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こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。
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2007-02-28

[] 少しだけ  少しだけ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  少しだけ - こぐにと。 cognit.  少しだけ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

東先生のフットワークの軽さはもっと肯定的に評価されてほしいと思ってます。『郵便的不安たち#』にもその理由が書かれていましたけれど(p. 73-4)、そういう姿勢は大好きです。

春原クリア。「やべぇ、陽平くんって言われた」「やべぇ、いい匂い」「やべぇ、手が柔らかい」とかいちいち報告しに来る春原の子ども具合がいいです。しかも二番目が匂いだったりしたら撃沈しませんか。やっぱり匂いです。手が柔らかい、ていう描写の前に匂いが来るていうのは、触れなくとも匂いは漂ってくるからだ、と説明することもできますけれど、言葉の次に匂いが来るのだという優先順位は、作者の麻枝准の作家性からくるものであると信じたいです。ところで芽衣ちゃんのような妹がほしいんですが、どうして神様は我々にそんな妹を下さらなかったのですか。押しかけ妹に「しょうがないなぁ」とか言ってもらいながら世話してもらいたいです(正直者)。けれどその実ああいう可愛い子は世話したくもあるので世話してくれなくても構いません。ところで袖を引かれるのと手を引かれるのだったら俄然前者を選びます。や、なんかそういう描写があったんで。

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2007-02-27

[] 『永遠の現在』のメンバーが凄いことに  『永遠の現在』のメンバーが凄いことに - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  『永遠の現在』のメンバーが凄いことに - こぐにと。 cognit.  『永遠の現在』のメンバーが凄いことに - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

then-dさん主催の『Tactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』』が更新されてて、メンバー一覧も更新されてたんですが、たくさんの素晴らしい方々が追加されてて、その中でもなんか凄い方が一番上に入ってるぅーっ!て大笑いしましたですよ。

うわぁ。超 楽 し み 。

ほんと楽しみです。CLANNAD論かな、とか思ってドキドキしました。もちろん、genesisさんやsimulaさんや疏水さんやともよさんや夏葉さん(五十音順)のも楽しみです。みなさん鍵ゲー好きですねぇ、と。これで今木さんやMK2さんの寄稿が入るか、麻枝准インタビューとか対談とかが奇跡的にあったら、初コミケにマジで行くかもしれません。自分が参加したら誌面のクオリティが下がるので入れたもんじゃありませんていうか、もうどれだけの厚さになってお値段はいくらになるんだろうとかいう心配をしてしまいます。とりあえずリンク貼って応援だけはさせていただきます。

ああ、そうそう。CLANNAD再インストールしました。ちょっとずつプレイしていこうと思います。でも残りHDDがやばいです。Googleデスクトップ様が頑張りすぎてHDD占領してます。ていうかAIRも止まったままなんだよな…。

[] お返事  お返事 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  お返事 - こぐにと。 cognit.  お返事 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070227/p2

お話ご尤もで、安易に「安易」という言葉を使わないようにします。ご指摘どうもありがとうございます。

いちおう弁解しておくと、あの文章では、「変則的なものなら、私のような素人がぱっと思いつくような変則さじゃなくて、もっと考えて度肝を抜くような変則さがほしい」という願望の現われとして、「安易」という言葉を使いました。特定の作品を指して「安易」だと言ってるつもりはなかったし、変則的なもの全てを安易と決め付け、その変則的な試行を認めないという意味ではなかったです。

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070226#1172494627

こちらにもお返事。仰るとおりで、無邪気=ダメという等式を立てるのは、きちんとプレイしてから判断すべきことだと思います。特に客観的なダメさを判断する場合は。ただあくまで私個人の趣味でいくと、基本的にメタフィクションが嫌いというのがあって、それはどうしてかというと、メタフィクションやってる小説は大抵、メタフィクションに対してメタに立てない無邪気さを持っているので、どうも食指が伸びないというのがあります。ここでの無邪気というのは、crow_henmiさんが書かれているような「自らの手つきに自覚的である、ということに」「価値がある」と、あんまり内省せずに思ってる方々の行いのことでして、たとえて言うなら、「なぁ、俺って変だろ?」という言葉を結構頻繁に発する人に対する不快感や気恥ずかしさと似たようなものです。「この程度の自意識はだれでも多少はもっている。ただいわないだけのことだ」(柄谷行人『反文学論』)とでも言いましょうか、まぁ、ほら、言わないほうがいいところを”無邪気に”言う人とかいるじゃないですか。一階のメタで満足げに全てを見渡したようにしてる人とか。そういう種類の無邪気さが苦手でして。別にそういうことやっててもいいとは思うんですが(自分も多少はやってると思うんですが)、さすがに度が過ぎると不快になるじゃないすか。もちろんこれは規範批評というより、単なる好き嫌いなんですが、そういう基準を持っていて、例えて言えば、ハルヒとイリヤならイリヤを読む、みたいな感じです(たぶんどっちも読まないけど)。

しかし、大勢の方々から窘められて、未熟さを恥じつつも、ちょっぴり嬉しいです。

[] プレイ日記  プレイ日記 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  プレイ日記 - こぐにと。 cognit.  プレイ日記 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

たぶん途中で挫折するけれど、プレイ日記。

家を避けるという点。家という場所は居心地が悪い。居心地、である。なんか引っかかる。しかしどこかの空間を占めること自体が気分を作り出すことを指摘し、気分と存在者の関係をAngstを中心に説明してDa-seinの話に持っていく、などというのをぱっと想像してみたけれど、なんか違う。多分ここでは「対人距離感とはつまるところ自己に対してのそれである」という三浦雅士の言葉を今木さんの『智代アフター体験版』の感想から孫引きしておき、つまるところ、家族という絶対先行の関係性において破綻が起こるのは、他人との関係が悪くなったときと同時に、自分自身に対する距離感というものが取りにくくなったときであると理解することも可能であると仮定し、事実、父親の暴力によって父親が「朋也くん」と「くん」付けで呼ぶようになったのは、そのような暴力行為に出てしまった自分というものに対して父が感じる自責の念から、自らへの距離感を上手に取られないようになった結果、朋也との対人関係に影響が出てしまったのであり、さらにはその暴力による朋也の怪我(肩が上がらない)というものが完治し得ない性質を持つからこそ、関係の破綻が自然に癒える道もまた閉ざされてしまっているのだ、と解釈することができる、ということを指摘すれば十分なのかもしれません。感想を見る限りでは、対人距離感に関しては『ハヤテのごとく!』のマリアさんとかも参照できそうな。あー、そういえば今日読んだ重松清の『卒業』の中の家族もこんな感じの疎遠さだったなぁ、ということを思い出します。また朋也の苛立ちに関しては、理想の家族というものが観念的に措定されているからこそ、現実の家族に異和を感じてしまうのであって、このCLANNADにおいては、朋也が現実の父親とあるべき父親像とを照らし合わせたときに、「あんたは、俺の親父じゃなかったのか?」という言辞を吐き出してしまうのであり、そこには父のあるべき姿というものに拘る息子の姿が垣間見える。悪く言えば役割の押し付けである。しかしその本当というやつを諦めて成熟に至るなんていうのは嫌いですけれど。

久々にプレイしたら渚に脳内ボイスがついていたので幸せを感じる。世話を焼きたい。甘やかしたい。や、ほら、我々は人を救うことで救われる人種ですやん。「俺は支えられた。こいつによって。」「いや、支えられた、というのは違うような気がする。」「こいつは笑っていただけだから。」「でも、それを見ているだけで、俺は自分を取り戻すことができた。」。むしろこれはただ自分の力を確認したいのだろうか。どうなのだろう(まさに青春の悩みである)。もしくは隣で笑い続けてくれる、不器用だけれどずっと前を向いている、そんな彼女の不屈の精神に憧れ、自らも強くあろうと決意するのだろうか。しかし渚に関しては何か足りない。渚をもっと可愛くさせるにはどうしたらよいのか、ということを考えると、やはり身長が低いということをもっと露見させるべきだという結論へと幼女主義的推論によってたどりつきました。いやー、やっぱり150cm台であれば、その小ささをもっと強調するためにやはり立ち絵で誰かと並ばせないといけませんよね。誰か並んでくれないかなー。ていうか教室にあんなに女子がいるのは間違ってるよなー、などと背景に文句をのたまう。

会話。結構すれ違う。

幻想世界1。生まれることに恐怖する、という感覚が描かれているのは、永遠の世界@ONEと幻想世界とを峻別する一つの指針となり、また、幻想世界と生活世界(then-dさんによる分類)の単純な二項対立を僅かにずらす役目すら可能ではないだろうかと考える。例えば、誕生すること自体が恐怖なのだ、という言説は、多くの人が身に覚えのあるものだ。我々が自らの生誕以前を想像したとき、「望めばいいのだろうか」「この世界に生れることを」「僕はそんなことを望んでいたのだろうか」といったような本文からの引用のことを思わないではいられない。また、首を動かす際に『首』などと大仰に描くことで自らの身体を意識していること、つまり身体に慣れていないことがテキストによって明瞭に示されているのだが、それと同時、以下のような描写が差し込まれることは注目に値する。

彼女は僕の手を引いて、立ち上がらせると、また離れていった。

そして、数歩先で手を叩いた。

僕は彼女に向けて、歩き始める。

そう…僕は歩く練習をしていたのだ。

これは赤ん坊に対する行為であって、幻想世界の初期においては、「幻想世界で生れる」という特異的な一点を扱っていると解釈するよりも、生誕という一般的な概念そのものを扱っていると考えても良いのではないだろうか。この文脈で読み込むならば、幻想世界1で描かれている不安は、存在することへの不安と罪悪感である。もっと焦点を絞ってに言えば、生まれでてからおこなってしまうであろう、未来の、未だ犯されていない罪への罪悪感である。それは端的に、麻枝准によって描かれる語り手によって、次のように表されることが多い。「違う。悲しいんだ」、と。この悲しみは、フロイト的なメランコリーを想起した上で、対象が曖昧でありながらもしかし確実に感じる悲しみであると受け取りうる。つまり、幻想世界では、幻想世界に限らない、人の存在への不安が克明に描かれているのだ。だから、「寂しい場所」として言明される幻想世界はここにおいて生活世界に重ね描かれ、二つの世界の象徴的な二項対立は霧散し、生活世界における寂しさの一風景というものへと転置しうる。もちろん幻想世界後半においてはその世界の象徴的な意味が徐々に闡明されるものの、幻想世界初期においてこのような描写が入っていることは、どうして他の描写を入れなかったのかというときを考え他の可能性を鑑みたときに、その描写の重要性を増し、麻枝准ファンにとって特筆ていうか涎に価する部分となるだろう。幻想世界3の風の描写も、麻枝准ファンにとっては美味しすぎるていうか、御馴染みである麻枝准作詞の歌詞において「風」という言葉が出てくるのは、Last Regrets「低い雲 風を待つ静けさ もう聞こえない」鳥の詩「いつかは風を切って知る」「吹く風に素足をさらして」farewell song「風の音に消えてゆく」夏影Vocal「風を背に今、僕らが走り抜けたよ」ちいさなてのひら「季節は移り 冷たい風が」Light Colors「ようやく向かい風は凪いだけど」Life is Like a Melody「穏やかな風が吹くこの夏を」Birthday Song, Requiem「風のように叫んだ」Spica「最後の風を見てた高台の風車が止まる」MOON「風に乗って海を渡る」てな感じでほとんどの歌詞に登場する単語であって、幻想世界がかのように幻想的であるのはほとんど麻枝准ファンにとってほんと美味しいものなのである。加えて幻想世界4における「ガラクタ」描写にも目を配ると、それが幻想世界にだけでなく現実世界にも適用可能な象徴性を秘めていることに容易に気づくことができる。

彼女が作ってくれた僕の体。

その材料はガラクタだ。

それらは、広大な大地に点在していて、枯れ草の中に落ちていたり、地表からその一部だけを突きだして埋まっていたりした。

まるでそれは、何かの死体を思わせた。

たくさんの死体。

いろんなものの死体。

考えてから、僕は身震いした。

それは、僕の体だった。

ここで言明されるガラクタは事実ガラクタなのかもしれないが、振り返ってみれば、我々プレイヤーの身体もまた、ガラクタとも言うべき物質から構成されていることを想起するべきなのだ。人間の細胞は7年で全て入れ替わるとか、特に舌の細胞は十日で入れ替わるとか、そんなことが言われているが、そうした細胞を作り出すものは主に食物などから摂取した栄養素であり、そうした食物はかつて何かだったものであることは他言を要しないほど自明で、つまり、我々自らの身体は何かの屍体によって作り上げられているのだが、もちろんこのようなことはあえて大仰に言うべきものでもなく、少しませた小学生ですら理解可能な素朴な視点ではあるものの、このように「僕」だけでなく我々もまた屍体でできている点に注意すれば、幻想世界のかのような幻想の特徴とそれに対する感慨は、現実における作者の一つの感覚として受け取れ、そこにはまた、屍体によって構成される自己や、その自己が存在することへの罪の意識が見て取れるのではないか。しかしここで前段までの議論を考慮すれば、これはあくまで罪の意識が先行しており、その罪の意識の対象としてたまたま具現したものが自らの身体であったということであり、そこには因果の顛倒が発見できる。

ここで論を転じて、生れる以前の身体を持たない者が語る、ということは一体どういうことかと考えてみよう。基本的に、麻枝准によって描かれる少女らは多くを語らないという印象があって、しかし、主人公=語り手が己のことを語ることもほとんどない。「物語から主人公が疎外されており、ヒロインの物語を読む」などと言及され、その構造が特異とされる昨今のギャルゲーの物語に関しては、本当にそうした「主人公=語り手の物語からの疎外」が歴史的に見て特異なのだろうかと、言い換えるならば、私小説などが始まった頃あたりから語り手は不可避的に物語に関与するようになったものの語り手とは本来的に物語に関与できない存在としてあったのではないだろうか、という、系譜に関する疑問・仮説すら頭を擡げるものの*1、本論ではないから詳細は省くが、麻枝准の物語において緩慢に時間は過ぎていき、意味内容をほとんど持たない会話の連続のうち、いつしか出来事とでもいうべきものが積み重ねられ、一応の閉幕を迎えるという一般的な構造の中で、幻想世界は特異な位置を占めていると断じるならば、その断言の基礎となる点は、その語り手の位置にあると考えることができる。幻想世界の語り手は「僕」であるが、「僕」はあの世界では語ることができず、読者には内言だけが示され、それは読者にとっては語り手であるものの、「僕」が生きる物語世界で「僕」はずっと”聞き手”に回らなければならないという捩れがある。ただしここでの聞き手とはあくまで便宜上与えられた、話すことができない者を示す名称としての”聞き手”であることに注意せよ。しかしなおも「僕」と少女はコミュニケーション可能であり、そこにおいては身体的動作によって意志を通達するという形式が持たれるものの、ここで注目すべきは恐らく、語らずともパフォーマティヴに意志が示しうることではなく、語り手/聞き手という自明視されていた区別が一度破棄され、「僕」が語るときに少女はただ聴くのだけではなく語らねばならず、また「僕」が聞いていることを示すために身体動作で語らねばならないという、いうなれば頷きという聴くことの語りが明示される場面であり、そこには教える/学ぶ関係と同様の、語り手/聞き手の非対称性についての示唆が見て取れる。聞き手は聞くと同時に語っているのである。ならば、しかし、かつて語ることと聴くことを峻厳と区別したかのように見せかけた、当の装置は一体何であったのか。それは恐らく記述という一形態に求められると思われるが、今はここで検討せず擱筆したい。

えーと、感じたことをほとんど検討せずに一筆書きで書いてるんで、これもプレイ日記ということで。多分後で改稿。論理甘すぎ。

家族。渚も春原も智代も家族なら、風子は姉妹だろうけれど、有紀寧は兄妹か家族かどちらだろう。とりあえず麻枝氏担当のみ。

カレー画伯と呼ばれていた渚と、キャッチャーをやらされることが多くなった朋也。生々しいなぁ…。

疲れたのでやめ。

*1:少なくとも、現在の形態の『昔話』や『神話』は語り手は一切物語に介入しないものが多いと思われるのだが、もし昔話が原初からそのような形態を取っているのだとすれば、いつごろからそうした説話の形式に、語り手=主人公という概念が潜みだしたのかということが気にかかるのです。

sosuitarousosuitarou2007/02/27 23:36これから先,麻枝准とかの過去にもさかのぼった話が,本という形でまとまって出ることはあまりなさそうなので,この機会に語っておくべきなんじゃないかなぁ,とそそのかしてみますが.

milkyhorsemilkyhorse2007/02/28 01:36夏コミですと、一般参加できるか微妙なので、是非通販してほしいです。ってここで書くことじゃありませんでしたね。w

cognicogni2007/02/28 13:34>sosuitarouさん
そそのかしていただくのはものすごく嬉しいことなんですが、もし参加したとして、あのメンバーの中で比較されるのはちょっと怖いような…。とりあえず参加の如何に関わらず、応援のメールを打ってみます。

>milkyhorseさん
えー?milkyhorseさんは『競走馬と麻枝准作品との微妙な関係』で参加なされると思ってたんですが…。タイトルからの予想に反して、then-dさんがお書きになる論、なのでしょうか。

milkyhorsemilkyhorse2007/03/02 15:16おそらくそうではないかと思われます。ちなみに、「馬と~」はイレギュラーですのでご容赦を。

cognicogni2007/03/02 17:13なるほど、競馬好きかつ鍵ゲー好きという嗜好を併せ持つことはそれほど意外ではなかったわけですか…。milkyhorseさんは希少な方だと思い込んでました。

genesisgenesis2007/03/02 22:06then-dさんの一覧を見たその晩,夢でうなされて午前2時に目が覚めました。“一番最初のあの人”は反則だよ(^^;)

cognicogni2007/03/02 23:45五十音順だから妥当な並びとはいえ、一番最初にあの方の名前が来るとインパクトありすぎますよね。

then-dthen-d2007/03/03 02:11こちらでははじめまして。応援ありがとうございます。協力者の件では大変失礼しました。また、『競走馬と~』ではmilkyhorseさんのお株を奪ってしまう形になってしまいましたが、麻枝氏作品を横断的にかつ簡便な形で一望しようとする雑駁な話で、C71にて発表しております。馬と鍵作品の関係はONEのみさおのシーンあたりで死せる馬たちと被ってきて以来、両者の関連を考えておりました。取り散らかったコメントですみません。

cognicogni2007/03/03 12:55こちらでははじめまして。協力者の件はとても笑わせていただきました。一時の潤いをどうもありがとうございます。
また、当該論がC71で発表されているとは知らず、勝手にmilkyhorseさんの記事だと混同し、then-dさん、milkyhorseさんの両者に無礼なことを発言してしまったことをお詫び申し上げます。

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2007-02-25

[] 来るべきエロゲボイス論を求めて  来るべきエロゲボイス論を求めて - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  来るべきエロゲボイス論を求めて - こぐにと。 cognit.  来るべきエロゲボイス論を求めて - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

crow_henmiさんからリクエストされましたが、場所については今のところ考え中、としか。代わりに今日は麻枝Kanonにおける願いと結果のズレについてなど考えておりましたなどと発言してみます。祐一を追ってきた真琴が手に入れたものは家族だったとか、祐一を待ち望んでいた舞は最終的には祐一と佐祐理さんが傍にいた、とか。今のところ深める余裕がないし、素朴に考えたところでよいものが見つけられるとは思いませんが、やはりここではズレという言葉がどのように発生するか、という方向性で一つ講釈を打ってみようかと思い、途中まで書いてみましたが納得いかなかったので封印。

そういえば最近、エロゲの体験版を落としたんですが、長森@ONEのような幼馴染が出てこないことに少し憤慨しつつ、最近普通にボイスとかついてて、すごいなー、とかえらい素朴に思いながらも、自分のプレイ中のことに思いを馳せてみると、基本的にボイスはオンのままでプレイしつつ文字が了解できれば残りボイスは飛ばすんですが(そしてそうする人が多いらしいのですが)、そこではエクリチュールがパロールに先行していると捉えることも可能で、これはつまりプラトンの時代から続く音声中心主義が逆転、言い換えるならば文字が音声や意識を写す二次的なものとされるという前提(さらには音声や意識が直接的かつ透明なものだとされデカルト的なコギトが非明示的ながらも導入される前提)が逆転されており、ボイスという音声表現が背景やBGMなどとほとんど同化されたような後景化した地位を築くことによって、かつて高位を与えられていた透明な音声や意識といったようなものが二次的な地位に貶められたかのような錯覚をプレイヤーが抱くが故に、エロゲーにおいて音声表現は疑問に晒されることが不可避とされる構造が見出せると同時、エロゲーのテキストとボイスの多重性において「お兄ちゃん」と「おにいちゃん」という書き文字の差によってボイスすらも多色を含むものとなりうるというボイスの広がりを示唆する肯定的な特徴が発見されると評価することも可能であることをあえて素朴に強調する必要すらあるだろう。もちろんここではテキストとボイスの差異を殊更に囃し立てるがごとく下卑た行いであるテキストと違うことをボイスで喋らせる、という思考放棄にも似た単純な仕掛けを賛美している土壌を育もうとしているのではなく、「……」にもちゃんとボイスがついてるよー、という素朴な驚きを発してみるものでもなく、字幕がほとんどつかないという点を無視してアニメとエロゲーとの声優論を一緒くたにしてしまおうという暴力的な挙措を行うものでもない。ここで示唆するエロゲボイス論の可能性は、単に、我々が享受しているものは小説じみたテキストでもドラマCDじみたボイスでもない、キャラクターの<声>というべきものなのであり、我々は、一般的なエロゲー考察におけるシナリオやテキストへの偏向からの脱出の契機をこの<声>に求めることが可能なのではないだろうか、ということである。

などと回りくどく(しかも変に賛美しているみたく)ゆーべきなのだろうかと、この前のKadzukiさんのエントリを思い起こしながら*1、「やっぱり平仮名の『おにいちゃん』のほうが幼さが出ててさ…」などという談義はリアルではしにくいのかもしれぬ、などと考えていました。いや実際しにくかったっす。「お兄様」はいいけど「おにいさま」は少し変ていうかそそられる部分もあるんだけどこう幼さと言葉遣いのギャップがね?とか。この辺の話題は美少女ゲーム界隈の過去ログを探せば出てきそうなのですが、盛り上がっていた2000年前後じゃボイスを絡めた話題は少なめだと思うので、まだあんまり書かれていないのかもしれません。ググっても出てこなかったので。

*1:「(ボイスが)テキストの表象を支える」という発言があったのですから。もちろんこの発言は、エロゲーがテキスト主導であっていつからかボイスが付属してきたという美少女ゲームの歴史的な観点からのものだと思いますが、西欧的には音声の書き文字よりの優位というのが当たり前だと思われ(それは作られた西欧観だという反論もできますが)、逆に言えば、エロゲーにおいてテキストがこれほどまでの地位を作り上げていることに驚き、やはりそれは活版印刷技術の誕生とかそういうのに絡められて語られているのだろうか、と過去の文献を調べてみようかと思いました。

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/02/25 22:36つhttp://hokusyu.hp.infoseek.co.jp/seiyuu.lzh

crow_henmicrow_henmi2007/02/25 22:49その辺に着目するなら変化球の参照例としてForestお勧めなんですけど>声。

cognicogni2007/02/26 01:36>K_NATSUBAさん
前から拝見しようしようと思ってましたが、今日初めて閲読しました。ついでに申し上げておくと、.docファイルだと参照しにくいし.lzhで固められていたらGoogleで引っかからないので、HTMLであげてくださることを希望しますー。
「声優批評の難しさは、声が記述不可能だ、という事にまずはあります。だから、声の直接的な記述を避けて、メタファを用いていこうと、これがこの声優サッカーの意義であります。」とか、「声質一発でキャラクターを表現する技術」や「声優の演技は、記号です。それ自体として完結した記号の系。それが、そちらもそれ自体としては完結した記号の系であるところの絵と同期する事により、その同期を起さしめているシステムとしてのキャラクターが想定されるわけです。演技から想定させるという事と、声から立ち上がらせると言うこと。この二者では、後者の方が圧倒的に速い。声に肉体性を残せば、演技の記号性は減じるしかなくなります」の辺りが凄く良かったです。あとはサッカーのように、声優のチームプレイを考慮に入れるという点は忘失しておりました。ご指摘どうもです。今回はエロゲボイスというかなり焦点を絞ったタイトルにあえてしているので、声優や声優チームプレイまで勘案したエロゲ声優論は、いつか誰かがやってくれないかなーと思っている次第です。自分はそれほど耳が良くないので…。

>crow_henmiさん
んー、Forestは褒められ方(「素人にはお勧めできない」とか)が厭だしセンスが古そうなんで、どうにも手を出しにくくて、DL販売されてからも手を出してないです。とりあえず見聞きした範囲では、Forestにおいては、テキストと違うボイスが乗っかるとか、ミュージカル風味の部分があるそうですが、そうした安易かつ変則的なものよりも、普通に付属してくるボイスの奥深さを意識しようという風に上記エントリを書いたもので、だから、どっちかていうと、シナリオの陳腐さにもかかわらずボイスが語りを牽引したとされる『Dear My Friend』辺りのほうが興味あるかなとか思ってます。まぁもちろん、精神分析などのように、イレギュラーからレギュラーを照射しようという試みも十分意義深いものがあるとは思いますが。

crow_henmicrow_henmi2007/02/26 05:42いやまあ、つまりはそういうことなんですが。照射角は複数あったほうがいいです。まあひとりでするのはめどいでしょうから、cogniさんが「声」について何らかの議論の進展をさせたときに、そのカウンターパートとしてForestの話を書かせてもらうかもしれません。

cognicogni2007/02/26 08:08カウンターは歓迎ですー。
で、crow_henmiさんの書かれていた疑問に関して。「古い」ていうのは、メタフィクションみたいなのを結構堂々とやってしまえる無邪気な精神とか、その辺です。ちなみにこの言葉遣いは今木さんの過去ログを意識して書いてます(http://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0204.shtml#8)。あと、私は、アイマスや荒山先生は楽しめるでしょうけれど、プリメや車輪の国は恐らく無理ぽい、とかそんな個人的な嗜好ですね。crow_henmiさんの仰るとおり、面倒というか、下馬評や感覚で絞ってないと全部プレイしてられないので。

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/02/26 10:17HTML化は計画中です。てか、WORDでHTML化したようないい加減なので構わないかなあ、という気もするんですが、それだと読みにくいよなとか色々考えてしまいまして。

cognicogni2007/02/27 11:24計画の成就を期待しておりますー。

2007-02-21

[] Kanonと家族  Kanonと家族 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  Kanonと家族 - こぐにと。 cognit.  Kanonと家族 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20070221/p1

図式的に捉えるのはいまいち好きではないのですが、簡単に反論を挙げるとすると以下のように。『家族計画』においてはその物語中で血縁的な家族が露悪的に描かれ、「家族」の重力圏から抜け出そうとされる主人公らの試行が続き、結局はそれらから抜け出てハッピーエンドと銘打たれるものの、わざわざ血縁家族が露悪的に書かれた上で作中で幾度も強調されるそうした家族の弊害というものに引力があるということは、従来的な意味での「家族」の強さが物語中で逆照射されていると捉えることも可能で、『家族計画』においては「血縁関係、公権力による承認は重要な問題とはされていません」などと言明できるはずもなく、「血縁関係、公権力による承認」が「重要な問題」として完全に前提されていると考えて良い。物語において乗り越えるべき障害と描かれている以上は、かかる障害は重要な問題だろうから。

必然性がなければ、おっさんよりも美人の母親を出したいと思うのが人情でしょう(酷いな)?

麻枝准がインタビューでそのまんまのこと言ってました。加えて、父親の不在をKanonの語りのレベルで指摘するのはまあ妥当だと思います。

そういえば、「「父」親を家族に入れる必然性もなくなっている」と語っている際、わざわざカギ括弧を付けて「父」と書いているところを鑑みるに、父親をそのまま父性だと考えているのかと愚考しましたので、念のための議論を行えば、例えば、

いや、「父性の不在」をいうには男性キャラをチェックしさえすればよい、と思っている馬鹿どもがどうにも腹立たしいのでつい。太宰治だって男性の本質はマザーシップだといっています(吉本隆明の伝えるところによれば)。ゲームシステムが父性の役割を果たしている、といった山内さんは流石だと思います。

とは今木さんの言@掲示板(発言618)。母性と父性はあくまでも相対的な区別であり、女性に父性が宿ると言明することすら可能だし、その逆も可であり、山内さんの仰るようにゲームシステムが父性の役割を果たしている、ということもゲームのレベルで考えることは可能ではないかと。

また、他のエロゲーでも父親不在の主人公がままあり、父親不在は別にkey作品に限った話ではない。ただ、他のエロゲーだと、両親不在の理由が大体海外出張や死亡で、そうした説明が説話論的な水準で混入しているところが割と重要だと思っているのですが、Kanonにおいてはこうした不在の説明が徹底的に省略されており、テクストを検索してみればわかるように、名雪の父について父という単語を使って語られるのは、

【名雪】「…わたし…お父さんの顔、知らないから…」

という一行だけで、後の「父」の言及は佐祐理さんの父について数度と、栞の父親について一度のみであって、Kanonのテクストが面白いのはここじゃないかと。また父性といえば、舞シナリオにおいては、生徒会という制度=父があったり、真琴シナリオにおいては真琴の先例として美汐さんの例がありそこには運命に逆らえないという秩序=父がある、と解釈することも可能で、父親は確かにいないかもしれないけれど、別に父性が欠けているわけじゃない。こういう議論はつまんないですけど一応念のため。

親密圏の特徴1の具体性に関しては、立ち絵の数が制限され登場人物の数が制限されているからでは(この辺の手つきはシステムに還元したがる自分の癖ですけれど)。また、あるヒロインのルートに入ったとき、他ヒロインが不在になってゆく感覚を説明するのには、親密圏という単語を利用するよりも吉本隆明の対幻想を持ってきたほうが説明しやすいような気もしますが、家族という単位を見るだけなら親密圏になるのかなぁ。「それなのになぜ『Kanon』の家族関係は「親密圏」で説明できてしまうのか?」については恐らく久弥ルート、特に名雪シナリオの話だけなので沈黙しておきますが、舞や真琴においては物語中で彼女らの家族の影はわりと排除されていることは気に留めるべきではないかなと。あと、佐祐理さんの家族も勿論「『Kanon』の家族関係」に包摂されると思いますが、かの家族は親密圏で説明できますか。できなければ、「水瀬さんちの家族関係」とかにすべきでは。

最後に言っておけば、別に「家族」が失墜した後に別の概念を差し込む必要性を感じないんですが。あるとすれば、役割ではなく素顔で向かい合う、とかそういう方向じゃないかと思うのですが、その辺はJ文学を評価する石川忠司が「素顔で向き合ってぎくしゃくしてるほうが健全」みたいなことを『文学再生計画』で仰ってました。ちなみにあれは2000年発売です。その辺の議論は乗り越えられるんでしょうか。

えーと、家族と言えば、現代思想の『家族』特集の中で面白い論文があった覚えがありますし、『成熟と喪失』は必読であり、Engelsによる"The Origin of the Family, Private Property and the State"ていうのもあります。ところで家族を無条件で肯定していた時代なんてあったんですかね。

あー、なんか自分の文章を読み返してもつまんねぇですね。精進します。

追記:

エッセイ終わんない。

追記前に読書案内も終えているので、コメントするのはこれを最後にしますが、

ただ、エロゲにおいて母親が父性(特に強権性)を象徴していた例を寡聞にして知らないのと、逆の例はそこそこ知っていることから(『世界ノ全テ』など)、エロゲにおいて父親が父性を象徴していると考えるのはそれほど的外れではないと考えました。ゲームシステムが父性の役割を果たしているという考えも同意できるのですが、それはゲームシステム以外に父性が存在することを否定するというわけでもなく、置いといて良いのではないかと。

ていうところは、舞シナリオの生徒会の役割とかゆって、父親以外の父性の存在を追記前にも既に指摘してますよね。だから私も父親やシステム以外にも父性と呼ばれるものがあると思ってるし、また母親が父性を発揮しているとは(エロゲーにおいては)思いません。ただ、あの議論は、父親=父性という固定観念に近い結びつきを否定する議論が先例にあったという指摘を行うこと、そして念のためやったもので、父親=父性でない(少なくとも留保を要する)ということをご理解いただけているのなら問題ありません。

倉田家や美坂家から、あきらかに反「家族」的な要素を見つけることは困難です。しかし、だから親密圏では説明できないというわけではありません。

んー、親密圏の特徴を三つ挙げていらしたんで、それをひとまず親密圏の定義と考え、あなたが扱っておられる『Kanonの家族』がその定義に当てはまるかどうか見てみようと、佐祐理さんとこや美坂姉妹の家族を挙げてみて、『親密圏は具体的な誰かへの関心で成り立つ』『公共圏に適応できなかった者にとって癒しの場となりうる』には当てはまらないんじゃないかなと思って書いたわけですが、かの家族らも「親密圏では説明できないというわけではありません」のですか。うーん、この辺は感じ方の違いですか。むしろ祐一・舞・佐祐理さんの三人が擬似家族的な形態をとっており親密圏を構成している、とかそういうほうがしっくりくるんじゃないかと思っていますが。

最後に「ところで家族を無条件で肯定していた時代なんてあったんですかね。」ですが、現代もわりとそんな感じです。「家庭崩壊」なんて言葉があるのも、肯定されうるものでなければ家庭じゃない、という理屈ではないでしょうか。

肯定されていること(事実)と肯定されうること(可能性)、「肯定すべき」という観念が一般的に流布していること(倫理)はそれぞれ違いますでしょう。私が問うているのは事実問題であって、家族というものが肯定されてユートピア的に機能していた時代が事実あったのかということです。家族がそのように機能せねばならないという倫理的要請ならほとんどの時代であったでしょう多分、儒教や朱子学とかの影響で。恐らく文系の方だとお見受けして私(理系っす)よりそっち系には詳しいと考えて訊いてみたんですが、別に知らなければ知らないでいいですよ。ただ古典小説を読んでいる分には、家族関係のしがらみは結構古くから題材にされているような感じがあって、そうした感覚から、家族と言う概念にほとんど疑念が持たれなかった「幸福な」時代はあったのだろうかと疑問に思いまして。

あと。父の不在が「エロゲの都合」と断言してしまうのも相当貧困だと思いますんで、ちょい追記しておくと、エロゲーにおいて両親不在でなければ性行為を行えない、という特徴があるのならば、性行為は親に見つかってはやばいという倫理観が一般的に存在するということも読み取れると思います。これから時代が進むにつれて一般的通念が変わるのならば、もしかすると家に親がいても性行為に及ぶようになるよう徐々に変化し(もしくは主人公らが「性行為に及ぶから家の外に出ておいてくれ」と両親に向かって恥じもなく言うようになれば)、それが当然のように多勢をしめるようになるかもしれず、そうしたエロメディア表現上の変化は現実における倫理観の変遷の反映と取れることも可能です。別にフィクションなんだから両親がいるところで性行為に及んでも構わないのに、どうしてそれでもエロゲにおいて両親が家から排除されているのか、とでもいいますか。まぁ、独り言程度に受け取っていただければ。

tt2007/02/22 02:07男がいない、て話で最近の個人ブームは「エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること」のアダルトビデオ評論。筆者はレンタルビデオからセルビデオに移行していく過程で男優の姿や声が画面上から排除されていく、ていう言い方で解説してて、宮台系譜のサブカルチャー論・郊外論でも大塚系譜のエロ漫画論でもどっちでも使えそうなネタなんだけど、どちらにせよエロゲーより遥かに大きな消費人口の世界を扱ってるので書いときます。

cognicogni2007/02/22 03:04毎度のことながら、ありがとうございます。
AVにはそういう流れがあるんですね。寡聞にして知らなかったです(AV自体あんまり知らないので…)。その評論には男の姿の排除の理由が説明されてあるのでしょうか。
あと、ここではやはりastazapoteのhttp://astazapote.com/archives/199910.htmlにも一応言及しておくべきかと思いました。いまだpendingしてある「感情移入」についても色々調べたいんですけど、なかなか…。

tt2007/02/22 03:21>男の姿の排除の理由
顧客からのフィードバックを重視した(レンタルの頃はマーケティングなど基本的に行われなかった)ところ「男優映して欲しくない」の声が多かったため、みたいな説明でした。セルビデオを買う客層の中身を考えるのはまた別の話。

tukinohatukinoha2007/02/22 10:16はじめましてのtukinohaです。ご指摘ありがとうございました。
「家族関係のしがらみ」によって「家族」がネガティブに描かれることというのは昔からありましたが、それは一方で「正常な家族」があるというのを前提にしているためにネガティブなものとなってしまうのではないでしょうか。今回僕が「家族の変質」と言ったのは、家族の実態がどうかということではなくて、倫理観の変化、もしくは定義の問題です。
あと性行為と倫理観の問題なんですけど、性行為と生殖が切り離された社会では「セックスはキスよりもレベルが高い」という考え、つまり「A→B→C」というモデルが意味を成さなくなるのではないかと。

cognicogni2007/02/22 15:04>tさん
へー、そうなんですか。AVで百合やレズが隆盛してるわけでもなかったりすると、益々興味深くなりそうな感じです。

>tukinohaさん
はじめまして。はてなキーワード『麻枝准』から辿らせていただきました。

>「家族関係のしがらみ」によって「家族」がネガティブに描かれることというのは昔からありましたが、それは一方で「正常な家族」があるというのを前提にしているためにネガティブなものとなってしまうのではないでしょうか。今回僕が「家族の変質」と言ったのは、家族の実態がどうかということではなくて、倫理観の変化、もしくは定義の問題です。

ああ、そうでしたか。それは失礼しました。従来の家族の概念が適用できなくなってきた、と言明されている際に、従来の家族の概念と現在の家族の実態を比較されているようなので、その辺りから私が概念の問題と実体の問題を混同していた模様です。

>あと性行為と倫理観の問題なんですけど、性行為と生殖が切り離された社会では「セックスはキスよりもレベルが高い」という考え、つまり「A→B→C」というモデルが意味を成さなくなるのではないかと。

えーと上記エントリの最終段落はそちらのブクマコメントに対してのものなので、お気になさらず。エロメディアにおける性行為の表現から世代の倫理観が見え隠れする、ということを書いたのはあくまで例のつもりでした。この議題についてのこれ以上の議論はあんまり本論と関係ないように思いますし、その辺の知識は全然無いので今回はスルーということでお願いします。

crow_henmicrow_henmi2007/02/23 17:08みなさんCLANNADのこともたまには思い出してあげてください。

tt2007/02/24 20:45酔った勢いで少しだけ反応すると、「CLANNAD」は「Kanon」なんかより余程言い訳きかない形で「家族」を使ってる。で、おねかのえあに対して、CLANNADから遡って読み込む形で「家族」を見出す、ていう読みも成立しうると思う。これはさしもの麻枝マスター今木さんも言い訳できないと思います(挑発
じゃあ、何でそんな方向に行ったのかて話も出来るはずで、まあCLANNADがどうも怪しいてのは、発売前から何となく予想されててさ、そのせいでか知らないが今木さんの日記ではCLANNAD発売される頃になっておもむろにAIRを再プレイしてるっていう○ーマ○オニーウォッチャーとしてはとても面白い話があるんだけど、まあそんなんで。ひでえ文章だがアップしますが酷いと思ったら削除しといてくださいby酔っ払い

cognicogni2007/02/25 11:27tさんの仰るようにCLANNADから遡行してみせることも可能、というか麻枝准作家論をやるならすべきことかとは思いますが、自分としてはCLANNADって家族の話にせよ他の話にせよどうにも俎上に上げにくい印象があって躊躇気味です。
個人的にはCLANNADの街の話とかのほうに興味があるので、そういう視点からAIRの町やKanonの街について遡ってみるのも面白いんでないかなと思ってます。

cognicogni2007/02/25 11:59あと別の話の文脈で、メッセで教えていただいたんですが、ササキバラゴウの視線化っていう概念がもろに該当しそうな話題ですね>AVの男優

tt2007/02/25 20:19>ササキバラゴウ
の背後には大塚英志がいるのでそのへんのエロ漫画論とかを。
CLANNADから遡るなら、まず最初に春原の話からね。家族の話をするなら春原兄妹を、場所の話をするなら春原の部屋を。ディスコミュニケーションとか言い出すなら春原兄エンドを。グランドフィナーレの話をするなら春原の里帰りを。

cognicogni2007/02/26 01:37了解しました。大塚英志のエロマンガ論をチェックしてみます。
春原の話から遡行するなら折角だからリトバス発売を待ってからのほうがいいかなと思います。棗兄妹も出ることですし。あと、春原の部屋の場所性と(他のゲームではしばしば出てくる)部室の場所性の対比とか、今考えればCLANNADからでもいろいろ考えられそうですが、いまいちモチベーションが湧かないというか(ストライクゾーンではあるけど豪速球ではない、とかそんな感じで)。まぁ、近いうちに再プレイしたいです。
そういえば、家族を形成し、ご息女に「汐音」と名づけ、新著では子どもの生育環境に言及しているらしく、さらにはCLANNADの背景に母校が使われているというA先生のCLANNAD批評ていうのが読みたくて、新刊予告の800ページの批評本の中に採録されてないのかなーと淡い期待を持ってます。

KalemKalem2013/06/22 17:03Thank you so much for this atrcile, it saved me time!

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2007-02-19

[] ごっつい投げやりなメモ  ごっつい投げやりなメモ - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ごっつい投げやりなメモ - こぐにと。 cognit.  ごっつい投げやりなメモ - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://www.critiqueofgames.net/data/index.php

や、

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20070213

といったデータベースのようなものはもっと積極的に評価されても良いと思うのですが、中々その土壌が育まないのかなぁ、とか思いました。

あと。

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070214#c1171810590

大変そうだなー、と思いました。

追記:REVさんのところに返信みたいな感じですが、まぁ、ブクマやブログやコメント欄で一言、お疲れ様ですとか言うだけでも、本人らのモチベーションに少しは貢献できるんじゃないかなぁ、と思っております。

追記2:どれが基礎資料か、というのを議論した上で、暇な学部生たちに収集させて、ゲーム学会などで彼らに発表の機会を与える、というのがいいのではないか、ということをどなたかが提案していらっしゃったような…。

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2007-02-14

[] 赤松健インタビュー  赤松健インタビュー - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  赤松健インタビュー - こぐにと。 cognit.  赤松健インタビュー - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

rulia046さんのところから。

http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/akamatsu/sayings02.htm

この前、ネギま!はロングショットが多くて、スクランはバストアップが多い、という印象論をmixiかメールで書いた覚えがあり、作者である赤松氏本人がそんなことを言っていたのか、となんだか嬉しくなりました。そしてその後、自分の検索能力の低さに落ち込みました。

近況報告に代えて、というか、いちおう何かは書いてるんですけどまとまらないんですよね。

[] ループゲームと反復と制度  ループゲームと反復と制度 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  ループゲームと反復と制度 - こぐにと。 cognit.  ループゲームと反復と制度 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

Cross†ChannelとFateHAのネタバレします。それと多分あとで消します。

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20070214/p1

genesisさんの「かったるいです。あと,つまんない。」という感想は妥当なのかもしれませんけれど、それこそが製作者の目指していたものではないか、という意見を確かtdaidoujiさんのところで見た覚えがあります。実際、ゲーム内にも「退屈になったから、やめよう」ということを主人公が言うらしいじゃないですか。だからプレイヤーもそれをなぞること、つまりゲームがつまらないと感じることで、ゲームのエンディングを迎えるという、ゲーム=プレイヤー間の同期構造を取っている、という点でFateHAは面白いのだと思います。

この前、2/5のmixi日記にもちょうど書いていたことなんですけど、ループゲームにおけるループの扱い、という具合のテーマで、C†CとFateHA(こっちは未プレイのため伝聞のみ)という比較を簡単にしたんです。ちょうど良いので少し改稿して表に出しておくと、

(これから行う議論の)基本的な路線は、C†CとFateHAの比較によって、それぞれのゲームの持つループ現象の扱いの違いを浮き彫りにし、反復に関してもう少し考えを深めてみようというものです。まずC†Cがループをただの障害としてしか捉えていない無邪気さがあると思っていて、田中ロミオはこの点で物語屋として真っ当としか言いようがないです。しかし個人的には無邪気すぎると感じてます。一方のFateHAは制度的意味の反復によって制度自身を疲弊させる試みをして「飽きた」と主人公とプレイヤーに思わせる点でC†Cと区別可能だ。しかしここでFateHAがいい意味で厭らしいのは、ミニゲームという形で更なる反復を与えていて、多くのプレイヤーがそれをこなしていることから、シナリオの結論とは違う面で反復は飽きないことすら示唆している。そしてそのミニゲームの反復はゲームシナリオ内の反復ではなく(つまりプレイヤーキャラに感情移入とやらをして味わう反復ではなく)、ほぼプレイヤー側の反復になるという顛倒がある。これを考えていくと、恐らくその反復という概念が結構拡がりうるので、そこまで製作者が意図を射程に入れているとすれば、それは凄いことだよなぁ、とかそういう感じのことを思っていました。言い換えうるならば、反復を否定しつつ肯定する、その共立を指摘する挙措が凄いな、と。

制度の疲弊については、未開部族の宗教儀式に見られるような、単一のリズム・語の繰り返しによる、語のゲシュタルト崩壊というか、例えば日本語だと「ら」を書き続けていたら、「ら」が「ら」という意味を持たないもののように見えてくるという風に、制度が過剰な反復によって自殺に追い込まれる、という現象を援用する予定しており、自殺といえばデュルケムを参照するべきなんだろうけれど、ここの文脈ではどうなんだろうとか。確か自殺にあたっての主観的なものには切り込んでなかったよな、デュルケム。

とか書いていました。えーと、まぁ、FateHAは未プレイですし、ループゲーと反復についてはもう少し考えてから書きたいと思っているので、まぁこれは草稿みたいな感じで。だから後で消します。

一応予定の路線を書いておくと、この前も書きましたけれど、反復もしくはループと言明する際、そこには出来事の区切りが強制的に入ってしまい、その操作自体がまず一つ問題になることを取り上げたい。そもそもループ、ということは「何か」を繰り返すということだから、その「何か」というものを一度定めねばならない。この辺の個別化操作が問題だ。そういえばこの前、「一回性」とかブクマコメントで言われてましたけど、一回性なんて別に称揚するようなもんでもないとは思いますが、そう斜視している私ですらもループゲームにおける体験の一回性とかそういう視点はあんまり読んだ覚えがないような気がします。まぁ、Deleuzeをちゃんと読んでからこの辺は書きたいのです。

そしてもう一つは、ずーっと前に言ったメタフィクションがフィクションに絶対的に負けてしまうということも取り上げたいです。フィクションという制度を前提とし、メタフィクションはそれを攻撃するが故に、結果的にはその前提・措定が制度の頑強さをあらわすことになる。つまり、メタフィクションによってフィクションという制度を侵犯しようとしたときに、そこには必ず「制度の(、、、)侵犯」という意味づけが行われるが故に、制度は決して敗れない。それは前提され続けるために生き延び続ける。しかしここで有効な手法があるとすれば、それは制度の徹底的な反復の身振りによる、制度の疲弊だろう。例えばサドの小説では、サディスティックな行為は最初制度の侵犯としての位置づけを持つだろうが、反復によってその行為は日常へと戻ってしまう。しかし執拗なまでのサディスティックな描写が今度はその日常の疲弊を齎し、疑義を挟み込む隙間を生むのではないか。という感じです。まぁ、体験の一回性やら「行為は処女である」と連呼していたら、体験の一回性とか「行為は処女である」発言の一回性がなくなることすらあって、しかしそれでも繰り返し続けたら、なんか凄いことが起こることすら戦略に入れられるという話です。

FateHAは後者の、制度の疲弊を物語に組み込んでいるという点で、やはりノベルゲームとしては新しいものとして評価できるのではないかなと(しかしここで外部を見てみると、上述のサドのように、もしくは蓮實重彦の挙措のように、類似の試みはいくつも行われているのだが)。ゲームというシステムのせいか、ループを物語に組み込んだノベルゲームは幾つか知っていますが、そのループを捉える手癖と乗り越える手癖がFateHAは違う。これはかなり外部からの視点、ジャンルを意識した視点かと思うのですけれど、まぁ、そういう評価も可能だと思います。

もちろん、「退屈になった日常から脱出する」という風にFateHAをまとめてしまうのではなく、その構造と答え方、そしてそこから拡がるものをきちんと視野に入れて。

追記:ここでの反復というものには能動と受動の双方の態度が不可避的に含まれざるをえず、便宜的に区別した両者の態度が物語的反復においてどのように扱われているかを明らかにすることで、ゲームの能動性と受動性に関連させることも可能ではないか。メモ。

izuminoizumino2007/02/14 23:21専門が映画(SFX含む)の人ですからね。>赤松さん ついでに言うと小林尽は「アニメーターの原画」を模写して絵の訓練をしていた時期があったそうですが(本人談。人物だけでなく、多分エフェクトや背景も込みで)、「洋画」と「和製アニメ」との間で、空間認識や美観の差というのも出てくるのかもしれませんね

cognicogni2007/02/15 00:51コメントありがとうございます。
なるほど、両者はそのような訓練の過去と違いがあるんですね。やはり作家の来歴について知識を持っていると、そういうところまで気が回るところに驚くとともに、素人は専門家には勝てないなぁ、と思いました。
そういえば、確かにアニメは(描きやすくするためか動きを少なくするためか)バストアップが多いような印象があります。そこから小林氏が影響を受けているなら、スクランでそういうショットが多いのも納得がいきます。
あといずみのさんのサイト内にある赤松氏の発言なのに気づけなかったのは不覚でした。

tt2007/02/15 07:05Prismaticallizationで全部語られ終えてるのでいちいち書く必要を感じないとゆーか。

cognicogni2007/02/15 16:08p17n未プレイなんです。でもすでに言われていることを繰り返すのはちょっと恥ですねぇ。まぁとりあえず自分なりに考えてみますが、珠玉のできでないかぎり公開は差し控えようかなと。

crow_henmicrow_henmi2007/02/16 19:02ループゲームの体験の一回性についてはtdaidouji氏かあんよ氏が語ってた記憶がありますが。2005年10月から11月の間くらいで(超あやふや)。

cognicogni2007/02/17 14:14くるぶしあんよさんのところは、
http://www.puni.net/~anyo/diary/200511.html#20051104
ですかね。
tdaidoujiさんのところはまだ許可申請していないので見れません(泣)。
あと関連しているところを見ていったら、昔の自分の記事を見つけて泣きそうになりました。恥で。早く抹消して欲しい。ああもうだからネットは嫌なんだ。

crow_henmicrow_henmi2007/02/18 11:23ああそれです。関連してる自分の記事もあるんですけど、まあそれは別の話。

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2007-02-07

[] コメントスパム削除  コメントスパム削除 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  コメントスパム削除 - こぐにと。 cognit.  コメントスパム削除 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

コメントスパムが来ていたので削除しました。(2/8)

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テストなどが近づいているためコメントなどを返す余裕がないのと、勉強不足を痛感して一人でしばらく勉強したいため、連続更新は一旦停止します。今後は時間があるとき適当に何か書くスタイルで更新していこうかと思います。どうぞ宜しくお願いします。

また、宣言どおり、週末に批評関連のエントリを削除する予定です。どうぞご寛恕の程を。

追記:削除しました。いちおうローカルで保存しているので、見たい場合は連絡でもしていただければ。

simulaさんからはコメント削除の了承を得ていたので、crow_henmiさんのコメントのみここに転載しておきます。

# cogni 『....

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070202

>究極的には自分語りであり「批評=自己表現」であります

えー。それは小林秀雄の悪影響じゃ?少なからずそういう面はあるとは思いますが、それだけじゃないと思いまーす。もちろん批評の過程に一種の自己表現・自己反省が入り込むことはありますが、批評では、自己反省を導く際の視点が超越性を帯びてしまうという視点の逆説にきちんと気を配った上で、自らの持てる全ての知識と感性とを導入して、作品という圧倒的な現実に対して、ほぼ負け戦が決まっていることを覚悟した言葉を吐かなければならないのが、作者がほとんどゼロからテクストを書き始める形の自己表現となる創作小説や自分語りとは全く違うところではないかなと。

>「自己」が後景化した「批評」というのは、まことに形式的でつまらないものです。

笠井潔が指摘しておりましたが、蓮實重彦『物語批判序説』は、私という一人称がほとんど最後の最後にならなければ出てこないという妙技をかました作品でございました。大変おもしろうございました。まぁ、私という一人称が出てこないからといって、あの文章で蓮實という自己が後景化してはいないとは思いますけれど。

# crow_henmi 『あーその考えはなかったです。作品との対自性、という観点が抜けてる批評論というのも随分と間抜けな話なので、まあ、その、肝に銘じておきます。

 自己の後景化云々は、リーヴィスとかあの辺を意識していました。形式主義への後退といいますか。ニュークリ、便利だけど嫌いなんですよ。「いまを生きる」辺りがその原体験です。』

DernellDernell2012/12/09 01:18You got to push it-this essetnail info that is!

pfqqnwvrpfqqnwvr2012/12/09 18:35b7lLYT <a href="http://gcxrxairxzoy.com/">gcxrxairxzoy</a>

spcrfbdsbchspcrfbdsbch2012/12/11 03:38j3uk6D , [url=http://wcyjencsikxl.com/]wcyjencsikxl[/url], [link=http://aznzqjuwfifx.com/]aznzqjuwfifx[/link], http://plelsxwbzdlj.com/

ujovblvcujovblvc2012/12/12 16:10MZZcvS <a href="http://mdhvnnrtrsxz.com/">mdhvnnrtrsxz</a>

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2007-02-05

[] レスポンス2  レスポンス2 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  レスポンス2 - こぐにと。 cognit.  レスポンス2 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/sirouto2/20070205

えー、ものすーっごく恥ずかしいのですが。あと私の文章は濃密じゃなくて昏迷を窮めているだけなので(そして今になっては破綻を自認してます)。一旦引っ込めて考え直したいんですがー。

DerridaのKhoraを使ったのは確かに失敗ですが、あれを利用したのは、「場所については、空間的なものや土地、ゲームの背景だけを指しているんじゃないよー(そうしたかったよー)」という概念の拡張を行う一つの補助線だったわけです。コメント欄にも書きましたが、音楽なども射程に入れて(そしてDerridaを補助線に使ったからには、問いを呼び込むことも含んで)場所と呼びたかった。わざわざデリダの言葉を使ったのはそのためです。ちなみに正しくはKhoraじゃなくてKho~raみたいにoの上に~っぽいのがつきます。

まぁ、先日のエントリのテクストとこれから書かれるであろうテクスト、そしてコメントとを合わせた総体としてのこのブログが「日常」という一つの問題系を通じて『ONE』のSSとして読まれ得ることを密かに期待しているとか、あらゆるものを包摂する最も表層的な「場所」としてのブログの働きが、さりげなくコメントされている歌詞の引用や空気を読めてない私の長文レス、そして比較的真面目に見えるやりとりなど、それら全てが事実歓待され、そしてその内から立ち絵/挿絵という新たな議論が持ち上がってきているように、今もこの場所であらゆる問いと疑問と答えが来るべきものとして待ち続けられており、ここで行われる共同作業自体が日常と場所の顕現としているような、「何かを呼び込む場」として常に既に展開されているブログなのだと読者に感じてもらうことが望みである(事実この辺の説明に適当な具体例として、tさんのコメントで「そーゆー場所なんだから。あ、場所て使っちゃった。」ていうのがある)、なんてアシュタサポテリスペクトな事は口が裂けても言えないのですが、まぁ、日常や場所という制度的な言葉を反復し徐々に抽象化していってthere isぐらいに抽象しすぎることで、美少女ゲームの考察においてテクストや絵、キャラやイベントなどを簡単に実在しているものと見做すような素朴実在論から考察者を引き離し、最早それらの言葉がゲーム内の事物を指示することには留まらず、更には考察者(と自称していた者たち)=外部観照者にすらも影響し、彼らを内部観測者へと引き摺り下ろすことによって、もっと違う場所から考えはじめてもいいんじゃないかな、という示唆を試みようとした以前に、どうにも自分の中で論の破綻が確定したようなので、とりあえずこの件についてはこの辺にしておき、とりあえず具体的にはやはりゲームシステムによって制約されつつも表現されたものを表層として、背景-音楽-立ち絵などがどのようにあるか(、、、、、、、、)(←述語的な面を強調)などといった、余り目が行かないものを契機にゲームを捉えていきたいなぁ、と思っています。ああ、全然まとまっていません。すみません。

で、sirouto2さんの場所論ですが、多分私とは全然違う方向なんじゃないかなと。全然それで構いませんので、着想を得たならどうぞご自由に論を育ててください。

とりあえず一個違いを言っておくと、以下。

規則が先行していて、それへの関心に応じて、空間を分割して場所が生成するのです。

私の場合は規則の無根拠さを第二段落初っ端で前提して、規則の実在とかはあまり信じてないので(事後的に仮構される、ぐらい)。そして規則と反復の関係性と直接指示の不可能性を捨象したら多分互いの論は全く違うものになるんじゃないでしょうか。

ということで、一方の私はいろいろ考え直しの方向ですが、sirouto2さんはどんどんやっちゃってください。

sirouto2sirouto22007/02/06 08:05>多分私とは全然違う方向
そうですね。ただ方向は違っても関係はあると思います。つまり、ノベルゲームの選択肢のような分岐点を、場所としてのブログで実現してみたかったのです。せっかくだし。
「DerridaのKhora」は動的な場所、生成する場所、位に単純に捉えていて、その実践にはゲーム形式は向くだろうと考えています。もう一つは、その動的生成に時間と場所が関係すると思いました。端的なのはYU-NOとか反復系ですね。
>規則の実在とか~事後的に仮構
文章の最後がバタバタして、「規則」という言葉を乱暴に使ってしまったのですが、さすがに的確で鋭い指摘ですね。素朴実在論ではなくて、プレイヤーと主人公の関心・転移に応じて、場所が構成されるという流れなので、規則の事後性は重要な論点です。遡及的に見出される対象でありながら、原因として先行しているという意味で、規則というより「対象a」とか、そういう何だかよく分からないものが近いのかもしれません。
…というわけで、また何かの際に言い掛かり的な文章を書いてしまうかもしれませんが、よろしくお願いします。

cognicogni2007/02/06 11:00私を褒めても何も出ませんよー。
まぁ、先のエントリが、何かしらsirouto2さんの考察に役立つようなことがあれば、それは願ってもない僥倖だと思います。私は今、あまりコメントできるような状況じゃないですが(頭の中がこんがらがってるのとテスト前とで)、今後の論の発展を楽しみにしてます。
ということで、こちらこそどうぞ宜しくお願いします。

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2007-02-04

[] simulaさんのmixiに返信  simulaさんのmixiに返信 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  simulaさんのmixiに返信 - こぐにと。 cognit.  simulaさんのmixiに返信 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

「私、エゴイストなものでして…」の一言で私の文章の手癖に関しては全て解決できるようなまぁそんな感じで。ああ、あと私も、同じ本を何度も読みますよ。私の場合、馬鹿ですからそうしないと解らない・覚えられないので。

あとsimulaさんが丁寧に読んでらっしゃるな、というのは恐らく閲覧者の誰もが感じていると思います。プレッシャーをかけるわけではありませんが、今後の感想なども期待しております。

NamariNamari2011/12/22 00:35Ah yes, nilcey put, everyone.

waiuuyxyucwaiuuyxyuc2011/12/23 00:51QIlzqz , [url=http://tynbcwjaewgk.com/]tynbcwjaewgk[/url], [link=http://plganbznhzia.com/]plganbznhzia[/link], http://lkpkwtwizozo.com/

nocjrannocjran2011/12/23 23:41d3fhPI <a href="http://ncbxchacmlzh.com/">ncbxchacmlzh</a>

トラックバック - http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070204

2007-02-02

[] 俺的批評分類  俺的批評分類 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  俺的批評分類 - こぐにと。 cognit.  俺的批評分類 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

ttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/Erlkonig/20070202/1170361668

への返信でしたが、書いた当時の予告どおり削除しました。

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070207/p2

ThaniaThania2013/03/18 15:00Walking in the presence of giants here. Cool thinnkig all around!

kbzxoritpkbzxoritp2013/03/19 20:53rcY59y <a href="http://vnptbxdtexci.com/">vnptbxdtexci</a>

kccbxrpyeikccbxrpyei2013/03/20 02:48Qv4cZt , [url=http://xktggxyrefjs.com/]xktggxyrefjs[/url], [link=http://movscomkcgtw.com/]movscomkcgtw[/link], http://beybypuvnhuu.com/

rjfjiirjfjii2013/03/21 16:33woJkA0 <a href="http://xdpfztqtzfri.com/">xdpfztqtzfri</a>

トラックバック - http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070202

2007-02-01

[] 美少女ゲームにおける場所の発見  美少女ゲームにおける場所の発見 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  美少女ゲームにおける場所の発見 - こぐにと。 cognit.  美少女ゲームにおける場所の発見 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

(現在、暫定第二版)

遅れましたが、http://d.hatena.ne.jp/genesis/20070128/p1に反応。…と思ったけれど、随分と違ったものになりました。

美少女ゲームを「考察」する際に於いて、特権的に扱われるものとして、「テクスト」「人物」「内面」「外見(絵)」、そしてそれらが相俟って醸成される恋や死といった「イベント」などが挙げられるが、それらに纏わる言辞を利用し抽象された恐ろしく貧困な物語内容、例えば「1000年前から続く翼人の呪いによって一人の少女が云々、この呪いは斯く斯くの仕方と努力で解除され、一人の少女はその命を終えた」などという要約に決定的に欠けているものを挙げるとすれば、いかなる行為と事実がその制約を逃れることが出来ない、「時間」と「場所」の二つがまず求められるだろう。これら両者の解きがたい結びつきはastazapoteの林氏によって既に指摘されており、特に時間についてはギャルゲーにおける日常の発見という形で多くの人の記憶に残っているものの、同じく林氏が指摘した日常と場所との関連性については余り注意が払われていないように思われる。

「余談になるが、ギャルゲーとは何よりもまず場所と記憶を巡って展開される形式と言える」。このように語られる林氏は、(一般的に言われるところの)場所が第一義的に物理的・空間的に規定され、第二に政治的・社会的な権力関係による規定を受けることを述べ、場所は明示的であれ暗黙的であれその場所に対応する規則が含まれることを指摘された。例えば学校という場所には社会的な権力を背後に明示的に校則というものが規定されると同時、公共圏であるが故の社会一般に当然とされる規則、その他友人同士の関係性を維持するための暗黙の規則、そして建物に遮られたことによる自由移動不可能性の規則などが、その規則の命令が積極的命令にせよ消極的命令にせよ存在することは確実である。以前私も、非日常を日常から区別する際に日常に潜む規則性が暗黙裡に措定されることを指摘したが、そこで問題になるのは、日常性の根底にある日常の同一性という規則そのものが無根拠であるものの実行的に場を支配することであり、例えば上述の日常の場合を例にとれば、行為の結果が持つあらゆる微細な差異を無視して、その行為の局所が規範と同一のものと見做し日常と名状する規則が無根拠ながらも暗黙の状況下で働いていることである。以上、規則を作り上げる場所とともに、規則によって定義される日常とが指摘したことで、場所と日常の両者を「規則」という媒介を利用して接続できることを明示した。

故にこうも言えよう。日常の発生は場所と切り離せない。日常とは同じ規則に従った行動を繰り返すことだと述べたが、その規則そのものの同一性が無根拠であることはまず間違いないにも関わらず、そのような規則が自明であると強かにも行為者に信じさせ、暴力的に外部観測者な位置へと行為者を押し戻す契機の存在が論理的に要請される。そしてかかる無根拠さを隠蔽する契機として、場所が一つの要件として挙げられる理由は、その場所や空間といったものの変化の乏しさであり、また場所という存在の暗黙さといった二つの特徴故であると理由を挙げよう。この両者は擬制的に行為者を欺くことに十分であると思われ、よって日常はまず場所によって担保されており、日常の発見=構成と場所の存在は不可分であると考えうる。すこし脇に逸れれば、このような日常の発見=構成という観点から空気系などと呼ばれる漫画作品群を考えれば、背景や場所性、もしくはそれに付随する規則の緩やかさに空気を感じる原因が求められるのも必然だろう。

同時に場所に関しては更なる指摘が必要であり、特に場所の指示性について考究を深める必要があると思われる。前パラグラフにおいて場所の変化の乏しさと存在の暗黙さを挙げたが、これは主に場所という概念の性質に由来するものだ。例えば駅という場所を指示する際のことを想起せよ。改札口は駅なのか、それとも駅の入り口を一歩でも踏み出せば駅ではなくなるのか。どこからどこまで駅と示すのかは時と場合によって異なる。同様に、学校という場所は教室という場所を空間的に含み、学校という場所が教室という場所に重ね描かれるような構造を取るときもあるものの、そのような重ね描きにも関わらず学校という語が教室という語を決定的に包摂しない意味を持つ場合があることを思い起こせば、両者の単語の意味合いは大いに異なってくることは自明である。同時に、このような場所の指示の性質が個物、例えば椅子や机に関してはほとんど見られないということを考慮するべきであり、驚くべきは場所として指示される概念と個物として指示される概念の、扱われ方の差異そのものである。吉本隆明の概念を援用するならば、場所と指示されるものは自己表出の度合いが高いともなろうが、かくなる性質によって、不確かながらも確実に存在するものとして場所は指示されることに至る挙句、あらゆる「場所」はその実態的かつ微小な変化を概念的に取り込んでしまうことで、概念レベルでの不変さを獲得するに至るのだ。同様のことがDerridaによって指摘されていることをここで言及しておこう。Derridaが書いた短いエッセイ"Khora"("On the name"所収。確か邦訳あり)の中で、彼がKhoraという概念ならぬ言葉を説明する際、それの特性として名づけとdisplacementを挙げ、それがなんら自証的ではなく、また一種のmetonymyに大きく依拠する操作であるとした卓抜な言明が採録されている。metonymyとは、隣接性に基づく喩のことであり一般に換喩と日本語訳されるが、Derridaを読む際に注意すべき言葉そのものに目を向ければ、この置換displacementがdis-place-mentと分けられ、そこに場所placeという言葉が混じることは懸命な読者諸氏なら言わずとも解るだろうし、ここではKhoraの発音がcoreに近く、さらにcoreに隣接していることによって指示されつづけ、Khora(core)は常に空白であり、たどり着けないままでありつづけることにもDerrida読解特有の捩れと意図とが潜んでいることにも注目すべきであり、そして場所と呼ばれるものとの共通性――そもそもKhoraとはPlatoのTimaiosにおいて言及される、絶対差異の無限参照の場のことである――を記憶にとどめるべきだ。

補助線が引けたので、美少女ゲームの話に還ることにしよう。この論では美少女ゲームというものを、90年代中盤以後に顕れた、『痕』『To Heart』『Kanon』などから、物語面でもシステム面でも大きく影響を受けたものとして仮定し、現在いわゆる「萌えゲー」などと呼ばれるものをその射程に入れるものとして取り上げる。そうしたゲームにおいて、場所は常にあり、そしてそこには絵があり、音があり、空気がある。このような当然のことを確認したのは、美少女ゲームが絵とテクストと音楽とが融合した表現を持つジャンルであるという、単純ではあるが決して看過できない作品的事実を意識させるためだ。作品を読む、というときに、そのテクストだけに注目して解析することは表現媒体がテクストのみである文学分野では有効であろうが、美少女ゲーム作品特有の叙情性・叙事性・叙景性を考える上では決定的に欠けていると言いたいのだ。一時盛り上がった空気系などの議論がほとんどの場合皮相的であったのは、物語内容やキャラクター、その言葉や内面といった極度に可視的なものにしか目を向けないという倒錯的な嗜好が、貧しい思考の制限があったからではないだろうか。幾度も確認してきたが、キャラクターは常にどこかの場所にあり、場所は常に存在者の意識を規定する。それは端的に「居心地」という言葉によって表されることすらあるだろう。

キャラクターと場所の結びつきが認められるのは、例えば『センチメンタルグラフティ』のような明らかに土地とキャラクターが密接しているようなもの以外でも勿論存在し(場所という観点から見れば『センチメンタルグラフティ』はむしろ美少女ゲームとしては異端である)、美少女ゲームの教科書的な位置を獲得している『Kanon』においては、舞と夜の学校、真琴と丘、栞と中庭、あゆと大木、名雪と学校および水瀬家、といったような確固たる結びつきが挙げられる。ここで注記すべき点は大きく二つあり、一つはそれら場所とキャラクターの接続が製作者らによる単なる作劇上の短絡であろうと、プレイヤーが受け取った抒情を解明する上でそのような製作者らの意図は常に働くとは限らぬということと(もしくはDreyfusの言うように、そのような製作者のunthoughtによって/にもかかわらず実現された作品という一つの現実を読者は精力的に読み取るべきなのだ、と言い換えても良い)、もう一つは、あらゆる特異性は遠近法的に求められ、遠近法の消失点として定められる普通という一点が必ず存在し、普通というものはただ反復によってある規則の存在を自明かつほとんど気にならないものとして変化させていく結果に生れるものだということだ。物語進行におけるある点時間の特異性は背景画面の変化によって瞬時に体感できうるし(舞の舞踏会イベントを想起)、また背景の変化は随時音楽の変化すら誘発するものとなる。このような解りやすさは、普通という日常の生成によって初めて齎されたものだと考えねばならない。そして特定の場所で起こる、その場所と対応するキャラとの遭遇やともに過ごす時間は、その場所に徐々に記憶を降り積もらせ、場所は徐々にその特権性を獲得するに至る。つまり、ここでは物語が場所や時間を規定するのではなく、このような場所と時間との綿密なまでの共同作業が物語を作り上げていると言えるのである。もちろん、『To Heart2』のようなシステムに見る、行き先選択による物語進行も、場所とキャラクターの分かちがたい結びつきを示唆していることも間違いない。

これらのシステムによって反復される日常という風景は、そもそもがノベルゲームの制約によって形作られたものであることは指摘せずとも解るだろうが、一応書いておくと、女の子との仲をほとんど一から深めていかねばならぬという、ギャルゲー特有の作劇上の必然性としての恋愛過程において、女の子と話すという快楽のルーティンワークをこなすことで降り積もってきた結果誕生した日常である(林氏の2000年12月なども参照)。また、立ち絵と背景という要素で構成されるノベルゲームは、その両者の数の制限という形から必然的に表現方法が制約され、幾度も同じ画面が繰り返されることは東浩紀のデータベース論を用いずとも明らかではある。しかし我々は、その繰り返しを貧しさとは捉えず、豊かさとして捉えることによって、絵とテクストと音楽とが融合し実現した美少女ゲームというジャンルの醸す独特の抒情の解読を開始することができる(類似の指摘が東浩紀氏によってなされている)。

しかしここで一つ注意をしておけば、ここで行っていることは、疏水太郎氏の『CLANNAD』における見解、「街にはお話を抱えている人がたくさんいて,僕らはここでその話を一つ一つもらさずに聞いて回ることになる.」、もしくはthen-d氏による『CLANNAD』の場所とキャラクターとの結びつきの指摘、といったようなものと、同じ種類の話では全くない。これらの指摘は卓見ではあるもののあくまで物語論的地平からの発言である以上、私がこれまで言明してきたことはそうした物語を規定するシステムレベルの話であり、そしてそうした物語がシステム的要請によって導かれ、そのシステム的要請によって物語の強度を改めて照射しようとするのが今回の論なのである。美少女ゲームにおける特権的な場所の出現は、その美少女ゲームのシステムによって担保される。

RPGでも生活の場所が強調される場合もあるが、美少女ゲームではほとんど不可避的に場所の強調がなされる。むしろ大袈裟に言えば、RPGにおいては物語論的な運動の要求により場所の移動がほとんど不可避であったが、美少女ゲームは場所の反復が不可避であったのだ。無論、RPGにも約束の場所なる概念が規定されるときもあるが(e.g. 『幻想水滸伝 II』(1998)における主人公とジョウイの約束の場所)、美少女ゲームとの差異として求められるべきは、その反復の回数であることは自明であろう(e.g. 『幻想水滸伝 II』における約束の場所の登場は物語の最初と最後のみである)。同様に、漫画のような美少女ゲームと比較されやすいメディアにおいてにもこのような差異は簡単に見つかり、それは例えば漫画では極端なまでに同じ背景が少なく、あえて空白の白色を背景に塗りたくったところで、キャラクターの顔の位置がコマ内部を軽やかに移動することでその白色をまったく別の表情に魅せる様などに求められるはずだ。美少女ゲームは逆に、その背景と絵、そして日常の固定性によって、例えば茜@ONEを思い出すプレイヤーは大概雨と草むらの中にいる茜を想起するように、場所と記憶という類稀な抒情を獲得するに至ったのだ。ゲーム性とは、単なるゲームの自由度の問題ではなく、かのようなゲームシステム上の制約によって齎される、画面の表情からの不断なる囁き、そして不断なるが故に気づかれにくい必死の囁きに内在すると考えてもよかろう。

今回はここまで改稿したが、次回の改稿の際には、西田=上田の場所論と、DerridaのKhoraについて言及し、場所という概念の拡張を、議論の巻き起こる場所などと絡めながら試みる予定である。

また、どうにも散漫になってしまったが、我々はここにおいて、美少女ゲームにおけるゲームシステムが要求した場所の発見を行う端緒を得ることができたと思われる。これは林氏の仕事によるところが多く、最後に謝辞を述べておく。そして、美少女ゲームにおける日常の発見とともに、場所という概念は美少女ゲームというジャンルにとって注目すべき一つの事態と考えると書き記し、筆をおくことにする。

tt2007/02/01 16:15北へ行こうランララン。

rulia046rulia0462007/02/01 17:31>RPGにおいては物語論的な運動の要求により場所の移動が不可避
 不可避は過言。

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/02/02 00:07男ならかけろせいしをかけろ

crow_henmicrow_henmi2007/02/02 04:02cogniさん愛されてるなあ。

cognicogni2007/02/02 13:22>rulia046さん
▼そこは私も一旦躊躇したところなのですが、それでも断言口調で書いたのは、場所の移動を伴わないRPGが具体的に思いつかなかったからでした。
▼原理的にはもちろん、移動を伴わないRPGが製作可能なことは了解しています。しかし事実的にそういうゲームがないのだとすれば(あったら教えてください)、RPGにもまた何らかの制約があり、PCが移動しなければならないような環境がRPGには必然的に(それこそ美少女ゲームにおけるキャラクターと場所の関係が必然的に強くなるように)構築されているのではないかと考え、あえて「不可避である」と暫定的な判断を下しました。
▼例えば一つ、RPGの制約にかかわると思われる話をしますと、RPGの代表ともいえる『ドラゴンクエスト』シリーズは土地によって出現するモンスターが違い、その強さが違うという特徴があると思います。この場所による敵モンスターの強さの変化は作劇上要請されたものではないかと。なぜなら、同じ場所に強さの混合するモンスターを登場させることは、PCの(約束された→)冒険と成長を阻害するもので、一言で言えばゲームバランスを破壊するものだから。こうしてPCは、より強い敵と戦わざるをえないために、場所の移動を余儀なくされる、と。
▼勿論、『FINAL FANTASY 8』のように、PCのレベルと敵モンスターとのレベルが連動するシステムを構築することで、強いモンスターと場所との関連性を廃棄することもできますが、そこでも場所の移動が物語的な必然として導入されているのが興味深いところです。実際、敵モンスターの種類は土地ごとに限定されているため、新たな魔法などをドローするためには土地を移動せねばならないという構造がFF8にはあります。また、この土地ごとのモンスターの限定というのは、直感的な生態学的にも妥当になり、プレイヤーの世界観構築を手伝うものとして導入されているものかと思われます。
▼そして何より、RPGという言葉で通常指示されるところのRPGは、世界の運命などという広大な物語を背負うことが慣習となっているように感じており、そうした物語の規模はPCに場所の移動をせざるをえない構造を作り出していると考えます。
▼つまり、このように『新しさ』『より規模の大きな物語』を常に追い求めざるを得ないRPG特有の構造によって、RPGは原理的にはともかくほとんど必然的に場所の移動が不可避とされているのではないかなと、臆断ではありますが、言い切りました。もちろん、ここでは原理的にはともかく、というのが厄介なもので、美少女ゲームだって背景や立ち絵の枚数を大量に用意すれば、場所の移動を繰り返す表現が<原理的には>できるわけですが、実際そのような試みがなされていることはとんと聴きません。だからRPGのそうした制約もシステム上の制約として鑑みた場合、RPGにおける場所の移動は不可避ではないかなと。
▼もちろん、『ガンパレードマーチ』はそれに反する例として挙げられると思います。しかし、GPMをRPGと呼ぶのは少し躊躇するところで、少しジャンルが違うのではないかと思います。例えばGPMには、フィールドでの敵エンカウントがないという特徴もありますし、そういう点を挙げ連ねていけばGPMが普通のRPGとは少し違うのではないかと論証できると思います。むしろGPMなどのことを考える場合は、RPGというジャンルがどの程度のゲームを包摂するのか、という議論になるでしょう。もちろん、『ロールプレイング』という字義通り受け取れば、GPMでもRPGにはなりえますが、しかし上記エントリで挙げているRPGは、RPGという言葉で通常思い出されるビデオゲームのRPGであって、『RP』の精密な定義から発するものではありません。同様にして、TRPGからの反論も棄却できるのではないかと考えます。ただ、私はTRPGの経験も知識も一切ないものでして、こちらのほうは自信がありません。
▼そんな風な理由で、「RPGに場所の移動は不可避だ」と書いたのでした。少し言葉足らずだったこと、お詫び申し上げます。

cognicogni2007/02/02 13:41コメント返しにくいコメントが二件もついて、その上「愛されている」というコメントまで付けられたら、私の返信には『空気を読む』という高度なコミュニケーション能力が要求されているような気がしてしまって、内心びくびくなのですが返信してみます。短い文章は鬼門ですねー。

さて、エントリーの中の間違いの指摘を暗示するものか、それとも切れ味が足りないとお叱りを受けているのか、ものすごく遠まわしにdisられているかもしれないという悩みを打ち明けて神経過敏な様子を見せ付けるパフォーマンスを行うべきか、上記コメントによりブログと言う場所性を開示しエントリーの中のテクストはいつでもコメント欄に開かれており他人ですらそのテクストの印象を(今回の場合は柔らかいものに)改変・改竄できるという様を示していると解釈すべきか、「今こそ馴れ合いのとき!」と感じ入りこちらも文脈を無視した「俺は北で射精した」とコメントを付けるべきか、それとも空気系の議論を結びつけたが故に空気の読めなさを主張するようにコメントを全力でスルーするのか、いや空気の読めなさという観点から考えれば普通に「すみません、意味解りません」という素の返答が最も適したものだと思われるものの、日々真人間を自称し研鑽を積んでいる私めは、あらゆるコノテーションを無視して与えられた短い文章を独自にしかし誠実に解釈するという手段こそが真っ当な理性的人間的行為だと判断し、そうすることにします。

>tさん
まず初めに思ったのは「『北へ』ってゲームを忘れてませんか」ということだったのですが、それなら多分直接的に言ってくださると思うので除外、次は「北へ行け」という命令文と解釈しましたが、実際私が住んでいる地方より北に行ったら大変やばいというか北過ぎて寒すぎて人が住んでいない地域に踏み込んでしまうことになるので、それは恐らく無いだろうと望み却下いたしました。さすがに気温がマイナス20度以下になったら冷たいとかじゃなくて痛いんですよ空気が。そして次に泛かんだのが「お前のエントリーは犯罪的につまらないから網走刑務所に行け」という、死刑を宣告するような極寒の地方への左遷命令であって、しかしやはりtさんのこれまでのコメントと照らし合わせれば恐らく違うのだろうなと。
ならば「北へ行こう」のテクストが示唆するものは、Kanonにおいて街へ到着した最初のシーンを忘れてはならないという注意であって、つまりKanonという物語が進行する場所としての『北』を上記エントリは記述していないということに対するご不満ですね。なるほど、それは一理ありますし、確かに忘れていた部分でありました。しかしここで私を驚かせたのは、tさんのコメント「ランララン」の言葉の持つ凝縮性でもあります。この「ランララン」は、Kanonにおける寒さの描写が物語の初期においては多くあったものの、物語が進むにつれその寒さが日常へと回収していく様を、寒さへの馴れの描写を挿入することではなく、寒さの描写の減少(、、)によって示されているということを伝えるために挿入された言葉であって、「ランララン」というさりげないしかし確実に陽気な一言によって、この発話者が明らかに寒さを忘れていることを暗示し、そうすることで「寒さの描写の減少」というほとんど透過的なテクスト上の出来事を私に伝えたかったのではないかなと、そう、感じました。痛み入ります。半分嘘です。

>K_NATSUBAさん
「貴様のエントリーは自慰に過ぎない、精進せよ(精子だけに!)」という風に受け取りましたが、ここで重大発言をしておきますと、わたくしマリラという仇名を授けられたからには名目上女性性を名乗っております。精子出ません。しかしそのような判断をした後でも解釈の余地が大いに残るのは当然で、例えばわたくしめがふたなりという選択肢は残存しているもののしょれはらめえぇぇぇということでみさくら的に却下いたしました後、ここでの「せいし」「かけろ」が平仮名で書かれているという点に注目すべきであるのは間違いなく、「せいし」=「精子」=「生死」を必然的に想起させる様は見事な手つきであると思います。つまり、私のエントリーに対する熱情が「生死を賭ける」までに達していないことを指摘され、かつ、美少女ゲームに関するエントリーにふさわしいものとならしめた上で、上記のDerridaへのリスペクトすら感じさせる言葉の不思議を魅せている部分が感動的でした。

>crow_henmiさん
これまでのコメントを統括されるように出てきた「愛されてるなあ」という、感慨すら含まれる言葉によって、これまでのコメントが一気に優しい色を帯びることになるというアクロバットを決めた一言、と表では受け取られながらも、しかしその実、裏に潜む難題を突きつけるような鋭さが見え隠れするのは恐らく、獅子が子供を千尋の谷に突き落とすがごとく、私により一層の鍛錬を要求するものであると感じ取りました。言い換えれば「そこで纏められちゃったら私は何を返信すればいいのだろう」というコメントのしにくさの更なる助長を必然的に生む戦略的な一言がそこには描かれたのであり、生死/精子すら賭けざる/掛けざる/翔けざるを得ない高度なコミュニケーションが必要になるこのブログコメント欄において、「愛されてるなあ」という言葉がその実「俺もお前を愛している」なるrecursiveな意味を持つことも少し考えれば理解できました。しかしここで想起すべきはどこかの801漫画の抜粋画像か何かで見た、「俺はお前を愛している! お前も俺を愛している!」という素晴らしく残虐非道なジャイアニズムであり、そこで「愛する」という他人から発せられた動詞はやがて自身の発する動詞として獲得されることになり、たった一言の「愛されてるなあ」という言葉において、読んだ者すべてが「自分もまた誰かを愛さねばならないのか…?」という疑問を持たせるに十分な含蓄を含ませるという、極度に高い技術を発揮されるコメントと受け取りました。

疲れた。

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/02/02 13:58CRPGの場所移動ってのは時間経過のゲーム的表現なんじゃないんでしたっけ。
戦闘回数に応じて敵の強さが上がっていくロマサガのシステムと考え合わせますと。

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/02/02 14:04「北へ行こうランララン」は『北へWhite Illumination』のOP曲「Four Seasons」の歌詞です。同様に「男ならかけろせいしをかけろ」は『絶滅キング 世紀末淫乱狂想曲』のイメージソング水子一郎「せいしをかけろ」の歌詞です、とだけ。

cognicogni2007/02/02 14:21>CRPGの場所移動ってのは時間経過のゲーム的表現
え、そんなことどこで。しかし個人的には納得の行く説明だと思います。下段のコメントともども、ご指摘どうもありがとうございます。
でも下段については、思いっきり普通に返されたらとてもとても恥ずかしくなりました。すみません、テスト近いのでテンション高いんです…。

cognicogni2007/02/02 14:25いや、というか、引用元よりも、どんな意図でそのような歌詞を書いたのかという重大なところが抜けているにもかかわらず「、とだけ」で終わらせてしまっていることに突っ込むべきだったのでしょうか。…空気読むの難しいです。

rulia046rulia0462007/02/02 15:59 例を挙げるなら『どきどきポヤッチオ』とかかな。定住型(日常型)RPG。やったことないけど『どうぶつの森』とか?
 あと、まあ、適当にダンジョン潜って経験値稼いでダンジョン城下町に戻って来たりする類のものと、その変形とか。固定した安全地帯としての自室があるような。物語内の地理的移動に対応して、家として機能する乗り物とか。
『どきどきポヤッチオ』の「ギャルゲー性」みたいなものは指摘されてるけど、それをもって非RPG性を言い出したらトートロジーつーか、定義の問題で、それならそれで定義して論じるべきだろう。とか。

rulia046rulia0462007/02/02 16:20 あと、まあ、蛇足。「場所の不可逆的な移動」な。これが物語(ゲーム)内時間に対応してるのは指摘の通り。可逆的移動に関しては、まあまったく場所移動のないゲーム(物語)もありうるけど、少数派だろう。
 更に蛇足。例えばhttp://stage-nana.sakura.ne.jp/とか。美少女ゲームとかの範疇でロードムービー風の物語をするコトも可能。ここにおいて、自動車は「家」としての機能も与えられている。とか。

rulia046rulia0462007/02/02 17:58 更に蛇足。だから『どきどきポヤッチオ』では内部的に日付と時間進行が設定されてて。知らないけど『ぼくの夏休み』とかも似たような構造になってるのかなあ?
 ある「郷愁」のような少年の日の夏、とかな「特別な時間と場所」を遡及的に発生させる仕組み。
 ところで。漫画表現においては、そのような反復効果を劇的に行う為に回想シーンに(多くの場合コマ枠を活かして)過去の絵のコピーをいっぱい貼るって手法でフラッシュバックさせる。不自然きわまりない表現なんだけど、効く。これの応用が件のシャーリーがギアスで記憶を封じられる時に画面に出た写真な。

tt2007/02/02 18:36どこからツッコミいれたものか途方に暮れて歌ってみただけなのであまりふかよみなさらぬよう。えーと、常にあるものだったらわざわざ考えなくていいじゃん、とか。

crow_henmicrow_henmi2007/02/02 20:54どこの『ポスト構造主義による「一杯のかけそば」分析』ですかと思わず口走ってしまったのですが。まあそんなツッコミはどうでもいいとして。
 どう見ても脱構築しすぎなんですが実は案外的を得ているのが怖いです。愛されてるという表現ひとつにそんな意味を込めたり読み取ったりできるぼくらって相性最高じゃないですか? 結婚しましょう!(何

cognicogni2007/02/03 00:00>ruila046さん
>『どきどきポヤッチオ』の「ギャルゲー性」みたいなものは指摘されてるけど、それをもって非RPG性を言い出したらトートロジーつーか、定義の問題で、それならそれで定義して論じるべきだろう。とか

定義してから論じるべきだった、というのはその通りで、脇が甘かったと反省します。

『どきどきポヤッチオ』はどんなゲームかすらも知りませんが、『どうぶつの森』は妹がプレイしているのを眺めていたりしました。それと『トルネコ』シリーズとかでしょうか。ああしたゲームでは、安全地帯として家や部屋が何度も出てくるのは仰るとおりだと思います。うーん、そういうのを考えると「RPGで場所の移動が不可避」というよりも、「RPGですら場所と記憶の結びつきが認められる」として、ゲーム全般に射程を広げて、繰り返し訪れる場所の特別性が云々などと述べるべきだったのか、いや、しかし…。ちょっと悩んでみます。

>美少女ゲームとかの範疇でロードムービー風の物語をするコトも可能。
確かに可能かと。そういえば『ナルキッソス』は確か立ち絵とかなくて、車の中の風景が何度も出てきていた覚えが。その辺を考慮すると、どうすればいのかなぁ、と、ちょっとまとまりません。

>ある「郷愁」のような少年の日の夏、とかな「特別な時間と場所」を遡及的に発生させる仕組み。
あーなるほど、それを考えるのは面白そうですね。「内部的に日付と時間進行」であれば、ギャルゲーもまた独特の時間管理システムを持っていることが、アシュタサポテで言及されていたような。また、時間の不可逆性を強制セーブシステムによって構築することで、そのプレイの体験が…とかも(最近だと『IDOL M@STER』とか?)面白そうなんですが。誰かやってないかなぁ、と。
ちょっと文脈が違いますが、西谷修『戦争論』を引用しながら、ふるさとについて述べる文章をgenesisさんのところを通して最近読みました。面白かったです。http://d.hatena.ne.jp/poppokobato/20061112/p1。

>漫画表現においては、そのような反復効果を劇的に行う為に回想シーンに(多くの場合コマ枠を活かして)過去の絵のコピーをいっぱい貼るって手法
そういう風に手法化されているんですか。知らなかったです。ご教示ありがとうございます。


>tさん
やはりアシュタサポテの背中は遠いですー。突っ込まれない文章書けたらいいんですけどねぇ。
「常にあるもの」やゲームシステムが美少女ゲーム特有の抒情の源であるとすれば、という話の流れなので、考えるべきじゃないかなと。

>crow_henmiさん
生涯独身と決めておりますので…(素で)。ちなみにあんなの(私のコメント)脱構築じゃないです。手際が粗雑過ぎます。そういえば最近、デリダの手際は真似できないなー、とか書いたことあります。

tt2007/02/03 01:25「常にある」んだったら、ドラマでも絵画でも彫刻でも白紙のノートでも文具カタログでもそこにあるわけで、そこから「美少女ゲーム特有の抒情」を導き出すのは時間の無駄。もしかしたら有るかもしれないエーテルの働きかけの仮想数値を数式に一々書き込まれても。

tt2007/02/03 01:38あと、通常オールドファンの使用する「美少女ゲーム」て括りだと、RPGも戦術シミュレーションも含まれる。そろそろ自分の使用する「美少女ゲーム」て言葉について範囲を特定すべきでは。

rulia046rulia0462007/02/03 02:17「美少女ゲーム特有の抒情」とすっと過言だ、と思うけど。逆説的ではあるにしろ、特筆すべき特徴のヒトツとして考察対象にすんのは妥当性高いんじゃないの? >場所性がどーの。
 もっとも。「固定アングル、固定画面の反復が逆に良い効果になってるよね」「うん、そうだね。作り手も自覚的に活かしてるね」で済ませて悪い理由も特にはないと個人的には思うけど。あとは、まあ、個々の作品毎の詳細を分析かポエム書くかじゃないのかなあ。

tt2007/02/03 04:06「場所」てなってるけど「空間」「土地」「背景」「間」…て言葉を割り振ってったら案外とあっさりバラけそう、という言い方でも可。で、バラした後でまとまらず比較できないで終わりそう。場所て言葉で一つに纏め上げるには、現時点、ちと張力に欠けます。

tt2007/02/03 04:21そろそろ言い捨て卑怯て感じですかね。えーと、里村茜 in 雨あんど空地@ONE、日常て言葉を使う気にはならない。そこにあるのは草むらに立つ少女ていう一枚の絵で、絵から抜け出して動き出す少女として茜は存在しはじめる。茜はだから、基本的に非日常の少女なんだわ。麻枝准には絵の中の少女が動き出すて発想はない、当然。毎度のことだけど、麻枝准と久弥直樹をゴッチャにしすぎで、都合よく抜き出しすぎ。久弥嫌いなんだから、茜とか使わないほうがいいんじゃないかしら。

tt2007/02/03 05:13茜の話の前提ね。立ち絵の前史には、「挿絵としての立ち絵」ていうのがある。この「挿絵としての」ていうのは、立ち絵は基本的には挿絵としての機能を喪失してるんだけども、条件を操作することで漸近的に挿絵として機能する。あー説明めんどくさいな。瑠璃子さんの逆パターンつって…わかんねえよな。ノベルの立ち絵てのは、基本的にはリーフビジュアルノベルで挿絵と立ち絵の中間的な形で与えられた立ち絵が、瑠璃子さんの夕焼けのCGで立ち絵へと進化を遂げる、てのがあってね。で、その立ち絵を挿絵へと一瞬立ち戻らせたのが茜やみさき先輩の後姿になるんだけど、ノベルゲームのキャラクターデザインの三次元化、背景の細密化・美麗化が進行していくことで、立ち絵は挿絵から完全に分離してくのね。ただ、タイプムーンの武内崇が頑張ってるおかげで「Fate」は立ち絵から挿絵に近しいところに在るんだけど。

cognicogni2007/02/03 23:20はてなメンテナンスのため返信が遅れました。

>tさん
>「常にある」んだったら、ドラマでも絵画でも彫刻でも白紙のノートでも文具カタログでもそこにあるわけで、そこから「美少女ゲーム特有の抒情」を導き出すのは時間の無駄。
ここは多分、「常にある」という修飾語のかかる言葉のすれ違いではないかなと。「常にある」がかかる対象は、美少女ゲーム(仮)のシステムによって要求される「場所」や「背景」、というのを主に意図していたわけで、「常にあるもの」全般の「存在」(それこそ存在論で扱われるような存在)を対象にしているわけではありません。そして余り言及してはいませんが、背景だけでなく音楽(BGM;ただし無音も効果として含む)も含みたいな、と考えてました。絵画ならばキャンバスの質感を考えたりするようなものとして、美少女ゲームの場所というものを考えたいな、と。

>そろそろ自分の使用する「美少女ゲーム」て言葉について範囲を特定すべきでは。
仰るとおりだと思います。RPGの定義ともども、完全にこちらの落ち度でした。すみません。
とりあえず今のところの意見を表明すれば、上にも書いているように、『Kanon』を美少女ゲームの教科書的な存在として捉えております。理由は、ヤマウチさんのエロゲーレビューのコーナートップの『Kanon』一言感想、「やっぱこれはギャルゲーの雛型だと(でしかないと)思う。」という言葉を着想にしたのと、また50本程度の体験版をやってきた限りでは、『Kanon』は美少女ゲームの雛形として通用するシステムを備えていると感じたからです。シナリオ、選択肢システム、立ち絵、背景、音楽、などなどを考えると『Kanon』は可もなく不可もなく、スタンダードであろうと。だから私の用いる「美少女ゲーム」という言葉の範囲を限定するとしたら、基本は『Kanon』準拠の、ノベルみたいなゲーム、ということになりますが…このあたりはもう少しきちんと考えたほうがよさそうです。ノベルゲームという言葉を使ったほうがいいのかなぁ。

>場所て言葉で一つに纏め上げるには、現時点、ちと張力に欠けます。
ご指摘最もなところで。私の上述コメントの通り、音楽と立ち絵と背景まで手を伸ばしてしまったので、場所という言葉に張力が欠けるかな、と。でもtさんが仰るとおり分解してしまったら違う、例えば背景だけだと何かを逃してしまう、というのは確かなところだと思います。上記エントリのように、キャラと背景が同期していて、また背景と音楽が同期していることも多く見られるから、あえて場所という非常に広い言葉を林さんから引用して利用していたのですが…。うーん…。

>茜はだから、基本的に非日常の少女なんだわ。
これには白旗です。tさんの解釈の方が筋が通っていると思われます。確かに久弥氏の手つきは、キャラ個人よりも絵全体を感じさせるものかなと。

>毎度のことだけど、麻枝准と久弥直樹をゴッチャにしすぎで、都合よく抜き出しすぎ。
いや、うーん、そうなんですけどね。作品単位で考えるべきなのか作家単位で考えるべきなのか、未だ迷ってまして…。ゲームシステムを鑑みる点では、作家性に縛られずどちらを参照しても良いと思いますが、そういう意見があるのなら麻枝氏のみに絞ってみます。

>久弥嫌いなんだから、茜とか使わないほうがいいんじゃないかしら。
えーと細かいところですが、私、久弥氏嫌いって言ったことありましたっけ。ちょっとはてなDのログ検索しても出てこなかったっす。Kanon再プレイ時に「『残光』の使い方がなってなーい!」「氏のギャグはあわないようになってしまった」と文句を言った覚えと、涼元氏嫌いと言った覚えはあるんですが。や、久弥氏のキャラでは香里とか好きですし、Kanon再プレイ時にも言ったように(Kanonだけを取り出してみれば)「テクスト自体は久弥氏のほうが好み」なので。

>「挿絵としての立ち絵」
ぐあ、『雫』の例は正直なところちょっと解らないです…。いまはとりあえず、『雫』に挿絵(はてなキーワード:新聞・雑誌・書籍などで、文章の理解を助けたり、興味をもたせたりするために入れる絵)みたいなのがあった、ということを理解しておきます。タイプムーンの立ち絵が挿絵に近接しているというのは、立ち絵の量の多さによって、場面ごとに適当な立ち絵を選べる(可能性がより高い)、ということになるのでしょうか。


>rulia046さん
>もっとも。「固定アングル、固定画面の反復が逆に良い効果になってるよね」「うん、そうだね。作り手も自覚的に活かしてるね」で済ませて悪い理由も特にはないと個人的には思うけど。
まぁ、そうなんですけれど、どうして固定画面の反復が効果を生むのか、などに考えに射程を広げたいので(脆い論だとは思いますが)、長文になってます。だから、上記エントリーで美少女ゲームという言葉が出てくるのは一番最初と、そして少し離れて後半になっており、その間に一般的な概念を記述して、できるだけ反復が持つ効果などの説明を試みようとしていました。

tt2007/02/04 00:28>タイプムーン
元々の絵がちょっと系統違いだったのさ。

cognicogni2007/02/04 14:36そこで絵柄を持ってくるのですかー。武内崇が「頑張ってる」と書いてらしたから、量のほうかと思ってました…。

rulia046rulia0462007/02/04 14:49 あー。
>立ち絵が挿絵に近接しているというのは、立ち絵の量の多さによって、場面ごとに適当な立ち絵を選べる(可能性がより高い)、ということになるのでしょうか。
 そーゆーのはむしろ、アニメや漫画への接近、としてとらえた方が良いだろうね。立ち絵/挿絵軸はまた別。
 えーと。例えば前述の『ナルキッソス』は(キャラクターの)立ち絵を廃して挿絵(製作者はイメージイラストと称している)でやってる。とかさ。

cognicogni2007/02/04 14:56ああ、なるほど、そういう意味で挿絵という言葉が使われていたんですか。『ナルキッソス』はプレイしてたので、理解しやすかったです。
(『雫』未プレイでエロゲ語るほうがダメなんだろうなぁ…と反省です。)

rulia046rulia0462007/02/04 14:58 あ。単純に「絵柄」と思ってはいけないよ>立ち絵/挿絵。

rulia046rulia0462007/02/04 15:05 むー。ウチの地方では「一枚絵」っつーんだけどね>「挿絵」。

cognicogni2007/02/04 15:18用語の混乱の元がようやく。「挿絵」と「一枚絵」って同じものでいいんですか。違うものだと思って混乱していました。
(うちの地方でも「一枚絵」という言葉を使うため、「一枚絵」だとCGギャラリーとかで見られるものだと理解してたんですが、あえて「挿絵」を使っているということは、「挿絵」にはもっと違う意味を持たせたものとして理解しておりました。)

上側のコメントについて。「絵柄」だけじゃないとすれば、「塗り」とか…?うーん、塗りは確か武内氏じゃなかったような…、いやそれよりも「絵の系統」に関する他のファクターを思いつかないし、なんかちょっとまとまらないので、考え直してきます。

rulia046rulia0462007/02/04 15:45 あ。すまん。混乱させたか。不用意に方言書いた俺が悪かった。
 えーと。「イベントCG」とか「スチル」っていうのかなあ? エロゲ業界的には。「CGギャラリーとかで見られるもの」な。と、ゆーのとは別>「一枚絵」。
 う。これ、説明しにくいなあ。
 えーと「「挿絵」にはもっと違う意味を持たせたものとして理解しておりました。」は合ってる、と思う。

rulia046rulia0462007/02/04 16:09 あー。言葉足らずとゆーか、断片的記述になるけど。
 立ち絵/挿絵軸で見ると、「挿絵」側に、ある種の過剰性があってですね。それは「一枚絵」としての魅力でもあるんだけど、反復すっとウザイし、つーか適合場面が制限される。雑な表現でアレだが。
 適合場面の制限に対する対処としては二つの方向性があって、それぞれ『ナルキッソス』『Fate』にとりあえず代表させてもイイかな。この方向性の違いは尺に依存してると推測できる。
「絵柄」や「塗り」に依存してるわけじゃない(無関係ではないが)のは『ナルキッソス』『Fate』並べればわかるだろう。
 とかで、どうですか?

rulia046rulia0462007/02/04 17:00 うーん。が。立ち絵/挿絵軸なんて概念は、まあtさんの見識と鋭敏さに感心しつつ、ココロの片隅にメモして一旦忘れてイイと思うよ。
 でさ。反復やらなんやら日常/非日常のハナシに関してはhttp://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070126/p1から後退しちゃってるし。や、足場固めの作業だとは思うけど。むー。

cognicogni2007/02/05 00:34>「絵柄」や「塗り」に依存してるわけじゃない(無関係ではないが)のは『ナルキッソス』『Fate』並べればわかるだろう。
ああ、なるほど、なんとか理解の糸口がつかめたような…。

ただやはり十全に理解できたとは言えそうにないので、お言葉に甘えて、tさんの鋭い見識に感心しつつ、少し時間をかけながら考えてみます。

「反復やらなんやら日常/非日常のハナシ」に関しては、まあ、うーん、できるだけ先人の論を取り入れて、「記憶と場所」という風に、日常と場所の関係を考慮に入れたいなー、と思っていたのですが、どうにも甘さが目立つ立論になってしまい。勉強しなおしてきます。

tt2007/02/05 02:48へこまれても。むしろ俺の使う語法は世界の誰よりも正しい、ぐらいのノリで反論されたほうが面白いのに。カントの文章はカント本人より俺のほうが読めてる、とか。言語? 存在? 俺の言い方で統一されるべきだね、とか。そーゆー場所なんだから。あ、場所て使っちゃった。
場所で。舞台で上演される演目を題材に考えてみる。場所性が要求される度合いで比較すると、物語劇は場面ごと場所がある。落語みたいな話芸になると移動は少なめになるけど場所は設定される。漫才となってくると、二人がどこで話してるか気にされない率が高くなってくる。イマドキの一発芸の芸人になってくるともう「今、舞台の上に立って客に向かって話し掛けてくる」てことで、舞台以外の場所が想定されることは殆どないと言っていいだろう。
さて、浩平と長森の二人の会話は夫婦漫才と呼んでも誰も文句を言わないと思うのだが。この夫婦漫才と上記の本当の漫才との間には、どのような差があるのだろうか。

sirouto2sirouto22007/02/05 03:06http://rosebud.g.hatena.ne.jp/sirouto2/20070205/p1
はじめまして。しばらく更新をお休みされるということで、すれ違いになるかもしれませんが、cogniさんの美少女ゲームの場所論を拝見して、参考にしながら、まだほんのアイディアだけですが、「場所の動的生成」ということを考えました。場所移動型ADVは地図が出るので、一見して地理的空間のように見えますが、実はWebのハイパーテキストのように、多形倒錯的な欲動によって、断片が浮遊している無意識的な場になっているのではないか、と思いました。そこからノベルゲームの場所を考えていく予定です。拙い文章ですが、もし何か感想がありましたら、よろしければお聞かせください。それでは。

tt2007/02/05 03:22あと立ち絵と挿絵の実例。
http://kajipon.sakura.ne.jp/jojo.htm
月姫ではアルクェイドが、Fateでは遠坂凛がレベル1(4巻)の表紙のポーズと同じポーズをとっていることに注意。

cognicogni2007/02/05 14:12
>tさん
へこんでませんよー。へこんだのは2/4のエントリにリンクを張った『「批判・批評」について』という文章を、学部生が書いたものだと勘違いして、「私は要らない子」状態になったからです。tさんとのやり取りでへこんだんじゃないです。

立ち絵/挿絵については、反論しようにも、相手の言ってることを理解してからにするべきだと思っているので、とりあえず理解に努めようとしています。えーと、それで、今回の例だと…キャラクターの身体の動き?瞳とか誰かがいるとかを示す立ち絵の、余剰としての…。でもそれじゃ「アニメや漫画への接近」とかになるような。ナルキッソスはキャラの移動・行動を極力抑えて、挿絵的にとか。ああー、やっぱりまだ『挿絵』が解りません。すみません、理解力が乏しく。

>さて、浩平と長森の二人の会話は夫婦漫才と呼んでも誰も文句を言わないと思うのだが。この夫婦漫才と上記の本当の漫才との間には、どのような差があるのだろうか。

質問の意味が解るようで解らない状態ですが、じゃあとりあえず、浩平と長森は恐らく舞台の上で『夫婦漫才』はできないだろうが、学校への登校途中や学校校舎内なら『夫婦漫才』ができる、という差はいかがですか。いや、なんか違うな…。架空の物語を語っている人が、通常現実世界と呼ばれる世界のうちへ物理的に存在し、彼らの語る物語に場所が観念的に必要とされる状態(漫才)と、架空の物語にいるキャラの存在がほぼ完全に観念的に確保されており、彼らが架空のある場所を占めている状態(浩平長森)、というのを比較すると…。あー、いや、これも少し違う。…えーと、なんか自分の中のどこかで場所という概念が完全に破綻しているので、少し考え直させてください…(泣)

>sirouto2さん
はじめまして。お名前は存じております。2/5のほうにレスポンスを書きますので、ご笑覧いただけると幸いです。

cognicogni2007/02/05 14:40アシュタサポテの過去ログ、全然読めてなかったと今更猛省。

rulia046rulia0462007/02/05 16:05 あー。「浩平と長森の夫婦漫才は彼らの認識しうる観客の存在を必要としない」
 いや。それはイイけど。場所性込みでハレ/ケとかアレな用語持ち込んでもイイけど。
 『ナルキッソス』『Fate』では。非日常化した日常:日常化した非日常みたいな対称性があって。反復性を失った日常、反復性を得た非日常、でもイイが。おそらくそこに由来して『挿絵』としての絵的な方向性も変わる。絵というのはそーゆー差を表現出来る(と、おれは信じている)。
 で。再度述べるけれど。立ち絵/挿絵軸は一旦射程外にした方がイイと思うよ、老婆心ながら。
 つーか。『Kanon』なりをベースに仮説組んで、有効射程はあとで検証。その後に論考拡張、の方がイイと思うなあ。
 一番重要な提言は、やっぱ、
>そろそろ自分の使用する「美少女ゲーム」て言葉について範囲を特定すべきでは。
 これだろう。

cognicogni2007/02/05 22:22>おそらくそこに由来して『挿絵』としての絵的な方向性も変わる。絵というのはそーゆー差を表現出来る(と、おれは信じている)。
あ、これについては大体理解できてきたような。でもとりあえず、お言葉通り、(議論をこちらによこされない限り)挿絵については保留しておこうかなぁ、と。絵は難しいです。漫画論の方にでも尋ねようかしら、とか。

>つーか。『Kanon』なりをベースに仮説組んで、有効射程はあとで検証。その後に論考拡張、の方がイイと思うなあ。
ですねぇ。ちゃんと射程を決めてからのほうがいいですね。美少女ゲームという言葉の定義も改めて対象にして、再考してみます。

hiyokoyahiyokoya2007/02/19 02:34 最近ネット上から引きこもっておりました。おひさしぶりです。
 遅ればせながら読みました。コメント欄も含めて長かった…
 読んでいて、だいぶ昔にドラクエについてヌルヌルと書いた話を思い出しました。手前味噌ですが。
http://www.critiqueofgames.net/talk/005_2.html
http://www.critiqueofgames.net/talk/005_3.html
http://www.critiqueofgames.net/talk/005_4.html
 …これだけ張っておくと、cogniさんはいろいろ邪推をしてしまいそうですんで言っておきますと、僕が昔書いた話はヌルヌルなので、それなりにこういう話をきちんとした道具立てをした上で書こうとしてくれており素晴らしい!というのが第一の感想です。
 で、その上で、「RPGではなかった」というのは、まあ言い過ぎではあるけれど、少し表現を変えて「RPGよりも強力に、常に立ち現れることが美少女ゲームでは前提とされている」とか強弁しておくぐらいでいいのでは。
 あと、定義とかマジメに考え出すと無駄に労力かかるので、議論の対象を指し示すだけなら「80年代中盤以降に日本のコンシューマ市場でFF,DQを中心的に発展を遂げた和製RPGの話」=「すなわち日本で一般的に<RPG>といったときに一番メジャーに想起されるもの」。ギャルゲに関してはさほど詳しくないですが、「90年代中盤以降『雫』『痕』の登場以降、内容的にも/システム的にもこれに影響を受ける形で作られた一群の作品。具体的には……など。具体的には下記のようないくつかの特徴を共通に持つ」とかいうのを、前に東さんがプレゼンで書いていた記憶があります。
 ruliaさんとかぶりますが、デフェンシブに定義の話を考えるのもいいとは思いますが、話の有効射程を広げてみてほしいですね。蛇足でした。ではでは。

cognicogni2007/02/19 13:28お久しぶりです。拙文にコメントありがとうございます。

紹介された文章を拝読しました。なるほど、生活というテーマで過去にやられていたのですか…。自分のリサーチ能力に恥じるとともに、情報提供感謝いたします。確かにかの文章の路線を進めると、上記では排除したRPGを(弱くとも)組み込めそうです。
定義に関してのアドバイスもありがとうございます。その辺りはおいおい自分で定めていくつもりですが、確かに東先生の定義を流用するのも良いと思いました。先生も私と同じような対象しか語っておられないようなので。
拙論については未だ甘い、というか今読み直したら改稿したいところばかりでしたので、時間を見つけて少しずつ変更していきたいと思います。

hiyokoyahiyokoya2007/02/19 16:31先に挙げたプレゼン資料載ってますね。字が小さくて判別がつらいですが
http://image.itmedia.co.jp/games/articles/0608/30/l_ki_cedec10.jpg

cognicogni2007/02/19 23:13ありがとうございます。

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