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2007-03-11

[] CRPGにおける抽象的な他人としての村人の存在と演出的観点から見たときの彼らの役割についての感想  CRPGにおける抽象的な他人としての村人の存在と演出的観点から見たときの彼らの役割についての感想 - こぐにと。 cognit. を含むブックマーク はてなブックマーク -  CRPGにおける抽象的な他人としての村人の存在と演出的観点から見たときの彼らの役割についての感想 - こぐにと。 cognit.  CRPGにおける抽象的な他人としての村人の存在と演出的観点から見たときの彼らの役割についての感想 - こぐにと。 cognit. のブックマークコメント

お恥ずかしい身の上話から始めると、元々RPGばかりやっていた人間でして、自分のRPGの評価基準が物語内容だったりしたことを指摘されて、純粋に物語を楽しみたいのなら小説やノベルゲームを読めばいいじゃない、ということをアントワネットライクに従兄弟に言われたものの、「はっ、ギャルゲーなんて軟派な男のやるものだ」などと見下していた日々が続いたのですが、ある日先輩から貸してもらったKanonをプレイして舞シナリオを終えたとき、そこには両目から一筋の涙を流しながら呆然とする一人の鍵っ子が生まれていたのでした…。改宗の瞬間は美化されがちです。うぐぅ。

とまぁ、そんな感じでCRPGには結構興味があるわけですが、さて、「日本で一般的に<RPG>といったときに一番メジャーに想起されるもの」(copyright: hiyokoyaさん)をRPGとこのエントリでは呼ぶことにして、具体例としてはドラクエやFFなどを考えている一方で、<ギャルゲー>をKanonや痕などと相似のシステムを持つノベルゲーム、としたとき、両者は同じように物語が主導になる『物語ゲーム』だ、という意見があると思います。その意見にはもちろん同調するもので、両者には主人公や周りのサブキャラ、攻略キャラなどが出てきて、物語が主導で進んでいくという類似点はあります。しかし、ここで差異があるとすれば、RPGのほうには村人がいてギャルゲーにはそういうのがほとんどいない、ということが指摘できるのでないかと。

この村人と呼ばれる存在は、サブキャラとはまた位相が違い、同じドット絵が流用されたり、物語のメインには関わってこなかったり、同じ台詞ばかり喋ったり(e.g. 「ここは○○の街だよ!」)、武器を売ってくれたり、それ「村人として出てきている人が世界の住人全員だとしたら、世界人口少なすぎだろ…」とか思ったり、彼らには性格がほとんど与えられず、非常に抽象的ですが、しかし同時に身体を与えられており可視的な人間として現われていて、抽象的ながらも物語に参与することもある。例えばワイルドアームズ1だったと思いますが、そこでは主人公ロディが助けた村で、村人から追い出されるということがあります。ここでは村人が抽象的な他人として出てきていて、村の閉塞さや集団圧力、もしくは共同体などをうまく示せている。これは村人に性格というものが付与されず、抽象的であるからこそできた演出であると思います。また、ドラクエ6だったと思いますが、村人がモンスターに襲われるというイベントもあります。ここでは身体の面が強調されている。こういう演出は、同じく物語を主導とするギャルゲーにはできないもので、CRPGができるものであり、映画に近い感じを受けます。

例えばこれを一般的な言辞に回収させると、こんな感じになるのではないかと。

物語における多様性は、プレイヤーが物語を経験する各個人ごとの文脈が多様だという話だけにとどまらず、土台となる物語の表現が多様性を持っていますね。そこのところで物語ゲームというメディアの解釈の多様性はかなり緩く組みあげられたものです。

http://www.critiqueofgames.net/talk/009.html

この意見には同調するもので、やはり、RPGとギャルゲーは物語ゲームでも割と違う。その一つの具体例として、RPGでは抽象的他者の存在を、村人というキャラクターによって示せる、という点があるのではないか、ということです。そしてここで大袈裟に捉えてみれば、そうした抽象的他者としての村人の存在の変遷が、ある種、何か現代社会の様相を示しうるんじゃないかということです。ちょっと前の議論を踏まえれば、公共性とかそういう風に呼ばれるものを。

また、同じhiyokoyaさんのサイトから参照すると、こんな文章もあります。

FFの町とか村人とかは全部、一つの大きな物体の付属品でしかないんだけれども、DQの場合はそういった如何にも物語的な構造性を拒否して、もっと独立した生活を勝手に生きている村人とか町とかがあって、という形で世界全体がすごいくっきりと立ちあがってるんだよね。

http://www.critiqueofgames.net/talk/005_4.html

まー、だから、旅をする=全く違う場所に一回性の移動をする(http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070201/p1などの議論)、ていうことが抽象的な他人と会う機会が増える、ということなのかもしれません。ですが、それは抽象的だからこそ、効果を発揮するのだ、ということで。

物語から離れたところはあんまり話されていないようなので、とりあえず感想までに。

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