kuroyagisantaraの日記

2006-11-16物語的想像力の固有の平面

[] 結語について(2)

結語――ライトノベルの揺籃

d:id:genesis:20061115

ライトノベル論として議論を呼んでいるようですが、ここでは感想を一つ書き込んでおきます。

 マイナーからメジャーへ。この動きを物語の作法あるいは想像力の地層化として捉えることができるのではないでしょうか。

 物語を構成する原理の編成あるいは偏向というものがあって、例えばそれは善悪二元論だったり、恋愛に至上価値を置いたり、子どもは成長するものとされていたり(あるいはしないものだったり)、それこそいろいろあるでしょう。そしてジャンルというものは、それ固有の物語的作法・想像力の平面(地層)を持っている。例えばSFにはSF的な、ファンタジーにはファンタジー的な、ミステリにはミステリ的な物語的想像力の固有の平面あるいは地層が存在していて、ライトノベルはそうした他の領域の想像力を援用してつくられてきているように思われます。

 それは以前のジャンル的想像力から見ると俗悪になった、悪い方向に変化したように見えますし、他のジャンルとの(むやみやたらな)混淆にも見えるでしょう。しかし、単なるジャンルの混淆から、次第に固有の想像力が生まれてくることもあるでしょう。それは幾つかのジャンルに既存のラインを固有の割合で混淆するということでもあるでしょうし、ライトノベルとして書かれてきたもののなかから新しいラインが見いだされるということもあるでしょう。あるいは、混ぜているうちにこのジャンルのコレとあのジャンルのアレは同じお約束じゃね? と気づくこともあるかもしれません。ミステリとメロドラマとかね*1

 「世界は涼宮ハルヒの前に平伏しました」と語られるとき、ライトノベルはその位置を変えたのではないでしょうか。上のような見方にたつと、その位置づけの変化は読者数や市場規模の拡大あるいは定着による認知とは違った側面から把握できるかもしれません。各種の物語的想像力を組み合わせて(マイナーとして)つくられていたライトノベルが、それ自身の固有の編成を得て一つの地層として固まり、そのライトノベル的想像力が固有のラインとして他の領域に作用するようになりつつある。このように考えることもできるでしょう。

 ただし、留意しなければならないのは、こうしたとらえ方はライトノベルの起源を探るには向かないということです。始祖としてのライトノベルは他ジャンルのラインに属しており、また、ライトノベルと呼ばれるそれぞれの作品も同様に、さまざまなジャンルのラインの交点にあって、同時にライトノベルの地層にも含まれる。逆に、そうしたラインの蓄積が地層をなしているともいえます。従って、起源論は何らかのラインをたどって別の地層にも所属してしまうような作品をいたずらに追いかけることになりかねません。

 以上のことは主にドゥルーズ=ガタリに基づこうとしているわけですが、読みかえというより単に誤読になってしまっているような気がするので、ここで中断。ついでに言うと、具体的な作品(たち)を取り上げて議論すると一瞬で瓦解するかも。いや、最初に思いついたのはダーティペア(SF+プロレス)なんですけども。あと、ランスシリーズはSFとファンタジーの作為的な混淆としておもしろいと思います。

*1:どちらも善悪二元論です。だから謎解き風味の恋愛という組み合わせができるのかも、とヨタを飛ばす

2006-11-12中心と周縁

[] 結語――ライトノベルの揺籃 における叙述について

司馬遼太郎は『アメリカ素描』(ISBN:4101152365)の中で,次なる文明は先行する文明と対立するところではなく縁辺から生ずると説いている。20世紀に繁栄を極めたアメリカは,19世紀の大英帝国からすれば縁辺部。英国は,大航海時代のスペイン・ポルトガルからすれば縁辺部。スペインは,ルネサンス期のイタリアからすれば縁辺部―― 

 司馬の著作を読んだわけではありませんが、気づいた点を書き付けておきますので、ご笑覧ください。

 引用された司馬の考え方は、山口昌男の「中心と周縁」理論に基づいているのではないでしょうか。山口は1970年代に同理論で様々な文化現象を論じていました。著作は多いのでいちいち挙げることは避けますが、『文化と両義性』や『文化の詩学』などは岩波現代文庫から再版されています。また、今福龍太がテーマ別に『山口昌男著作集』(筑摩書房)を編んでおり、第5巻が〈周縁〉に充てられています。

 蛇足ですが、中心と周縁理論には、1960年代にフランクらが唱えた(経済学上の)従属理論との関係が読み取れます。この理論はウォーラーステインらの世界システム論によって批判的に継承されています。付け加えるなら、新たな展開としてネグリ=ハートの〈帝国〉とマルチチュードを挙げることもできるでしょう。なお、日本の文芸批評の分野では、前田愛『都市空間の中の文学』、柄谷行人『トランスクリティーク』がこの問題に触れています。

 こうした動向を踏まえると、司馬を典拠として示すのは妥当かどうか、一考の余地があるかもしれません。一方で、この叙述は難解な文化理論を解説べき箇所でもないでしょうから、上記の動向はそれとして、手に取りやすい司馬に(さしあたり)言及しておくという方法もあるでしょう。主著者のご判断にお任せいたします。

SarahSarah2012/04/22 08:55Thanks guys, I just about lost it looikng for this.

vyevltnaqxvyevltnaqx2012/04/23 02:10D00Vji <a href="http://delmzxqbxlqo.com/">delmzxqbxlqo</a>

dbptmrdbptmr2012/04/23 12:05C7Fp5c <a href="http://qaziczpfhluv.com/">qaziczpfhluv</a>

ahtceebdlahtceebdl2012/04/24 23:22kpXpW0 , [url=http://hbfqtppufbgj.com/]hbfqtppufbgj[/url], [link=http://ybvdlxgbpila.com/]ybvdlxgbpila[/link], http://sfhjaafgloar.com/