BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

2008-06-16

[]嗤う日本フェティシズム 20:20 嗤う日本のフェティシズム - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 嗤う日本のフェティシズム - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

抜きゲーがいかにして過剰さを帯び、それがネタとして受容されるようになったかについて、少しばかり書きたい。

抜きゲーというものはすなわち自慰のツールであり、それゆえに「自慰アイロニー」に束縛される存在であった。自慰の後、人はおおむね虚しさを抱える。己の性的幻想を野放図に展開してエクスタシーを得た後、その野放図さに人としての恥じらいを覚えるが故に、自慰及び自慰のツールであるエロゲ自己の間を切断操作する――すなわち「ネタ化」する必然を覚える。それが「自慰アイロニー」の構造だといえる。

このようなアイロニーに支配されたエロゲは、現実水準から遊離し、過剰さとフェティシズムの方向へと牽引される。性的幻想自体が現実水準から遊離すればするほど、性的刺激は増し、一方で「切断操作」がより容易となるからだ。かくして、素面の状態では冗談としか思えないようなエロが、エロゲという文脈の中では存在可能――むしろそれこそが望ましいものとして現出するようになる。

しかし、そのアイロニーがある閾値を越えた辺りで、アイロニーそのものが自己目的化する。エロを見て性欲を発散するのではなく、エロをアイロニカルな「嗤い」の対象とするようになるのだ。これはエロゲのみならず、エロマンガAVなどにも当てはめ得る構造であるといえる。

――戯言だけどね

2007-06-25

[]美少女ゲーム評論史について(メモ07:49 美少女ゲーム評論史について(メモ) - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 美少女ゲーム評論史について(メモ) - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

美少女ゲームに関して文芸評論的アプローチが用いられ始めたのはいつごろで、どのような契機があったのか、ということについて少し考え込んでみたり。特に現代思想の援用が顕著となったのはいつごろかとか、なぜそうなったのか、とか。

口さがない人たちに云わせれば、エロゲなんかにマジ泣きしているキモい自分を正当化するための理論武装、ということになるのかもしれないけど、それではかなり抜け落ちたところがある。マジ泣きさせられる程度にはプレイヤーの内面に届く内容を備えた、部分的にしろ文芸的な作品がジャンルの爛熟によって増加してきたことと「ぼくら」の感性動物化に対する一種の抵抗として近代的アプローチが取られたこと、などがあるんじゃないかな、とか思ったりもする。

で、それらはVNの隆盛と共に顕在化したものなので、テクスト論が先行した、とか。そんな構図を考えてみたけど、98年より昔のことは知らないし、03年くらいまでその方面には興味がなかったので、傍証を伴わない単なる思い付きにしかできない。誰か資料と実体験を兼ね備えた人がやってくれないものかなあ。

2007-06-15

[]八岐の園と虚ろな楽園 06:00 八岐の園と虚ろな楽園 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 八岐の園と虚ろな楽園 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

本家のエントリコピー

マルチシナリオノベルゲーについて。

究極のマルチシナリオノベルゲーの理念はボルヘス「八岐の園」に描かれている。つまり無限選択肢パターンを持つ物語を指向する、というのがそれだ。しかし実際のノベルゲーは物理限界に囚われているので、有限性に敗北し続ける。ならばその有限のパターンコンプリさせる/すること(これを自分語で「コンプリートという審級」と呼ぶ)がツクリテとユーザーの眼目になる。その辺をアイロニカルにやるとループゲーになるということ、CROSS†CHANNELFate/Hollow Ataraxiaで、その辺りについて自己言及的に描かれている、というのは何度か書いたことがあるけど、まあ、ループゲーにちなんで「同じことを繰り返す」のもまた良しかも。

で、今回は余り言及しなかったFate/HWについて少しメモ

Fate/HWが特徴的なのは、別に主人公がループに「飽きた」と云ってること、そこから脱出しようとしていることではない。こうした方向性はおおむねループゲームには含まれてて、主要な命題となっている。むしろ「飽きた」という強がりを云わせるほどに、幸福な繰り返しが魅惑的であるという主張を織り込んでいることこそ、特徴的な部分といえる。

ループゲーが有限性に囚われたマルチシナリオノベルゲーの変奏であり、その反復がマルチシナリオを何度も繰り返すことの変奏である、という観点からすると、「終わらせる」方向にプレイヤーを誘導するように作られている大半のループゲーは、コンプリートという審級――つまりは物語を「完成させようとする」書き手と読み手の欲望に忠実であると解釈できる。

一方、HWはそれを緩やかに迂回し、延々と飽きるまで同じことを繰り返すことを許容していて、物語のケリをつけても、延々と同じことを繰り返すことが許された構造になっている。物語を「完成させること」がゲームの終わりではなく、そこにあるものを享受し続けたいと思う限り享受してよい、というおおらかな態度がそこにある。テキストは大半のループゲー同様、終わりへとひたすら指向する話なのに、ゲームシステムはそうではない。この捩れはいったい何に起因しているのか、少し興味があるのだけど、とりあえずここまで。気が向いたら続きを。

2007-05-10

[]kanonにおける主人公立場メモ18:39 kanonにおける主人公の立場(メモ) - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - kanonにおける主人公の立場(メモ) - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

kanonにおいて相沢祐一立場「奇跡」つまりは外部的事象と直面する/それを引き込む人間、すなわち奇跡の介在者といえる。というところから、中心=周縁論や象徴界の衰微について何か書こうと思ったけど、ちょっとまとまらないのでとりあえずメモ。いろいろ膨らみそうなそうでないような。

2007-04-19

[]コードギアスにおける断絶の構造 17:47 コードギアスにおける断絶の構造 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - コードギアスにおける断絶の構造 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

コードギアスについて面白い批評が読みたいとcogniさんが書いてたのにインスパイアされて、多分面白くないけど、所感をメモしておく。

ナナリーが幸せに暮らせる世界を作る、ということと、ギアスの力を用いて世界を革命する、ということは、実際のところ全然違うベクトルにある。ナナリーは確かにブリタニアというシステム犠牲者であるのだけど、現在をそれなりに幸せに生きている。ブリタニアというシステム破壊やそれへの復讐は、ナナリーの幸せとは結びつきにくい、むしろ場合によってはその幸せ破壊しかねないものである、といえる。しかしルルーシュがそれを省みることはほとんどない。

大体「○○のために」などという題目が真にその対象のためであることなどほとんどない。それは基本的に自分のため、あるいは自分がそうであろうと心に抱く対象のイメージ――すなわち他我のためであるといえる。対象がそれによって益を得るか、などというのは、基本的に「暗闇への跳躍」の向こう側にある。さらにいえば、自分のため、ということさえあやふやだったりする。欲望というものの全体像を明確に認識することは困難で、常にある種のバイアスのかかった視座からその断面をみて「大体こんなもんだろう」ということしかできない。超越的な欲望も明瞭な関係性もそこには存在していないのだ。そうした困難といかにして向き合い、制御するか、という便宜性の問題が、常に生には付きまとっている。

ルルーシュはそうした問題の内側に立ち止まっている存在だと思う。ギアスという強い力を手に入れたため、自らの欲望を見下ろす視座が急速に変化し「真の欲望に気づいてしまった」と思い込んでいるに過ぎない。この力を使ってナナリーを(自分が思いこんでいるような形で)幸せにしてみせる、ブリタニアをぶっ壊してみせる――そうした欲望は、C.C.との出会いによって初めてそこに存在することを許されたものに過ぎないのに、それがあらかじめそこにあったものであるかのように錯覚し、行動してしまう。それが果たして、自己の欲望の適切な現出方法であるか、あるいは他者にとって本当に有益なことであるのか、そうしたことに思いをはせることは余りない。そこにこの物語の悲劇の根幹がある。

で、ここはギャルゲーについて語る場なので、ギャルゲーに敷衍する。恋愛関係においても、こうした錯誤とディスコミュニケーションの体系というのは存在している。その困難を乗り越えることにより、真に対幻想的な関係を構築できるかどうか、というのは、結構古典的でありながら、等閑にされてきたテーマであるように思える。というわけで、少しこっちの方面について考えることにしてみたい。

追記

ルルーシュはナナリーのことが全然理解できてないと思う。一度聞いてみればいいと思うよ。「ブリタニアをぶっ潰してお前が幸せな世界を作ろうと思ってるんだけど、どう思う?」って。ナナリーは首を横に振ると思うね。今がそれなりに幸せだって。お兄様にそんなことさせたくないって。で、今頃ようやくルルーシュはそれに気づいてるんだけど、時すでに遅し、帰還不可能点を越えてしまった。ので、もう前に進むしかないという按配。もうね。これだから厨は。という話でもあり。

でもまあ、問題が問題として現出していて、その失敗者の破滅への疾走をうまく描き出している、という点においては評価できる。つか、意図的にそういう話を書いている。この点「デスノート」とは全く違った話である証左。