こぐにと。 cognit. このページをアンテナに追加 RSSフィード

Archive | Profile
これまでの議題 | 被ブクマ
cogniのダイアリ | はてなB
cognitiveあっとinfoseek.jp

<< 2007/02 >>
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28
最近のコメント
こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。
 | 

2007-02-27

[] プレイ日記  プレイ日記 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  プレイ日記 - こぐにと。 cognit.  プレイ日記 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

たぶん途中で挫折するけれど、プレイ日記。

家を避けるという点。家という場所は居心地が悪い。居心地、である。なんか引っかかる。しかしどこかの空間を占めること自体が気分を作り出すことを指摘し、気分と存在者の関係をAngstを中心に説明してDa-seinの話に持っていく、などというのをぱっと想像してみたけれど、なんか違う。多分ここでは「対人距離感とはつまるところ自己に対してのそれである」という三浦雅士の言葉を今木さんの『智代アフター体験版』の感想から孫引きしておき、つまるところ、家族という絶対先行の関係性において破綻が起こるのは、他人との関係が悪くなったときと同時に、自分自身に対する距離感というものが取りにくくなったときであると理解することも可能であると仮定し、事実、父親の暴力によって父親が「朋也くん」と「くん」付けで呼ぶようになったのは、そのような暴力行為に出てしまった自分というものに対して父が感じる自責の念から、自らへの距離感を上手に取られないようになった結果、朋也との対人関係に影響が出てしまったのであり、さらにはその暴力による朋也の怪我(肩が上がらない)というものが完治し得ない性質を持つからこそ、関係の破綻が自然に癒える道もまた閉ざされてしまっているのだ、と解釈することができる、ということを指摘すれば十分なのかもしれません。感想を見る限りでは、対人距離感に関しては『ハヤテのごとく!』のマリアさんとかも参照できそうな。あー、そういえば今日読んだ重松清の『卒業』の中の家族もこんな感じの疎遠さだったなぁ、ということを思い出します。また朋也の苛立ちに関しては、理想の家族というものが観念的に措定されているからこそ、現実の家族に異和を感じてしまうのであって、このCLANNADにおいては、朋也が現実の父親とあるべき父親像とを照らし合わせたときに、「あんたは、俺の親父じゃなかったのか?」という言辞を吐き出してしまうのであり、そこには父のあるべき姿というものに拘る息子の姿が垣間見える。悪く言えば役割の押し付けである。しかしその本当というやつを諦めて成熟に至るなんていうのは嫌いですけれど。

久々にプレイしたら渚に脳内ボイスがついていたので幸せを感じる。世話を焼きたい。甘やかしたい。や、ほら、我々は人を救うことで救われる人種ですやん。「俺は支えられた。こいつによって。」「いや、支えられた、というのは違うような気がする。」「こいつは笑っていただけだから。」「でも、それを見ているだけで、俺は自分を取り戻すことができた。」。むしろこれはただ自分の力を確認したいのだろうか。どうなのだろう(まさに青春の悩みである)。もしくは隣で笑い続けてくれる、不器用だけれどずっと前を向いている、そんな彼女の不屈の精神に憧れ、自らも強くあろうと決意するのだろうか。しかし渚に関しては何か足りない。渚をもっと可愛くさせるにはどうしたらよいのか、ということを考えると、やはり身長が低いということをもっと露見させるべきだという結論へと幼女主義的推論によってたどりつきました。いやー、やっぱり150cm台であれば、その小ささをもっと強調するためにやはり立ち絵で誰かと並ばせないといけませんよね。誰か並んでくれないかなー。ていうか教室にあんなに女子がいるのは間違ってるよなー、などと背景に文句をのたまう。

会話。結構すれ違う。

幻想世界1。生まれることに恐怖する、という感覚が描かれているのは、永遠の世界@ONEと幻想世界とを峻別する一つの指針となり、また、幻想世界と生活世界(then-dさんによる分類)の単純な二項対立を僅かにずらす役目すら可能ではないだろうかと考える。例えば、誕生すること自体が恐怖なのだ、という言説は、多くの人が身に覚えのあるものだ。我々が自らの生誕以前を想像したとき、「望めばいいのだろうか」「この世界に生れることを」「僕はそんなことを望んでいたのだろうか」といったような本文からの引用のことを思わないではいられない。また、首を動かす際に『首』などと大仰に描くことで自らの身体を意識していること、つまり身体に慣れていないことがテキストによって明瞭に示されているのだが、それと同時、以下のような描写が差し込まれることは注目に値する。

彼女は僕の手を引いて、立ち上がらせると、また離れていった。

そして、数歩先で手を叩いた。

僕は彼女に向けて、歩き始める。

そう…僕は歩く練習をしていたのだ。

これは赤ん坊に対する行為であって、幻想世界の初期においては、「幻想世界で生れる」という特異的な一点を扱っていると解釈するよりも、生誕という一般的な概念そのものを扱っていると考えても良いのではないだろうか。この文脈で読み込むならば、幻想世界1で描かれている不安は、存在することへの不安と罪悪感である。もっと焦点を絞ってに言えば、生まれでてからおこなってしまうであろう、未来の、未だ犯されていない罪への罪悪感である。それは端的に、麻枝准によって描かれる語り手によって、次のように表されることが多い。「違う。悲しいんだ」、と。この悲しみは、フロイト的なメランコリーを想起した上で、対象が曖昧でありながらもしかし確実に感じる悲しみであると受け取りうる。つまり、幻想世界では、幻想世界に限らない、人の存在への不安が克明に描かれているのだ。だから、「寂しい場所」として言明される幻想世界はここにおいて生活世界に重ね描かれ、二つの世界の象徴的な二項対立は霧散し、生活世界における寂しさの一風景というものへと転置しうる。もちろん幻想世界後半においてはその世界の象徴的な意味が徐々に闡明されるものの、幻想世界初期においてこのような描写が入っていることは、どうして他の描写を入れなかったのかというときを考え他の可能性を鑑みたときに、その描写の重要性を増し、麻枝准ファンにとって特筆ていうか涎に価する部分となるだろう。幻想世界3の風の描写も、麻枝准ファンにとっては美味しすぎるていうか、御馴染みである麻枝准作詞の歌詞において「風」という言葉が出てくるのは、Last Regrets「低い雲 風を待つ静けさ もう聞こえない」鳥の詩「いつかは風を切って知る」「吹く風に素足をさらして」farewell song「風の音に消えてゆく」夏影Vocal「風を背に今、僕らが走り抜けたよ」ちいさなてのひら「季節は移り 冷たい風が」Light Colors「ようやく向かい風は凪いだけど」Life is Like a Melody「穏やかな風が吹くこの夏を」Birthday Song, Requiem「風のように叫んだ」Spica「最後の風を見てた高台の風車が止まる」MOON「風に乗って海を渡る」てな感じでほとんどの歌詞に登場する単語であって、幻想世界がかのように幻想的であるのはほとんど麻枝准ファンにとってほんと美味しいものなのである。加えて幻想世界4における「ガラクタ」描写にも目を配ると、それが幻想世界にだけでなく現実世界にも適用可能な象徴性を秘めていることに容易に気づくことができる。

彼女が作ってくれた僕の体。

その材料はガラクタだ。

それらは、広大な大地に点在していて、枯れ草の中に落ちていたり、地表からその一部だけを突きだして埋まっていたりした。

まるでそれは、何かの死体を思わせた。

たくさんの死体。

いろんなものの死体。

考えてから、僕は身震いした。

それは、僕の体だった。

ここで言明されるガラクタは事実ガラクタなのかもしれないが、振り返ってみれば、我々プレイヤーの身体もまた、ガラクタとも言うべき物質から構成されていることを想起するべきなのだ。人間の細胞は7年で全て入れ替わるとか、特に舌の細胞は十日で入れ替わるとか、そんなことが言われているが、そうした細胞を作り出すものは主に食物などから摂取した栄養素であり、そうした食物はかつて何かだったものであることは他言を要しないほど自明で、つまり、我々自らの身体は何かの屍体によって作り上げられているのだが、もちろんこのようなことはあえて大仰に言うべきものでもなく、少しませた小学生ですら理解可能な素朴な視点ではあるものの、このように「僕」だけでなく我々もまた屍体でできている点に注意すれば、幻想世界のかのような幻想の特徴とそれに対する感慨は、現実における作者の一つの感覚として受け取れ、そこにはまた、屍体によって構成される自己や、その自己が存在することへの罪の意識が見て取れるのではないか。しかしここで前段までの議論を考慮すれば、これはあくまで罪の意識が先行しており、その罪の意識の対象としてたまたま具現したものが自らの身体であったということであり、そこには因果の顛倒が発見できる。

ここで論を転じて、生れる以前の身体を持たない者が語る、ということは一体どういうことかと考えてみよう。基本的に、麻枝准によって描かれる少女らは多くを語らないという印象があって、しかし、主人公=語り手が己のことを語ることもほとんどない。「物語から主人公が疎外されており、ヒロインの物語を読む」などと言及され、その構造が特異とされる昨今のギャルゲーの物語に関しては、本当にそうした「主人公=語り手の物語からの疎外」が歴史的に見て特異なのだろうかと、言い換えるならば、私小説などが始まった頃あたりから語り手は不可避的に物語に関与するようになったものの語り手とは本来的に物語に関与できない存在としてあったのではないだろうか、という、系譜に関する疑問・仮説すら頭を擡げるものの*1、本論ではないから詳細は省くが、麻枝准の物語において緩慢に時間は過ぎていき、意味内容をほとんど持たない会話の連続のうち、いつしか出来事とでもいうべきものが積み重ねられ、一応の閉幕を迎えるという一般的な構造の中で、幻想世界は特異な位置を占めていると断じるならば、その断言の基礎となる点は、その語り手の位置にあると考えることができる。幻想世界の語り手は「僕」であるが、「僕」はあの世界では語ることができず、読者には内言だけが示され、それは読者にとっては語り手であるものの、「僕」が生きる物語世界で「僕」はずっと”聞き手”に回らなければならないという捩れがある。ただしここでの聞き手とはあくまで便宜上与えられた、話すことができない者を示す名称としての”聞き手”であることに注意せよ。しかしなおも「僕」と少女はコミュニケーション可能であり、そこにおいては身体的動作によって意志を通達するという形式が持たれるものの、ここで注目すべきは恐らく、語らずともパフォーマティヴに意志が示しうることではなく、語り手/聞き手という自明視されていた区別が一度破棄され、「僕」が語るときに少女はただ聴くのだけではなく語らねばならず、また「僕」が聞いていることを示すために身体動作で語らねばならないという、いうなれば頷きという聴くことの語りが明示される場面であり、そこには教える/学ぶ関係と同様の、語り手/聞き手の非対称性についての示唆が見て取れる。聞き手は聞くと同時に語っているのである。ならば、しかし、かつて語ることと聴くことを峻厳と区別したかのように見せかけた、当の装置は一体何であったのか。それは恐らく記述という一形態に求められると思われるが、今はここで検討せず擱筆したい。

えーと、感じたことをほとんど検討せずに一筆書きで書いてるんで、これもプレイ日記ということで。多分後で改稿。論理甘すぎ。

家族。渚も春原も智代も家族なら、風子は姉妹だろうけれど、有紀寧は兄妹か家族かどちらだろう。とりあえず麻枝氏担当のみ。

カレー画伯と呼ばれていた渚と、キャッチャーをやらされることが多くなった朋也。生々しいなぁ…。

疲れたのでやめ。

*1:少なくとも、現在の形態の『昔話』や『神話』は語り手は一切物語に介入しないものが多いと思われるのだが、もし昔話が原初からそのような形態を取っているのだとすれば、いつごろからそうした説話の形式に、語り手=主人公という概念が潜みだしたのかということが気にかかるのです。

sosuitarousosuitarou2007/02/27 23:36これから先,麻枝准とかの過去にもさかのぼった話が,本という形でまとまって出ることはあまりなさそうなので,この機会に語っておくべきなんじゃないかなぁ,とそそのかしてみますが.

milkyhorsemilkyhorse2007/02/28 01:36夏コミですと、一般参加できるか微妙なので、是非通販してほしいです。ってここで書くことじゃありませんでしたね。w

cognicogni2007/02/28 13:34>sosuitarouさん
そそのかしていただくのはものすごく嬉しいことなんですが、もし参加したとして、あのメンバーの中で比較されるのはちょっと怖いような…。とりあえず参加の如何に関わらず、応援のメールを打ってみます。

>milkyhorseさん
えー?milkyhorseさんは『競走馬と麻枝准作品との微妙な関係』で参加なされると思ってたんですが…。タイトルからの予想に反して、then-dさんがお書きになる論、なのでしょうか。

milkyhorsemilkyhorse2007/03/02 15:16おそらくそうではないかと思われます。ちなみに、「馬と~」はイレギュラーですのでご容赦を。

cognicogni2007/03/02 17:13なるほど、競馬好きかつ鍵ゲー好きという嗜好を併せ持つことはそれほど意外ではなかったわけですか…。milkyhorseさんは希少な方だと思い込んでました。

genesisgenesis2007/03/02 22:06then-dさんの一覧を見たその晩,夢でうなされて午前2時に目が覚めました。“一番最初のあの人”は反則だよ(^^;)

cognicogni2007/03/02 23:45五十音順だから妥当な並びとはいえ、一番最初にあの方の名前が来るとインパクトありすぎますよね。

then-dthen-d2007/03/03 02:11こちらでははじめまして。応援ありがとうございます。協力者の件では大変失礼しました。また、『競走馬と~』ではmilkyhorseさんのお株を奪ってしまう形になってしまいましたが、麻枝氏作品を横断的にかつ簡便な形で一望しようとする雑駁な話で、C71にて発表しております。馬と鍵作品の関係はONEのみさおのシーンあたりで死せる馬たちと被ってきて以来、両者の関連を考えておりました。取り散らかったコメントですみません。

cognicogni2007/03/03 12:55こちらでははじめまして。協力者の件はとても笑わせていただきました。一時の潤いをどうもありがとうございます。
また、当該論がC71で発表されているとは知らず、勝手にmilkyhorseさんの記事だと混同し、then-dさん、milkyhorseさんの両者に無礼なことを発言してしまったことをお詫び申し上げます。

トラックバック - http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070227
 |