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| こぐにと。はTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』を応援しています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
よっしゃ。私もeの人から電波を受け取ろう。
仮に90年代がトラウマで00年代が契約としよう。
トラウマとは常々隠ぺいされた過去の記憶であり、人の内面における証拠なき傷である。事実その無根拠性によって、精神科医による記憶のねつ造という問題が指摘されたのは記憶に新しい。またここで思い出してほしいのは、トラウマと同時に俎上に上がるモチーフとしてしばしば「約束」があることである。Kanonを始めとした物語においては、隠ぺい・忘却された過去の「約束」によって登場人物は駆動されることになり、この構造はまさにトラウマと同一である。さらにここで約束と契約の違いについて明確にしておこう。これらの違いは主に、二者間で執り行われる約束と第三者による承認を経る契約、ということにある。事実ほとんどの「約束=トラウマ」は証拠として残らない場所で取り交わされる記憶であり、もしくは二者間によって取り交わされる声であり、関係者本人のみが預かるものである。逆に契約は常に何らかの文書、もしくは紋様として身体に刻まれ、第三者からの承認、認識が可能になる。そうしてこれらの紋様=身体への傷は、第三者の承認を経由することによって、動機への明白な理由となり、人物がある事態へengagementを深める「誰もが認める」理由となる。事実、90年代後半に問題となったリストカット思い返せば、それは身体へ明らかな証拠を刻む衝動ではなかったか。我々は辛い過去による現在の動機の発現を証明するための証拠が何らかとして外部に必要だったのだ。そして時代は00年代に入り、その中間地点にあるのがFateであり、主人公である士郎は背中の傷とともに外傷(トラウマ)を負い、その先にある『ゼロの使い魔』では過去の理由は取り除かれ純粋に外部から齎された契約の遂行がはじめての動機となり、そこから内面を形成していく。ここで注意したいのは、内面から出発したトラウマは、外傷を経て契約へと変化し、ついに我々は純粋な契約を介して第三者による承認を得ることを始まりとして内面を形成する、といった逆転が徐々に進行したということだ。
つまり、90年代から00年代への移行は、トラウマという証拠なき内面の外傷から始まり、トラウマの外部化の開始、そして外傷は徐々に独立していき、そして契約という完全なる外傷によって内面が駆動されるといった、モチーフの連続的な変遷の歴史として語られうる。そう、決して90年代と00年代に溝はないのだ。そしてきっと次の時代にも。
電波が伝播してゆくこの戯言めいた幸福。僕たちは連なり続いてゆくんだ。
記憶のねつ造(多重人格も含め)に関しては Ian Hacking の本が90年代中盤(翻訳は後半)、その後齊藤環先生が出だしたのが98年で、『戦闘美少女』ではリストカットも俎上にあげられてます。そこから美少女ゲームって感じでしょうか(99年にKanon)。結構偏ってる史になってますが。
90年代前半に関しては、申し訳ないのですが私は分からないです(物心ついてなかった時代なので)。
あと、http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080924という優良エントリもありがとうございます。
メンヘラ・メンヘルという言葉が一般化するのは2ちゃんねる成立以降で、躁鬱板がメンタルヘルス板になるのは2000年。ネットの普及によってメンタルヘルスに変調を抱えた人が見えやすくなって、メンヘル・メンヘラという言葉がカジュアル化したのは00年代だと思う。
フィクションのネタとしてはむしろ扱いにくくなっている気もするけれど。
あと、リストカットを題材にしているのは『戦闘美少女』じゃなくて『思春期』のほうでした。2003年発刊。こちらも誤認でした。すみません。なお同年に『心理学化する社会――なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』も発刊したようですね。
下のDIGRAとも関係しますが、夏場さんが引用しているリストカットに関する統計みたいなものを娯楽作品上で行うには、やはりアーカイブが大事だなと感じる次第です。