BLUE ON BLUE(Rosebud Side)

2008-06-16

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抜きゲーがいかにして過剰さを帯び、それがネタとして受容されるようになったかについて、少しばかり書きたい。

抜きゲーというものはすなわち自慰のツールであり、それゆえに「自慰アイロニー」に束縛される存在であった。自慰の後、人はおおむね虚しさを抱える。己の性的幻想を野放図に展開してエクスタシーを得た後、その野放図さに人としての恥じらいを覚えるが故に、自慰及び自慰のツールであるエロゲ自己の間を切断操作する――すなわち「ネタ化」する必然を覚える。それが「自慰アイロニー」の構造だといえる。

このようなアイロニーに支配されたエロゲは、現実水準から遊離し、過剰さとフェティシズムの方向へと牽引される。性的幻想自体が現実水準から遊離すればするほど、性的刺激は増し、一方で「切断操作」がより容易となるからだ。かくして、素面の状態では冗談としか思えないようなエロが、エロゲという文脈の中では存在可能――むしろそれこそが望ましいものとして現出するようになる。

しかし、そのアイロニーがある閾値を越えた辺りで、アイロニーそのものが自己目的化する。エロを見て性欲を発散するのではなく、エロをアイロニカルな「嗤い」の対象とするようになるのだ。これはエロゲのみならず、エロマンガAVなどにも当てはめ得る構造であるといえる。

――戯言だけどね