BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

2006-12-30

[]人称と感情移入関連(2) 00:47 人称と感情移入関連(2) - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 人称と感情移入関連(2) - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20061228/p1

最初に結論。「一人称主人公への特定的感情移入のためのメソッドである」。

三人称においては主人公立場にあるキャラクターの描写は強くなる傾向があり、それがそのキャラクターへの特定的感情移入の補助線として機能するでしょう。群像劇においてはまた話は異なりますが、そこまでいくと主人公感情移入するという問題定義自体が消失するので問題はないと思います。

女性主人公云々については「女性には感情移入できないのか」という質問を返したいところです。というか、女性にもおおむね問題なく感情移入できるでしょう。

そも、感情移入自体は人間のみならず動物無機物に対しても開かれた広い感情なので、人称ごときで出来たり出来なかったりするものではあるまいと。一人称は「わたし≒彼(あるいは彼女)」への特定的感情移入の補助線です。ぼくらがりゅうのすけのような無色に近いキャラから黒須太一衛宮士郎、あるいは比良坂初音のような異様なキャラクターまで、幅広い主人公感情移入できるのは、人間本来の感情移入能力の幅広さによるものでありますが、それに「特定的感情移入」を誘うのは一人称である、という感じでしょうか。こじつけくさいですね。

えと。ついでに書いておきますが「感情移入困難なキャラクターを「わたし≒彼」に設定する」ということもままあります。あるいは不慮の事故でそういうことが起こります。そうした場合は「わたし」と「彼」の間に強い乖離が生じ、主人公痛烈にDisる現象が起きたり、主人公を突き放した視線で見つめることとなります。たぶん。

2006-12-28

[]人称と感情移入関連 11:33 人称と感情移入関連 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 人称と感情移入関連 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/Kadzuki/20061227/1167233185

主人公に固定の名前がついて、その名前をボイス付き感情入りで呼んで喘いでいるにも関わらず、なぜそこにBL同様の「本人不在」の発想が入り込まないのか。広義のNTRとならないのか。

これについては人称による感情移入が関係が深いと思います。一人称小説において「わたし」は主人公のことであり、読み手のことではありません。にもかかわらず、ぼくらは「わたし」であるところの「彼」に感情移入をするのです。「わたし≒彼」とプレイヤー感情移入関係が「本人不在」の発想を緩和する傾向があるように思えます。これは下記の疑問においても同様でしょう。

・「なぜたかだか本編中たった数回の(感情・言動レベルの)選択肢を決定するだけで『男性主人公プレイヤー』であることが自明のように論じられるのか」という違和感

すでに人称と視点により感情移入への導入が図られている以上、意思決定はつけたりといっても良いのではないでしょうか。また、コンプリート前提プレイ、あるいは複数回プレイ前提の場合は、意思決定自体が決定的に重要ではなくなります。ノベルにおける意思決定は基本的には余り大きな影響を感情移入にもたらしてはいないのではないでしょうか。

あと。

触手(注:触手モンスターによる3DダンジョンものはDOS時代に存在しているがそれとは別)という「陵辱だけのための存在」。ほぼ間違いなく?交配・妊娠しない、不毛*1な行為と、直接女性に手を下さない男性キャラの「分業体制」。

これは欲望の代行者としての触手、という位置づけが可能かもしれません。陵辱物における被虐の極致を、感情移入の対象としての主人公に直接行わせるのではなく、やや距離を置くことで、陵辱の主体としての抵抗感を除去しつつ、純粋ヒロインの被虐を「見る」ことで快楽を得る、という形ではないかと。そのような観点からすれば、主人公鬼畜な陵辱物より、触手陵辱物のほうがよりマイルドである、といえるのではないかと思います。

2006-12-10

[]人でなしとの恋 06:49 人でなしとの恋 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 人でなしとの恋 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061209#1165635892

世界喪失者の自己の生の活路としての透谷的恋愛を描く際、その相手は同様の世界喪失者、あるいは誘い手としての「彼岸存在=怪物」であれば、透谷的恋愛宿命――自己観念としての恋愛が世界≒他者としての恋愛相手によって否定されること――を克服できるのではないか、ということについて本家で少し書きました。世界喪失者――世界から排斥され疎外されたものはすでにして「世界」にとっての怪物であり、それゆえ同様の怪物とのみ、世界に対する共闘を前提にして真の相互理解・依存関係を形成できるのではないか、ということです。近代的純愛のひとつの基礎はこうした極限まで推し進めないと成立しないのです。美少女ゲームにおいては「アトラク=ナクア」「沙耶の唄」辺りがこうしたモチーフを取り扱っています。そこらの純愛ゲーが避けて通る「恋愛観念の他者性への敗北」という問題を真摯に見つめるとこうなるという話で、純愛ゲーを語る際のひとつの到達点として語るべき作品ではないかとバカ歴史を語っておきます。

2006-12-01

[]「雫」における恋愛観念とその敗北 22:35 「雫」における恋愛観念とその敗北 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side) を含むブックマーク はてなブックマーク - 「雫」における恋愛観念とその敗北 - BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061201#1164964842

「雫」の近代文学的特質――「近代的自我の世界との対峙」と、それゆえに起こる「観念としての恋愛の実体による否定・挫折」について本家のほうで少し書きました。以下は内容のダイジェストですが、つまりは祐介が瑠璃子さんを失うのはその観念性・自閉性が実体としての瑠璃子さんと齟齬をきたすからである、ということと、こうした構図――自己と他者との、観念と実体との齟齬というモチーフが中心的なものとして取り上げられているゲームが「雫」以前以後においてどのような形で存在していた/いなかったかへの疑問が中心です。

補記しますと、個人的にはエポックメイキングな作品ではなかったかと思われます。それ以前の美少女ゲームが「同級生2」に代表されるような、攻略性・願望充足性が前面に押し出されたものであるのに対し「雫」はそうしたあり方とは根本的に違う場所にあるように思えます。大半のゲームが自己幻想・対幻想的であるのに対し「雫」はそうした幻想に近代的自己が挫折する話として描かれていて*1、これは特筆すべき点ではないか、と思えます。特に「雫」が「葉鍵ストリームの最初の作品でありVNブームのさきがけとなったという史的位置にあることからすれば、なおさらその特異さが目立つのではないかと思います。

ちなみに「雫」の近代文学モチーフは一部の欝・電波系作品に継承されますが、これは以後の美少女ゲーム界のメインストリームになりえませんでした。なぜならば、これは究極的には幻想の、ひいては「恋愛」の現実への敗北を意味しているからです。そうしたものは「恋愛」を第一義とする純愛ゲームストリームにも、「欲望充足」を第一義とする陵辱ゲーのストリームにも必要ではない、むしろ邪魔だったといえるでしょう。

と、個人的ゲーム史観に基づくバカ歴史ですが、とりあえずうpしておきますね。

*1:勿論通常のゲームでもバッドエンドとはそのようなものですが「雫」においては基本構造ならびにトゥルーエンドがそれを強く指し示しているという意味で特徴的です。