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こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。
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2007-03-25

[] パスを受けとっていただきました  パスを受けとっていただきました - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  パスを受けとっていただきました - こぐにと。 cognit.  パスを受けとっていただきました - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/simula/20070324/p1

ありがとうございますー。

確かにC†Cは語りやすいところがあると思います。KanonのようにSSとかを作る、という方向ではなく、批評的に語る、という方向で。

[] (彼女を作れなんていう)難しいことを言われる前にスルーできたらどうだろう。  (彼女を作れなんていう)難しいことを言われる前にスルーできたらどうだろう。 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  (彼女を作れなんていう)難しいことを言われる前にスルーできたらどうだろう。 - こぐにと。 cognit.  (彼女を作れなんていう)難しいことを言われる前にスルーできたらどうだろう。 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

いちおうゲームのことしか扱わないつもりだったんですが、懐かしい昔の自分の記事が取り上げられたみたいなので…。

http://d.hatena.ne.jp/trivial/20070325/1174755806

当方の昔の記事でご迷惑をおかけして申し訳ありません。

http://d.hatena.ne.jp/kilemall/20070324/p1

えーと、そのときちゃんと相手には(ムーア流でなく俗流解釈で)説明した覚えがあります。「自然主義的誤謬とは、こうこうこういうことを言ってて、こういう議論が脈々とあります」とか。哲学用語を会話で使うときはできるだけ、内容を伝えることにしてるつもりです(少しでも哲学に興味を持ってもらえれば、と願いながら)。ついでに『哲学思考トレーニング』を貸そうとしたんですけど断られた覚えが。

それに加えて補記しておく点があるとすれば、問題になっている会話は、「三次元に興味を持つべきこと」の主張を導出する方法がうまくいってないんじゃないか、という議論なだけ、というのを強調しておきたいです。二次元という単語をあえて使っていない点に強く留意していただき、「自分の趣向(二次元だけに興味があること)」が正しい、と主張したいわけじゃないという点をできれば容認いただければと。ていうか「二次元だけに興味がある」っていうのは全然自分の趣向じゃないですし。そりゃあ、三次元否定したら、二次元の素晴らしさを主張しているんだろう、という暗黙の含意はあるかもしれませんが…。個人的には、三次元対二次元という本田_透みたいな二項対立は好きじゃありません。昔からですが、二次元オーケーなら一次元でもオーケーだろう、一次元オーケーなら全世界に萌えられるだろう、とか思ってます。むしろ究極的には一次元に萌えられねばならぬ、というのが最近の(以下略)。

まぁ、ほら、女性とのお付き合いは時間かかるし金かかるしで、正直面倒な時期があるじゃないですか。二次元とかそういうのなしで。そういうときの「面倒なので彼女作る気は今のところありません」という態度に対して、「(オタクだから)三次元に興味ないの?」などと何度も問われることに辟易してしまい、となれば似非哲学的議論を駆使することで彼氏彼女に関する会話に関しては空気読まないことを全力で醸すことによって、そうした会話から全力で見逃してもらうのも一つの会話テクニックではないかと思っています。もちろん、他の会話はちゃんと普通にしてるつもりです(多分)。いや、でも、普通の会話って何だろう…。自分は会話できているんだろうか……(猛然と悩みだす)。

あと自然主義の誤謬に関しては、伊勢田先生の日記のJuly 25 (Tue.), 2006にも言及ありです。

ここで話を無理矢理変えるために、以前の場所に類するものとして、時枝誠記の場面と場所に関する議論を引用しておきます。

 「場面」の意味は、例へば「場面が變る」「不愉快な場面」「感激的場面」などと使用される処のものであつて、一方それは場所(、、)の概念と相通ずるものがあるが、場所の概念が単に空間的位置的概念であるに對して、場面は内容を含むものである。場所に存在する或るものを包含するのである。かくして場面は又場所を満たす事物情景(、、、、)と相通ずる意味を持つのであるが、場面は単にかヽる主観を離れた客観的存在としての事物情景を意味するのではない。場面は、位置と情景と、そして之れに志向する主観の作用即ち主観の態度、気分、或は感情の志向を含むものである。かくして我々は常に何等かの場面に於いて生きて居るのである。(時枝誠記『言語本質論』p. 343)

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2007-03-24

[] お返事  お返事 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  お返事 - こぐにと。 cognit.  お返事 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://homepage2.nifty.com/nori321/diary/0703.html#24

あの記事は田中ロミオ論とかでなく作品単品への雑感ですから、他の作品に目配りしていないのはお許しいただければと…。

他の作品もやったほうがいいのは解ってるんですが、イマ以降はどうにも手が出し難く(そもそも非常に入手しにくい土地に住んでおりまして)。あと、今度の引越しで田中ロミオ作品を含む各種ゲームを処分することになるので、引越し以後は田中氏については語らないつもりであります。

ユメミルクスリは、うーん、何度か説得されましたけれど、やる予定は中々立たないかなーという感じです。代わりに、simulaさんあたりが、こう、論じていただければなぁ、と(さらにボールをパス)。

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2007-03-22

[] また返信しますよー  また返信しますよー - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  また返信しますよー - こぐにと。 cognit.  また返信しますよー - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

とはいえ、「絶対的な距離」が争いやら悲劇やらを生むのだとして、その問題をどうにかすることが「解決」なのだろうか? と書いたのは、わりと直球でcogni氏めがけて投げ込んだつもりなので、すげーあっさりスルーされてちょっとしょんぼり。俺、コントロール悪すぎですか?

http://homepage2.nifty.com/nori321/diary/0703.html#20

そうだったんですか。素で解りませんでした…。

まー、そういう問いを無効化する、というのが前の記事だったわけですから、あんま自分とは関係なさそうだなーと速断してしまいました。前の記事では、問題を解決するというか問題を解消するという形、つまり「絶対的な距離なんていうのはそもそも問題じゃない」ということを説明したつもりでした。しかし絶対的な距離、というものが前提され、隠蔽され、さらにはその主張が補強されるトラップというか、作中の仕掛けが幾つかある、と。その仕掛けの候補を何個か挙げつつ、説明を加えていくことによって、問題の構成される経過を浮かび上がらせてゆき、かかる問題が自明な問題として扱われることに対して疑義を挟み込む、という感じのことをしたつもりでした。そうした後で、「もうちょっと気楽に考えてもいいと思うよ、太一」という感じのことも書いたつもりだったんです。「だって例えば、前半におけるギャグパートにおいて、太一と美希とのやり取りなんてのは、ほとんど互いが理解できてるじゃないですか」。これは太一に言ってあげたい言葉でした。

だから、

「絶対的な距離」が争いやら悲劇やらを生むのだとして、その問題をどうにかすることが「解決」なのだろうか?

に関しての前の記事の答えは、前の記事に沿って「それは問題じゃない」。から、解決なんてする必要はない、というのが私自身の感想です。でもそれは作品のかなり外部からの意見なので余り効果はない。その辺配慮して「他人から見るとどんなにちっぽけに見えても、本人からすりゃ切迫感は本物だ」と書きました。で、問題を問題として受け取った上で物語を評価するなら、

ロミオ作品を僕がプレイした範囲で言うのならば、どの作品も(もちろんC†Cも)、他人との絶対的な距離というのは単なる前提としてしか描かれていないと思う。

これに同意ですよ。

あとちょっと細々しいところを。「情報を双方向的に共有化されたネットワーク世界で「世界と自身とを分かつ壁」が取り払われてしまった」というのはエヴァっぽいですね。いや、『おたく☆まっしぐら』やったことないので、あくまで字面からの印象ですが。ユートピアなどに関しては、Nozick(例えばttp://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nozick~1.htm)とかが面白いかと。

tt2007/03/23 02:01てゆか「C†C」に文句いうのは「AIRはクソ」て100回ばかし唱えてから。太一に向けて言ってあげたい言葉はそのまま観鈴に向けていってあげたい言葉だ。

tt2007/03/23 02:22えーと、『AIR』でも『C†C』でも、受け手がね、きれいに住み分けされるんだ。どちらも分岐ノベルエロゲーフォーマットによって規定される自我の枠組みに綺麗にパッケージングされてて、外がない。そーゆーふうにして、ある特定の枠組みの気分(これは時代的なものもある)に乗っかって視野を閉ざしたところに悲劇てやつがあるのだけど、この悲劇気分でのセレブな住み分け気分がなんか文学的達成て言うらしくてな。誰かに何かを伝えることをメタ的に加工して逆に誰にも何も伝わらなくする装置、とでも言うか。伝える気がないんだったら最初から書くな言うな売るな発表するなと思うんだけどね。

cognicogni2007/03/23 02:26AIRはクソ、と100回は言ってませんけど、「物語的には陳腐だと判断されると思う」とか、「神尾さんちは家族だって、近所の誰かが言ってあげればよかったのに」というのは書いた覚えがあります。後者は具体的には昨年6月ごろのプレイ日記で。ということで、「太一に向けて言ってあげたい言葉はそのまま観鈴に向けていってあげたい言葉だ」に賛成です。
C†Cへの文句言うならAIRから、ということで挙げられたAIRですが、それもまあ、その通りだと思います。ただ、どう文句を言えばいいのかあぐねているところで。AIRって、C†Cほど人間関係が理屈っぽく記述されてなかったと思うし、観鈴ちんは太一ほど頭が良いという設定じゃなかったと思うので、3/11のエントリみたいに理屈で攻め返してもあんまり効果がないような気もします。
というか、AIRはAIRで、個人的にはあれでよかったと思っているほうなので、文句をつけるのは個人的に動機がないかな、とも。それぞれの物語の最後、太一は悲痛な声を我慢しつつメッセージを発信しているという印象があるんですが、観鈴ちんは最後にとにかく笑ってましたから、今もまだ辛そうな太一のことをとりあえず考えてみました、という感じです。

tt2007/03/23 02:32や。太一も最後に笑って終わってるが。

cognicogni2007/03/23 02:34わ、すいません、二回目のコメント見ずに投稿してしまいました。
で、二回目のコメントなんですが、とても興味深いものの少し理解できなかった部分がありました。「この悲劇気分でのセレブな住み分け気分がなんか文学的達成て言うらしくてな。誰かに何かを伝えることをメタ的に加工して逆に誰にも何も伝わらなくする装置、とでも言うか」の辺りもうちょっと詳説希望です。メタ的に加工しているのがC†C、ということですか?
AIRとC†Cの受け手が住み分けされている、というのは私も実感としてあります。悲劇が気分に乗っかっている、というのも概ね理解できますし、「伝える気がないんだったら最初から書くな言うな売るな発表するなと思うんだけどね」には同意ですー。

cognicogni2007/03/23 02:40えー、太一って最後笑ってましたっけ。画像はちょっと思い出せないんで…。
最後に以下のような言葉を長々と(誰かに向かって)放送している分、なんか悲壮感溢れて笑ってないような感じがするんですが。どうにも真顔で放送してるっぽいようなそんな。
>>
太一「そんな、全部の人に、俺は言います」
太一「……生きてください」
太一「ただ、生きてください」
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tt2007/03/23 02:47http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/5403/cc/02_01_ed.html
見里(……ぺけくん、ぐっすり寝てますね)
霧(何か、夢でも見てるのかな?)
美希(笑ってる)

tt2007/03/23 02:52いや思いっきり『AIR』のことだから。物語への自己言及によって物語を機能不全にさせたりとか、そのへん指して<「メタ的に加工して」

cognicogni2007/03/23 02:56そこ、霧の言うように、夢を見て夢の中で笑ってたという風に素朴に解釈してました。
まー、そういう夢を見て笑うことができる、というのは、事実上笑って終わるのと同じことなんでしょうか。ちょっとこの辺は判断に困ります。

cognicogni2007/03/23 02:59チャット状態になっていて、すれ違いが…。ちなみに当方、あと20分したら家出なきゃいけないです。
で、AIRのことなんですか。物語への自己言及、というのは、翼人の伝説とか往人さんの聴いた話、とかそういう物語が、『AIR』という物語にそのまま言及している、ということで宜しいですか。それで物語が機能不全になっている、というのは、うーん、自分では少し腑に落ちない部分があるので考える必要がありそうです。

tt2007/03/23 03:00すげえ不毛なことをこれから書くけど、「我が子よ… よくお聞きなさい」の結末は観鈴なのね。んで、観鈴は最後に、それを誰にも伝えないで終わるの。ごく単純に、伝え継承していくことの終焉なの。以上。

cognicogni2007/03/23 03:10ああ、なるほど。解説していただいてようやく理解できました。確かにそこは、伝え継承していくことの終焉、ですね。しかもそれが肯定されているという。「伝え継承していくこと」を「物語」だと捉えれば、物語の終焉であり機能不全である、と。
でも最後に出てくる(なんか記憶をおぼろげに持っているであろう)子どもが「ぼくらにははじまりを」と言って終わりますし、新しい始まりでもあるんでは。

tt2007/03/23 06:38あとは手を振ることにどれだけ意味を乗っけられるかだけど。

tt2007/03/23 06:54まあでも基本的に単なる類似であって接点ではなく。あの二人は外部を遮断排除する防波堤だし、例の手は繋がれてるし。

cognicogni2007/03/23 22:33手を振ることは、うーん…難しいです。色々と解釈できるところではあるので、今は色々と解釈できるそのままの状態に残しておこうと思います。
それに「あの二人は外部を遮断排除する防波堤」というのは新鮮でした。確かにあの終わり、というか、始まり、というかがあるために、作品外部からどうこう言えることは少なくなっているのかもしれません。

tt2007/03/23 23:33あい。あと『AIR』と『C†C』の違いはまず『AIR』が「DREAM」ていう3人のヒロインのシナリオに分岐する構造を自分の内部に用意して、その終焉から解体を開始したこと。自作自演なんだけど、作品として単体で完結させていて、それが逆にシナリオ強度の弱さに繋がる。逆に『C†C』はシナリオ強度を強化する目的だけに特化してるので、自作内には分岐シナリオの構造を持たないし厳密な意味でのループもしていない。ギミックは言葉で言及されるにとどまる。単体では作品として成立しない、というと大仰だけど、作品評を成り立たせるためには最低でも相当程度の過去文脈の系譜を遡って論じないといけない。だから大概、作品評のために必ず東浩紀の評論なり他のノベルゲームなりのバックアップを必要とする。短い射程で捉えるなら、そもそも作品として扱おうとする態度そのものが間違っていて、あくまで特定層の気分と直結したムーブメントとして扱うべきなのかな、とも思います。

cognicogni2007/03/24 23:15ああ、そういえばAIRは完全なループゲーですね。最後の、子どもたちから見た観鈴や往人さんのことをすっかり失念しておりました。AIRのシナリオが弱い、というのも頷けるところですが、そのシナリオの弱さの原因までは思いつきませんでした。なるほど、tさんのような視点から考えてみると面白いかと感じます。でもちょっと今のところ、自分の頭の方が追いついていないです。
C†Cのループは完全じゃない、というのは頷けるところです。例えばC†Cが(エロゲーの構造に対して)批評的だ、という言明をよく見かけることもありますし、作中においてそうした批評的な営為が暗黙的に行われていると自分も感じます。だから、C†Cをきちんと評価しようとする際、「作品として扱おうとする態度そのものが間違ってい」る、もしくはそうした態度を取るのが難しいというのも、正しいと思います。そういうのを踏まえたうえで考えれば、C†Cに至るまでの流れを見たほうが、当作品はよく解るかと思います。また、「特定層の気分と直結したムーブメント」として捉えることについても同感です。なんかC†Cを絶賛している層には薄っすらとした共通性があるような気がしますから。そういう路線で考えれば、「気分と直結したムーブメント」であるがゆえに、C†Cを解釈すればその時代の気分が少し浮かび上がらせられるという点で、C†Cと批評とは相性がいいのかな、と思います。

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2007-03-20

[] 「乙女は職業じゃない、生き方の問題なんだ」@七瀬  「乙女は職業じゃない、生き方の問題なんだ」@七瀬 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  「乙女は職業じゃない、生き方の問題なんだ」@七瀬 - こぐにと。 cognit.  「乙女は職業じゃない、生き方の問題なんだ」@七瀬 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

タイトルと本文は関係ありません。何か一気に二件もリンク貼られたので反応します。

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070319#1174329413

ボイスが「テクスト読解に決定的な影響を与える」のか、という問いに対しては、あると答えます。なぜならイントネーションやアクセントによって、或る一文から受け取る印象は変わりうるから。例えば、AIRはボイスつきでやったことはありませんが、「わたし、がんばったよね」をどう発声するかによって、そのシーンの印象はかなり変わりうると思います。ちなみに、つらそうだけれどそれでも健気に明るく、というのが私の中の脳内観鈴ちんボイスです。ただしもちろん、ボイスが常にテキストに対して優位にあるとは限らず、あくまでもボイスも読解の一要素として位置づけるのが妥当ではないかと。

ゲームというものを考える水準で、ボイスとテキストの相互作用がそこまで重要かどうかは自分では判断しにくいところです。ただし、ゲームを行うときに我々が体験するのはテキストだけじゃない、というのはひとまず反省してもよいとは思います。ボイスを聴くことは、テキストを読むことよりもかなり受動的な行いだと思いますし、ボイスが一瞬でも先行することでテキストの解釈に影響を与える可能性も十分考えられます。(黙読であれ)テキストを読む、という行為もかなり言語の音性に依拠している、という示唆は心理言語学での実験でも多々ありますから。

つまるところ、当時、北都南おねえさんによる、若干神戸寄りの関西弁に感涙したということを伝えたかったのだと思います。関西弁のテキストが嫌いだった自分が、無残にも悔い改め改宗に迫られた瞬間とその恍惚を書き記したのが、あのしちめんどくさい文章です。…ごめんなさい大袈裟すぎました。あと、テキストが声より先行している、というのにも気づいて面白がっていた頃だったかと。それと一文を長く書く練習をしていた頃で(我ながら読みにくい…)、今から考えれば、二月は「私の体験から出発しよう」月間で、色々と手探りしてました。抽象化され固定化されてしまったテキストや音楽といった概念から考察を出発するよりも、場所や声から出発する、というのは2/5でも書いた話です。

二件目。

http://homepage2.nifty.com/nori321/diary/0703.html#20

や、田中ロミオ信者じゃないので。さらに『ユメミルクスリ』や『おたく☆まっしぐら!』はプレイしてないので…。だから、「信者のかた、呼ばれてますよー」とあえてここで書き記しておくことで、こちらにやってきたボールをさらにパスしますよー。

そういえば、麻枝信者だったら『カオスクィーン遼子』を無視するな麻枝信者だったら『同棲』(外注として参加、らしい)を無視するな、と言われたらとても困ることに気づきました。

crow_henmicrow_henmi2007/03/20 21:17信者ですが宗派が違いますのでボールは受け取れないのでした。あうあう。
 つか、それだけ語っていれば「おたく☆まっしぐら」については十分なんじゃないですかね。骨子は押さえてると思います>リンク先の記事。不足なら自分で膨らませばいいんですよ。DIY! それをやれ! みたいな。
 ボイス関連については別項で書きます。

sirobusirobu2007/03/20 23:00突っ込みですみません。確か同棲の時は麻枝は参加してないと思います。
「麻枝信者ならカオスクィーン遼子を無視するな」なら間違いなさげです。

cognicogni2007/03/20 23:35>crow_henmiさん
信者って宗派まであるんですか。大変ですね…。

>sirobuさん
同棲の件に関してはその通りでした。『同棲』に参加していた折戸氏と、していなかった麻枝氏を混同していました。ご指摘ありがとうございます。また、間違いを記述してしまい、申し訳ありませんでした。先ほど記事を修正しました。

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2007-03-18

[] アニメの見方とか雑感  アニメの見方とか雑感 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  アニメの見方とか雑感 - こぐにと。 cognit.  アニメの見方とか雑感 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

AIR好きとAIR嫌いに分かれそうな、そんな。鍵っ子だからどうしても比喩が鍵ゲーになるのはお見逃しを。

以下、参考になりそうな資料みたいなの。

初期の評価が間違える(?)かもしれない、という問題については、アニメ系だと例えば起動戦士ガンダムが有名ですね。「再放送」でページ内検索のこと。ターゲット層は大事、にしても、視聴率25.7%というのはターゲット層以外も見てたんじゃないかと思わせる数値ですね。

ドラマの視聴率も全体的に落ちてるみたい(2時間ドラマの項参照)ですし、ハリウッドも低迷してるしで、なんか全体的に視聴者の好みが変わってきてるのかなぁ、という感じはありますねー。アニメだけじゃなくて。

とまれ、コードギアス面白いです。

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20061227/1167156701

Kanon全話お疲れ様でした。

LaviniaLavinia2012/09/22 07:56My prbloem was a wall until I read this, then I smashed it.

wfmancpxpwfmancpxp2012/09/22 15:04o0n8TF <a href="http://rpdagaupmbwl.com/">rpdagaupmbwl</a>

cfxtdjtctumcfxtdjtctum2012/09/24 12:21Rg1t6f <a href="http://cymuzstoevqs.com/">cymuzstoevqs</a>

lfclwuaqnlfclwuaqn2012/09/24 22:09XbjF8E , [url=http://mhbayjjhfzqd.com/]mhbayjjhfzqd[/url], [link=http://jjloyolcvuxz.com/]jjloyolcvuxz[/link], http://kehpfhiwbqde.com/

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2007-03-13

[] 『漫画批評における、視点をめぐる諸問題』に関して  『漫画批評における、視点をめぐる諸問題』に関して - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  『漫画批評における、視点をめぐる諸問題』に関して - こぐにと。 cognit.  『漫画批評における、視点をめぐる諸問題』に関して - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

反応が遅れましたが(いつパブリックになるのか知らなかったもので…)、いずみのさんの漫画論について。

http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/pov01.htm

過去に書いた文章をちょっと改めてアップしておきます。

さて。いずみのさんの論のコメントというか、別にいずみのさんのところにコメントするほど直接的な言及ではないので日記に書きます。いずれ来るあの論考では、「誰から見たコマなのか?」と問うこと自体、その問いの形式が画期的なのだと思います。たとえば上記の疑問の『コマ』を『テクスト』としてみたとき、テクストの多義性という耳慣れた言葉がわりと簡単に思い泛かぶ。テクストは脱構築ができるように、マンガのコマもまた脱構築が可能であることは恐らく正しい。そしてまた同様に、いずみのさんが掲げる「誰から見たコマなのか?」は恐らく答えを一義的に決めることはできない類の問いであって、コマの脱構築を容易に可能にする問いではないか。つまりあの問いを整備して、問いの形式として成立させることで、あの問いはテクストの多義性を明るみに出す補助をし、そして(ほぼ必然的に)読者同士の対話と読者とマンガとの対話を可能にする土壌を作るのではないか。たとえば、あのコマはどう解釈すべきか、と。そのような対話を発生させる問いはとても貴重で重要だ。そしてそれはきっとマンガの紙面に書かれてしまった線をいまだ描かれていない線として蘇らせ、そしてその物質的剰余にすら読者の目を到達させることができるのだと思う。以上に言及したコマの多義性とは、そのコマが解釈を常に逃れ続ける(、、、、、)ということであり、抒情が常に言葉から逃れ続けるということとほぼ同義であるが、それは逆の視点から見ると、テクスト(コマ)が常に生き延び続ける(、、、、、、、)ことを示唆することになる。だから読者がその問いに巻き込まれることによって、コマは生き生きとした表情を見せるだろう。そのような場を誘発させる問いは、これからのマンガ批評を豊穣なものにさせるに違いない。批評とは常に自らと批評対象との闘いの場であり、常に遅れてくる意味を取り戻す行為であり、対象が存在してしまうことへの驚きと嫉妬と眩暈が巻き起こる事態であり、その闘いによって互いは成立と崩壊を繰り返し、新たな形で生き延びることが獲得される行いである。だから表現論はそのような批評を可能にすることで、常にテクストを活性化させるものであるし、そうであるべきだ。マンガ表現論が単なるマンガ技術論と違うのは、この一点、テクストの活性化に求められるべきだと思う。

いずみのさんの論が早く公開されないかなとワクテカしているわけですが、それに関連して自分の興味関心を述べてみると、視線力学をはじめとしたいずみのさんの論は内と外とかいう二項対立が実在するという素朴な観念を解消する一石になると思う。そして昨日の日常/非日常はそういう文脈で書くべき、読まれるべきだったのかと今頃になって反省するのだった。たとえば(かなり迂回するが)、昨日の「ふと」は線の集合がマンガというゲシュタルトになって生起するあの瞬間だ。しかしその生起が示すところは、ゲシュタルトが崩壊することもまた、線が担っていることを意味していることに他ならないということだ。何かを可能にしつつ、何かを限定するあの働きを、コマの中の線に見つけることができる。そういう点から見ても、夏目氏や伊藤氏、いずみの氏らがマンガの表現論を追求しているのは凄く意義のあることだろう。彼等の文章は、何かが色めき立つ瞬間を捉えようとしているから。そういう表現論が天才マンガ家の感性の邪魔になるとか主張する人はいるかもしれないが、技術と感性を対立させることは、ロジックとロマンスを対立させるのと同程度に大馬鹿であると思うのだがいかがか。ちなみに表現論と技術論は厳密には異なる。

感情移入関係で言及した岡本雅史さんの研究も参考にしていただけたようで、少しは役に立てたかな、と思いました。

betigjpbetigjp2011/03/18 19:09IIOOc8 <a href="http://pyglozzhpnsr.com/">pyglozzhpnsr</a>, [url=http://zkmqiriljpzx.com/]zkmqiriljpzx[/url], [link=http://vlbnuhmfuqks.com/]vlbnuhmfuqks[/link], http://bnblloqfsnqn.com/

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2007-03-11

[] 今後の予定  今後の予定 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  今後の予定 - こぐにと。 cognit.  今後の予定 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

できるだけ文体関係のほうに注力していくつもりです。ということでこっちの更新頻度はさらに低くなりますので宜しくお願いします。

以下、一週間分の宿題を一気に書いてアップしますよー。

[] 語り手の事情  語り手の事情 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  語り手の事情 - こぐにと。 cognit.  語り手の事情 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://bmp69.net/mt/archives/2007/03/post_489.html

文学方面に素養のある方の話は勉強になるなぁ、と。具体例の豊富さがとても真似できません。

ちょっと補記しておくと、あのとき考えていたことは、エロゲーの語り手がどのように物語に参与しているのか、とか、語り手の位置によって語りはどのように規定されるのか、とかそういうのも込みでした。ちょうどそういう感じの本を読んでいたので。

そしてそれは(この前うちでやってたような)人称に回収される問題だけではなく、語り手の語りによってどのように客観的な出来事が変質してしまっていた上で読者に提示されているか、とかそういうことでもあります(ただしここでの「客観的な出来事」という言葉は、説明のため便宜的に使用しています)。神話とかを挙げていたのはその辺を考慮したもので、とりあえず語り手の位置に疑義を挟みこみたかった。ちょうとど、語らずとも語る語り手、というのがCLANNADに用意されていましたし。

bmp_69さんの「時間的にせよ空間的にせよ、物語からある程度「距離」があると物語りやすい」というのはその通りだと思うのですが、その一方で、距離があると何か失われてしまっているものもある、と皆さんが感じるのもまた正しいのではないかと。それが一つの語り手による規定、とも言えると思います。しかしその「何か失われてしまっている」構造は単に失われてしまっているのではなく、語りという言語行為から不可避的に導かれるもので、どちらかというと我々は「何か」を語っているのではない、というところまで持って行きたいところです。言い換えればそこでは、客観的な出来事を語るという素朴実在論のようなものに結構否定的な立場を取ろうという感じで。客観的に語られていたと思われていた何か、というものについて再考を促すことで、語ることにより浮かび上がってくる何か、という側面を強調できるから。だからその後に語ることと聴くことの峻別を曖昧にさせようと試みた、という感じです。むしろここでは小説というよりも、プラトンの対話篇におけるソクラテスと誰かの会話を記述する語り手なども視野に入れて。もっと個人的なところにいくと、言語を使用することと記述することの便宜的な違いなど。

読んでた本はこういう感じの本です。

 客観的に把握することのできる、ある出来事の、写実的な再現。語りがそうしたものではなく、その場その場のコンテキストにしたがって一回ずつ遂行される行為であることは、本書を通じて述べてきた。『文章教室』が終わりに近づくにつれて、「ことになるのだが」、「であろう」といった未来系が多く見られるようになることは、このことと無縁ではない。物語が予言の体裁をとることによって、物語内容が物語り言説に先行して存在するという、構造主義の大前提は否定される。既に起こった出来事を言語という手段によって伝達するのではない。初めに言葉があり、言葉のなかに出来事が現出するのだ。内容と言説の二項対立はもはや向こうである。そのかわりに、物語という行為のなかに出来事が仮説的に想定されることになるのである。(榊敦子『行為としての小説』p. 238)

そういえば吉本隆明が、体験がどんなに鮮明であれ新奇であれ、その体験の表現としての言語は何ら鮮やかさや新奇さを何ら保証しない、という旨のことを言っていたような。少し位相が違いますが、とりあえずこの言葉である程度上の議論も諒解可能になるのではないかなと。

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お恥ずかしい身の上話から始めると、元々RPGばかりやっていた人間でして、自分のRPGの評価基準が物語内容だったりしたことを指摘されて、純粋に物語を楽しみたいのなら小説やノベルゲームを読めばいいじゃない、ということをアントワネットライクに従兄弟に言われたものの、「はっ、ギャルゲーなんて軟派な男のやるものだ」などと見下していた日々が続いたのですが、ある日先輩から貸してもらったKanonをプレイして舞シナリオを終えたとき、そこには両目から一筋の涙を流しながら呆然とする一人の鍵っ子が生まれていたのでした…。改宗の瞬間は美化されがちです。うぐぅ。

とまぁ、そんな感じでCRPGには結構興味があるわけですが、さて、「日本で一般的に<RPG>といったときに一番メジャーに想起されるもの」(copyright: hiyokoyaさん)をRPGとこのエントリでは呼ぶことにして、具体例としてはドラクエやFFなどを考えている一方で、<ギャルゲー>をKanonや痕などと相似のシステムを持つノベルゲーム、としたとき、両者は同じように物語が主導になる『物語ゲーム』だ、という意見があると思います。その意見にはもちろん同調するもので、両者には主人公や周りのサブキャラ、攻略キャラなどが出てきて、物語が主導で進んでいくという類似点はあります。しかし、ここで差異があるとすれば、RPGのほうには村人がいてギャルゲーにはそういうのがほとんどいない、ということが指摘できるのでないかと。

この村人と呼ばれる存在は、サブキャラとはまた位相が違い、同じドット絵が流用されたり、物語のメインには関わってこなかったり、同じ台詞ばかり喋ったり(e.g. 「ここは○○の街だよ!」)、武器を売ってくれたり、それ「村人として出てきている人が世界の住人全員だとしたら、世界人口少なすぎだろ…」とか思ったり、彼らには性格がほとんど与えられず、非常に抽象的ですが、しかし同時に身体を与えられており可視的な人間として現われていて、抽象的ながらも物語に参与することもある。例えばワイルドアームズ1だったと思いますが、そこでは主人公ロディが助けた村で、村人から追い出されるということがあります。ここでは村人が抽象的な他人として出てきていて、村の閉塞さや集団圧力、もしくは共同体などをうまく示せている。これは村人に性格というものが付与されず、抽象的であるからこそできた演出であると思います。また、ドラクエ6だったと思いますが、村人がモンスターに襲われるというイベントもあります。ここでは身体の面が強調されている。こういう演出は、同じく物語を主導とするギャルゲーにはできないもので、CRPGができるものであり、映画に近い感じを受けます。

例えばこれを一般的な言辞に回収させると、こんな感じになるのではないかと。

物語における多様性は、プレイヤーが物語を経験する各個人ごとの文脈が多様だという話だけにとどまらず、土台となる物語の表現が多様性を持っていますね。そこのところで物語ゲームというメディアの解釈の多様性はかなり緩く組みあげられたものです。

http://www.critiqueofgames.net/talk/009.html

この意見には同調するもので、やはり、RPGとギャルゲーは物語ゲームでも割と違う。その一つの具体例として、RPGでは抽象的他者の存在を、村人というキャラクターによって示せる、という点があるのではないか、ということです。そしてここで大袈裟に捉えてみれば、そうした抽象的他者としての村人の存在の変遷が、ある種、何か現代社会の様相を示しうるんじゃないかということです。ちょっと前の議論を踏まえれば、公共性とかそういう風に呼ばれるものを。

また、同じhiyokoyaさんのサイトから参照すると、こんな文章もあります。

FFの町とか村人とかは全部、一つの大きな物体の付属品でしかないんだけれども、DQの場合はそういった如何にも物語的な構造性を拒否して、もっと独立した生活を勝手に生きている村人とか町とかがあって、という形で世界全体がすごいくっきりと立ちあがってるんだよね。

http://www.critiqueofgames.net/talk/005_4.html

まー、だから、旅をする=全く違う場所に一回性の移動をする(http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070201/p1などの議論)、ていうことが抽象的な他人と会う機会が増える、ということなのかもしれません。ですが、それは抽象的だからこそ、効果を発揮するのだ、ということで。

物語から離れたところはあんまり話されていないようなので、とりあえず感想までに。

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ものすごいネタバレです。

C†Cがよくできている、というのはほとんどの人が異論を唱えないところだと思います。私もよくできていると思います。でも、なんか、物足りない。

例えばC†Cで問題になっているのは、他人との関係の問題だと思うんですが、そこについて結構理屈っぽく追求しているにも関わらず少し疑問があります。例えばこういう言葉がある。

太一「人は一人で生まれて、死ぬまで一人だから」

太一「その断絶は、絶望的な距離に思えるかもしれない」

太一「いやになるかもしれない」

太一「でも、俺はここにいます」

太一「また来週、こうして放送することになると思います」

太一「その次も、またその次も」

太一「死ぬまで」

太一「俺がここにいるように、あなたがそこにいてくれるなら……俺はうれしい」

太一「生きる励みになるから」

さて、simulaさんの記事でも「他人に対して絶望的な距離」という風に言及されてますが、個人的にそれはどうかなー、と思うところがあって。

感じるのは、こういうことです。まず他人というのがある。他人という言葉の定義に、絶対的な距離、というのが前提されているのに、それは巧妙に隠蔽された上で物語が進んでいく。そして結論される「他人との絶対的な距離」。なんら問題は解決されてないじゃん。そこになんか違和感を抱く。そこには絶対的な距離という隠れた前提があるからこそ、他人との距離は絶対的なものとして現われざるを得ない構造があるんじゃないか。そして、C†Cの世界はその構造に疑義を挟み込まない手段が周到に用意されているんじゃないのか。以下の文章は上記の補足なので、飛ばしてもらって結構です。

例えば放送部という場について。デジタルTVの時代に入って双方向性のテレビ!などと騒がれていますが、それを裏返せばこれまでの放送というメディアの特性は、一方通行にならざるをえないということであったということです。そういう特徴がある。よくよくC†Cのレビューでもこの放送とコミュニケーションとの類似性が指摘されて、「人間はいつでも一人なんだ」という言葉が肯定されているんですが、多分ここでは、太一の主張であるコミュニケーションの一方向性が、放送という一方向性の媒体によって担保されている。つまり、放送部という場を用いることによって、太一の主張が強化されるようになっている。もし同じループの世界設定にもかかわらずバスケ部だったら、「まー明日みんな帰ってくるかもしれないし、今日も3on3の練習しようぜ!」みたいになって、他人との距離の問題はほとんどなくなってしまうんじゃないかなーと。ありえないパスが通ったときの快感!俺たちは理解しあっているぜ。こういう想定からすると、放送部、という設定は非常に巧妙だ。「俺たちは一方通行の発信をしよう」。このコミュニケーションの一方通行さについては何ら疑義が挟み込まれない。一方通行だ、「けれど、発信していかなければならない」。別に後者単独で見れば何ら異論はないのだけれど、前者から「けれど」で繋ぐのはどうにも違和感が残る。むしろ前者は間違いだ。

他にも例えば群青色の試験について。あそこで点数としてかなり具体的に出てくる点数が、太一の狂人としての位置を確固たるものにしている。だから太一が狂っていないかもしれない、という疑問はほとんどふさがれてしまう。それに例えばあのキャラたちの扱われ方も。曜子ちゃんには切り札が通じるし、霧ちんは過去の話を聴いてくれて疑いすらしない、というところは今木さんやsimulaさんが指摘していますが、全体的に見て、キャラが太一の思い通りに動きすぎている感が多い。太一は知能が高いという設定だからそれも頷けるものの、しかし、なんか変な気分は残る。太一にとっての『他者』と冠することができるのは、多分、桜庭ぐらいだ。桜庭だけが、最後の最後の不意撃ちを行った。他人との関係性の問題を扱っているのに、他者性が乏しいと感じてしまうのは、どうしてだろう。そういう感じがあるから、太一が言う『他者』っていうのは、一般的に言われるところの他者なのだろうか。「本当は優しい」他者なんじゃないか、という疑問が少しだけある。

まーとにかく、こうしたいくつもの装置を経由して、太一の主張「人は孤独だ」はどんどんと強化されてゆくけれど、どうにもそこには疑問が残ってしまう点があります。例えば以下の自分という言葉遣いにおいて。そんなに「素直な自分」というものを強調しないでも、と思う。本質的な自分がいる、という考え方は苦手で。

誰も傷つけることのない世界。

自分ができそこないって、自覚させられることのない世界。

改善しようのない素直な自分でいられる世界。

素直な自分でいるということ。

それにそもそも、「他人とは理解できないもの、と定義される」という旨のことを永井均先生が『<子ども>のための哲学』で仰っているじゃないですか。だから「他人が理解できない」ていうのは、その語句の定義によるもので、「他人との絶対的な距離」はそこから導き出される不可避的な結論だ。そりゃー他人なんて理解できないですよそれが定義ですもん。その内部でうろちょろしていても、絶対に他人は理解できない。この範囲において私と他者は対立図式を演じることでのみ成立せざるをえない。だから嘆くべきは、この対立の欺瞞に気づけない自意識の過剰さなのではないだろうか。つまり自分の実感を疑えない、という太一の精神だ。そしてこの対立図式に疑義を挟み込まないC†Cの世界の構成され方だ。他者性、ていうのは、常に不幸なもんじゃない。幸福な他者性もある。ていうのは、まあフェイトちゃんにとってのなのはさんとかそういう話を思い出しつつですが。あとはHeideggerにおける死の絶対的な他者性か。先駆的覚悟せよ。そうした意味不明なものがあることが齎す幸せだってあるのに、それはC†Cではあまり感じられない。まったく別の視点から太一に関わってきてくれる人が少ない。悪意としての中途半端な他者が多い。太一に疑問を抱かせてやれよ。お前は人間らしいってさ。しかしそうした他者性を排除して、自分と他人との両者が相補的にしか定義し得ないとするのなら、その距離は常に絶対だ。他我問題は常に仮構されつづけ、絶対に埋められない距離感というものが導出されざるを得ない。そうした他人というものが前提とされる以上、理解とは相手の心情を理解することに顛倒する。そんなん他人という定義からして無理だ。太一がかわいそう、とすら思えることがある。そんなときは、読書で自分と同じ境遇の人がたくさんいることに気づいたりして、相対化する視線を身につければいいと思うんだけれど、その成長の猶予は与えられない。

しかしそれを未熟だ、という言葉で蹴散らせる問題ではないのも確かで。彼らにとってはそれが切迫しているから。「問題なのは不在そのものではなく、不在の意識である」「まあ気になるものはしょうがないのだけれど」と今木さんは仰りましたが、その通りで、気になるものはしょうがない。他人から見るとどんなにちっぽけに見えても、本人からすりゃ切迫感は本物だ。そしてC†Cの世界での切迫感は皆同じで、皆同じ問題を抱えている。「お前の問題なんてつまんねー!」と言ってくれる人はいない。だからこそ私のような「対人関係なんてどうにでもなるさー」とか思ってる人にとっての言葉は正直言ってそれほど響かないものになる。そして逆に「それは問題じゃない」と片付けられる人はC†Cにちょっと違和感を抱いてしまうのでは、と。

だって例えば、前半におけるギャグパートにおいて、太一と美希とのやり取りなんてのは、ほとんど互いが理解できてるじゃないですか。むしろ他人との距離なんて問題にならないやり取りだ。それなのに、どうして太一は断絶されていると感じるのか。私には解りませんが、多分自分は他人とは違う、という点を絶対視してしまっているからじゃないかなと。だったらその結果、人間は分かり合えないという結論が導かれるのは自明だ。それをまちばりあかねさんは「作品の構造的な作りの良さ」と書いているけれど、その構造的な作りの良さが、逆になんか変な感じをかもし出す点もある。結論は常に強く前提されているのだ、と。

例えば文体を発見する、ということを考えているのですが、しかし発見と言う行為と発見される対象の分離は不可能だ。発見という行為と発見された対象が結合した結果として、発見された対象が結実するのだから。逆に言えば発見と構成とは区別できない(しかしそれは、発見とはでっちあげる(=構成する)ということでしかない、というわけではない)。このラインで考えると、発見された距離をそのまま受け取るのはどうかと思う。

C†Cの物語は他者性が乏しいとすら感じる。もちろん他人は出てくるけれど、太一に疑問をはさむほど強固な他者じゃない。そして惨殺などはされるけれど、それはほとんど表面的な残酷さだ。自分が最もきつかったのは、「本当に頑張れば、三日で終わってしまう。何度も繰り返したことだ。知識もついた。手順も極められた。」というところでした。でも続く「だから故意に時間をかけて行おう。回り道をしながら。」はいらん(←我が侭)。そういう例外を他にすると、極めつけはプレイヤーが見渡せてしまうことに違和感が。例えばプレイヤーは他人の心が解らないということを知って(、、、)いる。そして最後の最後、呼び声が届いていることを、プレイヤーは知ることに至る。Butlerが言う、呼びかけられることの主体化によるvulnerabilityと、呼びかけることのvulnerability(言葉は意図を超えて演じるし、呼びかけても振り返ってくれないかもしれない、など)が、プレイヤーの視点から見たら排除されてしまっている。太一には届いているか解らないままなのに。俺もそのままでいたかったのにどうして届いてしまうことを見せてしまうんだ畜生!と思う。その辺の絶望的な無力感が霧散してゆく。でも逆に言えば、そういう点がプレイヤーにとっては優しくて、素直な物語だと思います。「ああ、よかった」と安心して感動できる。ああ、あと、レビューでも散見される「C†Cは考えさせられる物語」ってのは、太一の主張をそのまま受け取ることなんかじゃなくて、出されたアイデアをどうこねくり回せるか、っていうところにかかっていると思うんです。例えば、他人の心が解らないということを知って(、、、)いることについて疑問をぶち上げるとか。でもC†Cを発展させているレビューは少ない。それは勿論作品の説得力だ、という風に捉えられるところです。だから実に「よくできている」という感じはある。でもやっぱりそれじゃ物足りないじゃないですか。俺の妄想とか差し込む隙間がないじゃないですか。そんなC†Cをメタな面に注目して発展させているのはcrow_henmiさんぐらいじゃないかなと。

さて、このような物語の構造を、構成美ととるか、物足りない(もっと夢とかアクとかを!)ととるかは、プレイヤーの感受性の依るところだと思うので、あまり詳しい評価はしたくないけれど、「よくできた」物語であることに異論はない。でもやっぱり物足りない。まーほら、「たとえ無駄だとわかっていても。すがりついて生きていく。」なんてのは欺瞞だと思うほうなんでね。「たとえ」とか嫌いだし。

それでも、見受けられる示唆はいくつもあります。太一がすがるのは誰かで。本当に届いていないと知っていたら、放送なんてことやらないだろう。祈りのように太一は誰かにすがる。不確定で、曖昧だからこそ、そして抽象的だからこそ、その潜在する可能性に太一は祈り、放送をし続けるのだ。そういう、曖昧な他者、抽象的な他者の存在が、太一の最後の一線を守り続ける、というのは好きです。それはいわば神への祈りだ。はっきりさせちゃダメなこともある、というわけじゃないけれど、つまるところ、そうした曖昧な他人の意識が誰かを救うことがある。私はそれを無碍に否定はできません。

ええと、対人意識の程度問題について触れないのはフェアじゃないと思いますが、多分変なことを言ってしまうのでとりあえずスルーしておきます。

雑感長いしまとまってないな…。後で読み返して没にするかもです。

SusieSusie2011/07/29 09:43You have shed a ray of ssnuihne into the forum. Thanks!

mxjuyjbvsbmxjuyjbvsb2011/07/29 18:01N9Qukd <a href="http://ppaclcshwdnb.com/">ppaclcshwdnb</a>

qmnidprqmnidpr2011/07/31 20:52OOuilm <a href="http://blewalwjlmcs.com/">blewalwjlmcs</a>

exiieqisuexiieqisu2011/08/02 00:094fK1x9 , [url=http://srzrooyckkcb.com/]srzrooyckkcb[/url], [link=http://rfaqqjcqdttc.com/]rfaqqjcqdttc[/link], http://qmbazdwnejaz.com/

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2007-03-06

[] わーい  わーい - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  わーい - こぐにと。 cognit.  わーい - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://kaolu4seasons.hp.infoseek.co.jp/okiba/seiyuu_1.htm

via http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20070305#1173066254

声優サッカーHTML化ありがとうございます。

[] 予定  予定 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  予定 - こぐにと。 cognit.  予定 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

現在の状況に対しての面白い比喩表現を見つけて嬉しくなりました。まー、落ちても落ちなくてもどっちでも良いのですが、結局はアシュタサポテぐらいの圧倒的な筆圧の文章を自分が書けば良い話なのだろうと思います。書くには未だ能力が不足していますが。

simulaさんのC†C感想を受けて、自分もC†Cについて何か書いてみようと思いました。週末にでも。

場所の記事がリンクされました。実は一週間前ぐらいにちょっと改定しています。

全然別件ですが、ついでに引用しておきます。

 あと、自分が好きで好きでしょうがない人を論じることの問題は、いまの僕にとってはまた別の問題が出てきて、それは批評というものに対する根本的な疑問になってしまうんです。自分としては作家論や作品論を、現在という舞台に乗せてやることはできると思いますが、自分の好きな人を詳しく論じることは何となくやりたくないなと思っていて、その原因は何かと言うと、批評について根本的な疑問があるからなんです。僕はこれまで何の疑いもなく、作品論や作家論をやってきました。作品をできるだけ懇切丁寧に読んで、いろんなことに気がついて、深読みできて、曲解せずに正解を出し、その作品をもっと深く読むことができたなら、批評としては理想的ではないかと思って自分でもやってきたわけです。

 そういうのが一番よく現れているのは、たとえば「今朝早く起きて、歯を磨いた」と「今朝六時半に起きて、歯を磨いた」は本当は違うんだ、同じ意味のように見えるけれども違うんだ、ということをちゃんと言えなければ批評としては嘘だよと僕はよく言ってきました。そうしたことも含めて、普通の読者よりも微妙なところを読めて、作品を間違わないでちゃんと読み込み、作者が気付かないことも気付いて指摘することができるなら、作家論や作品論としては良い批評だと自分では思ってやってきたんです。でも、僕はいまはそういう考えに疑問をもっています。批評とはそんなものではないんじゃないか。

 では、批評とはいったい何なのかということになるんですが、考えてはいるんだけれど言えないんですよ。あるいは言わないで、そういうことが書けたらいいんですけどね。

 批評とはこういうものじゃないとどこかで思っているから、他人が書いた作家論や作品論を読んでも少しも感心しないんです。「これではダメだ。こういうのはもういい」と思ってしまう。というのは、一般の読者よりも作品を正確に読み、しかも微妙なところを逃さずに読んで、作者も気付いていないところに気付き、それを指摘できるのが良い批評だと考えると、批評が推理小説になってしまうんです。たいていの批評は推理小説なんですよ。犯人探しではないけれども、人が気付かないところに気が付くのが良いと批評家自身も思っているし、それが良い批評だと思っているわけです。それならば推理小説の方が良いじゃないか、犯人でも捜している方が良いじゃないかと、どうしても思ってしまうんです。「そんなのは批評じゃない。推理小説と同じじゃないか」と言いたいわけです。

 それじゃ「批評とは何か」と言われれば、こうだと言い切れないところがあって、自分では作品論や作家論をやりたくないから敬遠して、できるだけ非文学的なことを論じているだけなんです。こんなのは批評じゃないと自分ではどこかで思っていて、「それじゃどんなものが批評なのか」と言われると、わかりたいとは思うけれども、どうしてもわからない。今のところ自分の書くものとしては、作品論や作家論はできるだけ敬遠しています。作品論や作家論をやることは誰にだってできる、そんなのは批評じゃないとどこかで思っているわけです。

 今回、山本さんから出されたテーマは「批評について」ですが、そこまでいくと僕はよくわからないところがあるんです。否定的な考えがあるだけで、精緻な作家論や作品論を読んでも、どうしても否定的になてしまう。「いや、違う。そうじゃない」という気持ちになるんです。「そんなものに感心するぐらいなら、エラリー・クイーンの推理小説の方が良いよ」と思ってしまう。批評は推理じゃないと思いながら、「では、何だ」と言われると、言えないんです。それが批評に対する僕の最後の問いなわけです。(吉本隆明『吉本隆明が語る戦後55年 12 批評とは何か/丸山真男について』p. 34-6)

K_NATSUBAK_NATSUBA2007/03/10 01:55どういたしまして。
こちらこそ、背中を押していただいてありがとうです。

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2007-03-01

[] 麻枝准が扱うのは「家族」なのか「親子」なのか  麻枝准が扱うのは「家族」なのか「親子」なのか - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  麻枝准が扱うのは「家族」なのか「親子」なのか - こぐにと。 cognit.  麻枝准が扱うのは「家族」なのか「親子」なのか - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

CLANNADのネタバレあります。

MOON.においては母と娘の関係が描かれた。ONEにおいては親の影はほとんどなかった。Kanonにおいては水瀬家が描かれていた。AIRにおいては母子関係があった。そしてCLANNADでは家族関係があったとされる。さてこれらの特徴をもってして、「麻枝准が扱うのは家族である」と断言できるのだろうか。

思い返してみれば、確かにCLANNADにおいては岡崎家や古川家、坂上家といった複数の家族のことが描かれていた。しかし家族という概念には祖父母が通常含まれる。この祖父母という立ち位置を持つキャラはCLANNADまで排除されており、そして確かにCLANNADにおいて朋也の祖母に当たる女性の姿や、汐にとっての祖父(直幸)・祖父母(秋生&早苗)の姿が出てくることとなった。しかし、そこから麻枝准が家族を扱っていると性急に結論付けるのは早いのではないか。なぜなら、祖父母という位置を持つ彼らはあくまで、「或る子に対する母」「或る子に対する父」として描かれており、「或る孫に対する祖母」や同祖父としての関係性は描かれてはいないからだ。例えば、祖母-孫であるはずの直幸の母-朋也が話す機会はほとんどない。他にも例えば、祖父母-孫関係が立ち顕れるはずの秋生&早苗-汐ですらも、祖父母という感覚よりも父母という感覚が強いだろう。もしこの感覚が正しいのであれば、麻枝准においては、祖父母-孫という間で執り行われる家族関係が希薄であり、『家族』と通常呼びならわされるその関係のほとんどが親子関係に絞られていると言明可能である。その辺りを無視して、「麻枝准が扱っているのは『家族』である」という風に『家族』という言葉で括ってしまうことはいささか乱暴すぎるのではないだろうか。ここではむしろ、「麻枝准が扱っているのは『親子』である」という言辞のほうがしっくりくる。

こうしてCLANNADにおいてほとんど初めて描かれた「祖父母」の位置を持つキャラたちは、その存在の特異性(祖父母ではなくあくまでも父母であるということ)によって、過去の麻枝准の手によるゲームが、家族ではなく親子関係に絞ったものを扱っていると判断する材料ともなりうるだろう。以下略。

まー、核家族とかありますけどね勿論。

[] 麻枝准の語りたいものについて  麻枝准の語りたいものについて - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  麻枝准の語りたいものについて - こぐにと。 cognit.  麻枝准の語りたいものについて - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070301#c1172761502

うまくコメントを読めているか自信が少々ないのと、ちょっと飲んできてかなり大ざっぱになってますが、とりあえず返信です。

親密圏について

親密圏は作品批評には今のところ無用ではないかと。ほとんど何も言っていない。概念が曖昧すぎる。友人まで含んでしまえるようならば、全ての(いわゆる)萌えゲーに適用可能とすら思える。だからこそ以前私は、そうしたノベルゲームに親密圏が適用可能なのは「立ち絵の制限というシステムのせいなのでは」と還元しようとしました。立ち絵を制限しなければならないとき、登場人物の数もまた少なくならざるをえず、関わる人たちに対して必然的に深くコミットすることを要請されるノベルゲームは、そのシステムにおいて親密圏という概念が適用可能な土壌ができあがってしまっているのだ、と。もしこれが正しければ、ほとんどの作品に内在しているものを取り上げても、作家や作品の固有性には何ら届かないので、批評としてはまったく不毛という結論になるのではないかと。親密圏という概念を作品を通して鍛えるなら話は変わりますが、それでも親密圏という概念は使いやすすぎるので、正直かなり怪しい。ジジェクの著書に対して、「対象aは何にでも発見できる。具体性が抹消されている」ていう東先生の反論(『郵便的不安たち#』 p. 331)を想起してしまいます。それに親密圏というのはあくまで公共圏に対置される概念なので、物語に公共-親密という二項の両方がないと妙に収まりが悪い。というか、ただの概念の濫用だと思うのは自分だけですか。

麻枝准と親密圏の関係について

次に麻枝准の語りたいものは本当に「親密圏としての家族的なるもの」なのか、ということについて。結論としては否定的。理由は『ONE』の説明がほとんど不可能だから。以上。

それと家族計画との対比について。

 で「家族計画」を比較対照テキストとして用いることをお勧めしたら、たぶんいろいろぶったたかれるんだろうなあと思ったりもするのだけどあえてしておきます。「家族」=「親密圏としての家族的なる物」の困難と克服の話なので。

という文章がもし、

 で「家族計画」を比較対照テキストとして用いることをお勧めしたら、たぶんいろいろぶったたかれるんだろうなあと思ったりもするのだけどあえてしておきます。双方とも「家族」=「親密圏としての家族的なる物」の困難と克服の話なので。

ということが仰りたいのなら、かなり否定的。理由はhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0202.shtmlの5日とか、あと残りの日付全部も。ここは基本的に今木さんの読解で間違いないと思います。家計とAIRの両者は全然違う。共通しているのはほとんどネタだけ、というのが私の意見。家計とAIRを、両者の差異を際立たせるための比較対照とせよという風に指示してくださっているのなら、もちろん好意的に受け取りますが。それと5日の最後、「AIRはほとんど「孤立せよ」だ」とまとめた今木さんの評はまさに至言ではないかと。

親子を強調する意味について

ではどうして親子という言葉を使われるべきだと書いたのかというと、家族は親子を包摂するものではないからであって、親子という言葉を使うことによって得られるものがあるから。家族という言葉を使うときに頻繁に意識されるのは「血縁」などの概念ですが、しかしその一方で「生誕」などは隠蔽されてしまう傾向にあると思います。しかし親子なら後者、「生誕」がかなり強調される。「俺を生んだのは奴らだ」という風に。個人的にはそういう面を強調したい。そういう観点から、「家族を語るときに先ず親子関係から始まるのは割とふつー」というのには割と疑問です。あと細かく分割できるものは分割したほうが批評的には精確ではないですか。

麻枝准の語りたいもの

少しメタに。親密圏でも家族でもないとしちゃったら、私自身の意見も言わねばならないということで、あくまで個人的に抱いている仮説を少し書いてみます。どうして親子を強調したのか、というと、麻枝准の扱う一貫したモチーフは、「存在と生き方(倫理)」であると考えているからです。親子や家族とかいうのは、それらから二次的に要請されたものだと捉えるのが妥当ではないかと(しかし勿論親子や家族に関しての偏向は認められるので、そうしたものからのアプローチを無碍に否定するものではない)。もちろんこの括りも豪く大ざっぱですが、しかしその内実の詳細は一連の作品内においてそんなにぶれていないかと。生まれ出る、という点で親子と生は切り離せないし、事実、麻枝准作品ではthorwnnessな存在である子にスポットがあたりがちになっている。さらに生きているということは存在するということに置換され、『ONE』の存在の消滅がここで繋がる(浩平の狂騒的な生き方の意義についても言及の必要あり)。そしてここから「生き方」が繋がる、というのは「高みを目指す」という言葉の頻出で解るだろうし、その結実として『智代アフター』を見ることができるんですが、同時に存在と倫理の不可分性すら感じ取れる。例えば、倫理を叫ばなければ存在することを自覚できないという点で。

そうした観点から見ると、作劇上、麻枝准におけるキャラクターたちが死なねばならなかった必然性というものが見えてくる。生き方を描く以上、その生死を射程に入れなければならないから。浩平にせよ真琴にせよ観鈴にせよ渚にせよ朋也にせよ、その生と死は麻枝准が語ろうとするものの必然的な帰結でしかない、と。ここで先ほどの今木さんの言葉がきいてきて、AIRが「孤立せよ」というのは、それぞれのキャラクターがそれぞれの人生を生きているからだとも言える。自分はそのラインで読解を進めて意向と思ってます。

もちろんそこにも親密な関係性はあるにせよ、麻枝准の麻枝准性に迫るにはほとんど有効性を持っていないと思います。

以上。

[] 親密圏とかその辺について  親密圏とかその辺について - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  親密圏とかその辺について - こぐにと。 cognit.  親密圏とかその辺について - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070302#1172850929

テスト前なのでところどころ飛ばしながらお返事。

作品個別の親密性

重要な部分での共通点はそれなりにあります。

家族計画とAIRには家族がネタにされているという重要な共通点はあります。その辺は認めてます。ただし家族といっても、本当に大人数の家族である家計と母娘の二人であるAIRとは人数的にも違うとか(必然的に執り行われるコミュニケーションの形も結構違う)、両者の家族に対しての態度の取り方の違いとか、そういう差異がどうしても目立ってしまい、「空虚な中心としての「家族」に向けての志向性」とまとめられると、どうにも違和感があります。空虚な中心、て言葉がどうにも怪しいような。

後、私は別に「この界隈」に入っているつもりはありません。どの界隈かは良く解らないし、外からそう見られていても別に構いませんが。

そして作品個別における、キャラクターたちの親密さを詳しく調べる価値はあると思います。だから、

「ONE」を説明できないがゆえに親密圏の論議を外すというのも別の意味で狭量な話でしょう。

には同意です。そこは速断がすぎました。申し訳ありません。少なくとも、作品独自の親密さの形など、親密さの内実を闡明することには意義があると思います。

しかしそこで親密圏ていうのを不用意に使うなやゴルァ、というのが前の記事で一番言いたかったのです。

親密圏なんて使うなやゴルァ

まーそもそもですね、昨日もちょろっと書きましたけれど親密圏ていうのは公共圏と分析的に区別される形で両者が同時に扱われないとすわりが悪いような。もちろん親密圏というのを考える上では具体的なコミュニケーションが存在するわけですが、しかしその辺を指して「親密圏が構成されている」とか言うのは不毛で、それだったら「ある作品におけるコミュニケーションの行われ方の特異さ」とか言ったほうが批評的には精確だし、そっちのほうが絶対議論は拡がりうると思います。親密圏という言葉じゃ包括的過ぎる。あと概念の当てはめだけの言説の貧困さとかはわりと泣けますよね。

で、公共圏というのは(確か)政治哲学が発祥の言葉で、公共性や公共圏についてのHabermas ("The Structural Transformation of the Public Sphere"), Giddens ("The Transformation of Intimacy"), Arendtなどの議論があった上で親密圏という概念が出てきたのに、そういう歴史的な議論を無視して、「親密な繋がり」という表面上の繋がりだけで『親密圏』という言葉を批評に濫用するのには反対します、私は。ていうか、文章の薄っぺらさがすぐ解る。そういうときは、用語の混乱を避けるためにも、「親密な関係性」という言葉を使うべきではないかと。でもその言葉だけじゃ曖昧すぎるというのが解るので、もっと議論が拡がる。しかし親密圏という外部の言葉を使ってしまうとそれだけで満足してしまう傾向があると思います。そういうのを防止するためにも、そういう概念が導入されるときは慎重になるべきではないでしょうか。もちろん作品を通して親密圏という概念を鍛えるなら別、というのは前も書いたとおりです。

この前のtukinohaさんの親密圏の定義なんて無茶苦茶とは言いませんが、多少物足りないところもあって、たとえば「具体的な誰かへの関心」というところは「具体的な誰かの生への関心」とすることで、親密圏がArendtの議論と接続可能になるのであり、恐らく親密圏という概念を扱うならそう書くべきだったと思ってます。さらには「関心」だけじゃ本来親密圏がその射程を絞っている点である身体性が見えてこない。あの記事の定義じゃ「Webの相手も具体的他者である」にも広げられてしまうけれど、そうすると圏の概念から逸れてしまうでしょう。だって、圏という言葉を使うからには、Charles Taylorの公共圏と公共的空間の分別を思い出して、前者が「特定の場所をもった空間」、後者が「特定の場所をもたない(metatopicalな)空間」ていう区別を想起する必要すらあるでしょうから。前者は『場所』の議論にも繋がってきたり、Arendtが"The Origins of Totalitarianism"などで場所に関連した議論ついて発展させてますが、面倒なので説明はしません。読者の中で気になった人はご自分でどうぞ。それに親密圏ていっても所詮同胞愛だとか慰めあいだとか内部で閉じているとかいう悪い面もあるので、その辺は公共圏の概念と対比されながら批判されてる部分であり、その辺を無視してどうして親密圏ていうのを使えるのか。そもそも私、この辺はほとんど専門外なんですけど、一連の親密圏とやらの記事において、言葉の使われ方についてはかなり不満を持ちます。もしかして私が無知なだけですか。

ていうことで、その辺の歴史的な議論や背景を無視して『親密圏』という概念を流用するのは不敬ていうか、麻枝准の「家族」を語るのにCLANNADが抜けていることよりも、親密圏に関しての本を読まずに親密圏とかいう概念を自分の言説に流用するほうが論外だと思いますが。Webの言説はレベルが低いと見做されるのは、その辺のせいだと思ってます。読解力不足や無知や不勉強は挽回できるからそんなに咎めないけれど、いい加減な態度は糾弾されてしかるべし、です。もちろん、私がそういうことをしたときはどなたかが糾弾してくださることを願います。

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http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20070303/p1

 不用意に外部の専門用語を導入するのは戒めるべきだ、つーのは前提にして欲しいよな。

前提に書いていなかったのがまずかったのでしょうか。うーん…。

 書かないコトで描く、映さないコトで意識させる、とかの技法は物語にはあるので。

 つまり、物語内部に無くても、外部にあれば収められる。

それは確かにあると思います。これと、その一つ上の指摘に関しては、仰るとおり再考が必要だと感じました。crow_henmiさんとあわせて、お二方にはご迷惑をおかけしたことお詫びします。

 あと。近年的には、親密圏に関してはむしろその変容・変遷(それこそネット社会がどーのとかも込みで)って部分で論考の対象になってたりすんじゃねえかなあ。

うーん、だからこそ親密圏という概念が曖昧すぎて、今のところ批評とかでその言葉を使うには慎重になるべきだと思ってるんですが。

『ひぐらし』なんかはそれで考察出来るんじゃねえかな。あれは構成された親密圏のメンバーを「仲間」と言っていて、そのような関係の問題点も(多層的に)描いてたしね。

そうやって親密圏という概念を作品を通して鍛えていくのは賛成です。他にも例えば、関心を持つことと監視することを繋いで、昨今の監視社会問題にも繋ぎつつ発展させていくことはできると思うし、親密圏とその安全性を考慮して、山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』とかいった議論にもつなげられると思うんですよ。ポテンシャルは高そうだから、余計濫用してほしくないというか。

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トラックバックが来てなかったので今頃気づきました…。既に収めていただいたところ、議論を蒸し返すようで悪いのですが、謝罪するところは謝罪しておかねば余りに悪いので、追記しておきます。

先日からの宿題だからここでついでに云っておきますが、イリヤは読めてもハルヒは読めない、みたいなことを、両方とも読まずに平気で語れてしまうデリカシーのなさというのも、こういう基準からすれば糾弾に値するものだと思いますよ。

はい。これについては糾弾に値すると思います。少なくとも作品を読んでないうちに作品そのものの評価をするべきではない。できるだけ注意はしているつもりですが、傍からみると幾度もその禁を破っているように映ることも多々あったかと思います。その点についてはご指摘の通り、お詫びするばかりです。ただ例に挙げられている部分は「ハルヒとイリヤならイリヤを読む」と書いて優先順位をつけただけで、読めないとかそういうことではありません。Forestについても、あくまで評判からの推測であることを強調したり、作品評価よりももうちょっと一般化した個人の嗜好レベルでの語りにしていたつもりでしたが、その点からして既に禁を破っていたかもしれないこと、それに加えて巧く書けていなかったことには私自身の責任にあると思います。

さらに云えば、親密圏についての本を読んでないとか決め付けられてひどく迷惑です。ぼくからは立証も反証もするつもりがないので、明確にぼくがその手の本を読んでないことを論証するか、さもなければ謝罪してくだされば幸いです。云いだしたのはあなたなんですから。

これについても速断が過ぎました。ないことを立証するのはいわゆる『悪魔の証明』になりますので、こちらから立証することはできません。推論で決め付けたこと、遅ればせながら謝罪いたします。申し訳ありません。一応当推論の理由を付け加えて起きますと、親密圏という語の使われ方に不自然さを感じたから、です。その不自然さに対しての疑念の一部はrulia046さんによって当方の間違いではないかと指摘されておりますので、その点はこちらの曲解を認めており、本当に申し訳なく思っています。

話は今回の件より少し広がりますが、学術の言葉を使った、判断に困る微妙な議論やエントリを何度か見てきた過去があります。何度か言及しようと思ったもののスルーしてきたのですが、最近はもう溜まりに溜まったのか、ゴルァという言葉を使って喧嘩を売るぐらいに不快に感じており、今回はそれをパフォーマティヴに示したかったのです。crow_henmiさん宛てだけではなく、それこそ全体に向けて。外部の言葉を使うなら慎重に、というのは、ブログにおいて学術の言葉を使うことは学術のところに少し入り込んで発言しようとする意図を含むわけですから、余所者として学問に礼儀を払わねばならないだろう、と。具体的には、せめて言葉に対して理解を勤める態度を見せる。語の誤用をできるだけ正し、間違った意味を広めないようにする。そうしたことに付随する文献調査が面倒なら日常的な言葉を使えばそれでいい。などなど。そうした礼儀ができているかいないかの判断は確かに難しいと思います。実際に理解に勤めたかどうかなんて、「他人なんだから互いの精神活動なんて解らないに決まってるじゃないか」という変な意見の力でスルーされれば終わりでしょう。しかしあまりに寛容すぎると馴れ合いに陥り全体の言説が腐っていくだけで、厳しめに乱暴に判断する人も必要なんじゃないかと。欧米の大学では剽窃すれば退学になるぐらい、過去の蓄積に関しての態度は厳しいし、剽窃かどうか疑われること自体も厳しいのですし。そんな考えから、それこそネットは親密圏などではなく公共的空間であることを考慮し、せめて自分の眼の届く範囲では、公共の利益のために(と当然私憤も含みながら)下品に噛み付くのが良いのではないかと考えた次第です。でも正直お互いに心労が堪りすぎると思いますので、もう全部やめます。

今回の件については色々ご迷惑をおかけしました。

crow_henmicrow_henmi2007/03/02 00:05そうねえ。家族を語るときに先ず親子関係から始まるのは割とふつー。んで、家族が親子とほぼ同一視されるのは戦後の潮流からして割とふつー。さらにいえば友達とかとの関係が擬似家族的なものとして扱われるのも割とふつー。いずれも前提条件として「身近にいる存在=家族的なもの」であるという共通点に触れるべきかも。麻枝准の語りたいものは「親密圏としての家族的なるもの」と捉えるほうが良いかもしれません。とか。

crow_henmicrow_henmi2007/03/02 00:10つまり核家族化において祖母とか親戚とか云うものはキャラクターの親密圏からあらかじめ疎外されていると。ゆえに「家族」たりえないと。逆に友達とかの場合、親密圏内にいるので(実際のところそんな親密な友達関係なんて余りないと思うけど)「家族的なるもの」として扱われると。まあそんな感じじゃないですかね。
 で「家族計画」を比較対照テキストとして用いることをお勧めしたら、たぶんいろいろぶったたかれるんだろうなあと思ったりもするのだけどあえてしておきます。「家族」=「親密圏としての家族的なる物」の困難と克服の話なので。

crow_henmicrow_henmi2007/03/03 13:47そうねえ。cogniさんの品位と対人コミュニケーション訓練のためひとつ申し上げておくと「バカにバカといって何が悪いんだバカ」という態度は、世間では一般的に喧嘩を売っている態度とみなされます。ぼくとしてはまあ、そのように捉えることも出来るのですが一応保留して、そのことを指摘するにとどめておきます。同じことをいうにしてももう少し云いようがあるんじゃないかと思いますよ。いや、本当に喧嘩売ってるなら話は別ですけど。

crow_henmicrow_henmi2007/03/03 13:51ちなみに上記コメントに含まれた皮肉分はそちらの態度への等分の応酬ということで。あとはエスカレートさせるなりクールダウンするなりお好きにどうぞ。

crow_henmicrow_henmi2007/03/03 14:02で、前置きは置いといて、親密圏という言葉をうかつに使うな、という意見には賛成です。ところで親密圏というのは公共圏と対比されるべき言葉ですが、では公共圏はいかにして描かれるのか/描かれないのか、という部分まで視野を伸ばすことで親密圏論議についての一応の誠実さというのが成立しうるでしょうか。これについてぼくとしては「公共圏の主観的後景化」からの逆疎外として親密圏が立ち上がってくる、というような見方をしています。これが語句的に不適切であるというなら、社会や世界、という広い視野や関係を欠き、分子化した個人であるところの主人公は、個人的・近縁的親密関係にしか依拠し得ない、ということで。

cognicogni2007/03/03 14:30喧嘩売るぐらいの口汚さは自覚してます。自分の品位を貶める行為というのも解ってるつもりです。でも正直、そう書いてしまうぐらい、Web上の言説の態度には常々苛々してるし、今回の場合は私とcrow_henmiさんの互いのためにも、厳しくやったほうがいいという意見の表明が今回のです。それにこれはエゴかもしれませんが、互いの甘さを注意しあう関係のほうが良いと思います。だから、今回の口汚さの指摘には感謝いたします。もう少し良い言い方を考えるべきでした。
もし以上の補記でも納得がいかないのでしたら、こういう意見交換はリアルタイムでやったほうが早いので、チャットでも何でも用意してそこで話すこともやぶさかじゃありませんし、電話をかけることすら許容範囲内のつもりでの発言です、と付け加えておきます。ほんとスルー力がないな、とかそういうこと言われそうですが。

で。
>親密圏論議についての一応の誠実さというのが成立しうるでしょうか。
しうるんじゃないでしょうか。

>社会や世界、という広い視野や関係を欠き、分子化した個人であるところの主人公は、個人的・近縁的親密関係にしか依拠し得ない、ということで。
に関しては、作品にもよりますが、エロゲー全般の主人公は高校生ぐらいの人物が多いため社会的な視野を持っていない、などといったことが幾度か議論されているので、その線で行けば妥当なのではないかと思います。ただ、それだと親密圏=セカイ系にも近接しそうですが、その辺はどうなんでしょう。
ちなみにここでArendtの議論をもってくれば、社会的なものの影響力の拡大によって、人は広い公共の場所で社会的な仮面をかぶることを強制された結果、逆に安心を求めて抗争が起こらない人々との間で親密性を育もうとした、という背景がある、という風になります。もしかしたら、背景に流れるこうした議論もそちらの論に援用できるのではないでしょうか。

rulia046rulia0462007/03/03 15:24 あ。や。この件、おれは関係なかったし、別に迷惑被ったわけでもないし、特に気分害されたりもしてないので。謝罪されるいわれもなく。
「前提にして欲しいよな」に関しては、一般論として、みんなもっと気をつけて欲しいよなあ、って意味。責めてるわけじゃなく。

crow_henmicrow_henmi2007/03/03 15:37んー、まあ、こちらも少しエキサイトしたので申し訳ないです。ただまあ、互いの目の中の梁を意識しないまま他人の目の塵を大げさに論難するというのは余り好きではなく。互いにバカだねえとクネクネするのもアレですがパイの投げ合いするのも好きでないので程々がいいなというのがぼくのスタンスですが。
 それはそうとして。セカイ系への近接はこのルートでも可能でしょうし、相応のタクティクスが組めると思いますが、これについてはまあ、熟考が必要なのではないかと。なにしろセカイ系自体がかなり掴みがたい代物ですので。
 社会的なものの影響力の拡大によって、人は広い公共の場所で社会的な仮面をかぶることを強制された結果、逆に安心を求めて抗争が起こらない人々との間で親密性を育もうとした、という背景がある、というのは、ひとつの解釈としてありなんじゃないかと思います。さらにいえば社会による主体の規格化・馴化とそれへの反駁という問題にもつなげられたりするかもしれません。とか。

cognicogni2007/03/04 10:40>rulia046さん
ええと、私が間違ったことを言ったから謝罪しました。
あと「前提にしてほしいよな」についての補記、どうもありがとうございます。それについては同意見です。

>crow_henmiさん
スタンスについて、了解しました。
セカイ系は確かに曖昧模糊としたものなので語りにくいですが、「社会や世界、という広い視野や関係を欠き」という言辞を見るとどうしても思い出してしまいます。また、こうしたオタク系の言述を避けて、(crow_henmiさんが興味をお持ちであろう)社会問題のほうに目を向けるのならば、「社会的な連帯感や抽象的他者への共感が失われてきて、親密さに依拠せざるをえなくなってきた」という風に広げることも可能ではないかなと思います。例えば具体的には、年金未納や給食費未納の問題が社会的連帯感の縮小によるものだとか、社会的な連帯感から国民的な連帯感への移行としてのナショナリズムとか。この辺りこの前本を読んで面白そうだと思ったのですが、私にはどうにも荷が重過ぎる議題だな、と感じているところです。

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