ)。もちろん、悪文過ぎて受け付けないところもある。悪文は一つの文体だけれど、生理的に駄目な文体というものも私には多々ある。次に褒めるのに絞って個人名を挙げていこう。まて、なぜ以下で私の雑感を挙げるか。文体に関しては、恐らく本人に聞いても無意識の部分が多いせいか、内容のある答えは返ってきにくいだろうから。それは作家と話して解決する問題ではないと同程度に。自然と戯れて自然科学が解らないのと同程度に。ということで以下は私個人の、各人の文体に対する雑感と言うことになる。まずMK2さんの文章は自分の内面を言語化できる個性を感じて、毎日のように楽しくかつうらやましく読んでいる。今木さんの文章は、心地よい切れ味の鋭さとそれらを裏打ちする知識量が垣間見える。flurry兄さんの文章は、なんというか、シンパシーを感じるというか、ああいう迷いの中で考えることや間投詞とかが好きである。astazapoteの林さんの文章は総じて冷徹でありつつもどこか熱を感じさせる文体だ。疏水さんの文章は短い一文の中に優しさを感じさせる。それぞれの文体にそれぞれの人柄と私との関係性が出ているのだろう。江藤淳に言わせずとも、文体は生の一つの行為であることは間違いないのだから、それは当然のことだ。他にも例えば、蓮實重彦は過剰さの中で語ろうとする戦略をとっているが故に一文も過剰に長い。柄谷行人は文章にせよ引用にせよ鋭さを持っている。麻枝准は文はシンプルではあるが、一連の文章のリズムを通して何かを訴えかけてくる(昔見よう見まねで麻枝准の文体分析などしたものだ)。そしてWittgensteinのTLPの感動は、その多くを、あの構造と一文の短さに負っているものだと私は考えている。あの2ちゃんねるですら文体の影響はあるだろう。2ちゃんねるの言葉を使うということは、自己の匿名性を増して、交換可能性を感じさせる行いだと感じている。つまりどうでもいい文章向けの文体が2ちゃんねる文体だ。マンガでもそういうことはある。例えば竹熊によって指摘されているが、背景と人物でペンを変えないことにより、大友は風景の中に人物を埋め込むことに成功した。また、伊藤がコマ構造と呼ぶものですら、その作者の作家性というものが如実に反映されるものであることは、どこかで見た、『げんしけん』の一ページ当たりのコマ数がほぼ一定であることから見て取れるだろうし、マンガの引きの手癖などについてはd:id:izuminoさんがスクールランブルを例にとって、本日も論じておられた。このように、文体や形式などといったものは、描かれるその内実と切り離せないものだと思うし、考えるに値することはほぼ間違いない。また、かつてのテキストサイトの隆盛を再評価する際は、そうした面からのアプローチが面白いと思う。ただし、決して文体は目的ではないが。

では私にとっての私の文体はどうか。場合場合に応じて変えていることは確かだとは思われる。感想の際は句読点をできるだけなくすことは、勢いを感じさせる一つの技法だからしばしば採用している。また、真面目な分を書く際は一文を短くするよう心がけてはいるつもりである。英語での書き物が多くなってからは余計にだ(なお、日本人らしく、私の英文は(微妙なニュアンスの用法を除けば)その文章構造を褒められることが多い)。一つの経験則は、文体は書きたいことと密接に関わっているべきだ、ということである。だから「書きたい内容を明確に定める」というアドバイスと「文体」を考えることとは私において切り離せないだろう。もちろんその場合、書きたいことを明確に定めることからスタートしたほうが容易い。書きたいこととは何か。何だろう。たぶん、まぁ、他人にとってはどうでもいいことだろう。そしてまた、こういう書き方のほうが似合っていることなのだと思う。だからこの文体のまま少し続けることにする。一つ注意をしておくと、石川が指摘するような、ペラい春樹とか舞城とかにはなりたくないものだと個人的には考えている。奴らはやはり敵だ。まぁ、なんというか、俺は堅苦しく行動するのが好きでね。作家ではないから行動しないが。

少し江藤の本を読み直してみた。すると、本来の意味のイメージはサスペンスの状態にあると、江藤は言っていた。出来上がりの人形よりも、人形と見立てた座布団のほうが長く子どもは遊ぶ、などと。なるほど、全然記憶していなかったが(泣)、それはONEだ、ONEの永遠の世界だ。常に新鮮なものを汲み取れる構造がそこにある。ONEの永遠の世界がイメージだけの世界だというのは酷く正しいように思われた。しかしこのような指摘すらも今は既に制度の中に取り込まれていると言っても良い。だからただ、私は反撥することしかできない。CLANNADの魅力の無さを、その構造の解りやすさなどに求めてはならない、AIRやKanonやONEの魅力を説明の欠如に求められるべきではない、と。舞シナリオにせよそうである。私の過去の、舞についての二つのエントリ(1/16など)はいまだ不満ではあるが、そこには何がしか、作品と真摯に向き合うことの難しさと楽しさがある。私は前者に挫折しそうではあるが、良い一言が見つかったときの快感は換えがたい。まぁ、たぶん、この調子じゃ諦めるのだろうが。私には才能がない。哲学にしろ科学にしろ。マンガにおいても、『テヅカ・イズ・デッド』の巻末参考文献を読んでへこんだぐらいだ。圧倒的なまでの才能の欠乏。私にはマンガを読む資格がないと思った。マンガを読むのは難しい。事実、mixiでいずみのさんと交わしたマンガの読み方には、如実に差が出ていて随分とへこんだものだ。皮相的に読むのは簡単だが、直接向き合って対話をすることには資格が必要なのだろう。少しでも製作者の意図を汲みつつ、良いところを褒めつつ、悪いところは批判する。面白いという言葉で留めてはならないし、悪しき価値相対主義に則って「評価はできない」などと呟くことなど、命がけで書かれた作品の前では許されてはならない。それは倫理的要請である。これに関連して、http://b.hatena.ne.jp/entry/http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070122/p1がブックマークされていて驚いたのだが、引用されている文章は決定的に説明が足りない文章だと思ったものだった(別にzoniaさんをdisるわけではありませんしzoniaさんあての文章ではないですが、ブクマのコメントや引用、タグはその人のセンスが明確に出るものだと思う。同種のことをd:id:nanariさんが言っていたと思うのだがログが見つからなかった…)。あれはmixiで以下のようなことを書いた過去を考慮したほうがまだ意味は通じると思う。「いずれにせよフィクションは虚構である。だから「面白ければいい」や「エンタテイメントだから楽しんだもの勝ち」などという言葉が出てくるのだろう。しかしそういう奴に限って、フィクションの終わりの虚構性には全く気を払わない。ENDマークが打たれた時点で、本当にENDだと思う者どもだ。そのENDすら虚構であることも知らず、彼らは現実とやらに帰っていく。傷つかず、ただ楽しかったなどと言う。見ていることと見られていることの同時性にも気づかない。それを嫌悪する私にそんなことが許されるはずはない。ならば作品がある限り、その作品の磨耗とともに私は傷つかねばならない」などと過去に唸っていたものだった。まだいろいろと言いたいことはあるが、とりあえず虚構と現実を分けて考えたくないのは、私にとっての倫理的要請である。それは主に蓮實や、エロゲ論壇から学んだことだ。後者の響きはなんというか、とても人前ではいないというか、いやほんと楽しいんですけどね?ともあれ、誠実に書くことだけが私に許された唯一の手法であることは恐らく間違いない。ここでの誠実さは包み隠さず話すことではなく、感じたことを必至に言語化する行いだ。隠すことができるほど誰しも器用ではないだろう。そして誠実さとは他者を前提とした言葉であるが故に、そこには責任の重さがあり、その前に常に崩れそうであって、マジ作品読みたくない。物語は嫌いだ。感想文も嫌い。読むのも嫌いでね。黙れ、と言いたくなるものもネットには多い。しかし黙らせるにはそんな言葉は不適当であり、唯一の反抗ができるとすれば、良質な文章をネットで発表していくことぐらいしかないのだろう。私には荷が重い話だから誰か若い方に頼もうと思う。老いた私は近いうちに消えるから。

文章への倫理と言えば、もう一つある。たとえば、知識もしくはセンスのない者に発言する権利はないとすら思うことがある。しかしそれはいきすぎだろう。穏当にすれば、知識がないことを恥じない者は発言する権利がない、程度になる。無知の知、などと解ったつもりで言ってふんぞり返る者もまた権利はない。恥じるそぶりを見せずともいいし、恥を語る必要も無いが、ただその恥を感じる心は発言者には必要なものだろうと思っている。少なくとも自分には。そして私は常に自分のことをしか書かない。正確には自分のことしか書けない。助言をいただいたことに沿うならば、これからもそうするだろう。だから私の文章は考察や批評にはならず、感想という言葉が最も適当であるとずっと思っている。

そしてここで文体の話に戻れば、一文の短さは、言語への拙さを感じさせ、未熟な自分にはぴったりなのだ。A picture is a fact.文体も一つの事実だろう。

さて。ばっとキャラクターが性格を持って、それ以降はずっと、という閾値があるような。認識論的断絶でも認識論的切断でも何とでも名前を付けていただいて構いませんが。それは一体、どういうときなんだろうか。思い返してみても、見つけることが、ちょっと難しい。

ONEのような10 9年前のエロゲーを話すのは楽しいことですが、10年後のラノベでそんなことできるのかどうか。ラノベは棚からなくなるの早いらしいですし。

名塚佳織のWebラジオがあると聞いて早速音泉で聴いてみた。…私にはああいうの聴くの無理のようで。普通の声の人やん。ナナリーちゃう。

ropgsqnropgsqn2011/03/17 15:22T1wpWf <a href="http://raztwaenpoiu.com/">raztwaenpoiu</a>, [url=http://sykkeuwgebwz.com/]sykkeuwgebwz[/url], [link=http://pnlhobnfzjnd.com/]pnlhobnfzjnd[/link], http://rdnxwcdjlsvm.com/

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