BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

2007-06-15

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マルチシナリオノベルゲーについて。

究極のマルチシナリオノベルゲーの理念はボルヘス「八岐の園」に描かれている。つまり無限選択肢パターンを持つ物語を指向する、というのがそれだ。しかし実際のノベルゲーは物理限界に囚われているので、有限性に敗北し続ける。ならばその有限のパターンコンプリさせる/すること(これを自分語で「コンプリートという審級」と呼ぶ)がツクリテとユーザーの眼目になる。その辺をアイロニカルにやるとループゲーになるということ、CROSS†CHANNELFate/Hollow Ataraxiaで、その辺りについて自己言及的に描かれている、というのは何度か書いたことがあるけど、まあ、ループゲーにちなんで「同じことを繰り返す」のもまた良しかも。

で、今回は余り言及しなかったFate/HWについて少しメモ

Fate/HWが特徴的なのは、別に主人公がループに「飽きた」と云ってること、そこから脱出しようとしていることではない。こうした方向性はおおむねループゲームには含まれてて、主要な命題となっている。むしろ「飽きた」という強がりを云わせるほどに、幸福な繰り返しが魅惑的であるという主張を織り込んでいることこそ、特徴的な部分といえる。

ループゲーが有限性に囚われたマルチシナリオノベルゲーの変奏であり、その反復がマルチシナリオを何度も繰り返すことの変奏である、という観点からすると、「終わらせる」方向にプレイヤーを誘導するように作られている大半のループゲーは、コンプリートという審級――つまりは物語を「完成させようとする」書き手と読み手の欲望に忠実であると解釈できる。

一方、HWはそれを緩やかに迂回し、延々と飽きるまで同じことを繰り返すことを許容していて、物語のケリをつけても、延々と同じことを繰り返すことが許された構造になっている。物語を「完成させること」がゲームの終わりではなく、そこにあるものを享受し続けたいと思う限り享受してよい、というおおらかな態度がそこにある。テキストは大半のループゲー同様、終わりへとひたすら指向する話なのに、ゲームシステムはそうではない。この捩れはいったい何に起因しているのか、少し興味があるのだけど、とりあえずここまで。気が向いたら続きを。